第65之幕 蝶の羽化、巫女の影
第65之幕
夜の異世界ダンジョン・『渋谷』に、静けさが戻っていた。
あれほど暴れ狂った海も引き、今は地面には紅い花びらが残るばかり。
燃えるように咲き乱れた彼岸花も、やがて風に散り、夜空へと吸い込まれていった。
憂太の掌には、その中からかろうじて掴み取った一房の花。
冷たくはない。けれど、温もりもない。
まるで、誰かの最後の心臓の鼓動だけが、かすかにそこに残っているようだった。
終わったのだ。
璃花子も、七人ミサキも、もういない。
けれど勝利の実感はなく、多くの犠牲を出したことで胸の奥は処理しきれない空っぽ。
ただただ、風の音ばかりが響いていた。
……そのときだった。
――チリ……ン。
澄んだ鈴の音のような響きが、闇を切り裂いた。
「え……」
そして。
憂太の掌にあった花が突然、ふわりと浮かび上がり、夜空に吸い込まれていく。
その後を追うように、砕けたアスファルトに落ちていた花びらや影が次々と形を変え、光る蝶の群れとなった。
「な、なにこれ……やば……! ちょっと、まじで見間違いじゃないよね!?」
ニアが声を裏返し、肩をバタバタさせる。
「わぁ……まるで神様のいる天界みたい……」
エリユリは胸の前で手を合わせ、夢見心地のように見とれていた。
「信じられない……こんなの、奇跡としか……」
鮎は呟き、震える声で光を追った。
蝶の光はふわりと舞い、壊れたビルの影を照らす。
暗い夜の『渋谷』が、まるで星空を映した舞台のように輝いていった。
だが憂太は、ただ見とれるだけではいられなかった。
胸の奥がざわつき、なにかが蘇る。
(……この感じ……知ってる……?)
幼い頃の母の声。
ずっと忘れていたはずの言葉が、蝶の光に導かれるようによみがえったのだ。
――花は散って終わるのではない。帰る先を見つけたとき、羽になる。
――ただし、その術は寿命を八百十八夜削る。決して軽く使ってはならない。
八百十八夜……およそ二年以上……。
「……確か、母さんが……」
思わず口から漏れる。
そして、隠されていた記憶が一気に弾けた。
(返花法だ……!)
けれど迷いがすぐに襲う。
(本当に……こんな術、存在しているのだろうか? もし失敗したら……寿命を二年以上も削るだけで……)
左手が震えた。
掌の花は脈打つように熱を帯び、答えを迫る。
「やめた方が……でも……」
脳裏に浮かぶのは、大嶋唯。
最初に自分を理解してくれた、優しい笑顔。
守れなかった、あの日の後悔。
(……もう二度と、同じことは繰り返さない!)
恐怖も不安も、疑いも消えはしなかった。
それでも、胸の奥が強く叫んでいた。
「……信じるしか、ない」
憂太は指を結び、夜空に一文字を描く。
――結。
「返花法……」
小さく呟き、真言を唱える。
「ムガン・ソワカ、レイジュ・ヘカ……」
「オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ……」
その瞬間、左腕に焼けつくような痛みが走った。
「……っ!」
皮膚に赤い模様が浮かび上がる。
花びらが鎖のようにつながった印。
八枚の花弁が並び、寿命が削れるたびに散っていく――咒印。
これに道満は驚いていた。
『……あれを使ったのか』
そう。道満も聞いたことはある。
『返花法。伝承では聞いたことがあったが、実際に見るのは初めてだ』
足元のウサギのぬいぐるみ――芦屋道満が低く言う。
『成功例はない。寿命を削って消えただけの者ばかりだ』
声は冷静でも、ウサギの耳は小さく震えていた。
「……成功例がない……」
憂太は息を呑む。
だが――。
「それでも、やる」
半信半疑のまま、口にした。
「それでも、やってみる勝ちはある!」
掌の花が白く輝く。
やがてその輝きは姿形を変え、光の繭となる。
それがもぞもぞと動いている。
まるで生き物のように。
そして次の瞬間だった。
夜風が優しく揺らし、「ぽん」と小さな音を立てて殻が裂けた。
きらめく光が溢れ出し、その輪郭をゆっくり、ゆっくりと描いていく。
「えっ!」
誰もが声を上げた。
姿を現したのは――白い小袖に赤い緋袴。
清らかな巫女の衣装。袖は軽やかにひらめき、裾は羽と溶け合うように揺れる。
胸元には小さな鈴が結ばれ、動くたびに「チリ……ン」と涼やかに鳴った。
そして背には透き通るピクシーのような羽。粉のような光を散らし、夜の『渋谷』を星空に変えるほどに輝いていた。
「な、なにこれ……やば……! ほんとに見間違いじゃないよね!?」
ニアが目を丸くして肩をばたつかせる。
「えぇ……? あ、あの……天使さん……? でも……巫女さん……?」
エリユリは夢見心地のように首をかしげ、にへらーと笑った。
「信じられない……こんなの、奇跡なんて言葉じゃ……」
鮎は両手を胸に当て、震える声で見つめた。
光の中で、小さな足が一歩、憂太の掌に降り立つ。
少女はゆっくりと目を開けた。
澄んだ瞳は遠くをさまよい、記憶はまだ混濁している。
ただ、不思議そうに周囲を見渡していた。
砕けたビル、折れた看板、紅い花びらが舞う道玄坂。
その真ん中に、羽を持つ巫女姿の少女が立っていた。
憂太の喉が震える。
「……できた……」
「これって……?」
エリユリが呟く。
「そんな……唯は、もう……」
鮎は首を振り、信じられないと声をこぼす。
三人も憂太も、ただ呆然と立ち尽くしていた。
“生き返った”と判断する余裕すらない。
ただ、目の前の奇跡に心が追いつかなかった。
胸元の鈴が、再びやわらかく鳴る。
――チリ……ン。
夜の渋谷が、その余韻に包まれた。
そう――それは、巫女姿に羽を生やした、20cmほどの大きさの大嶋唯だったのだ。