第5之幕 ようこそ、アドリアナ公国へ
第5之幕
憂太は躰中に力がみなぎるのを感じた。
騒がず叫ばず、だが自分の中で暴力が跳ね回ったことだけは分かった。
「す、す、すごいじゃないですかぁ、勇者さま!」
「うち、そんな魔法詠唱聞いたことないんだけど」
憂太の背後にニアとエリユリが興奮しながら駆け寄ってくる。
「いや……今のは……」
憂太にもよく分からない。
「私も聞こえたよ、確か、アビラウンケンとか、なんとか」
「てか。日中『TOKYO』にモンスターが出るって、聞いてないんだけど」
「見たことないモンスターでしたね!」
「いやぁ、さすがのうちもビックリしたよ。あんな怖いの、見たことない」
「ねえねえ、勇者さま。今の詠唱、なんなんですかぁ!」
「うちも! ねえ、うちも知りたい! あれが勇者さまの力ってわけ?」
「き、君たちにも……」
そこで一度、喉がつかえた。緊張が解けないのだ。解けぬまま続けた。
「……き、聞こえたの? あの声?」
ニアとエリユリは顔を見合わせた。
「聞こえたよ」
「ねえ、うちらにも教えてくんない? 勇者さま」
「ねえねえ」というエリユリたちの圧に押される。どうやらあの声も腕もはためく豪奢な布も幻ではなかったらしい。
自分の声ではない。だが今それを言ってしまうと話がややこしくなってしまう。
憂太はしどろもどろながらに答えざるを得なかった。
「あの……。『オン アビラウンケン ソワカ』ってのは胎蔵界大日如来の真言で」
「だいにちにょらい?」
「しんごん?」
「あ、えと。だ、大日如来っていうのは、仏の世界の最上位にいる如来さま……いや、簡単に言えば、太陽の神様っていうか、この世で一番偉い仏様っていうか……」
「……?」
「はう……?」
「で、し、真言っていうのは、その神様の力を借りる呪句というか」
ニアとエリユリは揃って頭をかしげる。
まあそりゃあそうだろう、と憂太は思った。
自分でもどうやっても説得させられる気はしない。
「わかる? エリユリ」
「えへへ~。わかんないですぅ」
「だよね」
「と、とにかく!」
顔に多くの「?」を書いた二人に赤面しながら憂太は訴えた。
「わからないなら、それでいい。いいから行こう」……どうせ説明したってバカにされるだけだ。こういったオカルトへの深い知識が、憂太がクラスで孤立する原因だった。黙ろう。これ以上は気味悪がられるだけだ。きっとこの二人も同じだ。オカルトオタクとそしられるだけだ。
「あ。待って~。私も行く~」
「置いてかないでくださいよ~!」
いつの間にか憂太のほうがスタスタと先を歩いていた。
憂太は池袋の街を歩きながら考えていた。突如現れた怨霊や悪霊の類のもの。憂太の耳に確かに聞こえた大日如来の真言。そして憂太の手に重なるようにして現れた化け物めいた腕。それだけではなく……。
憂太は感じていた。
憂太の背後には獣人族でギャル風のニア、そしてエルフでおっとりした雰囲気のエリユリ。だがそれ以外に。
(……感じる!)
そう。
憂太には感じる。
二人の少女以外に。
──『怪物』の気配を……。
それは不穏な影であり、ざんばらな長髪をざわざわと風に揺らしていた。
見開かれ、つり上がった大きな目。
あざ笑うかのように耳まで裂けた口。
さっきの悪霊を退治したのは、間違いなくこの『怨霊』だ。
だけど、どうして。
怨霊だるものが僕を護ったのか……?
背後でその『怨霊』が笑ったような気がした。そんな憂太の耳に、呪いのように言葉が囁かれる。
『明け渡せ』
『儂が使えなくなる前に、早くその躰を明け渡せ』
背後を振り返ると、ニアとエリユリは雑談に興じている。今度の声は二人には聞こえていないようだ。
憂太は思い切り首を横に降った。
(幻聴だ、幻聴だ、幻聴だ、幻聴だ、幻聴だ、幻聴だ、幻聴だ、幻聴だ、幻聴だ、幻聴だ、幻聴だ、幻聴だ、幻聴だ、幻聴だ、幻聴だ、幻聴だ、幻聴だ、幻聴だ、幻聴だ、幻聴だ、幻聴だ、幻聴だ)
だが『怨霊』の姿は消えない。そしてこの『怨霊』は背後の二人には見えていない。
『怨霊』は、その影は、大きな目をぎらぎらと光らせながらさらに口元をニヤリと笑わせる。憂太はゾッとした。
人気のない街。ファンタジー世界の女の子。突如現れた飛び降り自殺の女の悪霊。そして謎の声と謎の腕。退魔の真言。
帰りたい。
早く家に帰りたい。
早く家に帰って、布団の中に潜ってしまいたい!
そんな怯える憂太をニアが明るい声で引き止めた。
「あっ。勇者さま! こっちこっち~!」
見るとそこは地下鉄への入り口だった。
そうか。帰ればいいんだ。
電車に乗って。
自分の家まで。
だってここは。
──『東京』なんだから!
駅構内へ向かう階段を降りていく。人っ子一人いない駅構内を地下鉄の改札へ向かって歩く。
地下鉄久楽町線のホームもまったくの無人だった。
(ここにも……誰もいない……)
そんな憂太の耳元へ、電車が入ってくる音が聞こえる。
久楽町線の車両だ。
憂太に希望が戻ってきた。
これに乗れば帰れる。
不安な夢から覚める。
僕の安寧の地はこの先にある。
自宅へ。僕の部屋へ──。
ファアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアン!
独特の警笛が叫び声をあげる怪物に思えて不安が再び蘇った。鳴らしながらホームへ入ってくる久楽町線の車両。
この夢は覚めない。閉じ込められている。白昼夢のような感覚の中、四方から壁が押し寄せてくる。その壁が僕を覆う。さらに閉じ込めていく。新しい汗が噴き出す。同時に自分の中にこれまでは眠っていた明確な暴力が目覚めるのを感じる。それはこれまで封じられていた”呪い”そのものだと憂太は思った。
憂太とニア、エリユリの眼の前で車両のドアが開いた。二人に促されて誰もいない車両に乗り込む憂太。見渡す限り乗客はない。その無人の車両が僕に呼びかける気がする。廃墟のような池袋のビルの群れが頭に思い出される。そのビルは叫び、爪を立ててくる。恐怖と不安と地下鉄に憂太の心は密封される。
電車に揺られる。すぐに久楽町線は隣駅の要町駅にゆっくりと停車する。
だが車窓から見えるのは、やはり誰もいないホームだった。
(ここにも……人の気配がない……)
「ここだよ~。勇者さま。ここで降りるの」
「え。でも」
憂太は慌てた。
「いいからいいいから。うちらに着いて来てって」
そうエリユリに背中を押されて電車の外に出た瞬間だった。
…………!?
視界にノイズが走った。
思わず目をつむる。そして再びゆっくりと開き。
次に広がった景色は大草原や森林が広がる自然あふれる大地。大きな丘の上。
そして見下ろした先には城壁に守られた中世ヨーロッパ風の街並み。
(え……なんで……!)
車窓から見えたのは駅のホームだった。
僕が乗っていたのは地下鉄だった。
戸惑う憂太の前で、ニアとエリユリがうやうやしく頭を下げた。エリユリの美しい金髪がふぁさりとその頬に落ちる。ニアのもふもふの猫耳があらわになる。そして二人は顔を上げ、エリユリが憂太の目を見ながら言った。
「改めてようこそ。いらっしゃいませ、勇者さま。ここが我らが『アドリアナ公国』。勇者さまに救っていただきたい私たちの世界にございます」
チッチッチッチ。
小鳥の声が聞こえた。
気持ちのいい爽やかな風が憂太の髪を、頬を撫でた。
真っ青な青空。まるで飛び乗れそうな大きな白い雲。
背後にはそこから出てきたはずの地下鉄の車両はすでになかった。
その代わりに。
鬼のような怪物が口を開けたのを模した門と古びた巨大な遺跡が、まるでうずくまった巨人のように佇んでいた。
──つまり。
地下鉄久楽線は、消え失せていた。
まるで魔法のように。
まるで狐に化かされたかのように。
憂太のポケットの中では、例小さなピンクのウサギのぬいぐるみが静かにそのクリスタルアイの目を光らせていた。殺す。壊してやる。すべてを破壊してやる。その躰を明け渡せ。そんな叫び声を憂太は心の中で聞いていた。だがその声が、これまで憂太を閉じ込めていた深い極まる閉塞感から憂太を開放してくれるかのような奇妙な感覚があった。
古い肌が剥がれ、新たな肌が顔をのぞかせるこの不可思議な感覚は、憂太がこの世界に来たことで、再び憂太が”生まれ直した”ような、そんな清々しさを憂太に与えていた。