第二章 『悪徳の果て、勇者の価値』17
ヨッドヴァフ首都グロウリィドーンはもうすぐであった。
夜明けが近づき、東の空が色を帯び始める。
予定の内の行軍の遅れを取り戻すため、砂漠の鷹と冒険者達は夜通しの強行をしていた。
静かに朝日が昇り始める黎明に鐘が鳴り響いた。
どこか頼りない鐘の音だが、それがどこまでも不吉に思えた。
ヨッドヴァフの冒険者達がその音に何故か怯えた。
「……どういうことだ?」
イ・ザンは行軍を留めさせその鐘の音の鳴る方を見つめた。
イ・ザンの元を離れていたリ・ゴゥが鷹獅子を寄せて耳打ちする。
「ヨッドヴァフの冒険者達が怯えている。迷信らしい」
「迷信?」
「……鐘の鳴る夜に褐色の幽霊が人を殺す。そんな迷信があるそうです」
どこか子供に聞かせる怪談めいた話にイ・ザンは笑う。
苛酷な戦場を渡ってきた彼等に恐れるものは現実の暴力だけである。
冒険者という職種が未知を相手にする為、迷信というものを警戒するのは知識として知っていた。
だが、まさかよもや現実の恐怖と怪談を一緒くたにするとは思っていなかった。
「怯えさせておけ、やがて落ち着くだろう。誰が我々を殺すというのだ」
イ・ザンはそう告げて再び行軍を開始した。
だが、その視線の先、赤く燃える太陽を背に、グロウリィドーンを背に立つ褐色の幽霊を見た。
「……私が、あなたを殺しましょう」
肉厚の、禍々しい光を放つ白銀の剣を肩に背負い、乾いた血が彩る褐色のローブを着た男は彼等を前にそう告げた。
「暴力が暴力を淘汰する悪徳の果て。その水平に立つを生業とする。なればこそ、自らもまた淘汰される覚悟はできていようや?」
褐色のローブの下、銀翼の兜の下、鈍色の面頬の下でそれは尋ねた。
傭兵達はその異様な佇まいに気圧され行軍の足を止めた。
それが契機となる。
褐色の幽霊の姿が陽炎のように揺らめき消える。
どこまでも速く、そしてどこまでも緩やかにその軍団に飛び込むとその白刃を閃かせた。
朝焼けの空に鮮血が噴き上がり、首が舞う。
血の饐えた匂いが朝の冷たい空気の匂いを汚した。
どこか懐かしい匂いを知り、ようやく、そう、ようやくイ・ザンはこの現実感の無い幽霊が自分たち相手に戦争をしかけてきたことを知る。
「ははっ」
幾度となく繰り返し行った夜討ち朝駆け。
自らもまた、仕掛けられたこともある。
だが、単騎、それも歩兵によって行われることがあっただろうか。
生きて帰るをよしとしない。
浮き足立つ兵達の中で白刃を振るうそれは死兵でありながら、激しく、勝ち残ることを欲している気迫を持つ。
なれば。
「一人でこの数を殺し尽くすツモリか」
イ・ザンは血が滾るのを覚えた。
暴力の中で生きてきた彼等は、また、その生涯を暴力に捧げた。
暴力で得られる物はまた、暴力で奪われる。
弱者が目を背ける現実の中で呼吸してきた彼等はそれがしようとしていることを理解し、そして、畏怖する。
血の張り付いた面頬の奥で獰猛にそれは笑った。
「悪徳の果てに、死ね」
褐色の幽霊、スタイアがその暴力を振るった。
銀の煌めきが翻る度に鮮血が大地に散る。
首が飛び、腕が飛び、そして悲鳴が飛散し空を覆い尽くす。
暴力の骨頂である数を恃み挽き潰せばと群がる傭兵達。
その数を銀閃が掘り進み、褐色のローブが翻ってその頭上を駆けた。
伸びる槍の上を奔り、胸を抜く。
足を飛ばした切っ先が跳ね上がり、顔を断つ。
瞳を断ちて蹲れば、喉を蹴破り命を潰す。
まごうことなき褐色の幽霊が静かに鳴る鐘の中で人を殺す。
その様を迷信ではなく現実の暴力として捉えた冒険者達は進退に惑った。
逃げる傭兵の背中から剣を振るい、殺す幽霊に容赦はない。
地平の果てに逃げても追いすがるであろう暴力の幻想を刻む悪鬼の如く振る舞うそれに皆が恐怖した。
「鷹獅子を飛ばせ」
だが、彼等は暴力を生業としてきた。
暴力が現実に行える限界をその身でまざまざと知ってきた。
だからこそ、新しい暴力の形を行うことができる。
「歩兵が飛兵に届くものか」
鷹獅子に跨り、空を舞い始める鷹獅子達はそれぞれが獲物を持ち、地上のスタイアへと投擲を始める。
投石の時代から何一つ変わらない。
ただ、それが幾ばくかの進歩を遂げただけだ。
放たれた矢が降り注ぐ中、味方もろとも幽霊を射貫こうとする。
悲鳴をあげて崩れる冒険者を担ぎ、屍肉を盾にして幽霊は矢を防ぐ。
「射降ろし燃やせ!奴とて人間ぞ!」
リ・ゴゥが指揮し、鷹獅子達が油壺を投擲する。
擦られた燐棒に灯った火種が地面に落ち、油はやがて灼熱する。
盛る炎と血の匂いに彩られ、瞬く間に戦場と変わった場に褐色の幽霊はどこまでも凄惨に唇の端を吊り上げた。
「飛兵如きが」
スタイアは抱えた死体の首を剣で曳き落とすとつま先で蹴り上げる。
血に濡れた髪を掴むとそれを投擲した。
苦し紛れのあがきと誰もが捕らえた。
だが、次の瞬間、スタイアの剣が閃き、何かを空に弾き飛ばした。
拳ほどの大きさの球体が鷹獅子達の頭上を通り抜け、上空に昇る。
「っ!警戒っ!」
それの恐ろしさに気がついたのはイ・ザンだけであった。
はじめは閃光であった。
遅れてやってきた轟音が鷹獅子の耳と肝を潰し、続いて散った緑の炎が一斉に困惑させる。
その一瞬で十分であった。
高度を落とし、或いは地上に落ちてゆく鷹獅子達を尻目にスタイアは上空へ鎖を放つ。
一匹の鷹獅子が首に巻き付いた鎖に驚き、翼を大きくはためかせるとスタイアは飛び上がった。
背に跨る傭兵を斬り飛ばすと鷹獅子の背を蹴り、首を刎ねると再び鎖を放つ。
鷹獅子から鷹獅子へと渡り、夜明けの空に鮮血の花が咲き銀の閃きが空を奔った。
褐色の幽霊が空を飛び、迫るのを目にしてリ・ゴゥの意識は終わる。
「よもや……」
「木の葉ですら風に舞える。人にできない道理が?」
その切っ先が兜を裂き、額に埋もれ、貫き、引き抜かれた時、狼狽える鷹獅子から崩れ落ちて地面に叩きつけられ潰れる。
褐色の幽霊が縦横無尽に空を跳ねる様を見て、イ・ザンはこれが人なのかと驚愕した。
朝焼けが残る宵闇を駆ける褐色の銀閃。
迷信が色を帯びて現実となる。
イ・ザンは鷹獅子を炎の中に降ろすと、覚悟を決めた。
地に落ちた兵達の首を容赦なく刎ねてゆく幽霊に対峙し、長く積み上げてきた悪徳が終焉を迎えたことを知る。
「暴力が、暴力を淘汰する……か」
どこまでもシンプルな結末が妙に心地よく、虚無感を広げる。
だが、イ・ザンは深く、そう、深くその理を理解していた。
敗北はこれまでにも幾度となく重ねてきた。
無論、人の身に余る敗北も。
「褐色の幽霊……」
ただ、人の身にありながら暴力を突き詰めた剣の化身にイ・ザンは唇の端を歪めた。
「敗北は幾度もあった。より強大な暴力にねじ伏せられるをこれが先と思うな。貴様は未だ、悪徳の果てに至りはしない。人の業を捨て、真に悪徳にならねば暴力とはなにか、わからぬよ」
イ・ザンは静かに腰から短剣を引き抜いた。
闇色の空より暗く輝く、禍々しい短剣だ。
歪にねじ曲がった刃は蜃気楼のように揺らめき、唾元に開く瞳が赤く充血していた。
スタイアはその短剣を一瞥するとイ・ザンに告げた。
「……魔物……いや、『悪魔』の業か」
「生きる業だよ。奴ばらは業を喰らう。なればこその悪徳であろう?」
イ・ザンは躊躇することなく短剣を喉元に当て横に引いた。
「グゥゥ……ゥゥウッ!」
噴き上がった鮮血が赤から青へ、そして黒く濁る。
甲冑を割り、みちりみちりと変質してゆく身体にイ・ザンは熱さを覚えた。
拡散する意識が世界の色を変え、いくつもの瞳が世界を映す。
それらを統合するいくつもの意識が自分の中に芽生え、荒々しい殺戮の衝動を奔らせる。
膿のような饐えた匂いに焼けただれた肉の感覚が広がり、沼となる。
積み上げた腐肉の分だけが身体となり、助けを乞うた腕の分だけ命に手を伸ばす。
涙を流し、白濁させた瞳の分だけ視野となる。
そして、吸った血の分だけ、己の力とする。
横たわる傭兵の死骸を喰らい、未だ存命する仲間を溶かし、それは広がってゆく。
「人を喰らい、その果てに己の弱さに溺れたか。魔物……いや、悪魔の所業……墜ちたか」
スタイアは血に濡れた面頬の下、吐き捨てるように呟いた。
腐肉の海を広げ、伸びた腕に血に染まった武器を持ち、いくつもの怨嗟の瞳で睨むそれと対峙し静かに剣を構える。
大地に広がる屍肉の腐臭が鼻を焼く。
「アクマノチカラニヒトノツルギは意味を成サン!」
腐肉の海と化したイ・ザンは大地を震わす恐ろしい声で告げた。
だが、静かに、ゆるやかに熱を放つ剣鬼を脅かすことはない。
スタイアの白刃が熱を帯び、怜悧に暁を映し吠えた。
「人の器を誤るな。恐れろ、これが人の暴力」
腐肉の海に跳躍し飛び込んでゆく。
腐り墜ちて骨の覗く腕が振るう鉄を腕ごと払い、スタイアは剣を振るった。
ぶふり、と腐った気泡を弾けさせ腐肉の海が迫る。
スタイアを飲み込み溶かそうとする腐肉は酸を滴らせて包み込む。
肉の壁に切っ先を静かにあわせると、声無く裂帛の気合いが轟いた。
衝撃が広がり、腐肉が千切れ飛ぶ。
押しつぶされた瞳が灰に濁った飛沫を散らしながら潰れる。
正眼に構えたスタイアの剣が僅かに震え、白刃が振るわれる度に膿が割れた。
散った酸の飛沫すら十字に切り裂き縦横無尽に振るわれるスタイアの白刃が膿を漕ぐ。
幾多の戦場を渡り、様々な剣技を見てきたイ・ザンですら、その剣は理解できなかった。
腐肉がスタイアを包み込み、伸ばされた腕が酸で溶けかけた獲物を突き立てる。
疾風の如く振るわれた銀閃が一閃し、腐肉と朽ちた鉄を切り裂く。
弾けた酸が褐色のローブに穴を開け、その下の鎧を焦がした。
「フィダーイーノアクまノボウリョク、ヒトの身ニ越エラれるものカ!」
大上段から瞬時、三重に引き下ろした剣が衝撃でもって腐肉を裂く。
割れた腐肉の中を進み、スタイアは神速の突きでもって瞳を潰してゆく。
いくつにも重なる意識の中でほんの一瞬、ほんの一瞬だけイ・ザンはスタイアの姿を見失った。
次の瞬間だ。
イ・ザンは身体のあちこちが爆ぜるのを感じた。
腐肉として広げられた身体の感覚が鈍い痛みを訴える。
それは剣という枠を越えて振るわれる暴力が駆けめぐる痛みだった。
一瞬の後に捕らえたスタイアの手には剣が見えなかった。
いや、握られてはいるのであろう。
だが、余りにも速く、そして、重い斬撃は幾重の死者の瞳を使っても捕らえることができなかった。
残像すら置いてゆき、遅れてやってきた摩擦が腐肉を焼いた。
褐色の幽霊を追って、炎が伸びる。
燃える炎の残滓を曳き、スタイアは凄惨な笑みを浮かべた。
「……他愛ない」
イ・ザンの視界の中、熱気がゆらりとスタイアを歪める。
血の一滴すら追いつかせない白刃が炎の中で凶暴に輝く。
音が響き、銀閃が閃き、そして既にイ・ザンは断たれていた。
腐肉が青白い燐光を挙げて燃える中、黒く、鈍い光を放つ短剣が綺麗に断たれていた。
断たれた切っ先が腐肉に沈み、燐光に焼かれて黒く溶けてゆく。
焼けた腐肉の中から熱さに燻る自分を取り戻した時、イ・ザンは自らの瞳で褐色の幽霊を見上げた。
「悪徳を飲むが人の業、悪徳に果てるは畜獣の業。その程度の暴力で」
見上げた褐色の幽霊はどこまでも冷酷な瞳で見下ろしていた。
イ・ザンは代償の痛みにどこまでも苦しみ、それでも悪徳を吐いた。
「ヒトノ身ニ叶ワヌ欲望を求メルが悪魔の業……お前ハ、全てを断つツモリか」
「穿つ」
叩きつけられた銀閃がイ・ザンの頭を潰した。
飛び散った血肉が大地にぶちまけられ、潰した剣が真っ赤な血で染まる。
首を無くし、多くの屍肉達の中に力を無くし沈んだイ・ザンを見下ろし、スタイアはゆっくりと剣の血糊をローブで拭った。
白銀の輝きを鞘に納め、未だ燃える殺戮の後を静かに背にした。
◇◆◇◆◇
遠く、褐色の幽霊の暴力を見たグウェンは静かに震えていた。
一つの集団を壊滅させるその暴力はまさしく、グウェンの求めていたものであった。
だが、どうしてだろう。
そこに横たわる厳然とした死の現実を前にし、果たしてそれが自らの在るべきかと。
静かに熱を曳き去ろうとする幽霊がどこまでも優しく笑った。
「これでも、君は剣を捨てずにいる」
血にまみれた手はどこまでも優しくグウェンの頭を撫で小さな温もりを残した。
「君がそれでも戦うことを選ぶを僕は知らない」
離れた手が残した温もりは静かに、そして、強い熱へと変わる。
「……それは強さだ。成すべきことの為に、悪徳を全て飲め。その果てに至る」
称賛も無く、栄誉もなく。
ただただ、暴力に対し、暴力として抗い。
そして、どこまでも人間であろうと。
グウェンは背にした剣を抜き放ち、正眼にかざして刃を寝せた。
それは戦士の誓いであった。
交わす言葉も、視線も無く。
ただ、グウェンは己の無力さを、今日、断ち切ることにした。