第8之幕 第六天魔王『牛若丸』
第8之幕
──『牛若丸』。それは平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した武将・源義経の幼名だ。
義経は鎌倉幕府を興した源頼朝の実の弟にあたり、源義朝と常盤御前の九男になる。
その生涯は生まれ落ちたその時から波乱だった。まず、父の敗死によって大和国へ逃亡。そして11歳の頃に母が再婚した後は、鞍馬寺に預けられることになる。
この鞍馬寺で牛若丸は、山伏に身をやつした『鞍馬天狗』に出会う。神の御業を宿すこの天狗たちから修業を受け、牛若丸は修験道や呪術などあやかしの技を仕込まれた。おおざっぱに言えば、憂太と似た境遇である。憂太は牛若丸に共感を覚えた。
牛若丸が源義経と名を変えたのは元服がきっかけ。兄である頼朝とともに源平合戦に参陣した。
中でも精兵70騎を率いて、裏手の断崖絶壁を駆け下りた「一ノ谷の戦い」での『鵯越えの逆落とし』や、壇ノ浦の戦いで、6メートルも離れた八艘の船を次々に飛び移り活躍した『義経の八艘飛び』は有名だ。
あやかしの技の現れ。まさに鬼神と言えよう。
こうして兵士討伐の立役者となった義経だが、その才覚と知的戦略、そしてあやかしの術の噂もあり、兄・頼朝から嫉妬、憎み疎まれることになってしまう。
優秀ゆえに起こった悲劇。
兄弟の確執。
そしていよいよ頼朝は一線を越えることになる。ついに義経討伐を命じたのだ。
兄から憎まれ、完全に孤立した義経は逃亡する。だが追っ手は迫り、牛若丸時代からの盟友であった『武蔵坊弁慶』は義経を守り、立ったまま全身に矢を受けて絶命した。
義経は血の涙を流して天へと絶叫する。
「天よ! なぜそれがしを見捨てたのだ!」
哀れな生涯、耐え難き運命。
雷雲が立ち込め、不吉なことが起こる時に現れるとされる化け物・鵺の鳴き声が響き渡った。
天地を引き裂く雷とともに、牛若丸こと義経は自刃したと言われる。この日本国を恨みながら。「無念……」と呪いの言葉を吐いて──。
恨み。遺恨。怨念。悪念。邪気。害意。怨嗟。激憤。憎悪。宿怨。殺意。毒念。害心。憤懣。忿懣。欝憤。
神も仏もあるものか。
『牛若丸』に宿った信仰の神は神咒の天魔となり、仏は外道へと堕天した。
こ
の
世
の
全
て
を
我
、
呪
い
恨
み
破
壊
し
尽
く
せ
ん
!
こ
の
国
の
民
を
一
人
た
り
と
も
生
か
さ
ず
皆
殺
し
せ
し
め
た
り
!
──かくして源義経=『牛若丸』は魔界へと堕ちた……。そしてこの異世界において『大怨霊』、『天魔』、『第六天魔王』として再び示現したのである。
◆ ◆ ◆
憂太はこれまでの勇者たちが遺した言葉を記す伝承の本をパタリと閉じた。そのままベッドに深々と身を沈める。
この伝承は、これまで『TOKYO』ダンジョン討伐で活躍した勇者の証言集だ。
だが。
まだ謎が多すぎる。
情報が足りなすぎる――。
玉響高等学校の生徒=勇者候補たち25人にはそれぞれ宿屋の寝室が与えられた。ニアとエリユリが貴賓室に現れた頃は全員がパニックに陥っていたが、実はそれぞれが、この異世界転移の際に、一人ひとり違った異世界ゆえのスキルを与えられたことに少しの安堵、いや人によってはヒーロー気分で高揚している者もあった。
そのスキルとは、剣技や魔力、身体強化、剛力、俊足、基本属性魔法など。なかには、技術習得率上昇、攻撃力上昇、魔力回復上昇、鑑定/解析、錬金術、魅了、獣魔使い、精霊使いなどのレアスキル。魔法言語の解析と組み立てが可能な「スペルマスター」というエキストラスキルなどを得た者もあった。
それはまさに映画やアニメの世界だった。
これらは自動筆記の魔術で数値化され、魔法具から吊り下げられた魔法の糸と先の尖った魔石が反応してカードに刻まれていく。例えばガキ大将の久世であれば剣技120、身体強化200など。クラス委員長の砂川は攻撃力上昇や魔力回復上昇などの後方支援スキル166。
「これは素晴らしい。数値が100を超えるということは滅多にないのです」
というギルドマスターの言葉に久世が大喜びしたのは言うまでもない。
しかして、憂太のスキルは。
──そのほとんどが一桁……。
だが三箇所だけ飛び抜けた数字があった。
その一つは「熟練度スピード」。なんと3800というとんでもない数値を叩き出したのだ。さらには「魔力」とエクストラスキルの「限界突破」の項目に「∞《インフィニティ》」と数字にならぬ文字が。
「おかしいな、これ。故障してるのかな」
ギルドマスターがそう疑うのも無理はない。魔力と「限界突破」=種族としての限界を超えて進化、神の領域に達することができるスキルが「∞《インフィニティ》」、すなわち無限大。……であるにもかかわらず、騎士、魔法士、探索者、鍛冶師、薬士、農業家、建築士などの職種の数値はほぼゼロ。
果てしない可能性を秘めていながら、その力を発揮できる出口がないという不思議なステータスとなっていたからだ。
つまり才能はあるが、役立たず……。
憂太のステータスの再鑑定は後日ということになり、その日は解散となった。
今頃、クラスメイトたちも各寝室で『TOKYO』ダンジョンや『牛若丸』について伝承の本で知ったことだろう。
憂太は天井を見つめながらため息をつく。この世界に来ても僕は役立たずなのか……。
だが。
(……じゃあ、あれは……何だったんだ……?)
ニアやエリユリと初めて逢った池袋、いや『TOKYO』ダンジョン内。
彼女たちの前に落ちてきた飛び降り自殺者の女性は、明らかに憂太が知るところの『呪霊』であった。
それを。
『オン アビラウンケン ソワカ』
この胎蔵界曼荼羅、最高位に鎮座する大日如来の退魔の真言とともに獣のような腕が撃退した。
一体あれは。
ベッドに寝そべったまま自分の右腕を天井にかざす。この腕から声が発せられ獣のような別の腕が現れた──。
異世界召喚で付与される能力。
クラスメイトは魔法を得た。
筋力や剣技などを得た。
だが僕の場合はそれらの数値がほぼ現れていない。
なのにあの時、出現した陰陽の力。
これまで修行してきた『零咒』の覚醒。
こんなことクラスの誰かに言ったら頭がおかしくなったと思われるだろう。
余計気味悪がられるだろう。
母に告げたら何と言うだろう。
憂太は母の顔を想像する。
その表情は……。
自分が産んだばかりの子猫を食べてしまった母猫のような顔をしていた──。
「母さん……」
憂太は震え上がった。
思わず枕を抱きしめる。
汗で手が濡れて枕に染みができる。
泣きそうだ。混乱する。躰が熱くなる。
ギュッと潰れそうなほどに目を閉じたその時である。
『なるほど……』
「──!?」
声だ!
声がした。
あの声だ。
この世の者の声ではない明らかに幽世からの声。
『『悪霊』風情が偉そうにわしの前にふさがりくさったから思い知らせたが、魔道へとわしも堕ちてしまったか』
どこだ、どこからだ。誰の声なんだ!
胸あたりに何かを感じる。
憂太は自身の学生服の胸ポケットを探ってみた。
その中から出てきたのは。
ウサギ。
母から渡された『悪業罰示の式神』。
キーホルダーの御守りとして憂太が鞄にいつもぶら下げていたウサギだ。
その小さなウサギのぬいぐるみが。
まさか。
『ようやっと気づいたか……』
突然心に話しかけられ、思わず憂太は大声を上げてそれを放り投げた。
確かこれは久世に引きちぎられ、今は憂太の手にはないはずだった。
なのに。
──なぜか、憂太の胸のポケットに“返って”きている!
『無駄だ、無駄だ』
シーツの上でころんころんと転がるその小さなピンクのウサギのぬいぐるみ。それが今度はぴょこりと起き上がり、そしてそのクリスタルアイでできた真っ黒のまん丸の目で憂太を見てくる。
「ひっ……!」
それはふわりと浮き上がった。そしてそのままゆっくりと憂太の顔へと近づいた。
「く、来るな!」
『そうはいかん』
心がざわついた。
確かにコイツだ。
コイツが僕に話しかけている!
『わしをお前から引き離そうとしてもそうはいかん。この力を得た今、どこへ捨ててもわしはお前の元へと戻って来る』
「お、お前、何なんだ!?」
『ふむ。分からぬか。まあよい。そうじゃな、一つ言えるのは、わしの目的はお前だ。お前の肉体に憑依し、取り憑き、我が肉体としたい』
「僕を乗っ取る……?」
『そうよ』
ウサギがニヤリと笑って見えた。
『わしは肉体が欲しい。肉体を得て、これまで儂をないがしろにしておった人間どもをすべて食い殺したい。これまで呪術のすたれたつまらぬ世で何百年も退屈しておったが、あの時放たれた光でこの世とあの世の境を彷徨っていたわしはお前に引き寄せられた。これを好機と言わずして何と言おう』
「光……?」
『主らを転移させたあの光だ』
そう。僕たちは突然、光に包まれこの異世界へ来た。
その光の中で憂太は確かに聞いた。
何者かの声を。いや、こいつの声を。
つまりこいつはその光に導かれて来た。
こいつは一体。
『どうやらこちらの世界はわしら術師と相性が良いらしい。力が溢れる。何者にも負ける気がせぬ』
「お、お前は……、いつの時代の悪霊なんだ」
『悪霊?』
「悪霊に決まってるだろ! お前なんか!」
ガッハッハッハとそのウサギは笑った。
『安倍晴明の末裔がこうも頭が悪いとはな』
「な、なんだと」
『そうじゃな。良かろう。聞いて驚くが良い。わしはあの、狐の子のような怪物陰陽師ではない。もっと偉大な存在だ。帝の飼い犬陰陽師とはわけが違う。確かに晴明は優れておった。だがその晴明をして好敵手と言わしめたわしの名と言えばもうわかろう』
「安倍晴明……。好敵手……?」
『そうだ、驚け! 聞いて恐れよ! おののけ、跪け! そう。わしの名は! あの! 都に轟きし陰陽の王!」
ゴクリと憂太は喉を鳴らす。ウサギのまん丸の目が真っ赤に光った。
「わしこそが、その、あしやど……』
バタンッ!!
「ねえねえ! 憂太! あっそびに来ったよ~☆」
突如ドアが開かれ、憂太は飛び上がりそうになった。
エリユリとニアが顔を覗かせ、にまあと笑っている。
その勢いで憂太は意図せずその『悪業罰示の式神』を。呪いの式神を。小さなピンクのウサギを。
枕で。
バシン!
まるでコバエか何かでも撃ち落とすかのように。
布団に叩きつけた。
『ど……ど……どどどどどっどどっどどぉ……!?』
「あれ? 誰かと話してた? だいじょぶ?」
と部屋に入ってくるニア。
自分の寝室に美少女が突然、闖入した。
このエロゲのようなラッキーシチュエーションに憂太は顔を赤らめ、『悪業罰示の式神』を枕と布団の間で挟み込み押さえつけながらも、しどろもどろに答える。
「な、なんでもないよ」
「ほんと?」
「ほ、ほんと! ほんとになんでないから!」
『む、むぐううううううううう!!』
ぺしゃんこにされた『悪業罰示の式神』がもがいているのが枕越しに感じられる。
憂太は必死にこれを押さえつけながら、引きつった笑顔をニアとエリユリに向けた。
「ど、どうぞ。入って」
あまりに上ずった憂太の声に、ニアとエリユリが「なに、その声」と大笑いを上げた。