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聖堂騎士団『銀盾の誓い』
〈プロローグ:秩序という名の“空白”〉
聖堂騎士団『銀盾の誓い』の城塞は、白すぎた。
白亜の壁、白い大理石の床、銀色に輝く甲冑――全てが「純潔」と「秩序」を体現し、そのあまりの完璧さが、かえって非人間的な空白を感じさせた。
「……ふむ」
城塞を遠望する丘の上、コウタがデータを睨みつけている。彼の表情に、わずかな――しかし確実な――苛立ちの影が浮かんでいた。
“対象No.4:聖堂騎士団『銀盾の誓い』。一日のスケジュール誤差許容範囲:±15秒以内。過去五年間の規律違反:2件。完全に『感情』という変数を排除したシステム。……面倒だ”
彼の「効率化」という武器は、既に最適化されたシステムには切り込む隙がない。むしろ、彼らの秩序はコウタの理想を先取りしているようにさえ見えた。
「わあ……きれい……!」
一方、カナの目は輝いていた。彼女は、過剰な装飾を排した、真っ白なシルクのドレスをまとっている。髪には真珠の小さなリボン。
「でもね、コウタ。あんなにまっしろで、何もないって……なんだか、とっても『描きやすい』と思わない?」
彼女の口元に、これまでとは少し違う笑みが浮かんだ。それは、空白への創作意欲に似ていた。
〈Day1: “許可された可愛さ”の侵食〉
厳粛な礼拝堂。無言の祈りが続く中、カナの足音が石畳に響く。
「ごめんねぇ、みんな真剣なのに」
彼女の声は、場にふさわしくない軽やかさだ。団員たちの眉がわずかに動くが、誰も咎めない。規律は「無用な私語」を禁じているが、「新任ケア担当による声かけ」は定義されていない。
カナは、手に怪我をした若き騎士、レオンハルトの傍らにしゃがみ込む。
「まあ、その手! 放っておいたら大変だよ?」
「……構わない。小さな傷だ」
「小さな傷が大きな傷になるんだよ! ほら、カナが治してあげる」
彼女は救急箱を取り出し、彼の手を取る。その動きは自然で、優雅で――そして、絶対的な自信に満ちていた。
「この消毒液、少ししみるかもね。でも、我慢して? カナがすぐ終わらせるから」
彼女の指先が傷口に触れる。レオンハルトは、痛みよりも、その「触れられ方」の不自然さに違和感を覚える。彼女は傷を「治療」しているのではなく、自分の所有物に刻印を押しているような感覚だった。
処置が終わり、カナは白いレースの保護カバーを取り出した。
「これをつけると、装甲が当たらないよ。カナ、みんなが痛くないように考えたの」
「……団の規則で、装飾品は──」
「これ、装飾品じゃないよ?」
カナは、ぱちぱちと瞬きする。その目は、一切の悪意なく、純粋に「相手のため」を思っているように見える。
“これは『衛生用品』だよ? それに……(声を潜めて)みんな、こういうカナの気遣い、『清らかで可愛い』って喜んでくれるんだ。あなただけ断るなんて、カナ……ちょっと悲しいな”
「清らかで可愛い」。
その言葉が、レオンハルトの心を捉えた。彼らの価値観である「純潔」と、カナの「可愛さ」が、初めて接続された瞬間だ。
彼はうつむき、呟くように答えた。
「……感謝する。……確かに、清らかな気遣いだ」
カナの笑顔が、ぱっと花開いた。それは、計画的に練り上げられた慈愛の完成形だった。
〈Day3:コウタの“敗北”〉
コウタは、騎士団の運営システムへの介入を試みる。しかし、彼の「効率化」提案は、ことごとく既に実行済みか、あるいは「信仰」という非合理の壁に阻まれた。
会議室で、コウタが団長ルドルフにデータを示す。
“現在の訓練メニューには、不合理な反復が多い。この基礎剣術の型、同じ動作を千回繰り返す必要性はデータ上ない。五百回に減らし、空いた時間を──”
「コウタ殿」
ルドルフの声は静かだが、鉄のように硬い。
“我々の訓練は、『技』を体に刻むためではない。『魂』を鍛えるためだ。千回という回数には、忍耐と忠誠の意味が込められている。あなたのデータは、『魂』を計れるのか?”
コウタは一瞬、言葉に詰まった。彼の論理は、「魂」という計測不能な変数の前では無力だった。
“……非効率だ”
“効率だけが全てではない。我々の秩序は、効率を超えたところにある”
コウタは初めて、自分の正論が通じない相手に出会った。いや、彼の正論が、相手の秩序の前に“幼稚”と断じられるという経験をした。
苛立ちが彼の指先を震わせた。データを握る手に力が入り、タブレットの端が軋む。
一方、カナは礼拝堂で、年老いた騎士の話を聞いていた。
「……ですから、私は毎朝、戦で亡くした友のためにも祈りを捧げているのです」
「わあ……とっても尊いね」
カナは、涙ぐんだような目で頷く。
“でもね、おじいちゃん。その悲しみ、ずっと一人で抱えてるの、辛くない? ほら、これ”
彼女は、小さな白いノートを差し出す。
“ここに、そのお友達のこと、思い出を書いてみて? カナが毎日、それを見て、一緒に祈ってあげる。一人じゃないよ。カナがいるから”
老騎士は、目を見開いた。彼は長年、その悲しみを「個人の懺悔」として内に封じてきた。共有することなど考えたこともなかった。
が、カナの提案は、彼の信仰の形に完璧に適合していた。悲しみを“共有可能な清らかな行い”へと昇華させる道筋を示したのだ。
「……ああ……ありがとう……カナ殿……」
彼の目から、久々に涙が零れた。それは、苦しみからの解放の涙だった。
カナは、彼の手をそっと握り返す。その微笑みは、慈愛そのものに見えた。
コウタが、その光景を遠くから見ていた。彼の分析眼は、事態を冷徹に見抜く。
(……ふむ。彼女は、彼らの『感情』を、彼らの『秩序』の中に無理なく組み込んでいる。『共有された悲しみ』は、『個人の弱さ』ではなく、『共同体の絆』として再定義される。……効率化など必要ない。彼女は、システムを変えずに、その中身を塗り替えている)
彼は、初めて「負け」を認めた。データでは説明できない、この“適合”の恐ろしさを。
〈Day7: “清らかな支配”の完成〉
一週間が経ち、城塞の空気は変わっていた。
「清らかさ」が、新しい価値語として蔓延する。
カナが配る白いレースの小物は、もはや「装飾品」ではなく、「清らかな心の証」として認識されていた。つけていない者は、「心が曇っている」と疑われるようになった。
カナの「心の記録ノート」は爆発的に普及した。団員たちは、悩みや後悔をそこに記し、カナが「清めてくれる」ことを求めた。それは、一種の許可制懺悔システムだった。
罪悪感や弱さは、カナを通して「共有可能な清らかな素材」に変換され、個人の内面に留まることなく、管理可能な形で外部化された。
コウタは、完全に蚊帳の外だった。
彼が提示する効率化案は、「魂を軽視する浅はかなもの」として一蹴される。彼のデータは、「数字で測れない尊いものがある」という一言で退けられる。
彼は、城塞の片隅で、タブレットを握りしめながら、初めて感じた――自分が、この場で“不要”であるという、絶対的な疎外感を。
ある夜、コウタはカナに言った。
“カナ。お前のやり方は、長期的に見て非合理だ。感情の共有は、依存を生む。システムの脆弱化につながる”
「え? でもみんな、すごく喜んでるよ? 今まで一人で苦しんでたことが、カナと分かち合えて、軽くなったって言ってくれてる」
“それは錯覚だ。彼らは、自分で処理する能力を失っている”
「うーん……コウタの言うこともわかるけど」
カナは、窓の外の月明かりをぼんやりと見つめながら言った。
“でもね、カナが思うに……『正しい』かどうかより、『みんなが幸せ』かどうかの方が大切じゃない? コウタの効率化だと、みんな疲れちゃうもの。カナの方法だと、みんな笑顔でいられる。それでいいんじゃない?”
その言葉が、コウタの心に突き刺さった。
彼は「正しさ」で世界を変えようとしてきた。しかし、カナは「幸せ」という、より根源的で、より狡猾な価値で、人々を従わせていた。
そして、この騎士団という“空白”には、彼女の“色”が完璧に染み込んだ。
〈Day10:コウタの撤退、カナの残留〉
十日目の朝、コウタは団長ルドルフの前に立ち、淡々と告げた。
“我々の観察は終了した。本日、ここを去る”
「……そうか。コウタ殿の提言は、我々にとって……多くの気づきを与えてくれた」
ルドルフの言葉は、婉曲に「あなたの考えは我々には合わなかった」と言っているに等しかった。
“ただし、カナは残留を希望している”
「……ほう?」
“彼女は、ここでの活動に意義を見出しているようだ。私は……同意見だ。彼女の方法論は、この場に適合している”
コウタは、初めて自分の“敗北”を認め、それを“戦略的撤退”と定義しようとしていた。だが、彼の背筋に走る冷たい達成感の欠如は、誤魔化せなかった。
一方、カナは広場で団員たちに囲まれていた。
「カナ殿、本当に残ってくれるのですか?」
「もちろん! だって、みんなのことが大好きだもん。これからも、みんなの心をきれいにするお手伝い、ずっと続けさせてね?」
彼女の周りには、笑顔が溢れていた。彼女は、もう“外からの観察者”ではない。この秩序の、新たな“中心”となっていた。
〈エピローグ:清らかな檻〉
コウタは、一人で城門を出た。背後の城塞は、相変わらず白く輝いていた。しかし、彼にはそれが、カナの色で満たされた、巨大な飼育箱に見えた。
彼は歩きながら、分析する。
(……彼女の勝利だ。彼女は、彼らの価値観を“利用”したのではない。“増幅”したのだ。彼らが求めた“清らかさ”を、より甘美で、より依存的な形で提供した。結果、彼らは自ら進んで、彼女の管理下に入った)
(……私は、彼らのシステムを“変えよう”とした。愚かだった。彼女は、システムを“完成させた”)
彼は、初めて「効率」以外の何か――“適合”の恐ろしさについて考えた。
カナは、敵と戦わない。彼女は、その場の“空白”や“飢え”に、自分という“答え”を提供するだけだ。そして、それが完璧に適合した時、その場は彼女のものになる。
遠くから、礼拝堂の鐘の音が聞こえてくる。そして、それに混じって、かすかに聞こえるのは――団員たちがカナと共に祈る、甘く整えられた合唱の声だった。
コウタは、踵を返す。次へ向かわなければならない。
だが、彼の足取りには、かつてないほどの虚無がまとわりついていた。
彼は負けた。しかも、最も屈辱的な形で――“正しさ”が“幸せ”に、完全に敗北するという形で。
一方、城塞の中。
カナは、窓辺に立ち、コウタの小さくなる後ろ姿を見送っていた。彼女の表情は、穏やかで、満足に満ちていた。
「バイバイ、コウタ。またいつか、会おうね」
彼女はそう呟くと、振り返り、待っている団員たちに笑いかけた。
「さあ、みんな! 今日も、心をきれいにするお手伝い、がんばろっか?」
「「はい! カナ殿!」」
その声は、規律正しく、そして心から歓びに満ちていた。
彼らは、自分たちが“清らかな監獄”の住人となったことに、気づいていない。
いや、気づいても、もう気にしないだろう。
ここには“幸せ”があるのだから。
──そう、カナは“正しさ”に勝った。世界を“可愛く”塗り潰すという、彼女の戦いは、ここで一つの完璧な形を見出した。そしてコウタは、初めて“孤独”という味を、喉の奥で噛みしめた。
聖堂騎士団『銀盾の誓い』―純粋無垢の侵食編
〈Day1: “清らかな侵略”〉
城塞の門前に、一人の瀕死の男が倒れていた。敵国からの逃亡者──あるいは、間者かもしれない。門番は剣を構え、通報を待つ。
そこへ、礼拝堂から帰るカナが通りかかる。
「まあ! 大変! 早く助けなきゃ!」
彼女は躊躇いなく男の傍らに駆け寄り、傷を覆う布を剥がす。膿んだ傷口の臭いがたちこめる。
「ちょっと待ってね、今、消毒液を──」
「カ、カナ殿! あの者は敵国の者かもしれません! 近づかないでください!」
「敵国?」
カナは、純粋に困惑した顔を向ける。
“でも、この人は苦しんでるよ? 聖典に『隣人を愛せ』って書いてあるよね。隣人って、味方だけじゃなくて、敵も含まれるんじゃないの?”
彼女の目には、一切の政治的駆け引きが存在しない。ただ「苦しむ人を助けなきゃ」という、文字通りの教義の実践があるだけだ。
「で、でも、規律では──」
“規律より、神の言葉の方が大切じゃない?”
カナは、もう門番の言葉を聞いていない。彼女は真剣に傷の手当てを始め、優しい声で男に話しかける。
“大丈夫よ、痛くしないからね。ここは安全なところだよ”
門番は、剣を下ろすことも、止めることもできなかった。カナの行動は、彼らの信仰の核心を100%完璧に体現していたからだ。それを止めることは、自分たちの信じる神の言葉を否定することに等しい。
男は城内に運び込まれた。カナは自室のベッドを譲り、夜通し看病した。
その噂は、瞬く間に広がる。
「カナ殿は、敵であろうと分け隔てなく救済される……!」
「あれこそが、真の清らかさだ……!」
誰もが感動した。そして、誰もが気づかなかった──その“清らかさ”が、城塞という組織の“防壁”を、内側から溶かし始めていることに。
〈Day5: “神”を超える救済〉
ルドルフ団長は、深夜の礼拝堂で一人、祈りを捧げていた。
『神よ……我が団に、迷いが生じております。カナ殿の慈愛は、確かに尊い。しかし、それがあまりに純粋であるがゆえに、我々の秩序を……』
「団長さん? そんな遅くまで、一人でいると風邪ひいちゃうよ?」
ふわりと甘い香りが漂い、カナが傍らに立つ。彼女は白いケープを肩にまとっている。
「カナ、団長さんが最近、ずっと悩んでるの、知ってるんだ。ほら、これ」
彼女は、温かいハーブティーを差し出す。
“神様にお祈りするのもいいけど、カナに話してみる? カナ、絶対に誰にも言わないから”
ルドルフは、一瞬逡巡した。彼は神に祈るべきだ。しかし──神は答えてくれない。少なくとも、すぐには。
一方、目の前のカナは、温かいお茶と、確かに「聞いてくれる」という実感を与えてくれる。
「……我は……団の運営について、迷っている」
“ふんふん”
“敵対者への慈悲が、団の防衛を脅かすのではないか、と”
“そっか……でもね、団長さん”
カナは、そっと彼の手を自分の小さな手で包む。その手は、信じられないほど温かく、柔らかい。
“神様って、『隣人を愛せ』って言ったよね。条件つきじゃないよね? それなのに、私たちが『でも敵はダメ』って決めつけるの、ちょっと……傲慢じゃないかな?”
その言葉が、ルドルフの胸を深く抉った。
彼は、長年、信仰と現実の折衷点を見出し、団を運営してきた。それが「賢明な判断」だと信じていた。
しかし、カナはその「折衷」そのものを、「神の言葉への裏切り」 と、無意識のうちに断じたのだ。
「……我々は……人間だ。完全にはなれない」
“うん、わかる。でも、『なれない』って言い訳にして、頑張るのをやめちゃダメだよ? カナだって、完璧じゃないけど……できる限り、神様の言葉に近づこうって、毎日頑張ってるんだ”
彼女の目は、一切の嘘がない。彼女は本当に、そう信じて生きている。
ルドルフは、自分の信仰が、どれだけ「都合のいい解釈」で塗り固められていたかを、突きつけられた。そして、その「醜い妥協」のすべてを、カナという清らかすぎる鏡に映し出されているような気がした。
その夜から、ルドルフは神に祈るたびに、カナの言葉が脳裏に蘇る。
(『傲慢じゃないかな?』)
祈りが、苦行に変わっていく。
〈Day10: “可愛い修行”という自己破壊〉
カナの影響は、実践の領域にまで及んだ。
「みんな、すごく頑張ってるね! でも、もっと『清らか』になりたいと思わない?」
彼女は、朝の集会で、目を輝かせながら提案する。
“カナが思うに、私たちがまだ『穢れ』てるのは、自分のものを大切にしすぎるからかもしれないよ? ほら、聖典にも『富める者が天の国に入るのは難しい』ってあるでしょ?”
彼女は、無邪気に首をかしげる。
“だから、ちょっと実験してみない? みんな、自分の私有物──余分な武器とか、飾りとか、お小遣いとか──一旦全部、共有倉庫に預けてみようよ! そうしたら、もっと身軽になって、神様に近づける気がする!”
それは、「全財産の共有化」という、過激な共同体主義の提言だった。
当然、反対の声も上がるはずだった。
が、上がらなかった。
カナがそう言うなら──彼女が「より清らかになる道」を示すなら──それがたとえどれほど過酷でも、彼らは従わなければならない。彼女を否定することは、自分たちが目指す「清らかさ」そのものを否定することになるからだ。
騎士たちは、愛用の武具、家族からの形見、僅かな蓄えを次々と差し出した。顔は引きつっているが、彼らはそれを「清らかな決意」と解釈するよう自分に言い聞かせた。
そして、カナはさらに言う。
“あとね……私たち、まだまだ『甘え』があると思うんだ。ほら、毎日ちゃんと三食食べて、ぐっすり寝てるでしょ? それじゃ、『修行』って感じがしないよね”
彼女は、いたずらっぽくウインクする。
“だから、一週間だけ、みんなで『断食修行』してみようよ! 水とパン一切れだけ。その代わり、祈りの時間を倍にする! カナも一緒にやるからね!”
「断食」と「過剰な祈祷」。
ルドルフは、内心で叫んだ。(これでは戦力が維持できない!)
しかし、口に出せない。カナは、笑顔で言う。
“団長さんも、やってみようよ? カナ、団長さんが一番清らかになるの、見てみたいな”
彼は、うつむいた。そして、頷いた。
自分がなぜ頷いたのか、よくわからなかった。ただ、カナの期待を裏切るのが、とてつもなく恐ろしかったのだ。
〈Day14:崩壊する肉体、歪む精神〉
二週間が経ち、騎士団は見る影もなくなっていた。
断食と過労でやせ細った団員たち。共有化された装備は管理が行き届かず、錆び始めている。誰もがイライラし、些細なことで言い争うが、カナが現れると一瞬で笑顔を作る。
ルドルフは、鏡に映る自分が恐ろしかった。頬はこけ、目の下には深い隈。しかし、彼はある「気づき」に苦しんでいた。
──神に祈る時、心が空回りする。
──一方、カナの笑顔を見た時、ほんの一瞬、安らぎを感じてしまう自分がいる。
「……なんて……堕落した……!」
彼は自分の頬を殴った。しかし、その痛みさえ、カナに「けがしちゃだめだよ?」と優しく手当てされることを、どこかで期待しているような気がして、さらに自己嫌悪に陥った。
ある夜、彼はカナの部屋の前を通りかかった。中から、楽しそうな歌声が聞こえる。カナが、何人かの団員と「清らかな歌」を歌っているのだ。
その笑い声を聞きながら、ルドルフは悟った。
彼らはもう、神を崇めていない。
この少女を、生ける聖女として崇め、その笑顔一つで救いを確認し合っている。
それは、信仰の堕落ではない。信仰の乗っ取りだった。
そして、最も恐ろしいのは、カナ自身がそのことを、まったく意識していないことだ。彼女は、純粋に「みんなが仲良く清らかになる」ことを願っているだけなのだ。
〈Day17:追放──怪物への恐怖〉
決定的な事件は、敵国の偵察隊が城塞に潜入したことだった。
捕らえられた間者たちは、当然、尋問されるはずだった。
しかし、カナが現れた。
「あら、みんな、怖がってる……大丈夫、ここは優しい人たちばかりだから」
彼女は、間者たちの縄を解こうとする。
「カナ殿! 彼らは敵です!」
「敵? でも、今はもう捕まって、私たちの『客人』だよ? 聖典に、『客人を厚くもてなせ』ってあるよね?」
彼女は、間者たちに微笑みかける。
“お腹すいてない? カナ、スープ作ってくるね。みんな、仲良くしてあげてね?”
彼女が去ると、騎士たちと間者たちが顔を見合わせる。緊張が張り詰めた空気の中、騎士の一人が、カナの言葉を思い出し、不自然な笑顔を作った。
「……えっと……お、お茶でも……?」
ルドルフは、その光景を見て、背筋が凍るのを感じた。
これはもはや、騎士団ではない。カナという一種の“洗脳装置”によって、善悪の区別すら失った、無害化された羊の群れだ。
彼は、その夜、副団長たちを密かに集めた。
全員、憔悴しきっていた。
「……我々は、間違っていた」
ルドルフの声は、砂を噛むようだった。
“あの少女は……『正しすぎる』。彼女の正しさは、悪意がないからこそ、防ぎようがない。我々は、彼女の『清らかさ』という名の毒に、侵食されつつある”
「だが……彼女を咎める理由など……ない。彼女は、ただ聖典の言葉を実践しているだけだ……」
“それが、問題なのだ”
ルドルフは、拳を握りしめた。爪が掌に食い込み、血の気が感じられる。
“彼女は『人間』ではない。……『教義そのものが人形になったもの』だ。そして、我々のような醜く、矛盾だらけの人間は、彼女の傍にい続けることで、かえって自分たちの『人間であること』に耐えられなくなる”
沈黙が流れた。
彼らは、カナを愛していた。崇拝さえしていた。しかし、その愛が自分たちを破壊することを、ようやく理解した。
「……追放するしかない」
誰かが呟く。
“しかし、どうやって? 彼女は悪事を何一つしていない”
“理由は……『あなたは正しすぎる』だ”
それは、どんな法律にも、どの教義にも書かれていない理由だった。
正しすぎることが、罪になるという、歪んだ理由。
〈エピローグ:理解されない追放〉
明け方、ルドルフはカナを呼び出した。彼の背後には、重苦しい表情の騎士たちが並ぶ。
「カナ殿。我々は……あなたに、ここを去って頂きたい」
カナは、きょとんとした顔をした。髪には、朝露で少し湿ったリボンが結ばれている。
“え? どうして? カナ、何か悪いことした?”
「……いいえ。あなたは……あまりにも、正しくあろうとされた。あまりにも、清らかであろうとされた」
“それじゃ、ダメなの?”
カナの目には、純粋な困惑が浮かぶ。
“カナ、みんながもっと仲良く、もっと清らかになるようにって、頑張ったのに……? 団長さんも、最初は『カナのやり方は尊い』って言ってくれたよね?”
その言葉が、ルドルフの胸をえぐる。彼はうつむく。
「……だから……だ。あなたの『尊さ』が……我々を、窒息させる」
カナは、しばらく彼の顔を見つめた。そして、ふっと、悲しそうな微笑みを浮かべた。
“わかった。カナ、行くね”
彼女は、何の荷物も持たない。ここにあるものは、全て「共有財産」だからだ。
“でも……最後に一つだけ、いい?”
彼女は、騎士たち一人ひとりの顔をゆっくりと見渡す。
“みんな、カナがいなくなっても、絶対に自分を責めないでね? 神様の言葉を忘れないで、仲良くしてね? ……約束だよ?”
誰も答えられない。ただ、うつむくだけだ。
カナは、にっこり笑って、城門に向かって歩き出した。その背中は、少し寂しそうに見えた。
彼女は、一度も振り返らなかった。
彼女は、最後まで理解しなかった。
なぜ、正しくあろうとすることが、追放の理由になるのかを。
城門が閉ざされる音が、重く響く。
ルドルフは、その音を聞きながら、思った。
(我々は……怪物を追い出した。しかし……その怪物は、我々自身の信仰が生み出したものだった)
そして、遠くの道を、一人で歩くカナの傍らに、いつの間にかコウタの姿があった。彼は、全てを静かに見守っていた。
カナは、少し泣きそうな声で言う。
“ねえ、コウタ……カナ、何が悪かったの?”
コウタは、一瞬沈黙し、答える。
“……悪くなかった。お前は、ただ『正しすぎた』だけだ”
“正しすぎるって、悪いことなの?”
“……人間にとっては、悪夢になり得る”
彼女は、その意味をまだ理解できない。
ただ、次へ向かうだけだ。
世界は広い。きっと、彼女の「正しさ」を、そのまま受け入れてくれる場所があるはずだ──
そんな場所が、一つもないことを、彼女はまだ知らない。




