第33之幕 殺戮の幕開け⑮ 【オンマニ パドメーフム】
第33之幕
憂太が放った「六字大明咒」とは、サンスクリットの六つの音節からなる観世音菩薩の陀羅尼だ。
この世は六道で成り立っているという。六道とはすなわち「地獄」「餓鬼」「畜生」「人間」「修羅」「天」の道。人は死ぬと生前の行いによって、この六つの道のどこかに生まれ変わるとされ、これを「六道輪廻」と呼ぶ。
そこでだ。
『オンマニ パドメーフム』
憂太が放ったこの真言。
これを分解すれば、まず「オン」は「天」を表す。
次に「マ」は「修羅」
「ニ」は「人間」
「パ」は「畜生」
「ドメ」は「餓鬼」
「フム」は「地獄」に、それぞれ充てはまる。
六道すべてを網羅した『咒』と言える。
同時にこれは六つの“罪”を表す。
「オン」は「高慢」
「マ」は「嫉妬」
「ニ」は「欲望」
「パ」は「無知・偏見・痴」
「ドメ」は「貧窮」
「フム」は「憤怒・憎悪」
チベットではこのように六字を六道の各道に充て、一語一語にそれぞれの“罪”を浄化する意味を持たせている。この教義は十四世紀に著された史書『王統明鏡史』第四章に記されたものだ。
浄土に行けなかったもの、イコール「怪異」。
「六道」を彷徨い、さらに「穢れ」は持つ「怪異」には、上の六つの罪のどれかが充当する。
「六字大明咒」が最強の呪文と言われる由縁はここにあり、相手の正体を知らずとも、ほぼすべての怪異に対して効果を及ぼすというわけだ。
ゆえに憂太は「零咒」では基本中の基本であるこの「六字大明咒」を用いた。そしてそれは果たして、絶大な効果を及ぼした。
……ただ一体のみを残して──。
渋谷スクランブル交差点にたった一体残った、女雛、つまり「お雛様」。
『貴様もあれを、怪異ではなく“鬼”と踏んだか』
道満は憂太の心に囁きかける。
「間違いないと思う」
憂太はヴァジュラを慎重に構える。
『人の抱えた“罪”。欲や穢れ、厄を大喜びで食い物にする“鬼”』
「穢れに取り込まれた時、その世界で僕は雛人形を見た。それが形代となり、千尋ちゃんたちの“罪”や穢れ、厄を吸い込んで“鬼”が産まれたんだろう」
『なるほど。“鬼”が産まれる過程を見たか』
道満が興味深そうにニヤリと笑ったのが憂太には分かった。
『で、如何せん?』
少しずつ女雛に近づきながら憂太は答えた。
「まずは、あれがどんな“鬼”か、見極めるのが先だろう」
ニアとエリユリをはじめ、「最終旋律」の三人、そして唯ら「勇者組」も今眼の前で繰り広げられたこの光景に呆然としているようだった。
「何……が、あったの……?」
大嶋唯はふらふらと憂太の背中に続く。
あちこちに血の池ができた渋谷スクランブル交差点。
そのほぼ中央に、ぽつんと佇むほぼ人と等身大の「お雛様」。
ニアは気を取り直し、それを睨みつけた。
彼女の格闘術はクリティカルに当てればその一撃で、人の骨ぐらいなら、またレンガ造りの壁ぐらいなら容易に砕くほどの力を持つ。だが。
(なんだか、うちの力が通用する気がまったくしないんですけど……)
エリユリも感じる。
(違います。これは今までの敵とは違います、違います! ……怖い。怖いです。殺される未来しか見えないです)
「これが『空亡』の敵か……」
そう言ったのは、「最終旋律」ギルドマスターのトレシアだ。
トレシアはこれまでさんざん強力なモンスターを倒してきた。
そしてレストランでの食材としてきた。
あのヒューマノイドの脅威の象徴であるドラゴンですら彼女の敵ではなかった。
公爵とも由縁が深い「暗殺者狩り」のニア、エルフ族のエリート的存在であるエリユリは特別枠として、一冒険者として自分より強い者はそうそう存在しないと思っていた。
しかし、この人間ほどの大きさがある人形が放つ、異常なほどの禍々しさは。
(一体何事だ……!?)
ほぼ全員がその場から動けない状態で、久世祐一、田中幸子、吉川鮎の三人だけは、揃ってスクランブル交差点へと足を踏み入れていた。
「……終わった……のかな?」
吉岡鮎が不安そうな声を出す。
「ううん。まだ一体残ってる。まったく動いていないみたいだけど」
田中幸子が鮎に肩を貸しながらゴクリと喉を鳴らす。
「あれさえ倒せば、終わりってことか」
久世祐一は冷や汗を流しながらも、自慢の魔法剣を自身の前にかざす。
路面中が血溜まりになっていて滑りやすい。
しっかりと一歩一歩、踏みしめながらも久世は悶々としていた。
(式守の野郎、格好つけやがって……)
使いっ走りにしていた憂太に遅れを取ったことが久世のプライドをズタズタにしていた。
親友である虎井を殺された怒りもある。
何としても虎井の敵討ちをしたい。
何としても式守憂太に一泡吹かせたい。
そう。俺だって「勇者」として召喚されたのだ。
式守にできて、俺にできないはずがない。
俺は「勇者」なのだ。
式守はなんだかよく分からないが、自分の技を使ってあの化け物たちを退治した。
ということは、俺だって、ちゃんと自分の力を、技を、出し切れば、ちゃんと活躍できるはずなんだ。
──だって、あのしょぼしょぼの式守ですら、倒せた敵なんだぜ……?
「え? 久世くん。どこ行くの?」
久世はいつの間にかツカツカと雛人形に向けて歩いていた。
「ダメだよ。今日のところは様子を見ようよ」
幸子や鮎が止めるのも聞かない。久世は魔法剣を握る手に力を入れながら、女二人を置いて、迷いなく「お雛様」へと近づいていった。
──俺にだって、できるはずなんだ!
その久世の様子を見た憂太と唯の声が重なった。
「久世くん、今、動いちゃダメだ!」
「待って! 今は動かないで!」
何言ってやがる。
相手はピクリとも動かねえじゃないか。
殺るなら今だろ。
何をビビってんだ、この弱虫が!
『蛮勇というやつか』
道満がいかにも面白そうに嘲った。
『よいよい。好きにさせておけ』
(でも!)
憂太は逡巡している。
『貴様を好きなように嬲っておった小僧じゃろ? 何を今更、心配することがある』
(それは……)
毎日続いたひどいいじめ。殴られた日々。確かに僕は久世くんを恨んでいるのかもしれない。でも、だからと言って……。
自分がされた仕打ちを今さら心に刻みつけていく。そう。人はこうして恨みを溜め込み、やがてその恨みから産み出される『咒』によって自ら縛り付けられていく。
心が鈍重になる。
止めるべきか、それとも放っておくべきか。
あの『鬼』が危害を加えてこない可能性はほぼゼロに近い。
ならばやはり、なにか手を打たなければならない。
何より。
(もう、人が死ぬのは見たくない!)
それが誰であれ……。
憂太が思ったその時である。憂太のその思考回路が一気に暴発しそうになった。唯が思いもよらぬ行動に出たからだ。
唯は思いつめた表情で唇を噛むと、キッと心を決めたようだった。
そしていきなり、安全地帯から飛び出した!
「お、大嶋さん……!?」
唯はそのまま無言で憂太を抜き去ると「お雛様」を背にして、大の字に躰を広げた。
久世の前進を身を以て、止めようとしたのだ。
「久世くん、ダメ!」
「どけ。大嶋」
「どかない!」
あまりに危険すぎる行動。唯は半ば泣き声で必死に訴えかける。
「私、これ以上、クラスメイトがひどい目に遭うの、見たくないの!!」
憂太の意識は久世から唯へと移った。ダメだ。大嶋さんをこのままにしていてはダメだ。
だが。
気付いた時には、唯の背中に何者かが、「ふぁさっ」と覆いかぶさっていた。
憂太は念のため、先ほどまで「雛人形」が座していた路面に目をやる。
やはり「雛人形」は消えている……!
つまり、これは。
ただの人形のはずだ。桐と藁で作られておりそこに針金を巻いて布や神で肉付け。それを衣装を着せて隠しているに過ぎない。つまり、手足や胴体があるように見えて、それはすべてフェイク。その形から動くことはできないはずだ。
ところが。
唯を背後から抱きしめるその「雛人形」であったろう”もの”には、人間のように動くしなやかな手足があった。胴体があった。まるで本物の人間のように、唯を背中から抱きしめ、そしてその耳元に唇を寄せた。
『我が心に汝のこと深く好ましきことを以て候』
唯の肩がビクンと跳ね上がる。な、何を言われてるの……私……。
『故に汝よろし……』
その「雛人形」が何を言ったのか。そこにいる誰もが理解できずにいた。
「あ……う……」
呻きのような唯の声。
と、ともに。
──唯の背後にいた「お雛様」もどきの姿は煙のようにかき消えてしまった。
そして。
惨劇が始まる。
突如、唯の全身から鮮血が噴き出す。
同時に唯が崩れ落ちていく。
何が起こったのか、憂太は今ようやく把握した。
何者かが。
唯に取り憑いたのだ。
そして鬼に取り憑かれた唯の肉体を、その何者かが。
内
側
か
ら
喰
い
破
り
な
が
ら
這
い
出
そ
う
と
し
て
き
て
い
る
!
「式守……くん……」
唯の顔がかしぎ、憂太を見た。その口元から一筋の鮮血が流れ落ちる。
「憂太くん……助けて……」
その時、5~6メートルはあろうか。
滅法長く、蒼いほどに真っ白な腕や脚が数本、唯の腹や背中から勢いよく飛び出した。
唯の頬を涙が流れたほんの一瞬で。
大嶋唯の躰は。
──まるで鮮血が詰まっていた水風船のように、無惨に弾け飛んだ……!