第64之幕 本当の花嫁
第64之幕
「よくやった、道満」
璃花子へ向けて飛び出した憂太は、再び零星の“咒”を唱えた。
零星は零咒九星の核であり、すべての力の源である。
「零星……ムガン ソワカ、レイジュ ヘカ」
立て続けに七番目の七赤金星である翔星の“咒”へと続ける。
「翔星……テンショウ ソワカ、ジザイ!」
直後だった。憂太の髪の毛がすべて逆立ったかと思うと、その背中からカラスの黒い翼が、大きく羽根を広げた。
『天翔る飛翔の“咒”か……!』
道満が驚きの声を上げる。
そしてその読み通り、カラスの翼をはためかせ、憂太の躰が宙を舞った。
その後ろ姿に、道満は叫ぶ。
『彼奴は、七人ミサキを生み出した扇の要のような者! ただ滅ぼすだけでは七人ミサキは解き放てぬぞ!』
その言葉に憂太は道満を振り返る。
憂太の目は限界を超えて見開かれており、それはまるで肉食の獣のそれのようだった。
『成仏させねば……!』
道満の言葉と同時だった。
零咒九星の九番目ラスト、九紫火星の終星の“咒”を憂太が唱えたのは。
「終星……シュウエン ソワカ、ハヤカ!!」
その声が放たれた瞬間、世界が沈黙した。
真っ黒に染まったウエディングドレスが、一瞬にして紅に染まった。
彼岸花の花びらに覆われたのだ。
真紅の花弁が宙を舞い、敵の躰へとまとわりつく。血に似た色彩が肌を、衣を、心臓の鼓動すら包み込み、熱を奪うように絡みついていく。瞬く間にその姿は、彼岸花の檻へと沈んだ。
その呪は、ただの術ではない。
星が燃え尽きるが如く、命の尽きる定めを花に込めた、終焉を喚ぶ“咒”。咲いた花はそのまま大地を這い、燃えるような花畑となって辺り一面を覆っていく。
足元から空間が染まる。
赤く、静かに、狂おしく。
二つに割れた璃花子の肉体の上半身部分、その長く伸びた首がのたうつ。
璃花子の躰を中心に、渋谷の街が彼岸花の紅で染められる。
「キャアアア!」
エリユリが悲鳴を上げた。
「こ、これって……」
ニアが周囲を見渡した。
ここはただ、終わりゆく星の記憶が咲き乱れる、冥府の庭。
瞳に映るのは、終わりを彩る花――その咲き誇る地獄絵図。
『終星……、死と再生の“咒”……これが小童の零咒とやらか……』
もともと璃花子であった二つの紅の塊が、もはや彼岸花の花畑となってしまった渋谷の路面に落ちた。
海水はすでに引いていた。
それは璃花子の呪いが解けたことを意味する。
続いて憂太は唱える。
「迷える魂よ。天へと帰れ……、オン カカカ ビサンマエイ ソワカ」
『地蔵菩薩か……』
鮎が尋ねる。
「地蔵菩薩……?」
『そうじゃ』
道満は答えた。
『苦悩の者共を無限の大慈悲の心で包み込み、その魂を救う菩薩。人々の苦難を身代わりとなり受け救う成仏成就の“咒”……』
真夜中の渋谷の天から、光が差した。
そして地に堕ちた璃花子の躰を覆う彼岸花が空へと還っていく。
空を登っていく彼岸花の花びら。
璃花子の肉体はすでに彼岸花そのものに変化したのだろう。
舞い上がっていく彼岸花のあとには、何も残らなかった。
代わりにそこにいたのは、生前の璃花子の姿。
憂太はカラスの翼を使い、その場に降りた。
すでにその髪は元通りになっており、獣のようだった眼は、いつもの優しい憂太の眼に戻った。
憂太は璃花子に近づく。
璃花子の躰はどんどん透けていく。と、同じく急激に若返っていき、まだ璃花子が純粋だった頃の少女の姿となった。
その少女の璃花子に憂太は問いかけた。
「もう痛みはないかい?」
少女の璃花子は懐かしむように彼岸花で覆われた渋谷の街を見渡した。
そしてその問いかけに答えず、言う。
『私ね……ずっと、ここで待っていたの』
憂太は黙り込む。その言葉に耳を傾ける。
『誰かが……私を迎えに来てくれるって……信じてた。でも、そんな人は来なかったの』
「だから、七人の魂を集めて七人ミサキとして側に置いた……?」
少女はコクリと頷いた。
『そう。いつか、誰かがここに来てくれるって信じて……救ってくれるって信じて……』
璃花子の声が震える。彼女は涙を流さない。それでも、言葉の奥には長い孤独が滲んでいた。
『でもね……あなたたちが来てくれた。私を……終わらせてくれた』
光に照らされた少女の姿はどんどん透けて見えなくなっていく。
そしてその幻影すらも、無数の彼岸花の花びらとなって散っていく。
「璃花子さん……」
憂太は手を伸ばした。だが、彼女の姿は儚く崩れていく。触れることすら叶わない。
「僕は……君を救えたのか……?」
答えはない。
ただ、璃花子は最後に、ふわりと微笑んだ。
『もし……もう一度、生まれ変われるなら……』
少女の眼から涙がこぼれた。
『今度こそ、本当の花嫁になれるかな……?』
その言葉を最後に、璃花子の肉体は徐々に崩れ、彼岸花の花びらひとひらひとひらとなって渋谷の空へと消える。
憂太は慌てて手を伸ばす。そうせざるをエなかったのだ。
そして、彼岸花の一房だけ掴み取った。
それをそっと胸に抱く。
その憂太のそばに道満が寄る。
『終わったな』
憂太はその質問には答えなかった。
ただただ、胸の中で消えていく彼岸花を見やった。
彼女が求めたものは、愛だったのか、それとも──。
答えは風に流れ、ただ静かに、紅い花びらが舞い散る。