第34之幕 殺戮の幕開け⑯ 【渋谷の手毬唄】
第34之幕
まるで悪夢のようであった。
大流血。破裂した大嶋唯の胸部と腹部。
そこから現れたのは髪の長い女の頭だった。
唯の肉体を食い破って現れたかのようなその女。
痛みと衝撃で思わず唯の肉体は反り返った。
唯に起きた異変。
次には蜘蛛のような長い手足が数本、天へ向かって突き出された。
いや、これは“人”の手足か……?
人間の手足としては長すぎるそれは、血まみれの路面へと関節を曲げた。
唯の肉体自体が、まるで蜘蛛にでもなったかのような異質な姿を取る。
女が口に咥えているのは唯の腸であろう。ずるずると自身の長い胴体とともに引きずり出していき、その姿が徐々にあらわとなる。
──大きい!
そこにいる誰もが恐怖に躰をこわばらせた。頭の大きさはほぼ普通の人間と変わらなかった。だがその胴体の長さは普通の人間の二倍以上。手足の長さはさらにそれを超え、さらに本数も人間の四肢の数に合わぬ、それよりも多い本数。これが路面でバランスを支えながらぬるぬると這い出てくる。
その血に塗れた横顔を見て、憂太の思考にある女の名前が浮かんだ。
……加奈子。
そうだ。間違いない。
大嶋唯の肉体を食い破って現れたこのやたらと長い女は、千尋の母親である加奈子。
変わり果ててはいるがその面影から、あの奇妙な体験の中で見たその顔に違いなかった。
加奈子……璃花子に洗脳され、ついには我が娘の命まで奪ってしまった哀れな女。
その後悔の念、悔恨、自責の念。
これが加奈子を『鬼』に変えてしまった。
八尺さま。
その名の怪異の姿を地獄から賜って……。
八尺さまは身長が八尺(約240cm)あり、魅入った子どもをどこかに連れ去ってしまうとされる田舎の怪異だ。白いワンピース姿であり、自由に声色を変える能力で、狙った人間が知っている人の声を出しておびき寄せると言われている。
よく見れば、足に充たる部分が腕であったり、長い胴体のあちこちから腕とも脚とも取れぬ細長い肉の棒が伸びている。それぞれに関節があり、ゆえにそれは伝え聞く八尺さまとも少々異なる異様さをまとっていた。
八尺さま、否、『カナコ』。
『カナコ』という名であったこの『鬼』は、やがて唯の肉体から躰を全部引き出すと「ぽぽぽぽぽ」と鳴いた。その何本もある長い手足のようなものをかき集めるようにして立ち上がり、憂太たちを見下ろす。不気味なことにその手足の動きはそれぞれが同調していて、これが生理的な嫌悪感を見る者すべてに与える。
誰もが身動きすらできないその衝撃の中。
憂太のすぐそばを風が駆け抜けた。
いや、それは風ではない。
『カナコ』の腕だ。
『カナコ』の腕が、はるか背後にいる田中幸子に向かって伸ばされたのだ。
その手のひらの狙った先は田中幸子。
八尺さまは幸子の腕を掴むと同時に、その唇から信じられない言葉を発した。
『幸子……、助けて……』
これに最も驚いたのは吉岡鮎だったろう。
なぜなら、その声色は、吉岡鮎のもの、そのものだったからだ。
『幸子……、お願い。動けないの。ここまで来て……』
『カナコ』が発す鮎の声に、幸子の眼が次第にとろんとなる。
『そう幸子……。私は、ここよ』
「ダメ、ダメよ。幸子……。あれ、私じゃない……」
吉岡鮎が震え声で言う。
幸子はそのとろんとした眼で肩越しに鮎の顔を見た。直後に『カナコ』はその長い腕を引き戻す。ぼんやりしたままの幸子はなすすべもなく、『カナコ』のもとへと引きずられていった。
「幸子おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
本物の吉岡鮎の声が『TOKYO』の渋谷の夜空に虚しく響き渡る。
この惨撃の中で、憂太は必死に自身の思考を取り戻そうとしていた。
されるがままに引き寄せられる田中幸子の躰。
それを何もできずに見守っているしかない久世や鮎たち。
ニアやエリユリ、トレシアでさえも、この光景に圧倒されている。
引きずられていく幸子、その腕が無意識に動いた。
ちょうど久世の隣を通ったところだ。幸子の手はがしりと、久世の手首を握った。
「え?」
幸子には意識らしいものはないままだ。
わけが分からず、久世は幸子と共に『カナコ』の元へと引き寄せられていった。
(まずいっ!)
混乱していた憂太の思考が一瞬、ひらめきを取り戻した。
(この『鬼』の腕を斬り落とさなければ……!)
そして母より伝授された『零咒』の発動の真言を唱える。
「オン ベイシラマナヤ ソワカ……」
北方の守護者、四天王の一つ毘沙門天。悪鬼や邪鬼を打ち倒す強大な天部の一柱で、『零咒』ではこの仏神の力を、ヴァジュラから伸びる“光の剣”へと変化させることができる。
怪異を両断できる“光の剣”。
しかし、その憂太の意識が再び刈り取られる光景を眼にしてしまう。
ちょうどその頃、まるで虫が脱皮で殻を脱ぎ終わった後のように、大嶋唯だったものの残骸が路面にビシャリ、と落ちた。その亡骸が突如、両肘で膝立ちをし、両脚で膝を持ち上げ、仰向けの四つん這いという奇妙な体勢を取ったのだ。
これによりガクンと大嶋唯の頭が下方へと落ちた。
その顔が逆さまに憂太へと向けられる。
死に顔。
もはや生気など一欠片も残ってないだろう死に顔。
その口元に。
う
っ
す
ら
と
笑
み
が
浮
か
ん
だ
!
とても生きているとは思えない。だがそれは、憂太を嘲るように笑いながら両肘と両脚を巧みに操り、躰をくねらせるようにしてゆっくりと走り始めた。
死に顔をこちらに向け、髪を路面に垂らし、脚の方から暗闇へと這って消えていく。
間違いなく大嶋唯だったもの。
それが、あんな姿に……?
──パリン!
憂太の脳の中で何かが壊れた。
その手からカランとヴァジュラが落ちた。当然、"光の剣”も消える。
そのすぐ横を、幸子と久世が『カナコ』によって引きずられていく。久世の悲鳴が虚しく響く。
「し、式守! 式守! た、た、助けてくれっ!」
情けなく泣きわめく久世の声を憂太はどこか遠くで聞いていた。
「田中、離せっ! この手を離せっ! 式守! 式守! 式守いいいいいいいいいいいいいいいい!」
これが久世の最後の言葉となった。
『カナコ』の元へ引き寄せられた幸子と、幸子の手に掴まれている久世。
久世は自身に与えられた魔剣をとっさに『カナコ』へと向けてしまった。
これが『カナコ』を刺激した。
そして。
──シュッ!
鋭い風切音と共に。
『カナコ』の腕とも脚ともつかぬ長い肉の塊が久世に振り下ろされ。
久世の頭は。
胴体から切り離され。
その頭はまるで手毬のように。
コロコロと渋谷スクランブル交差点の上を転がっていった。