第49之幕 雷電爲右エ門 【渋谷モディ前】
第49之幕
渋谷モディ前──そこはもはや異界であった。
濁った海水がアスファルトを覆い、うねるように波打つ。
波間から腐敗した手が何本も突き出し、ひしゃげた顔の船幽霊どもが、ギョロリとした白濁の目で獲物=二千華を狙っている。
その渋谷モディ前で今、デジタル式神の太郎吉と海座頭が両手を組み合わせ力比べをしていた。
剃り上げた頭、破れた化粧回し、巨岩のような腕……。それが『太郎吉』だ。
確か憂太はこの『太郎吉』を、「のちに伝説の相撲取りになる江戸時代の神霊だ」と語った。
つまりやせ細った腕の海座頭と、この『太郎吉』では、腕力の差は歴然……!
太郎吉は地面を叩きつけるように膝を割ると、土俵入りの姿勢を取った。
『ヌゥンッ!』
海水が一瞬で吹き飛び、周囲の空気がビリビリと震える。
そしてこの瞬間、二千華の脳に直接、その式神の真名が宿った。
雷
電
爲
右
エ
門
!
!
!
「な、なによ、これ……!」
二千華の頭の中に神霊の言葉が話しかける。何人もの女性の声だ。
『雷電爲右エ門は、江戸本場所在籍35場所で、通算黒星10個、勝率.962の大相撲史上未曾有の最強・伝説の力士……』
「何これ? 誰が喋ってるの!?」
『14、5歳の頃にはすでに身長181cmに達していた天賦の才を持った戦士でした……』
『ですが、今この場で最大の力を発揮することができません……』
「えっ。……なぜっ……!?」
『太郎吉は、怪力と雷神の霊力を併せ持つ、破壊的な式神……』
『雷の力が強力すぎるため、水に浸かると制御が難しくなる』
『暴走のリスクがあるが、逆に利用すれば広範囲に雷撃を放つことも可能。だけど……』
『あなたを守るためには、その雷撃は放てない……』
「じゃあ負けるの……?」
『ご安心ください……』
『雷神の加護がなくとも、太郎吉は最強……』
『さあ、見てごらんなさい……』
二千華の前では二体の怪物が、正面から手を組んでいる。
ギチギチギチ……!
その力と力のぶつかり合いに渋谷の街が、軋んだ。
「……ホウ……オ前……力アリ」
海座頭が膨れた顔を歪め、にたりと笑う。
「グォォオ……ッ!」
怪異が呻くと、膨れ上がった海座頭の腕の肉がめくれ、雷電の名を継ぐ式神に襲いかかった。
海座頭は海座頭で異常な力だ。
海座頭の腕から現れた何本もの腕で、まるで何百人もの水死者が一斉に引きずり込むかのように、太郎吉の巨体を足元の水へと沈めようとしている。
「た、太郎吉!」
しかし——
『ぬぅぅんッ!!』
轟くような気合とともに、太郎吉の筋肉が隆起した。
雷のような力が脈打ち、組み合った腕の内側から激震が走る。
――バギッ!!
「……ア……?」
海座頭の指が、砕けた。
千切れたわけではない。
握力だけで粉砕されたのだ。
「……ウ……」
海座頭が呻く。
だが、それはただの前兆にすぎなかった。
次の瞬間──
『ハッ!!』
太郎吉が膝を折り、一気に腰を落とした。
土俵の四股を踏むように、足元の水を弾き、重心を沈める。
そして、そこから——
雷鳴の如き爆発的な力が、一気に解放された。
『閃電寄り倒し!』
海座頭を強引に掴み、雷撃とともに水面に叩きつける。
当然、雷撃は水面には届いていない。
その配慮をして、その威力。
海座頭は路面に跳ね返り、その体が浮いた。
いや、それだけじゃない。
持ち上げられた。
わずか数秒前まで、海座頭は太郎吉を引きずり込もうとしていた。
だが今、路面に叩きつけられ、宙に浮き、そこを捉えられ。
「……エ?」
怪異の意識が追いつく前に、そのボロボロの肉塊が宙を舞った。
雷神の加護を受けた膂力が、怨念の塊を「投げた」のだ。
バァァァン!!
海座頭が渋谷モディの壁面に叩きつけられる。
ガラスが砕け、建物全体が震える。
「……ウグ……グギ……」
海座頭の骨組みが軋み、異形の腕が震える。
その口から、呻きのような音が漏れた。
いや、違う。
ズルン……。
海座頭の肉が割れた。
普通なら、吹き飛ばされた怪異が衝撃でひしゃげるだけだろう。
だが、それは違った。
海座頭の腹部が裂け、中から——
「別の何か」が、這い出してきた。
それは、膨れ上がった無数の白い手。
ただの腕ではない。
水死者たちの腕が、異形の波となって溢れ出していた。
「ウ……グルルルル……!」
モディの壁に張り付いた海座頭の体が、異様に膨張する。
琵琶を抱えた異形の巨体が、もはや形を留めず、無数の亡者を孕んだまま不気味に揺れる。
ブシュアアアアアッ!!
「なっ……?!」
二千華の目が見開く。
次の瞬間──。
海座頭の体が弾けた。
中から、無数の水死者が放たれた。
「クルルルルルル……!」
「ウアアアアア……!」
「溺レ……溺レ……!!」
ザバァァァァァッ!!!
15cmほどだった冠水が、一気に腰の高さまで押し寄せる。
まるで巨大な波が街を襲ったように、水が一気に増幅したのだ。
「な……ちょっ、マジで?!」
足元が沈む。
ビルのネオンがゆらめき、闇の底へと飲み込まれそうな錯覚が広がる。
しかし、錯覚ではない。
「……沈メ。」
その一言で、世界が変わった。
二千華の体が、一瞬で海水の中へと引きずり込まれたのだ。
「うぐっ……!」
冷たい水が喉を塞ぐ。
もがく彼女の周りを、無数の青白い顔が取り囲んでいた。
目も、鼻も、口も、すべて水に溶けかけた溺死者の群れ。
その無数の腕が、彼女の手足に絡みつく。
(……なに、これ……!)
叫ぼうとしても、水が口を満たす。
水圧が身体を締め付け、肺が悲鳴を上げる。
そして、その様子を、太郎吉は見ていた。
式神は主の指示なしに動けない。
だが、今の二千華は声すら出せない。
それを見て、もはや海座頭の姿を保つことすらやめてしまったこの恐ろしき怪異が高らかに嗤う。