第30之幕 殺戮の幕開け⑫ 【世田谷6歳児虐待死事件③】
第30之幕
千尋は思いのほかこの雛人形が気に入ったようだった。
来る日も来る日も、この雛人形が飾られたひな壇の前に座り、じっと見上げていた。
雛人形のことを「かわいいかわいい」と言った。
三人官女がそれぞれ持つ、お盆の提子、水差しである三方、長柄銚子、また五人囃子が持つ太鼓、小鼓、笛、笙の、小さいながらによくできている造形に目を輝かせていた。
何より、雛人形の美しい表情、衣装、柄に惹かれたようだった。
まるで息をするのも忘れたかのようにそれを見続けていた。
屏風やぼんぼり、三宝や高坏、御膳や菱台、桃の花と橘の実を一緒に飾った桜橘、嫁入り道具である箪笥や鋏箱、長持や鏡台。
雛人形の下に飾られたお駕籠、重箱、御所車まで。
千尋の興味を惹かないものはなかった。
通常、雛人形は3月3日の上巳の節句を過ぎると片付ける。
それは上巳の節句を過ぎても雛人形を飾っていると、せっかく人形に移した女児の「厄」が再び女児に戻ってしまうからだ。
これを知らなかった加奈子は璃花子にしばらくこのまま置いておいてほしいと頼み込んだ。
これらのすべてが「厄」を吸い込みきった「呪物」となることも知らずに。
加奈子は千尋の笑顔が見たかった。
そして璃花子はこれを快諾した。
異変は桜が咲く頃に起こった。
それはまず千尋の目の下のくまに現れた。まるで桃のようにふくよかだった千尋の顔色がくすんで見えるようになってきたのだ。
さらには活動量が驚くほど減った。無気力になってしまったと言ってしまってもいいかもしれない。食事の量も目に見えて減っていってしまった。
パシン! という乾いた音が居間に響いた。
「こんなにご飯を残してはいけません!」
璃花子が千尋の頬を張ったのだ。
隣で千尋の口へとお米を運んでいた加奈子も驚いた。
「なぜ、残すのですか!?」
璃花子の叱咤。だがそれもかき消されてしまうほど千尋は鳴き声を上げた。
その時、一瞬地震が訪れたように部屋が揺れたような気がした。
だが加奈子はそれに気づかなかった。
「あなたがご飯を食べなくて泣きたいのは、お母さんのほうなんですよ!」
璃花子のこの言葉にハッとし、璃花子を見上げ注視してしまったからだ。
──この人は、教育のことだけじゃなくて私の苦労も分かってくれている……。
またある日は、「おはよう」を言わなかったということで璃花子は千尋を殴った。「おもらしをした」時には千尋を引き倒して何度も平手打ちをした。
やがて加奈子も優しく諭すという叱り方から、暴力という手段をしつけに取り入れるようになってきた。
「どうしてママの言うことが聞けないの!?」
「なにかしてもらったら『ありがとう』でしょ!」
加奈子や璃花子に叱られた後、千尋は決まって雛人形の前に座り込んで、しくしくと泣いていた。
雛人形はそんな千尋を無表情のままじっと見つめていた。
だが千尋からすれば、雛人形たちの魂のない瞳はしっかりと千尋を捉えているように感じていた。
千尋への、「しつけ」という名の暴力は次第にエスカレートしていった。
やがて、ひぐらしが鳴き始める頃、千尋は涙を流さなくなっていた。
平手を食らっても、はたかれても、投げ飛ばされても。
悲鳴は上げるのだが、涙だけがすっかり枯れたかのように。
ある日、璃花子が猫用のケージを買ってきた。
この頃から何故か、家の電化製品や水回りの器具が頻繁に壊れるようになっていた。
その代用品を買ったついでだと璃花子は言った。
「痛みを与えるだけでは、かわいそうだし、しつけになりませんからね。でも千尋ちゃんには、しっかり反省ができるオトナになってほしいの。やっていいこと、悪いこと。それを心に躰に、しっかり覚えてもらわないと、今後小学校へ通うになったら、先生やお友達に迷惑をかけて大変でしょう?」
もちろん猫など飼っていなかった。
そう。
これは、千尋の折檻用の檻として購入されたものだった。
加奈子も千尋の悲鳴をこれ以上聞くのは辛いと思っていた。
ゆえに璃花子のこの提案に、そっと胸を撫で下ろしてしまった。
我が子に手を上げずに、閉じ込めるだけで済む──。
もう平手で叩いたり、蹴ったり、投げ飛ばしたり、意識を失うほど布団でぐるぐる巻きにしたり、日が昇るまで鍋の中に長時間、眠らないよう立たせたままにしたり、ひどくつねったりしなくて済む!
その間も雛人形は飾られ続けていた。
灼熱の夏が訪れ、木々が色づく秋が過ぎ、やがては地上の多くの生物が眠りにつく冬がやって来た。
心なしか去年の春よりももっと、雛人形はその艶やかさを増したかのように見えた。
紅は血のように赤く。
瞳はどこかうっとりとしていた。
千尋はただただ、猫用のケージのなかで、客間に飾られているそんな雛人形のことを思い、じっと何もない宙を見つめていた。
(とてもいい子に育ってくれた)
千尋は同い年の子のように騒いだり、粗相をしたりしなくなった。
まるでよくしつらえたロボットのように、加奈子や璃花子の言う言葉をよく聞いた。
この春からは小学校一年生。
加奈子の眼には千尋が、どこに出しても恥ずかしくないお姫様のように見えていた。
◆ ◆ ◆
──頸部ジストニアという原因不明の病気がある。首の筋肉の断続的または連続的な収縮やけいれんが起こり、頭が自分の意思とは無関係に回転したり、前後左右に傾いたりする。
進行すると強い筋収縮が持続し、一定の向きから元に戻らなくなる。
精神的ストレスを感じたときのみ、頭や肩が動く人もいる。
千尋は定期検診でこの病の診断を受けてしまった。
その日、千尋はランドセルを買ってもらった。
璃花子と彼女の若きつばめである松郎からのプレゼントだった。
だがなぜか千尋はそれを背中に背負うのを嫌がった。
珍しいほど暴れて、どうしてもランドセルに腕を通そうとしなかった。
加奈子と璃花子は千尋を押さえつけた。
だが女性の力では抗えないほど、千尋の力が強かった。
こんな小さな子が何故……。
六歳になったばかりの子が何故……。
「松郎お願い!」
千尋の言葉に頷き、松郎は千尋の両足を持って逆さ吊りにした。
それでも手足をバタつかせようとする千尋を、加奈子と璃花子は何度も叩いた。
松郎も悪戦苦闘していた。
ちょっと油断をしたら握っている足首を振りほどいて、逃げ出しそうになるからだ。
この頃になると加奈子も、ちょっとした暴力は単なる「しつけ」だと完全に思い込んでいた。
それは逆さ吊りにされている千尋の頭を、まるでサッカーボールのように蹴ってしまうほど異常なものだった。
これを見て璃花子は笑った。
「そうよ、加奈子さん。言うことを聞かない子はちゃんと“しつけ”るべきなのよ! あなたはそれが分からなかったから旦那さんをダメにした。旦那さんもちゃんと“しつけ”るべきだった。そもそもオトナとか子どもとか関係ないの。それは上澄みなの。千尋ちゃんやあなたの旦那さんや加奈子さん、あなたもそうだわ。裸になって皮膚も剥いで、肉を削って何もかもさらけ出したら、みんなプラスチックみたいなすべすべとした骨になってしまうの。人の魂というのは、その“中”にあるんだわ。そこでグチャグチャに絡み合っている魂。それこそが、その人そのものなの。その“そのもの”を刺激してあげないと、人は変わらない。変われないのよ。だから神経という伝達物質を使って伝えるの。痛みを苦悩を悲しみを。そうしないと人は生まれ変われないのよ。人は躰の内にある“叫び声”のみで変化を起こすことができるの。さあ、声じゃなく、躰の内なる“叫び声”を引っ張り出してあげてちょうだい。千尋ちゃんの救済は、救いは、安らぎは、その“叫び声”の中にこそあるはずだわ!」
……気付いた時には千尋はピクリとも動かなくなっていた。
躰中に赤やオレンジや紫や青の内出血が見られ、ぐったりとただただ垂れ下がっていた。
「仕方ないわね」
璃花子は千尋の魂の内なる「叫び声」が聞けなかったことに心の底からガッカリしているようだった。
「階段から落ちたことにしましょう」
幸いにも千尋は頸部ジストニアだった。
その病が階段から落ちた時に発症し、そのストレスによって床に叩きつけられたことにしようとしたのだった。
そして松郎に命じて、その首を180°回転させ、ボキリ、と折った。
念入りなことに、璃花子はこの遺体を裏庭の桜の木の下に埋めようとも提案した。
夜中。
掘った穴の中に見える千尋の躰は、内出血の赤やオレンジ、青や黒によって、まるで着飾った「雛人形」の着物のようにも見えた。
突風により桜の花弁が激しく舞い散る中、加奈子は璃花子たちと一緒に、まるで死の雛人形のような千尋の死骸の上に、スコップで土をかけ続けた──。