第31之幕 殺戮の幕開け⑬ 【渋谷ハチ公像前】
第31之幕
憂太は眼の前で何が起こっているのかまるで理解ができないでいた。
我が子を「しつけ」と称して痛めつけることに対し実母が疑問を抱かないのはもちろん、むしろそれが我が子のためになると信じてしまっている精神状況が分からなかった。
この事件の異常さを際立たせているのは「階段から落ちたことにしよう」と千尋の首をねじり折ったにもかかわらず、なぜか「念の為」と、桜の樹の下に埋めてしまうことだ。
この矛盾した璃花子の指示に、疑問を持つ者はそこにはいなかったのだろうか。
もちろん憂太が見せられたものは断片にすぎない。
どうやってこの璃花子という人物が、松郎やその母、そして加奈子の「思考する力」を奪っていったのか……。
そこに「咒い」のような超自然な力は存在しなかった。
ただただ言葉で、表情で、行動で、仕草で。
璃花子は周囲の人々を虜にしていった。
憂太が学んだ『零咒』においては、その皆からの璃花子への信頼も、ある種の『咒』といえる。
よく言われることだが世の中で最も身近な『咒』は「名前」だ。
「名前」は個人を識別し、社会的なアイデンティティを形成する。
現在はこの「名前」という『咒』の説明が容易になっている。
例えば、あなたが「横路璃花子」という名前をつけられたと仮定してほしい。そうすればあなたは自分が「横路璃花子というのは私だ」と自身を認識する。誰か他の名前を呼ばれても振り返らないだろう。それは「横路璃花子」という言葉そのものが、「それは私のことだ」と認識する「言霊」になっているからだ。
次に昨今のインターネット社会を見てもらいたい。
特にSNSで顕著だが、多くの人が自身の本名だけではなく、別アカウントで別の名前を使って使用している。
次第に、このアカウントのこのハンドルネームはこういった人格。
このアカウントの、こっちのハンドルネームはこういうペルソナ。
そのように使い分けをし始めるし、なかには意識的にこれを行う者もある。
そう。
インターネット社会では、人は自分のハンドルネームごとにペルソナがあり、自身のアイデンティティは一つだという仮説を楽に突き崩す。「まさかあの人があんな投稿を」と周囲が驚くようなコメントを、「人が変わったように」投稿する者も少なくない。
これを『零咒』では、人はその名その名すべてをそれぞれの『咒』と捉える。インターネットで本名ではない名前を使っただけで「別人格」という『咒』が生まれるのだ。
かくも『咒』とは不可視なものである。
超自然な現象だけではなく、目に見えない心理面に大きく働く。
例えば「今からお前を呪う」と宣言されると、人によってはなにか不幸があるたびに「これがその呪いなんじゃないのか」と取り乱す。思い込んでしまう、それ自体が『咒』なのだ。
実は超自然的な力など、そこに働いてはいないというのに。
詐欺師の心霊商法ではこれが多様されている。
璃花子による周囲への洗脳というのは、『零咒』からすればこの手の『咒』だった。
人の心を巧みに操る求心力。一種の才能。
人の心を鷲掴みにし、考える力を奪う不可視の力。
かくも『咒』はこのように身近にある。
「欧米では~」などと語り出す人には、その知識の『咒』がかかっている。
「戦争反対、何故ならば」と語りだす人にも、その知識の『咒』がかかっている。
常に物事というのはあらゆる方向から多角的に観ることができる。
だがこうした『咒』がかかっていると、一方向からしか物事を観測することができない。
イコール、周囲が見えなくなる。これは「自分の考え以外見えなくなる」という『咒』ということになるのだ。
加奈子もおそらく「璃花子」という名の『咒』がかかってしまっていたのであろう。ゆえに常人には理解できぬ行動を取り、ついには我が子をその手で殺害してしまった。自身のやったことに気がついた時、どんなに無念な想いになるだろう。どれだけ苦しい想いをするだろう。
「でも私、ママに愛されていると思っていた」
突如、朦朧とした意識の背後から幼子の声が聞こえ、憂太は振り返った。
真っ黒な靄のような中にいたのは赤いワンピースで着飾った6歳の千尋の姿。
「私、ママに愛されていたよ」
そんなわけがない!
憂太は心の中で叫んだ。
あれだけひどい想いをして、ひどい痛みに耐え、猫用の檻に閉じ込められ。
それが“愛”なんかであるわけがない!
「ううん。ママは私のためにずっとそうしてくれてた」
違う! それは“愛”じゃない!
「じゃあ“愛”ってなに?」
“愛”っていうのはもっと千尋ちゃんのことをしっかりと考えて……。
「それならママは私を愛してくれていたのよ」
千尋の幻影は小さくにこりと笑った。
「私
も
マ
マ
を
愛
し
て
る
も
の」
──その瞬間だった。
憂太の襟首を背後から掴む者が現れた。
『これ以上、取り込まれるでない!』
グイと恐ろしい力で引っ張られ、赤いワンピースの千尋の姿があっという間に遠くなっていく──。
僕は……。
僕は……。
『僕は、じゃないわ! この未熟者が!!』
ハッと憂太が我に返った時、眼の前にいたのはかわいらしい小さなピンクのウサギのぬいぐるみだった。
『こんな雑魚の呪霊の穢れなんぞに取り込まれおって。晴明の血統が泣くぞ!』
道満!?
ということは、ここは……?
ウサギのぬいぐるみの形の式神となった芦屋道満が憂太の耳でも聞き逃すほどの早九字を唱える。
『臨兵闘者皆陣列前行《りんぴょとうしゃかいちんれつざいぜんぎょう》!』
同時に、憂太に飛びかかろうとしていた幼女の怪異数十体が一気に、サイコロ状に切り裂かれた。
その大量の血膿を浴びながら憂太は思い出す。
(千尋ちゃ……)
否!
ここは『穢れ』が産んだ妄想の世界ではない。
過去ではない。
千尋は死んだ。
つまりここにいる千尋は呪霊。
──そうだ。ここは『TOKYO』……。
僕たちはこの渋谷で怪異の群れに襲われていたんだった!
「道満! 僕は何分ほど眠っていた?」
『何分も眠っておればすでに貴様の命などないわ! ほんの二秒ほどよ!』
「二秒……」
それでも命に関わる時間だ。
「みんなは、みんなは無事か!?」
『貴様の未熟な妙見菩薩の術式が一応、機能しておる。だが、彼奴らだけでは時間の問題だな』
「なら……」
その決意を込めた憂太の横顔に、ずいっと小さなピンクのウサギが被った。
『おう……!』
「片付けるか……」
ウサギの中で芦屋道満がニヤリと笑ったのが分かった。