第一章 『雄鳥の産む卵』10
宵闇が空を包み、静けさが支配する中にその店は静かに明かりを灯していた。
どこか据えた生の匂いを残したその店は、その僅かな残滓を貪る不気味さを持っていた。
どこまでも冷たく、そして、静かに暖かいその光に吸い込まれるようにメリグレッタは足を踏み入れた。
ウェスタンドアを押すと、鐘が鳴る。
静けさの中に響いた鐘の音の大きさにメリグレッタは驚く。
「ようこそ、リバティベルへ」
だが、そんな彼女を気にする風でもなく店主は挨拶を告げた。
だらしなく曲がった背中を向け、落ちた肩から伸びる腕で静かに剣を研いでいる。
燭台の炎の中に浮かび上がる肉厚の白刃がやけに、美しく、恐ろしかった。
「あの……」
メリグレッタはおずおずと口を開く。
泣き咽び、張り付いた喉が恐怖に竦む。
テーブルに置かれた剣の放つ、厳然とした死の圧力の前に立てるほど、メリグレッタは強くはなかった。
「お客様、どのようなご用件で?」
いつの間にか現れた小さな少女が揺らめく炎を照り返す大きな瞳でメリグレッタを見上げていた。
純真無垢な、それでいて、厳粛な現実を底に横たえた冷たい瞳にメリグレッタは生きた心地がしなかった。
ゆらゆらと揺れる明かりの中、死、というものが放つ厳しさにメリグレッタは挫けそうになった。
「……殺して欲しい、人が居ます」
ゆらりと振り返った騎士はいつぞやの騎士だった。
屈託無く笑ってはいるが、どこまでも底冷えのする笑みだった。
「それは、どこの誰でございますかね?」
メリグレッタはそう尋ねられて、自分が誰を殺して貰いたいのか知らなかった。
「今度、と、幽霊にゃ自分は会った事がないんですよ。何処の誰ともわからないような人を殺してくれと言われても……何を斬ってくりゃいいんですかね?」
メリグレッタはアルマリアを前にした時に感じた、あの無力感にまた襲われる。
自分はどこまでも未熟だった。
何かをしたくても、どうにもできない未熟さ。
騎士はどこまでも酷薄な笑みを浮かべてメリグレッタをあざ笑った。
「僕は貴族ってのが元から嫌いでして。本当にざまあないですね。人を恨むのは勝手です。みんな必死ですから蹴落とし蹴落とされ時には命まで奪われる。そんな世の中の当たり前の条理すら知らずのうのうと育ってきたからですよ」
この男はどこまでも酷薄である。
悔しさに、泣きそうになる。
「私は、それでも諦める訳にはまいりません!どうしても仇を討って頂きたいのです!」
「……貴族様、金子の方がご用意できるのですかね?」
騎士はどこまでも冷淡に告げ、少女の腕の中の鶏を見下ろした。
メリグレッタはその瞳が、既にこの騎士が自分の企みに気がついていることを知る。
「まさかよもやそんなやせ細った鶏を金貨5枚と仰る訳じゃあございませんよね?金貨5枚で買ったとはいえ、そいつは物を知らないお嬢ちゃんを騙して売った卵を産まない雄鳥ですよ?卵を産むのは雌鳥。無知もそこまでいくと……哀れです」
騎士スタイアは鼻で笑うと憎々しげに呟いた。
「驕るなよ?人は決して、人を越えない。貴き者など存在しない。貴さはその行いにのみ宿る魂だ。臣民を謀り、己が欲動のままに動く貴様に人たる資格は無い」
どこまでも響く怨嗟の声に、この騎士の暗さを見た。
「厳しいじゃねえか、スタイア」
スタイアと呼ばれた騎士は店の奥を振り返り、その姿を見つける。
うらぶれた格好で壁に背を預けていたのはシャモンだった。
「覚え遂げるは業ならば、無垢は罪か。なれば、初生の赤子はそれで罪か?」
「赤子というには長く怠惰に過ぎましょうさ」
「だがね、お前の良く言う、小便臭いガキだよ。いい大人がガキの企みに狭い器量を見せるなってんだ」
シャモンはそう告げると壁からゆらりと背を離した。
燭台の炎が揺れ、シャモンの影が伸びた。
「さて、お嬢ちゃん。殺しの依頼かね?斬った張ったするにゃ命を的にせにゃならん。それを買える金子が無いなら、お断りだ」
「私の命を差し出しますッ!」
最早、差し出せるものは何もなかった。
だからこそ、自らの身代すら差し出してもアルマリアの仇を討ちたかった。
「冗談じゃない。お前さんを殺したって一文の得にもならん。墓堀の手間賃がかかるだけだ。それに、お前さんが死んで喜ぶのはお前が殺したい相手だろうよ。ならば、その相手さんを探して、俺達に金を渡すように手配してからにしておくれ」
「奴隷として売って下さっても構いません、どうか、どうかお願いですっ!」
「奴隷の売買を禁じたのはお前さん方貴族だぜい?約束を違えちゃならねえ。それに、奴隷としてあんたを売ったところでそんな金にゃあならねえよ」
シャモンは苦笑してみせると、スタイアと視線を交わすと嘲った。
「その鶏に金貨5枚の価値があるんだろう?金の卵を産むからか?なら、どれ、卵を産ませてみてくれよ。雄鳥が産んだ卵ならそりゃ話の種だ。どんな卵でも珍しいから金貨5枚の価値を付けてやンよ」
メリグレッタの腕の中、せわしく首を動かす鶏がシャモンを見る。
その瞳の意図することが、理解できた。
メリグレッタは覚悟を決めると鶏を床に降ろす。
床の上に降ろした鶏は首を傾げ、店の中を歩き回る。
そして、皆の顔を一様に見上げるとその場に座り込んだ。
「……産んで」
産めないことは、理解している。
自分が無知であることも、理解した。
彼等が不様な自分の滑稽さを笑いたいことも、理解した。
だが、それでも、だ。
「産んで!お願いだから、産んでちょうだい!」
そう叫ぶメリグレッタを彼等は嘲りを含んだ笑みで見下ろしていた。
滑稽でも、構わない。
鶏の胸を掴み、激しく揺さぶる。
驚いた鶏が翼を広げ、逃げようとするがメリグレッタは懇願する。
「お願いだから産んで!私は……アルマリアの仇を討ちたいのッ!」
彼等が自分の不様に、満足するまででもこうしてやる。
「金も無ぇ、長くも生きてらんねえ婆さんのために、そこまでするかね?」
メリグレッタは鶏に額を啄まれ、それでも泣きながら訴えた。
「全てを失った私に世界でただ一人、愛をくれましたッ!アルマリアだけが死ぬ道理がどこにありますかっ!死すべきは私でした!それがあなたがたの仰る貴族の怠惰への負うべき贖罪なのだから!ならば、何故、アルマリアがその咎を負わねばならなかったのですか!誰よりも、誰にも、ただ、優しいだけのアルマリアが殺されねばならないのが浮き世の非情というのですか?……ならば……私は……それを何が何でも正さなくてはいけない!……それが……アルマリアが私に望んだことですっ!」
傍らに立つ少女の言葉はどこまでも冷たく、厳しかった。
「力のある人だけが、選べるんだよ?」
「私は無力です……ですが……貴族でありました。これで逃げるようであれば、私は本当に……何者ですら無くなってしまう!」
メリグレッタはすがるように鶏を抱きしめ、吠えた。
「お願い!産んで!産めないことはわかってるの!でも、産んでくれないと……私、私ぃ……ッ!」
小さく床を叩く鈍い音がした。
ころころと転がるそれは燭台の光を照り返し、鈍く、鈍く、光貴な色を讃えていた。
「あ……」
それは卵だった。
金色に輝く、卵だった。
床の上に転がった卵を静かに拾い上げ、メリグレッタは驚く。
磨き上げられた金の光沢が、泣きはらしたメリグレッタの顔を映していた。
シャモンは唇の端を歪めて笑う。
「さて、スタさんや。鶏が卵を産んだぞ?」
「随分と、甘っちょろい」
スタイアはシャモンに苦笑して返す。
「だが、尋ねる。他者の為に涙を流せる行為は浅ましき振る舞いか?」
「貴い」
そう応えたスタイアの顔は鋭かった。
「して、尋ねる。他者の愛を知る者、そしてそれに応える者は卑しいか?」
「貴い」
「はて、尋ねる。その為に膝を折り、不様に畜生に頭を下げるは見苦しいか?」
「貴い」
「さて、尋ねる。能わずを叶え、不遇な弱き者の魂の救済を願う少女は……愚かか?」
「それは、貴い」
スタイアは静かに苦笑するとメリグレッタの手の中で輝く卵に視線を落とした。
「これは、これは。金の卵ですね。金貨1枚なら商人は買ってくれるでしょう。ですが、僕は曲がりなりにも騎士。嘘をつけないから金貨10枚と言うしかない」
「ではどうする?我々は金貨5枚で仕事をする。物貰いなら残りの5枚を懐に入れるが江湖の英雄はそれを恥と思う」
「ならばその5枚、仇を探して賄うとしましょう。今度と幽霊、誰かにあっては会ったことがないからわからない。金貨5枚くらいでちと足りない。だが、貴い願いに足りない分を賄ってもそれは恥とはなり得はしない。タマ、教えて差し上げなさい」
タマは静かにメリグレッタに一礼し、銀の盆を差し出した。
銀の盆には金貨5枚が並べられていた。
「アルマリア・ベレを殺めたあなたの仇の名は石工組合のグルジアス・ヴェドレイ。そして、雇われた傭兵団『鉄の牙』にございます。それらの皆々様の皆殺しをご所望なればどうぞ金5枚、こちらに納め下さいませ」
メリグレッタは少女の小さな手の平に金の卵を落とすと、銀の盆を受け取った。
細い身体に力を入れて、立ち上がる。
そして、その銀の盆を恭しく騎士に差し出す。
「……さて、金貨5枚。ご拝領致しました。どなたの死をご所望で?」
「グルジアス・ヴェドレイ」
「それは……あなたの父母を奪った仇と違いますがよろしいので?」
「父母は貴族です……なれば、貴き無辜の民を救うのを先とすべし。そう仰るはずです」
メリグレッタは静かに、だけどはっきりと告げた。
鐘が静かに鳴った。
闇の中に佇むラナが静かに会釈した。
「承りました。引き受けて下さる方は一枚、お取り下さい」
シャモンが掴み、ラナが指の上で転がす。
タマが手に取り口に咥え、店の奥から静かに姿を現したユーロが一枚を摘んだ。
最後にスタイアが一枚を指で弾く。
そして、優しく笑った。
「よく頑張った。君は貴族だ。さて、まんずまず、斬りに行こうか」