第26之幕 殺戮の幕開け⑧ 【三人官女】
第26之幕
(あの眼はヤバイッ──!)
この雛人形の姿をしたものが怪異であることは分かっていた。
咒を知ることはヒトガタ……すなわち人形がどんな意味をなすかを知る。
眼の前の人形は三人官女の一体だ。三人官女とは、お内裏様とお雛様のお世話をする女官のことで、それぞれに提子、三方、長柄銚子という道具を持っている。この人形が持っているものは提子。
提子とは、お内裏様とお雛様の食事を運ぶための小さなお盆のこと。提子を持つ三人官女は、親王の右側に飾られ、お内裏様とお雛様の豊かな食生活を願う意味が込められている。
その提子を持つ三人官女の人形の眼。これが次第に開いていく……!
その光る眼に、どんな咒がかけられているかも大体が予想つく。
かの『源氏物語』には源氏がのちに紫の上と呼ばれる少女と「雛遊び」をする場面が登場する。雛人形には人形の持ち主である女の子の遊び相手であるとともにその子の身代わりとなって厄を移しとる役割が持たされており、要は雛人形は少女の厄の塊。それ自体が咒であり、いわば呪物そのものなのだ。
だから、あの眼から放たれるのは「厄」であり「穢れ」。それが「病い」なのか「怪我」なのか「事故」なのか。あるいはそれ以外のどんな災厄が放出されるのか。
とにかく、あの眼が開く前にカタを付けなければいけない。
思考を瞬時に巡らせる。大麻による結界では間に合わない。かといって不動明王火炎咒のような大きな術式での攻撃は、吉岡鮎と田中幸子をも巻き込む恐れがある。
宝幢如来法はどうだ。悟りを求める心こそが宝であるとし、その発心を邪魔するすべての煩悩や迷いを取り除く咒。つまり雛人形の中にある「厄」や「穢れ」を浄化する術。だが浄化前に開眼されたら終わりだ。
幸子と鮎は背後の雛人形にまだ気づいていない。こちらに助けの手を伸ばしている。
憂太は思う。確かに田中さんも吉岡さんも、僕がいじめられていても助けてくれなかった。助ける義理は実はない。それほどの交流はない。でも憂太が吉岡鮎を「可愛い子だな」と思って見ていたことがあるのは事実だし、田中幸子の明るさがクラスの空気を変え、いじめに落ち込んでいた憂太の心を少しでも落ち着かせたことがある。
それは自分の命の危険を冒してまで助けるに足るものなのか?
だが僕は何度も、自分の命を絶とうとした。
僕に価値なんてない。
僕に居場所なんてない。
ならば、僕の命なんて捨ててしまっても何も問題はないんじゃないんだろうか。
いやしかしでさる。逆にそもそも憂太に「人を見捨てる」という選択肢を持つことはその性格上、できないのではないか。
憂太の脳裏にとある日の放課後のシーンが蘇る。
在りし日の忌みなる日常ともいえるあの光景。
「式守~。俺らこれからかき氷食いに行くの。カンパしてくんない?」
久世や虎井に囲まれている。憂太はおずおずと彼らの歪んだ顔を見上げる。
「こないだもらったお小遣いじゃちょっと足りなくなってさぁ。五百円でいいのよ、一人、五百円」
「困ってる友達を助けるってのも友情だろ?」
虎井がニヤニヤ笑って憂太に顔を近づけてくる。
そう、僕はいつもこいつらに嫌がらせをされていた。死にたくなるような想いをさせられていた。
だが、その「とある日」は違った。
「あっ!」
ドン、と虎井に向かって体当たりする者がその日にはあった。
それは。
田中幸子。
背負っていたナップサックをわざとかそうでないか、とにかく強めに虎井にぶつけたのである。
幸子は笑った。
「あっ、ごめ~ん、急いでたからさあ」
「なんだ、幸子かよ」
「気をつけろよ。重いぞそれ。何入ってんだよ」
「へっへ~。男子には見せられない女子の大事な大事な本たちだよ~」
「本?」
「男に見せられないって」
「あっ、もしかして興味ある~?」
にんまりしながら久世と虎井の顔を覗き込むようにする幸子。
「な、なんだよ」
「見せてあげよっか」
「え?」
にしししと幸子は笑った。
「知りたいなら、みんなでスタボカフェに集合~! ほら、急いで急いで」
そう言うと幸子はその場で足踏みを始めた。
顔を見合わせる久世と虎井。
「何やってんの。みんな待たせてるんだからすぐ行くよ~。ほらいっちに、いっちに!」
「ちょ、待てよ」
「分かったから。そんなに慌てさせんな!」
慌ただしく自分の鞄を手に取って教室のドアに向かう久世と虎井。
そして幸子が教室の入口から消える時。
一瞬、幸子が憂太の方を見たような気がした。
その表情は慈愛に満ちていて……。
──もしかして、僕を助けてくれていたんじゃないのか……?
廊下をパタパタと走っていく複数の足音。その足音は自分が自分の命を軽んじながらも、どこかで「誰かに助けてほしい」という救いを求めていたことを思い出させるように意識っせてくれたと思う。
そう。
僕は結局、自分が大切で、でも人が痛がるのを見るのは嫌で。
それなのに一歩踏み出せない……臆病でどうしようもない人間だった。
そんな僕に田中さんは……。
◆ ◆ ◆
憂太はいつの間にか、ヴァジュラを強く握りしめていた。
そうだ。隣の席の大嶋唯だって僕に気をかけてくれていたじゃないか。
僕はそれ以外は単なるマネキンのように感じていた。
同じ仮面をかぶったマネキンが並んでいるだけだと思っていた。
でも。
気にかけなかったのはクラスメイトじゃなくて、僕の方だったんじゃないのか。
塞ぎ込んで、壁を作って、誰も自分を愛して何てくれないと。
赤ん坊のように泣き叫んでいたのは僕だったんじゃないのか。
心の痛みが作る「思い込み」。
「思い込み」もいわば一つの「咒」だ。
憂太の心を縛るもの。
そう想いを形作ってしまうもの。
憂太は自らの心を重い鎖で雁字搦めに縛っていた。
周囲からの優しさや気遣いという正の想いが見えない「咒」にかかっていた。
つまり、見ないふりをしていたんじゃない。
「咒」で見えなくされていた。感じなくされていた。
だとすれば、僕はバカだ。
もしかしたら、他のクラスメイトだって、僕のためになんらかの思いやりを見せていたのかもしれない。
それを僕が、僕だけが。気づかなかったのかもしれない。
見えたはずのものが見えなくなり、次々と憂太は自分の心に「穢れ」を溜め込んでいっていた。
自分自身が「咒」に侵されていることを気づかずに。
これが「鬼」へと化す第一歩だという教えも忘れて。
間違っていた。
僕は、僕は……。
決
し
て
一
人
じ
ゃ
な
か
っ
た
!!
次の瞬間だった。
「うわああああああああああああ!!」
憂太は絶叫した。
憂太が想いを馳せていたのはゼロコンマ一秒かそこらだったろう。
(僕が、僕が、助けなきゃ!)
憂太はヴァジュラを構え、目を閉じた。
(このままじゃ、見えなかったっていうんじゃ、ダメなんだ!)
そして唇から吐息とともに「咒」を放つ。
「オン ベイシラマナヤ ソワカ」
僕は気づくべきだった。そしてこの「咒」に反応し、ヴァジュラの端、三鈷の部分から光り輝く剣が生えてきた。
それは武神・毘沙門天の法術。
先日、アドリアナ公国の街中で武器を買いに行く時に見せたあの術式。
あの時は、毘沙門天の「印」を結んで、光の剣を出した。
だが今は、ヴァジュラがある。
零咒では、ヴァジュラがあれば、「印」を省略することができる。
『待て! それは愚策ぞ!』
小さなピンクのウサギのぬいぐるみ、『悪業罰示の式神』として憂太に取り憑いている芦屋道満の怨霊が思わず声を上げた。
だが関係ない。
僕は、
僕は、
──今、クラスメイトを守りたいんだッ!!
その場から思い切り飛び上がった。
幼少期からの訓練で身についていた零咒の『飛行咒』の術式が自然に発動した。憂太の体はゆうに3メートルほどの高さにも上がった。
手には光の剣が輝くヴァジュラ。
それを振り上げ。
提子を手に抱いた三人官女を一刀両断に!!
『それは、陰陽師の戦い方ではない!』
道満がその心の声と同時に憂太の前に割り込んできた。
「どけ、道満!」
『ドアホウ! どくのは貴様じゃ!』
この憂太と小さなウサギのぬいぐるみに反応し、三人官女はギリッ、ギリッ、と不気味な軋み音を立てながらこちらを見上げる。
そして眼が見開かれる。
『貴様のやり方では遅すぎる!』
言うやいなや、だった。
道満は早九字を唱えていた。
『臨兵闘者皆陣列前行《りんぴょうとうしゃかいじんれつざいぜんぎょう》!』
安倍晴明の九字は基本、「五芒星」、つまり星の印で記される。
だがそのライバルである芦屋道満の九字は「籠の目」。指を剣になぞらえて空中に縦横と順に線を描くその形が発現する。
道満ほどの術者となると指で宙に線を刻む必要はない。
それを口にしただけで。
「咒」を唇から発しただけで。
九字=魔除けの「咒」が相手に向かって放たれた。
一瞬だった。
三人官女の雛人形は。
道満による早九字の「咒」の籠目に体中を貫かれ。
まるでサイコロステーキのように正方形に切り刻まれた。
そしてその刹那。
籠目に切り刻まれ残った片目から。
強力なレーザー光線のようなものが放たれ。
夜空を切り裂きながら。
地下鉄の入口はおろか、その先のスクランブル交差点にあるビルディングをスパッと斬りながら。
だがすぐにその光を失い。
その刻まれた躰が路面に、ボロボロっと崩れ落ちた。
●「九字」。芦屋道満の九字はこのような「籠目」で表され「ドーマン」と呼ばれる。