第52之幕 恐怖するということ 【渋谷センター街ゲート下】
第52之幕
首藤二千華、烏丸恭介、そして砂川修の首は、ちょうど鎖骨のあたりで切れていた。
何か鋭利な刃物で切断したというわけではなく、引っこ抜いた、といった表現の方が正しい。
実際、烏丸恭介は引きちぎられた脊椎がまだぶら下がっていたし、首藤二千華のほうは鎖骨の一部までその肉体が残されていた。
不幸中の幸いは、おそらく即死だったということだろう。
二千華の目は見開かれたままであり、何が起こったかわからないといった表情をしていた。
恐怖はあったかもしれない。
だが恐怖も、死の痛みも、感じることはなかったであろう早さで、その命を絶たれたと予測できた。
──いや、それは憂太の希望的観測だったのかもしれないが……。
『なるほど。あれは見たことのない怪異じゃな』
蘆屋道満は言う。
『まあ、あれなら痛みも恐怖もそれほど感じないやり方で殺されただろう。それにしてもやはり、今回の事件。……案外、厄介なことになりそうな気がするぞ』
吉岡鮎は完全に腰を抜かしている。上空を見ながら、どうやら失禁までしてしまったようだ。だが、この鮎の姿が憂太に勇気を奮い起こさせた。
──恐怖とは奇妙なものだ。それは感染するが、同時に抑制もする。
人は自らの恐怖に飲み込まれそうになるとき、ふと、隣にいる者の怯えた瞳を見てしまう。そして、その瞬間、自らの恐怖はまるで霧が晴れるように薄まるのだ。
まるで冷たい水を張った器に熱い液体を注ぐように、自分の感情が均衡を取ろうとする。相手が恐怖に震えているのならば、こちらは冷静でなければならないと、無意識のうちに心が役割を分担してしまうのかもしれない。それとも、恐怖があまりに強すぎると、いっそ他人の恐怖を観察する側へと回ってしまうのか。
この感覚には、ある種の異様な安堵がある。まるで、自分が恐れることを誰かに委ねてしまったかのような、奇妙な解放感だ。もちろん、状況が変わればすぐに自分が再び恐怖に飲み込まれる。それは理解している。……と、してもだ。
それでも、人は、他者の恐怖に直面することで、一瞬だけ「恐れること」から解放される。それは人間の本能なのか、それとも、冷酷な合理性のなせる業なのか。
この様子を憂太に見て道満はこう思う。
(なるほど……恐怖とは、実に奇妙なものだな)
憂太は「十一面観音」の印を結んでいた。
観音菩薩は慈悲を司り、不安や恐怖を取り除くとされている。
特に「十一面観音」の真言は、あらゆる恐怖を払う力があるとされる。
「オン・ロケイジンバラ・キリク」
唱えた直後に印をはずし、懐から癒やしの呪符を出し、鮎の背中に貼った。
そして再び印を組む。
「オン・ロケイジンバラ・キリク」
繰り返し唱える。
こうすることで、吉岡鮎の正気を狂気と恐怖の沼からずるりと引きずり出し、少しでも冷静を取り戻させることができる。
事実、徐々に鮎の目に生気が戻ってきた。
そして憂太の方を見る。
「わ、私……」
「少しは落ち着いた? 吉岡さん」
「あ……あ……。まだあの光景が見えてるのに私……」
「それほどの恐怖は感じてない……」
「そうなの! 何をしたの、私に……!」
「ちょっと、“咒”を……」
「そんなことまで出来るんだ……」
と、鮎は立ち上がる。
「すごいね。式守くんは。こうやって人の気持ちですら動かすことができる。今、私の中にあるのは怒り……。私の友達をあんなにも無惨に……。不思議と、怖くない。すごく変な感じ……って、あれ。私、おもらししてる……」
「十一面観音」の“咒”は、彼女の羞恥心をも消してしまったようだ。
「ねえ。式守くん。追おう。あのウエディングドレス。弔い合戦よ」
ここまで効くとは思わなかったと憂太自身、驚いた。
母の受け売りの“零咒”。
それがここまで強力なんて……。
ウエディングドレス姿のろくろ首は、神宮通り上空を右折して、文化村通りへと神泉方面へと入った。その軌跡上で、路面には血が滴り落ちている。
「わかった。追うけど……」
と憂太は、ウエディングドレスの怪を見上げた。
同時だった。
首藤二千華、烏丸恭介、そして砂川修の生首の目が光りながら憂太を見ていて……。
「あ…………」
途端に憂太の動きが止まった。
『愚か者めが!』
と、道満が恫喝した。
『あやつ、また怪異に取り込まれおって……!』
その声に吉岡鮎は驚く。
この場にいるのは憂太と自分のみ。
そこに聞いたことがない男性の声。
どこから……?
見ると、憂太の近くに、キーホルダーサイズのウサギのぬいぐるみがふわふわと浮いている。
(喋ったのは……あの、小さいぬいぐるみ……?)
その疑問をしっかり味わう時間は与えられなかった。
神宮通りの方。
そこから巨大な化け物がその姿を表したのだ。
『あの、海座頭か!』
「ええええええええええええええええええええええええええええええ!」
鮎は叫ぶ。
「ぬいぐるみが、喋った……!」
『ええええい、うるさい。面倒じゃ!』
そのぬいぐるみが、海座頭の成れの果ての怪異の前に立ちふさがる。
海座頭の姿は完全に変わり果てていた。
まずこのスクランブル交差点のビルと同じぐらいの大きさになっていた。
だがその巨体はまるで赤子であり、あちこちがちぎれまくり、それを蜘蛛の糸のようなネバネバした物質がつなぎ、その上、その白いネバネバはそれぞれが人間の腕の形をしていた。
腕の大きさはそれぞれ違う。
ゆえに、その巨体から何本もの真っ白な腕がこちらに伸ばされているように見えた。
そいつが、ビルに手をかけ、こちらを上空から覗いてくる。
『まさか……あの式神は……』
道満が驚いたのも無理はない。
おの海座頭の成れの果てとなった赤ん坊の巨人が口でくわえているのは太郎吉だった。
術師が殺され、動けなくなってしまったところを食われてしまったのだろう。
『太郎吉……あの太郎吉をして倒せなかったなど、こいつ単なる妖怪ではなさそうじゃわい』
「やだやだやだやだ。生きてるの? なんなの? ぬいぐるみに生命が宿ってるの? つか、あんた誰?」
『あ、あんた……?』
道満の頭に血が上る。
『貴様のような小娘にあんた呼ばわりするほど落ちぶれておらんわ』
「だ、だって」
『聞け。儂の名は、あの高名かつ伝説の陰陽師とも言われる蘆屋道満』
「知らない」
『知らない?』
「うん。知らない」
『し、ししし、知らんとは何事か!』
蘆屋道満が怯んだ、その隙を元海座頭であったその巨大な赤子は見逃さなかった。
破れた躰中をつないでいるネバネバが作り出した白い腕でもって、道満を捕えに来たのだ。
その腕の数……百はあるか……。
『チッコイ……チッコイ……ザコ式神……オ前モ、オレ、喰ウ……』
『ザコ……だと……?』
海座頭の成れ果ての百本千本の腕は、道満の……ウサギの眼の前に迫っていた。
『この儂をザコとは、貴様、身の程を知れ!!』
──その時、吉岡鮎にも見えた。
その小さなウサギのぬいぐるみから。
まるで嵐のような巨大な腕が現れ。
その一撃で、その成れ果てが木っ端微塵になるのを……!
◆ ◆ ◆
式守憂太は、1DKの和室にいた。
窓の外には雪がしんしんと降っており、つけっぱなしの石油ストーブがじじじ、と音を立てていた。
その時、おそらくこの部屋の主であろう者が帰ってきた。
扉を開けて、中に入ってきたのは……。
そうだ。加奈子と千尋の過去の幻影で加奈子と千尋を洗脳して不幸を生んだあの女に違いない。
それは。
横路璃花子だった。