第54之幕 横路璃花子②
第54之幕
璃花子は暗い部屋で天井を見つめていた。
静寂の中で時計の針の音だけが響く。
恋人が去ってから、彼女の世界は色を失った。腹の中で膨らみかけていた命は、赤黒い塊となって流れ去った。何もかもが虚ろで、何もかもが無意味だった。そんな璃花子の前に現れたのが、松郎だった。
「璃花子さん……また、ここに来てもいいですか?」
松郎はソファの端に座り、緊張した面持ちで彼女を見た。璃花子は微笑む。
「もちろんよ。あなたがいると、寂しさが紛れるわ」
松郎は嬉しそうに笑った。その目には安堵と、わずかな陶酔が滲んでいる。璃花子はそれを見逃さなかった。
彼はまだ若い。世間知らずで、どこか幼さが残る顔立ち。その純粋さが愛おしかった。
最初はただの話し相手だった。彼は璃花子の過去を知ろうとせず、ただそばにいるだけだった。それが心地よかった。
だが、璃花子の心の隙間は、それでは埋まらなかった。
「ねえ、松郎。あなたは私のこと、好き?」
ある夜、璃花子は囁くように尋ねた。薄暗い部屋、カーテンの隙間から漏れる街灯の光が、彼の表情を淡く照らした。
「……好きです」
松郎の声は震えていた。璃花子はその唇を指でなぞる。
「じゃあ、証明して?」
彼は一瞬、戸惑ったように見えたが、すぐに璃花子に身を寄せた。その動作が、ひどく幼く、哀れに思えた。
──松郎はもともと、心のどこかに隙間を抱えていた。
愛に飢え、誰かに必要とされたかった。
そこに現れたのが、璃花子だった。
璃花子は恋人に裏切られ、子供を失っていた。
そこにぽっかりと空いた穴は彼女の人格を変容させ、その傷を癒やすためだけに“愛”を求めた。
彼女の愛は、もはや純粋なものではなく、歪んだ執着へと変化していたのだ。
最初は優しく、母性的に松郎を包み込む。
しかし、彼が彼女に慣れてくると、まずは松郎の交友関係を切っていった。
最初は女友達だった。
「この子は本当にただの友達なんです!」
そう懇願した女友達ですら、「私がいるんだからもういいでしょ!?」と泣き叫び、電話の記録から消していった。
それからも言葉巧みに彼の交友関係を削り、彼の世界を璃花子だけに染めていった。
「あなたは私のもの」
「私だけを見て」
「私を置いていかないで」
最初は甘美な囁きだったものが、次第に逃げられない檻になっていく。
――私がいるんだから、いいでしょ!?
…………。
人間は長い時間、同じ環境にいると、それが当たり前になる。ましてや松郎は璃花子を溺愛していた。
松郎は璃花子に依存し、彼女の価値観が彼のすべてになるのにそれほど時間はかからなかった。
松郎は次第に璃花子なしではいられなくなった。
最初は週に一度だった訪問が、やがて毎日になった。彼は仕事を休むようになり、友人と連絡を取ることも減った。璃花子の望むままに行動し、彼女の言葉に従った。
「ねえ、松郎……あなたの全部を、私にちょうだい。」
璃花子は彼の耳元で囁く。松郎はこくりとうなずく。彼女に身を委ねることが、何よりの幸福になっていた。
そして、気がつけば、彼は璃花子の世界から逃げ出せなくなっていた。
ある夜、松郎は夢を見た。
暗闇の中、璃花子が立っていた。白いワンピースが黒い液体に染まり、にっこりと微笑んでいる。
「大丈夫よ。あなたは、もう私の一部だから。」
松郎は叫ぼうとした。しかし、声が出ない。璃花子の手が彼の首を優しく撫でる。
「ずっと一緒よ。」
その瞬間、松郎の身体は深い闇に呑まれていった──。
朝、松郎は目を覚ました。
隣には璃花子が静かに眠っている。彼女の寝顔は穏やかで、美しい。
しかし、松郎は気づいてしまった。
自分の心の中に、まだ璃花子の声が響いていることに……。
璃花子は最初、優しく、包み込むような存在として振る舞った。松郎に対してもそうだったように、松郎の父と母にも「理解者」「慰め役」として近づいた。
「お義母さん、大変でしょう? 私が少しお手伝いしますね」
「お義父さん、最近お疲れではありませんか?」
彼女の言葉は、まるで自分のことを本当に気にかけてくれているかのように響く。それが彼らの心の警戒を解かせ、璃花子を「信頼できる存在」だと錯覚させた。
しかし、それは徐々に支配へと変わっていく。
彼女がいないと寂しくなるように仕向け、少しずつ、少しずつ、依存を植え付けていく──。