第二章 『悪徳の果て、勇者の価値』1
アーリッシュ・カーマインは近衛騎士としての煩雑な業務にようやく慣れてきた。
秋の弱い日差しが心地よい昼には全ての仕事を終え、城の執務室でゆっくりと黒湯を啜っていた。
ニ・ヨルグから取り寄せた豆を使った黒湯はコクが深いくせに、よい口当たりがあり、角のない苦みを舌の上に広げる。
芳醇な黒湯の伴にするには、ニヴァリスタの砂糖菓子はいささか繊細さが無かった。
いや、普段彼が好んで食べる店の甘菓子が繊細すぎるのか。
「……随分と、早いお仕事で」
傍らに控えた侍従のアルヴィーテ・レラハムは黒湯を啜り、砂糖菓子に眉を潜める主人に皮肉を呟いた。
「巧遅より拙速を尊べ。質より早さを問い、早さに質を合わせていくのが上手な仕事の仕方だよ」
「その割りには、最後の署名を忘れているようですが」
「それくらいならすぐにできるだろう?誰かが来ても、名前を書いていれば仕事をしているように見える。サボるときの上手なコツさ。友達に教わったんだ。上手だろ?」
アーリッシュはそう告げると、席を立った。
恭しく従うヴィッテは彼の僅か後ろを歩き、付き従う。
背に負ったグロウクラッセが重く、アーリッシュは肩をひねる。
名槌ハイングの一人娘、メリーメイヴが拵えた豪奢な鞘はその重さを両肩と腰に分け、限りなく疲れないように配意してくれてはいるが、それでも周囲の視線までは軽くはできない。
荘厳な城の廊下を抜け、中庭に出る。
すっかりと秋の色に染まり、葉の色を紅に染めたアヘリアの垣が作る道を歩き、やがて訓練場へとたどり着く。
少し前に合同訓練でスタイアやダッツ、そして今は亡きバルメライが戟を交えていたのが懐かしく思える。
その訓練場では近衛兵達が訓練をしていた。
シルヴィア・ラパットの姿もそこにあった。
近衛騎士と違い、近衛兵は優秀な騎士から選抜で選ばれる。
だが、その多くが出自によるものであり、貴族の子息から排出される。
一般に開放した騎士団とは別に徹底的な思想教養から技術訓練を施し、王城の守備、そして、特別に困難な任務を遂行する。
その隅っこの方に彼の探す人物は居た。
勇者マチュアである。
股を大きく開いただらしない格好で城壁にもたれかかり眠っている。
口元にはよだれが流れており、見ていて汚らしい。
彼女はアーリッシュが近くまできて、その鼻を押し上げる段になってようやく目を覚ました。
「ぐもにゅー」
「残念だがもう昼になる。しかし、まあ、ここまで女を捨てられるとなると流石に見ていて痛くなってくるよ」
「童貞勇者に言われたくない!これでもまだ、心は乙女のままなんだぞ!」
そう憤りながらマチュアは顎についたよだれを手の甲で拭った。
アーリッシュは苦笑しながら訓練所を振り返ると溜息をついた。
「……夜更かしがすぎたようだね」
「うん。いい男見つけたからハッスルしてきた」
「街の外に閃光があがった時は何事かと思ったよ。で、どうだい?褐色の幽霊は君に斬れそうかい?」
「斬れ、と言われても難しいわね。でも、斬ると決めたら斬るわ」
マチュアは屈託なく笑うと立ち上がる。
「……そういうアーリッシュ卿こそ、斬れるの?」
「自分では斬らないがね」
そう応えたアーリッシュはどこか苦い顔をして笑っており、それがマチュアの癪に障った。
「嫌な奴」
「だろうさ。勇者マチュアが斬れない相手だ。なら、最も確実に殺すとなれば軍団を当てるしかない」
マチュアは大きな溜息をついて訓練所を見渡した。
「……確かに。どんなに個人で強くても軍隊を相手にどうにかできる代物じゃあないからね。そういう意味で、四六時中手練れ使って追い回すっていうフィダーイーが使った方法が一番確実なのかもね」
「問題はフィダーイーほどの遣い手の頭数を揃えることなんだろうさ」
アーリッシュはそう言って訓練を繰り返す近衛兵を見渡した。
木剣を使い裂帛の気迫でもって打ち合う彼等は真剣である。
だが、それでも命を奪われはしない。
やがて正午の鐘が鳴り、皆が木剣を納めた。
指揮官の号令の元、散ってゆく近衛兵達に混じり、シルヴィアがマチュアを見つけ歩み寄ってくる。
「……こちらに居ましたか」
アーリッシュはこのどこか冷めた表情の少女が変わったことを理解する。
以前より、より鋭く、そして、冷たくなっている。
それは戦場で必要とされるものなのだが、日常においてもそれを見せてしまっている。
それは一つの危うさだ。
「見てたよー」
「寝てたよー、の間違いです」
「慣れてくると、眠りながらでも周りが見えるのよ」
くつくつと笑いながら、マチュアはシルヴィアの頭を撫でまわした。
「あんたもいい男に目をつけたモンね!ありゃ相当遣うわよ!」
「……遣り合ったのですか」
「まさか、必殺技を凌がれるとは思わなかったわ。あれ、マンフを補充するのにお金かかるのよねえ」
「……マンフ?」
「そ、私の使う魔導具やアーリッシュ卿のグロウクラッセは環石から力を貰って、魔術を発動させるんだけど、環石はその魔術に必要なマンフを貯め込んでおく装置なの。そのマンフを使い切ったらただのガラクタと一緒。だから、他の環石からマンフを移して何度でも使えるようにするんだけど……使ってるうちに物が耐えきれなくなっちゃうんだよなーこれが」
マチュアはそう言って帯革に吊した指輪を叩いて見せる。
何本もの指輪がそこにじゃらじゃらと飾られているが、それは決して飾りではない。
その一つ一つが全て、魔導具なのだ。
「一つでもあれば、確実に強くなるわよ?」
シルヴィアは眉を潜めて吐き捨てる。
「そんなものに頼らなくても、強くなれます」
「そうね。でも、私たち女性は男性と比べて殺し合いに向いてない。これは事実。私はそれを補う方法の一つとして、こういう方法を取っただけよ」
「ですが、それは……」
シルヴィアはその先に浮かぶ言葉を言えなかった。
マチュアは意地悪く笑う。
「そう、卑怯よね。あんたがいくら努力したって他の努力もしない連中がこういった力を使ってあんたを追い抜いていく。だけど、戦場じゃその卑怯こそが自分を救ってくれるってあんたは理解している。だから、そういうこと。だけど、それだけじゃあ、生き残れない戦場もあるわ」
マチュアはそうして腰から一つの指輪を外しシルヴィアに放った。
シルヴィアはそれを受け止め、手の中で鈍く輝く環石を見つめる。
「あげるわ。私の持ってる中で、一番、強い魔法が使えるわ。それは、いつの時代だって最大の武器にして多くのものを滅ぼしてきたものよ。国を傾ける力だってあるわ」
マチュアは屈託なく笑う。
それを簡単に放るのは、この勇者が強いからだ。
シルヴィアは手の中にある、その絶大な力を見下ろす。
「……いくら努力しても、あなたでは辿り着けない。簡単に至れるのよ?」
それは、どこまでも甘美な誘惑であった。
だからこそ、負ける訳にはいかない。
「こんなものが無くても、私は戦えます」
突き返し、腕を伸ばしたシルヴィアにマチュアはどこか満足したような笑みを浮かべる。
そして、空を眺め、どこか自分が忘れた何かを思い出す。
「やっぱり要らないか。女の武器、つまり、おっぱいが大きくなる魔法の指輪なんだけ……」
「大事に使わせて頂きます」
傍らに居たアーリッシュが大爆笑してあたりを転げ回った。