第51之幕 ウエディングドレスの怪 【渋谷センター街ゲート下】
第51之幕
『だからあれは、海座頭なんかじゃないと儂は言ったんじゃ』
渋谷の街中を式守憂太は走る。
消え失せた仲間たちの姿を追って。
『小童、貴様もそうじゃが、今の時代の人間は皆、目で見えたものを信じすぎる。まるで湖の表面だけを見て、その深さを知った気になるようなものじゃ。視覚は確かに強力な感覚だが、視覚が捉えるのは光に照らされた部分のみじゃ。影に隠れたもの、言葉にならない思考、心の奥に沈む感情、その姿形――それらこそが、世界を本当に形作っておる』
「うるさい……」
走る憂太の蹴る脚が海水を散らした。
うさぎのぬいぐるみ=蘆屋道満は憂太の顔の右側、20センチほど離れた場所を飛んでいる。憂太と並走している形だ。
先ほど全員が渋谷を襲う海水に呑み込まれたあと、眼の前にいた海座頭は一瞬で、消えた。そこに残されていた思念は怪異よりどちらかといえば人間に近いものだった。つまり先日の八尺さまの怪=加奈子とほど近い人物であることが憂太にも感じられた。
憂太にわかるのは、それと、その者が男である、ということ。
自身が怪異に呑み込まれた際の記憶を辿ってみる。
加奈子とかかわりがもっとも近かったのは、娘である千尋。
だが千尋は、幼女の怪と化して渋谷に潜んでいる。
加奈子自体も伝説に聞く八尺さまのような姿の怪異となり、これは除霊できた。
そうなると、加奈子をそそのかした女・横路璃花子と、その若き愛人であった松郎が思い浮かぶ。
松郎の父と母もいたが、その魂の色からして松郎が最有力の候補ではないかと思われた。
──ということは、松郎も、すでにこの世にはいないということになるのだが……。
憂太は海座頭が消失すると同時に、渋谷一帯に数体の式神を飛ばした。
船幽霊たちにさらわれた仲間を探すためだ。
ニア、エリユリ、吉岡鮎、首藤二千華、烏丸恭介、そして砂川修の6人。
そのうち、神宮通り近辺で何やら強力な“氣”を感じた。
ちょうど渋谷モディ辺りだ。
センター街をハチ公広場へ向けて戻り、公園通りへ。
そのちょうどセンター街のゲートの下で、こちらへ向かって走る人影を見た。
「あれは……吉岡さん……?」
あちらがわも憂太に気づいたようだ。
「式守くん……? 式守くん、式守くん!!」
吉岡鮎だ。泣きながら走ってきたのか、きれいな顔がぐしゃぐしゃになってしまっている。
鮎はそのまま「式守くん! 式守くん!」と続けながら憂太に抱きついた。
小さな肩がひっくひっくと上下する。
「会えて良かったよぉ……。まだセンター街のほうにいてくれて良かった……」
吉岡鮎をなだめ泣き止ませるのに数分はかかった。
手痛いタイムロスだが、仕方がない。
「私、私……、気づいたら渋谷ヒカリエの方にいたの。一人。すごくセンター街から離れてると思ってダッシュで地下に降りて、地下道を走って……。ハチ公広場は前にあんなことがあったから怖かったから、そのままA6出口まで。上ったら、式守くんが、式守くんが……」
憂太は何も言わずまず彼女にすべてを話させた。最初は喉がこわばり、息が浅かった。
だが話すうちに人は落ち着いてくるものだ。
胸の奥で固まった感情の塊が、言葉にすることで引きずり出される。唇がこすれ合い、舌はもつれ、喉の奥が詰まる。それでも、一言、また一言と話し続けるうちに、まるで氷がじわじわと溶けていくように、心の奥の硬直がほぐれていく。
言葉にすることで、かえって悲しみが際立ち、胸を締めつけるのは仕方がないことだ。不思議なことに、その痛みは話すたびに少しずつ薄れていく。言葉が流れるたび、押し殺していた感情が外へと逃げていくのだ。
怖いと思っていたことも、話せば話すほど輪郭がぼやけて、小さくなっていく。
「でもセンター街に戻っても式守くんがいなかったらどうしようってずっと怖かった。でも動かないのも怖かったから走るしかなかったし、一人でいるのも怖かったから、とにかく目の前だけを見て走った。呼吸が苦しくなって視界がチカチカして、もし何かが現れて襲ってきたらどうしようって。でも良かった、式守くん、待っててくれて、本当に良かった……」
気づけば、鮎の肩の力が抜けていた。呼吸が深くなる。最初は震えていた声も、次第に落ち着きを取り戻す。
憂太はホッとした。
と、同時に吉岡鮎の中では恥ずかしさが取り戻ったようだった。
なんせ学年のマドンナ的存在が、あられもなく泣きわめき男にすがったのだ。
思春期である。こんな極限状態でも妙なプライドが顔を出すのは仕方がない。
「助かった……のかな」
鮎は言った。
「私は、助かったのかな……」
「助ける、つもり」と憂太は答えた。
「まだこんな状況で、皆を探せてないけど、全員、僕は助けたい」
「一体、何が起こってるの」
「わからない」
「この渋谷って、呪われてるの?」
「わからない、そうかもしれない」
その言葉は半ば本気だった。
「だから僕は皆を助けに行かなくちゃいけない。二度と大嶋さんみたいな被害者を出しちゃいけないんだ」
「う、うん、そうだね」
怪異に躰の中から食われ、まるで抜け殻のようになってしまった大嶋唯の死に様を一瞬、思い出したようだ。
さらにいえば、唯の肉体はその後、怪異となり、蜘蛛のような長い手足が生えて闇の中へと消えて行った……。
「だから時間がない。吉岡さんも……戦える……?」
その言葉に鮎は躰をびくりと震わせた。だがゆっくりと頷く。
「ありがとう。自分の身を守ってくれるだけで助かるから……」
そう言葉を発した時である。
突如、これまでこのTOKYOダンジョンで感じたこともなかったような大きな“氣”が近づいてきた。
「……何だ。これは」
「どうしたの!?」
鮎も憂太の異変に気づく。
躰をこわばらせ、顔色は真っ青だ。
それほどまでに異常な大きさの“氣”だった。
あの海座頭どころのものではなく……。
その時。
『上じゃ!』
蘆屋道満が叫んだ。
声に従い上空を見る。
「きゃああああああああああああああああああああああああああ!」
そこで鮎が見たものを、鮎は今後、一生忘れることはないであろう。
空中を経ったままの姿で動くウエディングドレス姿の女性。
だが異常なのはその首の長さだ。
首が2メートルほどある。
そして何より。
そのウエディングドレス姿の怪異の右手には3つのスイカのようなものがぶら下がっていた。
人間の頭だ。
その髪の毛を掴んだまま、上空をすーっと移動している。
ウエディングドレスの怪異が掴んだ人間の頭は。
それぞれ、首藤二千華、烏丸恭介、そして砂川修のものだった。