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零咒 ~異世界【TOKYO】ダンジョン~  作者: R09(あるク)
第一章 渋谷七人ミサキ編
29/65

第29之幕 殺戮の幕開け⑪ 【世田谷6歳児虐待死事件②】

第29之幕


 庭へと出るガラス戸から差し込む西日で、憂太の影が畳の上に長く伸びていた。

 その六畳間を憂太は見渡す。

 ふと衣擦れの音がした。

 そちらを見ると、いつの間にそこにいたのだろう。

 正座をしている女の姿があった。

 彼女はガラス戸のそばで洗濯物を畳んでいる。

 その影が何やら何とも言えぬ物悲しさを静かに物語っていた。


 まだ若い。20代前半ぐらいであろうか。

 無表情で洗濯物を黙々と畳んでいくその若い女性は、ふと顔を上げ、部屋の隅に目をやった。

 何を見ているのだろう。

 憂太はその視線を追う。

 そこには。


 飼い猫を入れておくための檻籠おりかご

 その中でうごめいているものがある。

 それは。


 まだ、小学生にも上がってないだろう小さな女の子だった。


 狭いキャットケージの中で体を不自然に折り曲げ。

 懇願するような眼を若い女性に向けている。


 ──()()()


 直感的に憂太は思った。

 キャットケージの女の子はうめき声一つ上げることなく、ただただ、母親であろうその若い女性を見ていた。

 やがて洗濯物を畳み終わり、若い女性はそれをまとめた籠を持ってすくっと立つ。

 そして我が子のことを気に掛けることもなく、スタスタと部屋をあとにした。


 キャットケージの中の女の子の眼はその姿を追っていく。

 まるでもうすべてを諦めてしまったかのように無言で。身じろぎ一つせず……。

 カナカナカナカナ……。ひぐらしは鳴き続けている。


 ◆   ◆   ◆


 その若い女の名は加奈子といった。

 彼女は教育熱心な両親のもとで育ち、言う事をよく聞く子として両親からも愛されていた。自宅は渋谷区の高級住宅街の松濤しょうとう

 そんな彼女にある出逢いが訪れる。


 ある日、職場の保育所で、加奈子はいつものように迎えに来る大人たちを待ち、そして子どもを送り出していた。いつも通りの日常。いつもよく見る顔ぶれ。その中に初めて見る顔があったのだ。


 その男の名は義和。彼は故郷から妹のいる東京へと観光に訪れており、その妹の代わりに子どもを受け取りに来たのだった。


 ふたりとも一目惚れだった。


 ほどなくして、加奈子は義和とプライベートで出かけるようになった。義和が言うには今、長期休暇を取っていて三ヶ月ほど、妹の家にお世話になる予定だと。だがそこには嘘が混じっていた。義和は実は無職だったのだ。それを加奈子が知ったのは妊娠が分かった頃。もう二人は引き返せないところまで来ていた。


 当然、加奈子の両親は義和との結婚を認めなかった。だが加奈子は熱弁した。義和は東京でちゃんと職に就く予定だと。真面目で誠実な男なのだと。だが受け入れられない。嘘つきの男の言うことなんて信じられない。そんな子どもはすぐに堕ろせと両親は言う。


 やむを得ず、加奈子は駆け落ち同然で義和と結婚することになる。そして女の子を出産した。


 千尋と名付けられたその女の子を義和は溺愛した。介護施設に就職し、加奈子もやっと私にも幸せが訪れたと幸福感に満たされていた。しかしそれは長続きはしなかった。


 やがて義和はパチンコにハマるようになった。それで稼げるぐらいに腕が上がり、加奈子の知らない間に介護職を勝手に辞職してしまっていた。その頃からだったろう。義和からのDVが始まったのは。


 暴力は次第に酷くなっていった。加奈子は両親とはすでに勘当状態であったため、実家に助けを求めることもできなかった。DVシェルターに逃げ込もうともしたが、スマホを施設に預けなければならないというルールがあると知り、入所をためらってしまった。


 そんな時に知り合ったのが横路よころ璃花子りかこという背の高い女だったのだ。


 そしてこの女が加奈子をさらなる地獄へと突き落とすことになる。


 ◆  ◆   ◆


「分かった。加奈子さん。あなたは私の家に来ればいいわ。私が守ってあげる」


 それは加奈子が横路よころ璃花子りかこと知り合って一ヶ月ほど経ってのことだった。馴染みの喫茶店でブルーマウンテンを飲みながら、生傷が絶えない加奈子を放ってはおけないと璃花子りかこは言った。加奈子は夜明け前に、もうすぐ五歳になる千尋を連れてそっと家を出た。


 璃花子りかこ松郎まつろうという若い男性とその母と一緒に世田谷区に住んでいた。璃花子りかこの年齢は40歳を超えているだろう。なのになぜ20代前半の若い男性と共に住んでいるのか加奈子は最初、不思議に思った。だがその理由はすぐに分かった。


 とにかく話が魅力的で愉しいのだ。なんて素晴らしい女性なのだろうと加奈子も徐々に心酔した。彼女の言うことはなんでも正しかった。どんな問題も親身になって解決してくれた。その知識の豊富さに、加奈子は何度もハッと目を覚まさせられることが多かった。とても規律には異常に厳しい人物だった。料理の手順、食事や対人でのマナー。華道や茶道もたしなむ璃花子りかこらしさといえば璃花子りかこらしい。だが叱られる時の璃花子りかこのその冷たい眼つきには加奈子も何度もゾッとさせられたものだ。


 璃花子りかこのその厳しさは加奈子の子育てにも及んだ。最初は当たり前のお行儀のことぐらいだったと思う。だがそれは徐々にエスカレートしていき、気付かないうちに加奈子は、五歳の千尋がついついついやってしまう粗相にイライラしてくるようになる。


 本来ならば5歳の少女なんてまだ分別がついているわけがない。だがやがて加奈子にとって千尋は、ピカピカに磨き上げられた素敵なキッチンの風景に紛れ込む“異物”のような存在となっていった。オトナとして当たり前の常識を持つはずもない我が子にそれを求めてしまっていた。


 もちろん我が子は愛していた。だが愛しているからこそ、ささいなことが許せなかった。愛しているからこそ、素敵な女性に育ってほしかった。規律があり、正義感があり、強く正しく、そして美しく生きて欲しいと心の底から願った。加奈子が今味わっているような、清潔で乱れがなく、正しさに囲まれた生活を送る、誰から見てもレディだと讃えてくれる女に育て上げたかった。


 そのきっかけも、やはり璃花子りかこからだ。

「どうして泣き止まないの!」

 早く出かけなければ仕事に遅れるといったタイミングで、泣いてぐずる千尋に、加奈子は癇癪を起こしていた。その時だった。


 パシン!


 思わず加奈子も自分の目を疑った。

 璃花子りかこが千尋の頬を思い切り平手で張ったのだ。

 驚いたのか、それともあまりの痛みの衝撃か。千尋はそこでピタっと泣き止んだ。

 呆然としたつぶらな瞳で見上げる璃花子りかこの視線に千尋は完全に震え上がっているようだった。


「ママを困らせてはなりません。あなたは私とお家でお留守番です。分かりますね?」


 美しくそれでいて冷酷な声……。その言葉に誘導されるように千尋はコクリと頷いた。会った時から思っていたが不思議な声だった。その声を聞いていると思わずなんでも言うことを聞いてしまいそうな……。


(やっぱり、璃花子りかこさんは、いつも正しい)


 その日、加奈子は遅刻をまぬがれた。


 こうしたことが続き、いつの間にか加奈子の育児も少しずつ体罰を伴うようになっていった。もちろん璃花子りかこもその育児に毅然として向き合ってくれていた。璃花子りかこのおかげで加奈子は一人の時間も持てたし、育児の死にたくなるような辛さから開放されることも多々あった。


 ──すべては璃花子りかこさんのおかげだ……!


 璃花子りかこはただ厳しいだけではなかった。優しい時は女性の加奈子でも惚れてしまいそうになってしまうほど甘々に接してくれた。その声の魅力もそうだが、心のくすぐり方というものを璃花子りかこは悪魔的なほどに熟知していた。その人がかけてほしい言葉を髪の毛一本ほどもズレず、そっと降り注いでやれる読心術にも秀でていた。


 だから松郎まつろうさんも璃花子りかこさんのことが好きなんだ。

 だから松郎まつろうさんのお母さんも璃花子りかこさんを大事にしているんだ。


 なるほど。

 なるほど。

 なるほど。


 頷きが増える日々。


 そんなある日、仕事から帰宅した加奈子はうれしさで泣き崩れてしまいそうな出来事に遭遇する。

 出迎えてくれたのは璃花子りかこ


「おかえりなさい、加奈子さん。さあ、こちらへいらっしゃい」


 連れて行かれた先の部屋で見たのは。


 立派な雛人形だった。


 男雛に女雛。三人官女に五人囃子──。

 大きなひな壇に、いかにも立派な、高価であろう雛人形がかわいらしくそびえ立っていたのだ。

 思わず加奈子は崩れ落ちた。

 へなへなと腰が落ちた。


「加奈子さん。千尋ちゃんは女の子ですから。私たちも節句はちゃんとしてあげないとね。お金は結構よ。千尋ちゃんのためですから。それより加奈子さんと千尋ちゃんがどんどん立派になっていくのを見るのが私は何よりもうれしいのよ」


 突然のプレゼント……! 仕事や育児でのストレス。抱えていたお腹の中の真っ黒なものすべてを吐き出すようにして加奈子は泣いた。そんな加奈子を璃花子りかこは優しく抱きしめてくれた。加奈子はそのやわらかい胸の中で泣き続けた。いつまで経っても涙は止まらなかった。


 そう。知らず知らず、加奈子は璃花子りかこの支配下にあった。

 完全なる飼育。

 こうして加奈子の悲劇は加速していくことになる──。

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