第60之幕 不可侵の祝福
第60之幕
エリユリが番えた一本の矢が、夜闇を切り裂いた。その瞬間――矢が分裂する。二本、五本、十本……いや、無数。銀色の嵐となったそれは、精霊の加護を宿し、すべてが実体を持つ一撃必殺の矢となって、璃花子を捕えた。
――エルヴン・テンペスト。
文字通り嵐のように降り注ぐ矢が、ウエディングドレスの怪異を貫く。
……かに見えた。
なんとその無数の矢は白いドレスに吸い込まれるように消えていった。璃花子は傷一つないまま、それでも花嫁の装いを血の霞で染め上げていく。
「え……これ、何……?」
弓を引いたまま、エリユリが瞳を細める。確かに手応えはあった――はずだった。
だが。
何の音もなく、怪異のヴェールがふわりと揺れる。
次の瞬間、それは不気味なうねりを見せながら、頭ごと異常に伸びた。まるでろくろ首。否――蛇のように!
「なっ!?」
ヴェールの奥の顔は見えない。それが余計に恐怖を煽る。
音もなく、異常な速度でエリユリへと迫る頭部!
「ちょっと、うちがいるの忘れてない?」
横から影が飛び込んだ。獣人の娘――ニア。鍛え抜かれた格闘術と野生の勘で、怪異の首を掴むと、強引に地面へ叩きつける!
ドガァッ!!
大地が砕け、衝撃が渋谷の路面を波紋のように広がる。しかし。
「……え?」
ニアが歯を食いしばる。
そこにあったはずの首は、ダメージ一つないようだった。そして血の霞を上げながら、急速に縮み始めると元に戻っていく。ヴェールの奥から、何とも言えぬ嗤い声が漏れた。
矢も、拳も、通じない。
二人は理解する。
こいつは――並の怪異ではない。
「“不可侵の祝福”……」
璃花子が呟く。
『おいたわしい……私のドレスは破壊不可能……。物理攻撃はすべてドレスに吸収され、ダメージは入らない……。魔法や霊的な攻撃も、ドレスのヴェールに包まれると「祝福」として浄化され、無効化される……それでも、私の祝福を破れると……?』
怪異の言葉に、蘆屋道満が低く唸る。
『なるほど……。純白の花嫁は純潔の象徴。それゆえ誰からも穢されることはない。穢されぬということは、攻撃そのものが意味をなさぬということか……いわば祝福の“咒”。小童ならどう破る?』
「あの血の霞に何か“咒”に関する秘密がありそうに思うけど……」
『甘いな、小童は所詮、小童じゃ》
「……自分のスキルを自覚してる怪異、か。道満、どう戦う?」と憂太が問う。
『まずは様子見、じゃな』
そんな道満の声が、今の憂太にはひどく心強く感じられる……。
◆ ◆ ◆
「あ~! もう! とっておきの技だったのにぃ~!」
エリユリが地団駄を踏む。
「こっちには、憂太からもらった加護があるんだからね! 絶対、その祝福ってやつをぶち壊してやるんだからぁ!」
その言葉を尻目に、ウエディングドレスの怪異が静かに動く。
ヴェール越しの眼差しが、再びエリユリを捉えた。
『キャッ……♡』
獲物を見つけた悦びに震えるように、再び首がうねりながら伸びる。
「なによ! そんなのろい動き! いい的なんだから――」
「エリユリっ! 危ない!」
「ほへ?」
その瞬間、璃花子の首が雷光のような速度で螺旋を描きながら襲いかかる!
急旋回!
ニアがエリユリの身体を抱え、横っ飛びに逃げる。だが。
『こっち……?』
ニアの進行方向には、いつの間にか白いヴェールが広がっていた。
「……嘘でしょ……?」
璃花子の首は、まるで意志を持つ蛇のように変則的な軌道を描き、ニアがエリユリを救ったと同時に、方向を転換。
ニアを追い抜き、そこからさらにもう一度曲がり、正面から襲いかかる。
目測すら許さない速さ。
ヴェールの奥の口元が、何かを呟こうとした、その時。
「憂太!」
鋭い声と共に、三鈷杵が突き出される。
璃花子のヴェールが、そこに押さえつけられた。
ニアを背に、憂太が盾となる。そして……。
「オン バザラダト バン……」
大日如来のマントラ。
憂太の手の中で、三鈷杵の中央の突起が変化する。
剣となる。大日如来の破魔の剣――。
「この剣の露と消えよ」
剣の背に伸ばした指が、破魔の光を帯びる。憂太の瞳が、怪異を射抜く。