第一章 『雄鳥の産む卵』9
ジャナム達は宵の闇を駆ける一陣の風となってアルマリアの家に殺到した。
落とし窓を閉じられた時、気取られたと察した。
ならば、後は迅速に行動する。
逃がしてはなるまい。手立てを講じられてはなるまい。
襲撃を行う時も、そして撤収するときも。
いかなる場合においても精緻な遅さより、稚拙な迅速が肝要である。
先陣を切らせた配下がドアを蹴破ると、続く二人が剣を手に部屋に押し入る。
ベッドに動かぬ人が居るのを認めるや、毛布ごと麻袋に押し込む。
ジャナムはその様子を認めるや、すぐに撤収するように合図した。
いちいち確認している暇は無い。
騒がれて、騒ぎを聞きつけた巡回中の騎士にみつかれば厄介だ。
それよりもいち早くこの場を立ち去る。
その為に、周囲に見張りを配したのだ。
手で見張りに逃亡の合図を送るが、見張りはジャナムらが十分に逃げ切った後に逃走を開始する。
万が一、という場合もあるからだ。
その万が一を知らせるのが彼等の役目であった。
「逃げたぞっ!」
見張りの一人がそう声を荒げた。
「なんだぁっ!?」
ジャナムが振り返るとそこには裸足で駆け出しているメリグレッタの姿があった。
じゃあ、自分たちが攫ったのは一体なんだったのだ?
麻袋を開いてみると、そこには貴族の服を着たアルマリアが身を縮めていた。
「婆ぁ!たばかりやがったなっ!」
「悪党めっ!お前達には今にバチが当たるわっ!」
ジャナムは激昂に任せるままに、アルマリアを蹴り飛ばす。
「追えっ!」
「お嬢様!そのままお逃げ下さいっ!振り返ってはなりませぬ!」
「婆ぁ!殺してやるっ!」
ジャナムは麻袋を被せると剣を高々と掲げ、そのまま串刺しにした。
「アアァーッ!」
甲高い悲鳴にメリグレッタは一瞬、足を止めて振り返る。
麻袋に深々と突き刺さった剣と、自分を追ってくる悪漢達を見て、恐怖に身が竦む。
「クソっ!クソっ!死に損ないの婆ぁがっ!逃げるなよ小娘っ!次はお前だっ!死ぬより辛い目に遭わせてやるっ!てめえの股ぐらに火箸をぶっ込んで泣いてる顔に小便をかけてやるからなっ!手足を切り落として逃げられなくしてサカッた犬とまぐわらせてやるっ!そこを動くんじゃねえぞっ!」
あらん限りの恫喝をするジャナムは何度も何度も、麻袋を突き刺す。
そこにはアルマリアが居るはずだ。
であれば噴き上がり、麻袋を赤く染めるのはアルマリアの血だ。
メリグレッタは脱兎の如くその場を走り出した。
泣きたくなる。
どこまでも力の無い自分が惨めであった。
だが、それでも、自分を生かそうとそうまでしたアルマリアを裏切れない。
「そこまでだ小娘ぇ!」
すぐ後ろまで迫る悪漢達が腕を伸ばす。
「なガァっ――!」
だが、その時、一羽の鶏が悪漢の顔に覆い被さり激しくその顔を啄む。
街壁の外に広がる街に逃げ込むとメリグレッタはアルマリアに言われた通り、叫んだ。
「コウコ!コウコ!私を助けて!コウコ!」
意味はわからない。
だが、アルマリアがメリグレッタに嘘を教えたことは無かった。
「なんでこいつがコウコを知ってやがんだ!」
悪漢達はメリグレッタがその言葉を叫んだことで明らかに怯えていた。
ジャナムはその単語を聞いた時、既に不味いと理解した。
ヨッドヴァフの街にはいくつかの集団がある。
そのうち、手を出してはならないものがいくつかあった。
それは彼等がフィダーイーの幻を恐れるのより、確かに存在するからこそ、余計に恐ろしかった。
「一縷万寧、難きを寄って救うは江湖の意気。寄ってたかって子女を追うかね畜生よ」
酷く匂う襤褸を纏った老人が静かに路地から姿を現した。
その老人はメリグレッタを追う悪漢の前に立つと霧のように掻き消え、その背後から首に抱きついていた。
ごきり、と鈍い音がする。
あらぬ方向に首を曲げられた悪漢はその場で事切れて崩れ落ちた。
気がつけば、建物の屋根の上や物陰からじっと同じような襤褸を纏った集団が悪漢達を取り囲んでいた。
悪漢達は本能的に不味いと理解する。
「引き上げろッ!」
しくじりによる粛正とこの場に留まることでの制裁。
どちらが恐ろしいかと尋ねられれば後者が勝った。
ジャナムは舌打ちすると指笛を鳴らし、撤収することを告げた。
血で赤く染まった麻袋をそのままに残し、風のように立ち去る。
江湖の民はそれを追うようなことはしなかった。
あっという間の出来事だった。
惚けたように立ちつくすメリグレッタの傍らに襤褸を纏った老人が歩み寄り、見上げる。
メリグレッタはそんな老人に礼を言うのも忘れてジャナムの残した麻袋に駆け寄る。
「アル……マリア?」
血を吸って赤く染まった麻袋を見下ろし、静かに理解してゆく。
震える手がその麻袋に伸びたとき、横から老人がその手を掴んだ。
「……彼女の魂はニンブルドアンに赴いた。ユルグロードの旅路の無事を、祈ろう」
愛を失った辛さが胸を引き裂く。
「うぅ……ぇぇぁ……」
しわくちゃになった顔から零れる涙と、慟哭は二度目か。
「泣きなさい。偲びなさい。それは彼女の幸せである。あなたの恥にはならない」
「うわあぁぁぁん……あぁぁっ!ああっ!えああぁぁああっ!」
だが、何度、味わおうと決して耐えれるものではなかった。
子供のような慟哭を響かせ、メリグレッタは孤独の中に泣いた。
老人はそんなメリグレッタの肩を抱き、静かに頭を撫でた。
襤褸達は集まり、静かにすすり泣き、少女の悲しみに寄り添った。
「うぅぅ……っ!ああぁあっ!あぁーん!あぁーん!あああっ!ぅぅっ!ぅー!」
色を失っていく世界の中にどれだけ高く慟哭を上げても、満たされることは無い。
やがて消えてゆきそうになる思いにメリグレッタはとても悲しくなる。
どれだけの不幸が訪れ、悲しみを声高く吠えても、世界はやがて飲み込んでしまう。
それが、たまらなく、悲しい。
老人はそんなメリグレッタの肩を静かに抱き、耳元で囁いた。
「……壁の中、セントラルグロウリィストリートの赤い屋根の建物の路地を曲がった先にリバティベルという店がある」
泣き続けるメリグレッタの耳元で囁かれたそれは選択する為の『自由』。
「金貨5枚、それでお前のかわりに殺してくれる」
どこまでも弱く、危うい少女だ。
その足下に静かに雄鳥が歩みより、地面を啄む。
泣きながら、少女はそれでも雄鳥を抱き上げ、顔を上げた。
暗い暗い、夜の闇。
明ける空はまだ遠く。
寄る辺を失った、少女はそれでも、先を歩くために踏み出した。