第57之幕 横路璃花子【結末】
第57之幕
それからはまるでジェットコースターのように時間が過ぎていった。
加奈子と千尋との出会い。そして千尋の死。
千尋を庭の桜の木の下に埋葬した後、加奈子は精神的に不安定になり座敷牢へと閉じ込められる。
そこで何を見たのだろう。おそらくは罪悪感による千尋の亡霊に悩まされ、食事を全く取らなくなり餓死。
そしてここに来てようやく、松郎の母も正気に戻り始めた。
璃花子の留守が多くなったからだ。
薄暗い部屋に、時計の針の音だけが響いていた。松郎の母は、震える手で湯飲みを握りしめ、冷めた茶を一口含んだ。胃の奥が重く沈む。
松郎は帰ってこない。いや、帰ってきてほしくない。だが、もし警察に通報すれば——松郎は逮捕される。母親である自分が、我が子を差し出すことになるのだ。彼の手が血に染まっているのを知っていても。
それに、璃花子——。
思い出すだけで背筋が凍る。あの娘は恐ろしい。松郎を狂わせ、縛りつけ、壊していく。もし通報すれば、あの娘が何をするかわからない。ただの若い女のはずなのに、彼女の笑顔にはぞっとするほどの冷たさがあった。松郎が従うのも無理はない。
だが、それでも、警察に……。
決意が揺らぎ、思わず目を閉じたそのとき、玄関の軋む音がした。
「──母さん」
低く沈んだ声。いつの間にか、松郎がそこに立っていた。
「こんな夜更けに、どこに電話しようとしてたんだ?」
彼の目が暗く濁っている。璃花子に会う前の松郎の面影は、もうどこにもなかった。
「違うのよ、松郎。私は……」
嘘が喉の奥で詰まる。松郎は一歩、また一歩と近づいてくる。その手には、包丁が握られていた。母親の胸が締めつけられる。
「母さんは……俺を売るのか?」
「違う、そんなこと……」
「璃花子が言ってた。母さんは裏切るかもしれないって」
──見られていた。璃花子に。
「なあ、母さん。俺、どうすればいい?」
松郎の声が震える。しかし、次の瞬間、その迷いが消えたのを母は見逃さなかった。まるで操られるように、松郎の腕が振り上げられる。
「松郎……!」
言葉が終わる前に、刃が沈み込んだ。温かい血が広がる感覚とともに、母は崩れ落ちる。視界の端で、松郎の顔が歪んでいた。後悔か、それとも──。
これまでに5人が死んだ。
まずは璃花子を堕胎させ捨てた馬場弘樹。
次に松郎の父親、千尋、加奈子。
そして松郎の母親までも。
いや。堕胎された赤ん坊を入れると6名か。
なにかに取り憑かれたように……いや、実際取り憑かれていたのだろう。
いつの間にか六郎は人を殺すことに躊躇がなくなってしまっていた。
璃花子への忠誠心よりも、殺人への享楽に、心が惹かれてしまっていた。
大体、そもそも……。
松郎が璃花子へと近づいたのは、璃花子には隠し財産があるからだった。
そのほとんどは株などの金融資産だったが、現金に変えると一億円はくだらない額だった。
早くして両親を亡くした璃花子の遺産。
そもそも大地主だった名残であり、璃花子は配当金のみで暮らしている状況だった。
璃花子の愛もほしい。だが、その金も手に入れたい。
頭の先から爪の先まで真っ赤な血に染まった松郎は、すでに普通の人生は送れなかった。
そして璃花子にプロポーズすることになる。
そろそろ、幸せになろう、と。
これにはさすがに璃花子も泣き崩れた。そんな人並な幸せは歩めないと決めつけていたからだ。喜びが最上であるからこそ、その綻びはさらに大きなものになる。
キャンドルの灯りが揺れる。静かな夜だった。
璃花子は指輪を見つめていた。ダイヤモンドが光を反射し、キラキラと輝く。松郎がプロポーズしてくれた時の光景が、頭の中で何度も再生される。
「俺と結婚してくれ、璃花子」
彼の言葉に、胸が高鳴った。松郎は自分を愛している。そう信じて疑わなかった。
けれど——。
机の上には、一枚の書類があった。松郎が隠し持っていた、璃花子の金融資産に関するデータ。株式、不動産、銀行口座の残高……そこに記された数字は、彼がどれほど自分の財産に興味を持っていたかを示していた。
愛していたのは——私じゃなくて、お金だったの?
喉の奥が焼けるようだった。込み上げる怒り、悲しみ、そして絶望。愛されていると信じていた。それがすべて幻だったのだと気づいた瞬間、璃花子の中で何かが壊れた。
◆ ◆ ◆
璃花子は静かに微笑んだ。まるで恋人の寝顔を愛おしむように。
松郎は椅子に縛り付けられていた。両手首には固く結ばれたロープ、足も動かない。口には布が詰め込まれ、うめき声すらまともに出せない。彼の目は恐怖に見開かれ、涙が頬を伝っていた。
部屋の中はキャンドルの灯りだけが揺れている。闇に溶け込むような赤い光が、璃花子の手元にあるナイフの刃を妖しく輝かせていた。
「ねえ、松郎」
彼の頬を指でなぞる。その肌は汗と涙で濡れている。
「あなたは私を愛してるんでしょう?」
松郎が必死に首を振る。違う、と言いたいのか、それとも助けを求めているのか。璃花子にはもうどうでもよかった。
「なのに、どうして裏切ったの?」
彼は答えられない。ただ、必死にもがく。だが、ロープはほどけない。
「私のお金が欲しかったの? 私の愛じゃなくて?」
ナイフの刃が、そっと彼の指を撫でる。ひやりとした感触に、松郎の体がびくりと震える。
「じゃあ……指なんて、いらないよね?」
ズブリ。
刃が肉に食い込む。
「ン゛ッ!!」
布越しに漏れる悲鳴。璃花子はゆっくりと、楽しむように指を削ぎ落としていく。骨の感触がナイフ越しに伝わる。力を入れて、ギリリとひねると——ポロリ。
赤い液体が床に滴る。
「ほら、一本取れちゃった」
璃花子は嬉しそうに微笑み、指をつまみ上げる。まるでおもちゃのように弄びながら、松郎の顔の前でひらひらと振ってみせた。彼の目が絶望に染まる。
「そんな顔しないで。ねえ、まだあるよ?」
今度は別の指に刃を押し当てる。松郎が必死に首を振り、涙を流す。命乞いしているのだろう。でも璃花子には、それがたまらなく愛おしかった。
「あなたが私を裏切らなければ、こんなことにはならなかったのにね」
ザクッ。
また一本。松郎の体がびくんと跳ねる。血が滴り落ち、床に広がっていく。その様子をうっとりと眺めながら、璃花子は小さく微笑んだ。
「ねえ、松郎……今度こそ、愛してるって言って?」
松郎は涙を流し、震えながら口を開いた。布を噛みしめながら、必死に言葉を絞り出そうとする。
「……あ……あ……」
「なあに? 聞こえないよ?」
その瞬間——。
ザクッ!!!
ナイフが深々と喉に突き立てられた。
「——————!!!」
松郎の体が激しく痙攣する。喉から泡立った血が吹き出し、ごぼごぼと口の端から溢れ出る。彼の目が見開かれ、璃花子を映す。
璃花子には、その喉から血が溢れ出す音が「愛している」と聞こえた。
六郎は眼を白黒させ、今にも絶命を迎えようとしている。
璃花子は満足した。
そう。やっぱり、あなた、私のこと、本音ではちゃんと愛していたのね。
「これで、あなたは永遠に私のもの」
血で濡れた唇で、そっとキスを落とす。松郎の瞳から光が消えていく。
それから数日後だった。
璃花子の首吊り死体が見つかったのは。
その遺体はウエディングドレスを身にまとっており、途中で首の骨や筋がちぎれたのか、首がろくろ首のように長く伸び切っていた──。