第55之幕 横路璃花子③
第55之幕
璃花子は巧みに「罪悪感」を利用した。
やがて松郎の実家に拠点を移した璃花子と松郎は、1年もしないうちにそこでの生活に馴染んでいった。
そこで松郎の両親が何か反論しようとすると、彼女は傷ついたような顔をして囁いた。
「私、邪魔ですか? でも、松郎さんが寂しがるので……」
「私がいるせいで、ご迷惑ですよね。でも、私はただ皆さんのお力になりたくて……」
その哀れな表情、悲しげな声に、松郎の両親は逆に「自分たちが酷いことをしているのではないか」と思い始めた。璃花子は何も強制していない。ただ献身的に尽くしてくれているだけ——そう思い込まされていった。
人間は、一度「この人を傷つけてはいけない」と思い込むと、逆らえなくなるものだ。璃花子は意識的か無意識的か……ともかく、自身の守り方を本能的に知っていた。
憂太は璃花子の人生を垣間見ながら、自分ですら璃花子に同情していることに気づかなかった。
璃花子は直接、指示するのではなく、少しずつ環境を作り替えていくことで、人々を無意識的に自分の支配下に置く。
・松郎の交友関係を絶ち、彼を彼女だけの世界にする。
・両親の考えを徐々に変え、「璃花子がいないと家が成り立たない」と思わせる。
・家族の間に微妙な亀裂を生じさせ、唯一の調停者としての立場を確立する。
気づけば、璃花子なしではこの家が成り立たなくなっていた。
彼女の言葉は絶対であり、彼女に逆らうことができなくなった。
この光景を憂太とともに見ていた蘆屋道満は言う。
『なるほど。この女がこれほどまでに支配力を持ったのは、“優しさ”の偽の業じゃな』
「どういうことだ、道満」
『あの女は決して大声を出さない、直接的に命令しない。ただ、“あなたのため”だとか“私がいるから”という浪漫な物語で、相手を絡め取っていく』
そして、そして、もし彼女の意に沿わないことをすれば——。
彼女はほんの少しだけ、冷たくなる。
無言の圧力。
いつもあたたかかった微笑みが、ほんの少しだけ冷える。
その変化が、たまらなく怖い。
それを繰り返すうちに、松郎も、父も母も、璃花子の機嫌を損ねないように振る舞うようになった。
「璃花子が笑っていれば、それでいい」
「璃花子を怒らせたくない」
気がつけば、家全体が彼女の意志で動く「小さな王国」になっていた。
『つまりは、彼女はこの家族に“咒”をかけたのじゃ』
道満は続ける。
璃花子に支配された松郎と、その家族は、もはや彼女なしでは生きられなくなる。
彼女は絶対的な女王ではない。
むしろ、「献身的で、傷つきやすく、誰よりも弱い存在」として君臨する。
しかし、だからこそ彼らは逆らえない。
彼女を守らなければならない。
彼女がいなければ、自分たちはダメになってしまう。
──そして、彼らはもう逃げられない。
璃花子の声が、家の中のすべてに響いている。
家族全員が、彼女の支配の中で「幸せ」になっていく。
それが、璃花子の「負のカリスマ性」という“咒”であった。
だが人を呪えば穴二つという。
この松郎の家族たちの発狂も静かすぎるがゆえに、璃花子も気付けなかった。
璃花子もすでに、逃れられぬ螺旋のような“咒”に取り込まれてしまっていたことを。