第二章 なつの物語
高校を卒業して、私は大学に入った。そんなに偏差値は高くない三流の公立大学。特別いい大学に行きたかったわけでもなく、かといって私立や専門学校のように贅沢もしたくなかった。何故なら、大学の費用は兄が工面してくれたからだ。
母は幼いときに他界して既におらず、さらには仕事が忙しく家に居ない父。私にとっては兄だけが家族だった。
そんな兄が高卒で働き父親の世話にならないようにお金を工面してくれたんだと思えば、私の大学生活にも自然と気が引き締まる――はずだった。
私は高校のときに吹奏楽をやっていた流れから『ジャズ研』というサークルに入ってからというもの、私の世界が途端に広がった気がしたのだ。
そこには私の容姿についてとやかく指摘する人はいなかったし、先輩はハコでライブをやってるような人もいるし、実直に『研究』に勤しんでる人もいれば、趣味程度で活動している人も居る。このイモのごった煮のような不思議な雰囲気に私はたちまち魅了されてしまっていたのだった。つまり、兄には申し訳ないが遊ぶことに熱中していたのだ。
サークルの仲間とバンドを組んだり、バイトしてそのお金で年相応にオシャレしてみたり、先輩のライブを見に行ったり、友達とカフェでくだらない会話をしたり、私のハジメテがどんどんこの空間に吸い込まれていったのだった。
それでも私は現状に満足していなかった。そう、ひとつだけ足りないものがあるのだ。それは――
「ねーねーなっちゃんさー、きいてんのー?」
「あ、ごめんユミ。ちょっとボーっとしてた」
右手を縦に、右眼をつむり舌べらをチロリとだしてサークル仲間のユミに軽く謝った。
「ほほー、いい度胸だー。ホレ、次はなっちゃんの番でぇーす!はい、パチパチ~」
「え、ちょっとぉ、まってよぉ。いったいなんの話なの?」
「ハハ、ユミったら強引なんだからさ。えっとさ」
ユミへの文句に応えてくれたのはヒロだ。ヒロはもったいぶって一度言葉を区切ると、こちらへ身を寄せ耳元で囁いた。
「那都はさ、いまカレシ居るの?」
ビクンと水面を跳ね上がるお魚さんよろしく、私はイスから立ち上がっていた。
「いいいいい、居ないよ!居ないんだからっ!」
「おーっとぉ!?これは怪しいですなヒロエさん!」
「ヒロって呼べつってんだろ・・・。んまぁ、この反応はオイシイよね」
実況と解説のように二人がこちらを見て話始める。顔は盛大なニヤケ顔だ。
私はイスに座り直すと呼吸を抑えながらしゃべりはじめた。
「ほんとにっ!ほんとに、かっ、カレシさんは居ないのっ!けどっ・・・」
「ほう、けど?」
「続けたまえ」
二人の実況解説はこちらの話を促してくる。最初から話を聞いてなかった私が悪いんだ。正直にしゃべってしまおう。
「す、すすす、すっ、好きな人はっ、居るのっ」
「――ぶふっ、クッ・・・」
「ちょっとユミ、笑うのは失礼でしょうが」
「ご、ごめんっ!ナツってほんと可愛いよねーっ、アハハッ」
きっと、私は顔を真っ赤にしてしどろもどろになりながら言ったのだろう。自分では真剣にいったつもりだったのだが。
「好きな人ねぇー・・・。そんくらい今までも居たでしょ?そんな恥ずかしがらなくてもさ」
堅実な意見をヒロは飛ばしてくるが、私はこの容姿のせいで他人は全て自分のことを畏怖の対象としてみているんだと思い込んでいた。けれど、このサークルに入ってわかった。音楽の元では誰しも平等なんだって。
「えーとね、いままで吹奏楽部で女の子しかいなかったし、それに、私お兄ちゃんっこだからさ。あんまり男の人に興味が持てなかったの」
というのは建前。ほんとうは誰にも言えないような、私だけのヒミツがあるの。まだ他人には誰にもいってない私だけのヒミツが。
こういうのを恋に恋しているというのかもしれない。本当は好きかなんてわかんない。まわりの友達が次々とカレシ作って、ナニをどーしたとか、アレがこーなったとか、そんななかで自分だけが取り残されてる気がして、焦ってたんだ。また、あの頃に戻りたくない。あの頃には絶対戻りたくない。みんなと一緒で居なければ私はまた――
「あれ?那都ちゃん、だっけ?待っててくれたんだ?」
声をかけられハッと顔を上げると、そこには岡崎先輩が居た。どうしよう、と悩むよりも先に言葉がでた。
「あ、あのっ、さっきの演奏、すごく良かったですっ!その・・・力強くて、でも繊細で・・・私、感動しました!」
「ははっ、嬉しいよ。テナー・サックスはその力強さと繊細さがウリだからね」
笑顔で返事をくれる岡崎先輩のファンは結構いるらしく、次の人に意識を向けてしまった。
「なっちゃぁ~ん、さては先日のアレ、たっくんセンパイですなぁ~?」
いやらしい猫なで声で私の背筋をツツーっと触るのはユミだ。まったく怖くもなく、くすぐったくもないあたりがユミだ。
「そうか・・・岡崎拓海か。ウチのカンバンみたいなモンだしな。ヤサ男のイケメンで成績は上の中、ジャズは先ほどの通りの腕前。ほぼ完璧な男だよな。アタシは嫌いだが」
そうやってクールな意見を寄越すのはヒロだろう。振り返って確認すると、やはりそうであった。
「ほほぉ~、イケメンというところは認めるのですなぁ~」
ユミがなにか言いたげにヒロへ視線を流すが、
「アタシは一般的な美的センスを兼ね備えていると思っている。容姿、スペックなら間違いなくアタリだろうが、ヤツの性格が気に入らない」
「ヒロさぁー、いちおーセンパイなんだよぉー?」
咎めるようなユミの発言に対し、嫌そうな顔でそれを振り払うと私に向かってこういった。
「那都、アイツはいい噂を聞かない。やめろとはいわない。けど、気をつけてくれ。もっと身近に那都のことを思ってくれる人がいるかもしれないし」
身近、ね。
その言葉で思い出すのは先日のことだ。
幼馴染の紗音と喧嘩したのだ。
私は紗音のことが大好きで、沙音が私だけを見てくれればいいのに、なんて甘いことを考えていた。
でも、現実はそう簡単にはいかなかった。
私はサークルに入るのをとめて欲しかったのだ。俺が傍にいてやるから、なにもいらないだろ?って。そんな少女マンガみたいな展開を期待してた。
でも、現実はそうじゃなかった。
「んー、そっか。面白そうだし、いいんじゃないかな?」
わかってない。わかってないよ。
「私がサークルで忙しくなって遊べなくなってもいいの?」
「べっつにぃー。遊んでくれなくたって結構デス」
冷たい。冷たいよ。
「なんでそんなこというの・・・?いままでだって、ずっと一緒だったじゃない」
「そりゃあ、俺だって大学あるしさ。大学違うし、子供ん時のままってゆーのはなかなか難しいじゃん?」
知らない。知らないよ。
「あっそう。それじゃあ私は私なりに大学ライフをエンジョイしてやるんだからねっ」
「あぁ、勝手にしたらいい」
そんなことがあって衝動的にサークルに入り、そのまま何かを埋めるように遊び惚けていたんだっけ。
「そうね、身近に、いい人がいるかもしれないわね。でも、岡崎先輩かっこいいし、私は好きなんだけどな」
「―― そう。那智が幸せならいいのよ、アタシもね」
なにが気に入らないのか、その後もずっとヒロは不機嫌そうであった。