第1章 『最も弱き者』 10
バルメライ・ガンズムはいわゆる、冒険者である。
武器の携行を許され、戦士ギルドで訓練を受け、様々な仕事を仲介されて受ける。
ビリハム・バファーの邸宅に集まったパーティの中にはバルメライの知った顔もあれば知らない顔もあった。
上司の不祥事で軍人としての職を失ってから冒険者に身をやつし、年月を経たバルメライはベテランと言って差し支えない経験を積んでいる。
ビリハム・バファーの邸宅警備に非常招集を受けたこの日、バルメライは嫌な予感がした。
仕事をする際には事前に、色々なイメージをしておく。
そのイメージは実際には違うのだが、概ね、イメージとかけ離れた事態には遭遇しない。
逆にイメージと大きくかけ離れた事態というのは危険なのだ。
だが、バルメライはその日、異常に集められた護衛の数と不穏な雰囲気にただならぬ危険を感じた。
「……賊からの犯行予告があった。嫌がらせの可能性もあるが、一応、念の為に警備をしてもらう。くれぐれも抜かりのないようにな?」
そう告げたビリハムの無表情が隠す恐怖も、また、いつもの仕事とは違っていた。
今夜は確実に何か起こるのだろう。
「しっかし、ま、ただ、金を払うのが惜しいからって夜の夜中に呼び出しますかね」
警護を雇うだけ雇って何も起きない場合もある。
その場合でもしっかりと彼らは給金を戴くが、むしろ、何かあることの方が少ない。
なので、招集を無意味にかける依頼主も居る。
「さあな。だが、一応、仕事だからな」
バルメライは若い冒険者にそう苦笑混じりに告げると、庭を回った。
荘厳さを醸し出す庭園にはものものしく帷子を着込んだ冒険者が立ち回っていた。
冷たい空気に身震いしながら配置箇所の確認を終わり、戻ろうとする。
遠く、遠く、遠雷のように鐘が鳴っていた。
聞き覚えがある。
「なんだ、この鐘は」
近くに居た若い冒険者が応えた。
「たまーに、鳴るんですよ。知ってますか?これ、幽霊が鳴らしてるんですよ」
「幽霊?」
「見た奴が居るらしいんですよ。血に染まったぼろぼろのローブを着た奴が鐘を鳴らしながら歩いてるんです。追いかけても追いつけないでいつの間にか消えてるらしいっすよ」
――このようなよもやま話は、冒険者をやっていれば事欠かない。
真面目に相手をするような話しではないし、話した方も信じてはいない。
バルメライは鼻を鳴らして、邸宅の中に戻った。
邸宅の周囲、内部に配置された警備の数は少なくはない。
賊が侵入したとして、何ができるわけでもないだろう。
だが、しかし、バルメライにはそれでも、嫌な予感しかしなかった。
邸宅のビリハムの私室の廊下から、外を眺める。
「まさか」
庭の中に、血だらけの幽霊が立ち、バルメライを見上げていた。
◆◇◆◇◆◇
深まる闇の中、月明かりだけが差し込む。
吹き抜ける風がぬるく、肌を撫でてゆく。
闇に紛れたスタイアは一度だけ、ビリハムの邸宅を見上げると音も無く歩く。
そのスタイアを追い越し、シャモンが駆ける。
垣根の回りを巡回する警護を見つけ、身を屈める。
シャモンは垣根の影から、影へと身を滑らせ距離を詰める。
まだ若い警護の兵はスタイアの姿を見つける。
そうして、向けられた背にシャモンは駆け寄り、腕を伸ばした。
後ろから現れた手に口を塞がれ、鋭い手刀が腰に刺さり、腰骨を握り、砕かれる。
脳天へ駆け上がる痛みに悲鳴を上げても誰の耳にも届かず、痛みが意識を焼き切り絶命する。
悲鳴を上げる暇すら無く崩れた警護の兵をうち捨てる。
巡回中の他の兵がシャモンの姿を見つける。
「誰だ?」
疾風の如く駆け寄り、シャモンは巡回兵の首を抱える。
「シャモン。地獄の獄卒にそう伝えてくんねい」
短く答えたシャモンが首を折る。
ごきりと鈍い音が響き、あらぬ方向へ曲がり、こと切れる。
声を聞きつけ、兵がわらわらと集まってくる。
「……畜生を喰らわねば生きていけぬ人もまた、畜生。賢しく腹を空かすか、愚かに腹を満たすか。中庸なり難し、ねえ」
シャモンは誰に言うわけでもなく呟くと、闇の中を飛んだ。
夜空に翻る外套の裾にまだ若い衛兵の顔が驚きに染まり、伸びた足が鼻を砕く。
倒れた兵の喉を踵が踏み抜き、仲間をやられた兵が手にした槍を突き出した。
突き出された槍を脇に抱え上げ、放り上げると腕を伸ばし、胸から心の臓を抜き取る。
追いすがる血飛沫を翻り躱し、恐怖に立ちすくむ兵の頭に五指を突き、頭蓋を穿つ。
血の一滴すら自分の手を汚さぬ早業をやってのけ、地面に転がる死体を眺め、シャモンは静かに合掌した。
「往生せえよ」
◆◇◆◇◆◇
堂々と中庭を歩くスタイアを見とがめた衛兵はそれぞれが獲物を抜き放つ。
スタイアは意中に納めず、歩を緩やかに邸宅へと進める。
その堂々とした佇まいに不気味さを感じた衛兵はおそるおそるスタイアを取り囲み、一斉に獲物を繰り出す。
スタイアが僅かに踏み込み、白刃が閃いた。
大きく踏み出して奮われた剣が、槍、剣、鎧などはじめから無かったかのように荒々しい軌跡を描き、スタイアの正眼に収まる。
スタイアは歩を緩めることなく、歩き向かってくる衛兵を次から次へと切り伏せる。
折れた槍や剣が宙を舞い、その後を追って首や血飛沫が舞う。
褐色の外套が血を浴び、黒ずむが、スタイアは一向に意に介さない。
正面の敵に剣を突き込んだ次の瞬間。
背後から短刀を抜き放ち飛びかかる衛兵にスタイアは完全に背後を取られる形となる。
銀の短刀がスタイアの首筋めがけて打ち込まれる瞬間、その衛兵はもの凄い力で上空に飛ばされた。
見ると、腰に鎖が巻かれていた。
グロウリィドーンの夜景を見下ろし、眼下のビリハム低の庭に巨躯を黒衣に包んだ男が立っていた。
背負った棺桶を掲げ、落下する自分を納めるものだと判った時、既に視界は暗転していた。
蓋を閉じられた棺桶が地面に突き立てられ、鎖が巻き付く。
中から蓋を開けようと力を込めるが、びくともしない。
黒衣の男――ユーロが棺桶を背負い、巻き付けた鎖を力一杯引き絞った。
ぎりぎりと鋼鉄の棺桶がひしゃげ、中からぼきぼきと骨の折れる音が響く。
それでもなおやめることなく鎖を引き絞ると、棺桶が二つに割れる。
おびただしい鮮血が迸り、棺桶の中から肉片が転がり出す。
スタイアは振り返ることなく邸宅の中に歩を進めた。
◆◇◆◇◆◇
庭での騒動を聞きつけた衛兵はこぞってホールでスタイアを迎え撃つ。
二階に配置された衛兵は全て弓を持ち、正面ドアを開けたスタイアに矢を構えていた。
一斉に射られた矢に、動じることなく、スタイアは剣を正眼に構えたまま進む。
矢はスタイアに届く前に、その剣に悉く打ち払われた。
肉厚の剣はまるで盾のようにやじりを滑らせる。
怒号を上げて斬りかかる衛兵の腹を凪ぎ、滑るように邸宅を進むスタイアに雨のように矢が降り注ぐ。
矢を射る衛兵はいくら射ても当たらないスタイアを幽霊のように思い、恐怖した。
幽霊は僅かに二階を見上げると、二階で弓を持つ衛兵達が一人一人崩れ落ちる。
小さな人影がするりするりと各人の首筋に毒を塗った針を刺しているのだが、階下の者は目の前の血だらけの外套に身を包んだ死神が邪法を使ったものとしか映らない。
後ずさりし、逃げまどう衛兵の背中に剣を振るい、スタイアは進んだ。
「名のある者と見た。伺おう」
ただ、状況の成り行きを見ていたバルメライだけが長剣を構えスタイアに対峙した。
その背後にはビリハムが怯えきった顔で立っていた。
スタイアは正眼に構えた剣の切っ先をバルメライに向ける。
「死ねば糞の詰まった肉袋だけが残るじゃないですか。それだけで十分でしょう?」
バルメライは何故か、スタイアに奇妙な親近感を覚えた。
多くの死を見てきた者だけが理解できるどうしょうもない現実。
バルメライは長剣を掲げ、体を開く。
スタイアは正眼の切っ先を後ろに下げ、足を下げ体を開いた。
どちらも自分の一撃に自信が無ければ、できない剣術である。
先に動いたのはバルメライだった。
踏み込み、突き込むように剣を伸ばしスタイアの額を割りにゆく。
さらに体を開き背を向けたスタイアの剣がまっすぐにバルメライの剣を滑った。
剣が火花を散らし、バルメライの剣が根本から切られる。
スタイアの背中に覆い被さるようになったバルメライは懐から短剣を手にし振り上げ、そこで動きを止める。
スタイアの脇から伸びた剣がバルメライの心臓を貫いていた。
切れたフードがはらりと落ち、自らを打ち倒した赤い髪の剣士を最後に見た。
捻られた切っ先がぎりぎりと心臓を破り、バルメライはこときれた。
剣を引き抜き、振り返ったスタイアはバルメライの首を刎ね、あいた手は目の前で開かれていた。
銀翼の兜から零れる赤い髪の剣士はバイザーの奥に眠たげな瞳を鋭く細め、ビリハムを見上げていた。
「ビリハム・バファー、故あってお命頂戴いたします」
「……バルメライを討ち取るとは。いやはや、感服する。フィダーイーのセトメント」
「フィダーイーは国益に殉じない不逞の輩を闇に葬ることをセトメントに託す。さて、ビリハム卿は国家万民に害なす政を成しているのでしょうかね?」
「ふむ、世俗を知らぬただの賊とは違うようだな。君は全ての真実を知って、それでいて私に剣を向けるのかね?」
「幾ばくかの真相は知ってましょうや」
ビリハムは残虐な笑みを浮かべた。
「なれば、当然、これも知っていような?」
スタイアの足下の石床に亀裂が走り、割れる。
床を割って伸びた巨大な足がスタイアの頭に振り下ろされる。
スタイアは地面を転がり爪を裂けると、今まで居た場所に深々と爪が刺さる。
追って振り払われた爪がスタイアの体をすくい、宙に高く放り上げた。
壁の上で跳ねた体が大理石の床に叩きつけられ鈍い音がした。
よろよろと起き上がったスタイアが見上げたそれは、蜘蛛のような、女人のような魔物だった。
「……魔物、ですかい」
目を細くして呟いたスタイアは冷たい眼差しでビリハムを見た。
「飼育するには少々高価な餌が必要でね。楽ではないよ」
「……でしょうねえ」
「必要があるから行うだけの話だ」
「がしかし、いささかやり過ぎたんじゃありませんかね?」
魔物が酸を吐き出し、あわせて爪を振るう。
スタイアの剣が爪の上で滑り、跳躍し翻った身が酸をかわす。
爪の上につま先をかけるとスタイアは駆け上がる。
オン、と空気が震え、浮かぶ青白い炎が揺らめきスタイアを舐める。
剣で炎を切り払い、頭めがけて疾走したスタイアは一刀の下、切り捨てようと剣を振り上げたがそこで躊躇した。
泣き咽ぶ少女の顔があったからだ。
「……おねえちゃん、ひどいよ……どこにいったの……?」
横殴りに振られた腕がスタイアの体を壁に激しく打ち付ける。
ビリハムは鼻で笑い、スタイアを見下ろした。
「所詮、生まれが違えばまた生き方も違う。持てる者の義務を果たせば、持てる者のみが得られる権利もある。義務と権利、これらが人の世を形作る。義務を果たした者のみが権利を得られ、得られた権利を使い、より持てる義務を果たさねばならない」
よろよろと起き上がったスタイアは目の前の魔物を細く見つめた。
「権利にも是非があるでしょうや……人が人をないがしろにしていい程、偉くは無いでしょう」
魔物は悲しげに慟哭を放ち、スタイアに爪を振り下ろした。
剣で受け止めたスタイアの体が沈み、受け止め切れず床を転がる。
「いくら吠えたところで、結果のみが残る。貴様は死ぬ。私は明日からもまた、登城せねばならん」
ビリハムは倒れ伏したスタイアに告げ、襟を直した。
「それでは、私は別宅で寝させてもらう。後始末はせいぜい、騎士団にでもやってもらうとしよう」
立ち去るビリハムの背中を見つめ、スタイアは起き上がる。
魔物は悲しげな瞳をスタイアに向け細く吠えた。
「やれやれ、死ぬるかね、本当に」
息の根を止めんと振り下ろされた爪との間に、割って入る影があった。
「……死ぬにはちょいと、早いんでないかね?」
「シャモさんか」
シャモンである。
シャモンは振り下ろされた魔物の腕をがっしりと受け止め、スタイアを庇うように立っていた。
「しかしまあ、酷いことする奴も居るモンだね。まだ、ちっちゃい女の子じゃあないか。色々やりたいことや食べたいものもあったろうに」
ぎりぎりとたわむ魔物の腕を押さえ込むシャモンの腕が僅かに震えていた。
魔物の力をほんの、ほんの僅かに逸らしながら押さえ込んでいるからだ。
「こうなれば最早、生きてはおれまいさ。堪忍しとくれよ…堪忍しとくれよ」
「シャモンさん」
「スタさんや、人が死ぬのは浮き世の非情だ。堪えるしかあるめえよ。だがしかし、だからこそ、俺らは精一杯生きねばなるめえよや。らしくもねえ同情して急ぐのは筋が違いやしねえか?」
抑えきれなくなった爪がシャモンの脇下から伸びてスタイアの足下に刺さった。
スタイアはのろのろと起き上がる。
「……そんな風に、見えますかね?」
「暖かい飯でも喰おうや。喰えない奴らの分も含めて」
シャモンが苦笑し、スタイアが苦笑で返した。
スタイアの剣が閃き、爪を断ち切った。
「シャモさん、あとは僕が斬る」
「任せる」
シャモンを下がらせ、魔物と対峙したスタイアは剣を正眼に構え、両手で掴む。
「……ビリハムをつけて下さい。追って始末します」
「あいよ。虫とラナが追う。苦しまずに逝かせてやってくだせえ」
「承知」
スタイアはそれだけ告げると、頭上で剣を回した。
魔物の爪が一斉にスタイアに襲いかかる。
スタイアの腕の中、白銀が閃光となった。
振るわれた爪が閃光に触れた矢先、吹き飛ぶように切り飛ばされる。
切っ先は、ゆるやかだった。
歩を進めるスタイアに魔物が炎を吐く。
その炎すらゆるやかに切り裂き後ずさる魔物にスタイアは歩を進める。
「バンショケ・ンセイ・シチュウラ・イケン……リョウンの剣、早く収まらず、遅く非ず、荒ぶる訳もなく、また穏やかにならず、理は無く人が斬るのみ。絶剣だな」
澄んだ綺麗な音を立てて、スタイアの剣が爪を切り裂いた。
「しかし、スタさんはいささか無欲すぎる。いや、俺が下衆なだけか」
シャモンは苦笑してスタイアに背を向ける。
スタイアは微笑を浮かべて魔物に歩み寄る。
足を切り飛ばされた魔物は支えを失い体が傾いだ。
それでも闇雲に足を振るう魔物の最後の足を、スタイアの剣の切っ先が滑った。
「……あ……あ……う…」
全ての足を失い、大理石の床に倒れ伏した魔物の中央、少女が声にならない声を上げる。
「よく、頑張った」
少女は首を振り、泣きそうな顔でスタイアを見上げる。
「大丈夫だよ。彼女は強い、あとは、僕が背負おう」
少女は泣きながら、薄く笑った。
「辛かったろう?お疲れさん」