箱の中の彼女
こんなに狭かったのだろうか――
目の前の室内の様子に沸き起こった感情は、懐かしさでも嬉しさでも、まして哀しみでもなく、そんな驚きに近い疑問だった。
記憶と予想。どちらをも裏切る程、狭く、薄暗い和風の部屋。身体を投げ出して寝転がった畳も、形だけの勉強をしていた机も、漫画で溢れていた本棚も、当時の流行を追った服を納めていたタンスも、全てが昔と同じ位置のままだ。しかし、持ち主である私を迎え入れる事を拒むかのように、彼らは薄ら汚れ、各々が存在を主張しつつも息を潜めている。
中へ一歩進むと、姿の見えない埃が私を包んでいく。咳き込む臭いに顔を顰めながらも、十数年ぶりに私は少女時代を過ごした部屋の中央へ戻った。変色したカーテンの向こうに見える景色も、隣の家屋の壁のままだった。以前はなかったその壁の小さなひび割れが、流れ去った何かを証明している。
電灯を点けても、部屋の薄暗さは直らなかった。実際に電灯が汚れていたせいかもしれないし、私の想いがそうさせたのかもしれない。あるいは、単純に記憶の中で勝手に明るい部屋と思っていただけだったのだろうか。
いずれにせよ、私にはするべき作業が残っている。一つ息を吐くと、未だ違和感の残る自室の、いや、過去に自室だった場所の整理に取り掛かった。家具類はそのまま業者が処分してくれる、という事だったので、細々とした物を持ち込んだ段ボール箱に詰め込んでいく。この数日で、もう何度も繰り返してきた作業だ。最初こそ様々な想い出が甦る事もあったが、それも今では作業の遅延を招くだけのものになっている。なるべく無関心に、なるべく機械的に、淡々と、埃を舞い上げる青春時代の残骸を紙の棺桶に納めていく。
日記帳、小学校のノート、通知表……。
そういった物を手にした時は、さすがに一瞬手が止まりそうになる。それでも、その行為は懐古の情を、また嫌悪を生み出すだけに過ぎない、と理解もしている。非生産的で無意味な、作業を阻害するものでしないのだ。
勉強机と本棚の整理を終えるのにさして時間はかからなかった。黄色く変色した紙の束が、既に段ボールの一箱を埋めてしまっている。
用意した箱の数を確認しつつ、次の目的地に視線を移す。
襖で仕切られた押入れ。私は昔から色々な物をそこに詰め込んできた。邪魔な物を放り込む場所。そんな位置づけで使われてきたその空間は、最も手のかかる整理場所と言えるかもしれない。
自らを奮起させる意味合いも込めて、軽く伸びをする。再び舞い散った埃が私の鼻腔を刺激した。
滑りの悪い襖を力任せに開く。室内よりも一際暗いそこへ、何年振りかの明かりを浴びせる。むっとする空気がこちらへ向けて流れ出てきた。
湿気の多い押入れの上段に、最早手を触れることすら躊躇われる布団が畳まれている。下段のスペースには、既に雑多な物が詰め込まれた段ボールや、片付けすらされずにそのまま放り込まれた幼少期の玩具、かなり古い型の掃除機などが転がっていた。
覚悟を決め、軍手を嵌めてから下段の整理を始める。古くなった段ボールでは中身の重さに耐え切れない。押入れから持ち出すだけで、底が抜けそうになっている。それらを全て移し変える必要があった。
音の出る楽器のような玩具。
お菓子の作れるままごと用のキッチン。
子供向けアニメの変身グッズ――
どれもが真新しい軍手を黒く汚していく。ここまで来ると想い出の品などと言うべきですらない。ただの不快なゴミの集まりにしか過ぎなかった。
しかし、そんな私の手を止めたのは、段ボールの一番底に押し込められていた、手製の人形だった。微笑む女の子を模ったその人形は、多くの玩具に潰されたせいで形が崩れ、頭部に縫い付けられた髪もだらしなく拡がってしまっている。
そっとその人形を手に取る。湿気のせいだろうか、千切れた服に使われている布にはカビが生えている。
こんな日にこの人形を見つけたくなかった。いや、もう二度と見たくなかったのに……。少なからず動揺した私に、捨てたはずの過去を、彼女のくすんだ瞳は語りかけていた。
私が彼女を手にしたのは小学生に上がる少し前、五歳の誕生日だった。貧しかった我が家に、幼い私の我侭を聞くだけの余裕はなかった。みんなが着せ替え人形やドールハウスで遊ぶ輪に入れなかった私は、かなり駄々をこねていた記憶がある。
そんな折に母が何とか作ってくれたのがこの人形だった。既製品のものより大きく、そして不格好でお世辞にも可愛いと言えない彼女。だが、誕生日に母から手渡された彼女は、私の宝物で、同時に親友になったのだ。
その時の私の喜びようは、我ながら滑稽だ。母がその人形を見せるやいなや、わっと歓喜の声を上げ、飛びつき、引ったくる様に彼女を奪うと、抱き締めたまま畳の上を転げ回っていた。
それから毎日、寝るのも一緒。遊ぶ時も一緒。
彼女を抱き締めて眠ると、独特の香りがしたが、それが決して不快でなく、むしろ安心感を与えてくれる。その匂いに包まれると、落ち着いて眠りに就けたのだ。
彼女を片時も離そうとしない私に、父までもが母と一緒に頬を緩めていた。今思えば、玩具を買い与えられない心苦しさと、私が喜んでいる様への安堵とが混じっていたのかもしれない。数少ない休日に父が私のままごとに付き合ってくれたのも、そういった想いからだったのだろう。彼女のお父さん役でも、旦那役であっても、ずっと笑顔で遊んでくれていた。母も一緒になってくれることもあり、いつしか私の中では親娘三人と彼女との四人が家族になっていた。
しかし、私が小学校に通い出すと、彼女との距離はだんだんと離れていった。もうお姉さんなんだから、と誰かに言われた気もするが、決してそれだけでなく、私自身の中でも彼女にべったりなのが不自然になっていたのだ。無論、それは健全な成長の証でもある。徐々に彼女を手にする回数は減り、ずっと寝床の近くで座ったまま飾られているようになった。私も彼女の匂いがなくても眠れた。四人でままごとをする事も、今までの生活が嘘のように無くなっていった。
それに呼応するかのように、親娘の会話は減り、父と母の仲も急速に冷え込んでいった。彼女がいる事で、私たちが家族でいられたとすら思える程、私たちの生活は移り変わっていく。
細い糸で結ばれただけの生活が、とうとう破綻をきたしたのは、彼女が飾り物になってから二年も経たない内だった。
母は父と違う男性の下へ去った。
幼い私には、何が起こっていたか理解できず、父と母とどっちがいいか、という問いにも答えられなかった。この家から出る、と決められなかっただけで、私は父と暮らす事になったのだ。その答えを聞いた時の母の表情は今になっても理解できない。娘と別れる哀しさなのか、新生活に邪魔者がついて来ない不謹慎な悦びなのか。
こうして私は父と二人で暮らすようになった。みんなでままごとをした和室は、私の部屋として与えられ、彼女もまた、いつか家族に戻るかのようにそこに座っていた。
そうは言っても、やはり一度狂った歯車はなかなか噛みあうものではない。
当初こそ愚図る私を包んでくれていた父も、次第に仕事ばかりするようになる。ままごとの玩具や、アニメのグッズこそ買い与えてくれるようになったが、一緒に遊んでくれる事はなくなったし、私もそれを求めていなかった。
数年して母の出て行った原因を知った時、その亀裂は決定的になった。
それなりに大きくなっていた私に芽生えたのは、両親への嫌悪だけだ。仕方なかったんだ、と微かに笑う父を「うだつの上がらない情けない人」、母を「娘を捨てて男に走った最低の女」と。
その日、飾り物としても放置され、汚れ始めていた彼女は、「最低な女」の身代わりに私の憎悪の対象になった。
彼女の服を引き千切り、力任せに壁に投げつけた。そんな扱いを受けても、表情を変えずに微笑んでいる彼女が憎々しい。何度も何度も畳に転がる彼女を踏みつけ、蹴り飛ばす。訳のわからない言葉も叫んでいた。ただただ、自身の感情を彼女にぶつけ続けた。
息が切れる。泣いているせいもあるだろうが、呼吸は荒く、何も考えられない。想いだけが頭の中を支配していた。自分が何故泣いているのかも、理解していなかった。
そして彼女は押入れの中の段ボールに放り込まれた。更にその上に、父からもらった玩具をどんどん積み上げる。箱が一杯になるとそのまま押入れの奥へ追いやる。父の未練だろうか、母の使っていた布団が押入れの上段に積まれている。襖を閉じ、この押入れの使い道を決めた。ここは要らない物を捨てる所だ、と――。
十数年振りに出会った彼女は、やはり微笑んでいる。
自らが傷つき、不要と思われている事を知らずに、家族に戻れる時を待っているのだろうか。それとも、中学すらろくに出ずに、父と家とを捨てて男と旅立った私を、そして同じように不要と捨てられ、傷ついて一人で生きている私を笑っているのだろうか。
そっと彼女の頭を撫でると、綿の髪が指に絡みつき、音も立てずに切れていく。初めて彼女の惨状に心が痛んだ。
親友であり、家族であり、宝物だった彼女。そしてまた最低な女の産物であり、憎むべき存在である彼女――
ずっと音沙汰のなかった母は先年亡くなった。そしてまた父が死に、私はこの家を処分する。
こんな日に彼女に再度見えた事で、私の中で止まっていた何かが動き始めていた。埃に塗れた彼女の身体に、滴が落ちる。一度溢れたその滴は、止める術を持たないかのように、彼女の服の染みを拡げていく。
幸せな記憶、辛い過去、苦しい現実。そして本当に一人になってしまった孤独。その全てを受け止める強さが私には無かった。いや、今も持っているわけではない。だが彼女はそこから逃げる私を諌めるように微笑み続ける。
もう一度彼女の髪を撫でる。幼かった頃と同じように。微かに懐かしいあの匂いが、埃に混じって感じられる。私を見つめる彼女のくすんだ瞳に、静かに微笑み返す。
そして優しく彼女を持って来た段ボールに移し変えた。彼女を一番上にして、綺麗に座らせる。先程私からこぼれた水滴は、彼女の瞳をも濡らしていた。
最後に彼女に語りかけてから、まだ余裕のある箱の封を閉じる。
眦を拭い、立ち上がった私に、外からの光が静かに差し込んでいた――
【了】