第53之幕 横路璃花子①
第53之幕
ガチャリ。
鍵が回る音とともに、玄関のドアが開いた。
冷え切った外気が、暖房の効いた六畳一間に入り込む。
璃花子は、小さく息を吐いた。
暖かい。
けれど、この部屋が暖かな場所ではないことを、彼女はもう知っていた。
恋人の馬場弘樹が、ポケットからスマホを取り出しながら部屋に足を踏み入れる。靴下のままペタリと畳の上に座り込み、無造作にダウンジャケットを脱いだ。冷えた空気を払いのけるように肩を回しながら、何でもないふうに言う。
「外、めっちゃ寒かったな」
璃花子は、無言のままコートのボタンを外した。
「ほら、璃花子も早く座れよ」
ストーブのよく効いたこの空間に、璃花子の心は馴染めなかった。
彼女は、部屋の中央に置かれたコタツに手をかけた。弘樹が適当に放り出したコンビニ袋が、畳の上にくしゃりと転がっている。中身は温かい缶コーヒーと、いらないと言ったはずのチョコレート。
「……弘樹くん」
意を決して、璃花子は口を開いた。
声は、少しだけ震えていた。
「うん?」
弘樹は、スマホの画面を見たまま答える。
璃花子は小さく息を吸った。
「……この子のこと、どう思ってる?」
彼の指が止まった。
わずかに沈黙。
エアコンの送風音がやけに耳につく。
「……璃花子は、どう思ってるの?」
視線を逸らしたままの問い。
逃げようとしているのが、丸わかりだった。
璃花子は、こたつ布団を強く握った。
「私は……産みたい」
部屋が、少しだけ静かになった気がした。
弘樹はスマホを畳に置き、ようやく璃花子と向き合う。
「……でもさ、現実的に考えて?」
「現実的に考えて、何?」
「俺、今の仕事も安定してないし……」
「知ってるよ」
「俺は、まだ若いし……」
「私は若くない」
璃花子は、一つ一つ言葉を潰していった。
弘樹の表情が曇る。
「……産むって、簡単なことじゃない年齢になってるんだよ?」
「そんなの、わかってる」
「じゃあ……おろせってどういうこと?」
璃花子の指が震えた。
ストーブの暖気が、妙に体にまとわりつく。
「璃花子のためだよ」
また、それだ。
また、「私のため」 という名の言い訳。
「意味わからない」
弘樹は口を開きかけたが、何も言えなかった。
彼の視線が泳ぐ。
璃花子は、それを見逃さなかった。
「私のためじゃなくて、弘樹くんが逃げたいだけなんじゃない?」
「そんなんじゃ……!」
弘樹の言葉が詰まる。
この部屋は暖かいはずなのに、まるで氷の洞窟にいるみたいだった。
璃花子は、静かに笑った。
「なら、言ってよ」
「え……?」
「"俺は父親になりたくない" って、ちゃんと言えばいいのに」
弘樹の顔が引きつる。
カーテンがわずかに揺れた。
璃花子は立ち上がった。
もう、わかっていた。
この部屋にはもう、彼の優しさも、彼女の安心もない。
「だってもう、赤ちゃんできないかもしれないんだよ!」
ただ、ぬるく暖められた嘘だけが、そこにあった。
──この光景を憂太は驚きながら見ていた。
この頃の横路璃花子には、加奈子や千尋に見せていたような威圧感や冷静さがない。
ただただ一人の気の毒な女性として憂太の眼に映った。
――ぴちゃり。
どこかで、水音がした。
いつの間にか部屋は真っ暗になっていた。
時間が経過したのだと憂太は思った。
ここにあるのは記憶の片隅。
ここにあるのはその次の記憶……。
暗闇。
その暗闇の中で、璃花子は、息を呑んで目を覚ました。
カーテンの隙間から入り込む街灯の薄明かりが、天井にぼんやりと影を落としている。
部屋の中は静かだった。
けれど、確かに水の音がする。
ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃり。
畳の上を、何かが這っている。
璃花子は、心臓を掴まれたように動けなかった。
喉が乾いて、息が詰まりそうになる。
これは夢?それとも現実?
ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃり。
音は、ベッドの下 から聞こえる。
璃花子の指が、布団をぎゅっと握る。
手のひらにじんわり汗が滲む。
見てはいけない。
そう思うのに、抗えない何かがあった。
――ごそり。
何かが動いた。
そして、聞こえた。
『……ママ』
璃花子の心臓が、壊れそうなほど跳ね上がる。
『ママ……』
それは、低く、くぐもり、湿った音を帯びていた。
璃花子の喉が、ごくりと鳴る。
「……誰……?」
訊かなくても分かっていた。
ベッドの下から、小さな手が伸びた。
赤黒く濡れた、未熟な指。
爪のない、粘ついた肌。
璃花子は悲鳴をあげようとした。
けれど、声は出なかった。
喉が、まるで凍りついたように動かない。
心臓だけが喧しく鳴り響く。
隣に寝ていた男が「う~ん……」とうめき声をあげながら寝返りを打った。
憂太は驚いた。
それが弘樹ではなかった、から、だけではない。
思った以上に時間が経過していたからだけではない。
そこにいたのは。
横路璃花子の下僕のように付き従い、そして、加奈子や千尋の悲劇を作り出す最大の協力者ともいえる、あの松郎《まつろう》だったからだ。
──憂太は気づき始めた。
(今、見せられているのは単に、横路璃花子の記憶じゃない)
と。
(横路璃花子はもうこの世にはいない……いや、ある意味ではもっと悪い意味で存在している)
そうだ。憂太はほぼ確信していた。
あの、ウエディングドレス姿のろくろ首の怪異が、横路璃花子の成れ果てだと……!
憂太は見届ける覚悟を決めた。
彼女が、どのようにして、怪異となったのか……?




