第一章 『雄鳥の産む卵』4
アルマリアには貯えらしい貯えは、無かった。
メリグレッタに知る由は無いが、生活する分の俸給を貰うだけで蓄えることができなかったのがアルマリアの立場だったのだ。
最後に渡された恩給で家を買うのがやっとで、日々の食事については繕い物などの内職を細々と行うことで糧を稼いでいた。
「本当に、助かります」
「なに、ちっくらいい風が吹いて懐が温かくなっただけだい。すぐにスカンピンになっちまうんだったら思い出した時にこうして寄ってみるのも悪くねえかと思っただけだい」
繕い物を受け取りに来る仕立て屋の子供ではなく、見たことの無い男が今日は訪れていた。
男は見たことも無い野草の他に、麦袋を一つ置いてアルマリアの顔を見て無精髭の生えた顎をさする。
「シャモン様がこうしていらして下さると知っていたのであれば……」
「壮健が何よりのもてなしだよ。それ以上は余計だぜ婆さん。それよっかもうすぐ冬だってのに薪が足りねえじゃねえか。今から干しても煙いがそれでも無くなって震えるよっかマシだろう。割ってくらーな」
シャモンと呼ばれた男は聞き難い卑しい言葉使いで笑うと、冷え切った目をメリグレッタに向けて外に出た。
その態度が酌に触ったが、メリグレッタは外に積み上げられた薪を、鉈を使わずに掌でバタバタ割っていく男に驚きを覚えた。
「……アルマリア、あの男は一体何者?」
「この界隈に住んでらっしゃる親切な方にございます。時折、思い出したように現れてはこうして施しをして下さいますのです」
テーブルの上に載った麦袋にアルマリアは恭しく頭を下げる。
その施しが、どこか哀れみを含んだもののように思えてメリグレッタは苛立ちを覚えた。
「婆さんや。薪の方は裏に積んでおいた。焚きつけは箱ン中に少し多めに入れておいたからな?」
幾ばくも時間をかけずに戻ってきたシャモンにアルマリアは深々と頭を下げ、瓶の水を碗で掬い、布巾で拭くと差し出す。
シャモンは喉を鳴らし水を飲むと、静かに礼をしてカップを返す。
「で?これが婆さんが抱えた厄介事って奴か」
どこまでも不躾に顎で示され、メリグレッタは不快感を覚える。
「無礼な!」
「礼も糞もあるかよ。いつまでも甘えてんじゃねえぞ?」
シャモンは鋭い眼光でメリグレッタを睨むが、メリグレッタは毅然としてその瞳を受け止めた。
シャモンはそんなメリグレッタを鼻で笑う。
「ガキが一丁前に貴族気取りか」
「ええ、そうでしてよ?ドゥモルト家の嫡子として私はその家名を負う。なればこそ、あなたがたは敬意を持って――」
シャモンはメリグレッタの言葉を遮るように胸ぐらを掴んだ。
「不敬な!その汚い手を離しな――」
シャモンはメリグレッタの顎を力一杯殴り飛ばした。
今まで味わったことのない激しい痛みが頭を貫き、狭い部屋の中を転がり、体中を打ちつける。
不条理な暴力を振るわれ、竦みそうになる気持ちをそれでも支えてメリグレッタはシャモンを睨み上げようとする。
「――っ!」
だが、その頭に拳骨を張られ、目がチカチカする。
「痛ぁぁ……」
泣きそうになるメリグレッタに何度も何度も拳骨を張る。
「やめて、ごめんなさいっ!もうぶたないで!謝ります!謝りますからっ!」
「お前が侮辱した汚い手が何をしたのか知って侮辱したのか!てめえのような半可にバカにされるモンじゃねえんだやッ!」
シャモンはメリグレッタの胸ぐらを掴み上げ、立ち上がらせると額を打ちつけ睨み付ける。
「貴族だから偉いといつまでも勘違いしてんじゃねえぞッ?貴族はその果たすべき責務を果たすから貴族として偉いんだッ!平和になってそこんとこボケた貴族さんがクソのようにこさえたお前みたいなエセ貴族がいたいけな婆さん放っておいて偉そうにふんぞり返ってんじゃねえッ!」
「痛いっ!痛いですっ!もう、止めて下さいましっ!」
「おやめ下さいシャモン様!」
すっかりシャモンの剣幕に怯えたアルマリアはそれでもシャモンとメリグレッタの間に割って入る。
シャモンは怒気を孕んだ形相で震えるメリグレッタを見下ろし、鼻を鳴らす。
メリグレッタは震えながらアルマリアの影に隠れる。
「オラ、どうした?さっきの威勢はどこ行った小娘。てめえが貴族を名乗るなら、どんなことがあってもてめえのやってることを止めるな。多くの人を助ける為に高貴なる義務を途中で投げ出すな。理解はされない、そして、称賛されることもない、だが、それは果たさなければならない尊きこと。てめえの親父さんが命を失ってまでやっていたことをただその名前を継いでいるだけのてめえが、理解もせずに偉そうに語るんじゃねえ!」
シャモンはそれだけ告げると背中を向けた。
アルマリアは静かに背を伸ばすと、シャモンに一礼する。
そして、かつての多くの貴族の子息を導いた厳しい双眸を持ってシャモンを見つめた。
「……此度の非礼は私の不徳の致す限りにございます」
「婆さんにゃ罪はねえよ、いつまでも悲劇の貴族を気取った小娘を庇い立てするんじゃねえ。為にならねえよ」
「お心遣い、痛み入ります。ですが、今回は間違いなく私の不徳の致す限りにございます」
「あん?」
「老いを理由に正しく貴族の子息としてあるべき姿へ導くことをしなかった私に非礼はあります。どうか、責めるなれば私を責めて下さい」
毅然とするアルマリアにシャモンは現実を突きつける。
「その小娘はもう、貴族に戻れねえよ。平民として生きていくしかない。いつまでも夢を引きずらせちゃいけねえし、てめえの誇りを被せるな。小娘が辛ぇんだよ」
「それでも、メリグレッタ様はドゥモルトの貴族にございますっ!」
叫ぶように訴えるアルマリアに何もできないメリグレッタは自分の力の無さを恥じた。
そうして、シャモンが述べた現実が、自分の受け止めるべき現実だと知る。
シャモンは面倒くさそうに頭を掻くと溜息をついて背を向けた。
「栄華は積み上げた砂楼の如し一夜の夢」
「堪え忍び積み上げねば、誇りも、砂楼もまた、夢とならずにございます」
シャモンは静かに息を吐くと、毅然としたアルマリアに優しく告げた。
「邪魔したよ。また、近々人を寄越す。それまで達者にしていろよ婆さん」