第25之幕 殺戮の幕開け⑦ 【渋谷駅前ハチ公広場アオガエル裏】
第25之幕
「キャアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
吉岡鮎と田中幸子の絶叫が渋谷の夜空に響き渡る。虎井の引き抜かれた首からは鮮血が噴水のように飛び出し、そして雨のように降り注ぐ。路面を濡らし、二人の女子高生を濡らし、そしてそれはハチ公が描かれている壁画にまで届いていた。
『なるほど、幼子の怪異か』
いつの間にか道満が憂太の胸ポケットを抜け出し、憂太の耳先で浮いていた。
『これは、先ほどの“ひいな”の人形と結び付きがあるかもしれぬな』
「ひいなの人形……雛人形のことか」
『左様。この女児とひいなの穢れ。一筋縄ではいかぬ咒やもしれぬ』
道満にはなにか心当たりがあるようだ。だが今はそれを聞いている暇はない。
本来ならば、クラスメイトの一人や二人、この異世界で痛い目に遭ったとて、憂太にとっては半ば「因果応報」ぐらいの気持ちしかない。なにしろ、あの虎井という男子生徒は、久世と一緒になって憂太をいじめていたいわば憎くき敵なのだ。
しかしあれほどまでの惨劇に襲われることまで憂太は望んでいなかった。少し後悔してもらう程度で良かったのだ。
だが憂太の憎しみを超えたその禍殃が憂太を動かした。
憂太は自身でも驚くほどの強く大きな声をその身から絞り出した。
「みんな、今すぐ僕の近くに集まって!」
そして怪異たちが縦横無尽に駆け巡る禍害の場に自らの身を投じる。
「命が惜しければすぐに来て! みんなの武具じゃ防ぎきれない!」
気弱そうな少年のこの狂気じみた様相に、ニアやエリユリはもちろん、トレシアら最終旋律のメンバーも面食らった。それほどまでに切羽詰まった声だった。油断していたら見逃すほどに俊敏だった。
「憂太?」
「急に走り出してどうしたんですか!?」
その背中にニアとエリユリはようやっと続いている。
最終旋律らも憂太の気迫に押された形で走り寄ってくる憂太の元へと足を向けた。最も早く反応したのは大嶋唯だった。全速力で駆けて来て、そのまま憂太に、
「式守くん……! 式守くん……!」
と、飛びついた。
唯にぎゅうっと抱きしめられながらも、憂太は手印の指に息を吹きかけ、自身とその前周囲を取り囲むように指で路面に半円を描く。
「急々如律令……」
トトトトッと大麻……神主の払い棒が扇形に路面に刺さっていく。続けて憂太は最も汎用性の高い咒の一つ、光明真言を早口で唱える。囁くように。その唇の歯擦音が聞こえるぐらいに。
「オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン……」
不空なる御方よ 毘盧遮那仏(大日如来)よ……偉大なる印を有する御方よ 宝珠よ 蓮華よ……光明を 放ち給え……。それは安倍晴明が得意としたと加持の真言。安倍晴明そのものを指す時にもよく用いられる咒である。
そして宿屋のメモ用の帳面の紙で念のため作っておいた、人形の紙を上空高く撒き散らした。パラパラと降ってくるそれ、その一つ一つに咒を込める。
これに幼女の怪異は反応した。一瞬、動きが止まった。
そしてすぐさま動き出す。憂太が咒を込めた人形の紙に一斉に群がっていく。ヤツらはそれらを掴んでは破り、引千切り、むさぼり食い、そこにいつくもの怪異の輪ができる。
「少年、これは何が起こってるんだ……?」
憂太にトレシアが聞く。
「ヤツらは、あの符……紙切れが僕たちに見えています」
憂太は咒を唱えるのを一時中断し、答える。そして、
「吉岡さん、田中さん、今のうちだ! 早く、早くこっちに来て!」
そう叫んだ。
「し、式守くん……!?」
これに幸子が反応する。腰が抜けて動けない吉岡鮎を引きずりながら懸命にこちらへと歩を進める。
「式守……、これって」
久世が冷や汗でびっしょりの顔で憂太に尋ねてきた。なんて表情をしてるんだ……。憂太の心に少し憎しみが湧いた。だが憎しみの心は咒に穢れを持ち込むことになる。憂太は冷静を心がけ、真剣な表情を崩さず、再び「オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン……」と唱え始めた。答える余裕なんてない。義理もない。
冷たいのか、僕は……。
葛藤する。だがその葛藤が濁りを、穢れを生む。
ダメだ。今は集中しなきゃ。僕がやらなきゃダメなんだ!
「おいなんとか言えよ、おい! 式守!」
「静かにしてください、勇者さま」
しつこく憂太に問いかけようとする久世をドラゴンニュートのユマが制した。
「おそらくこれが、あの少年の魔法のようなもの。気をそらしてはなりません。彼は私たちを助けようとしてくれているのです」
「助ける……? この式守が……?」
久世はまさか、という信じられないような表情を見せる。
「俺たちを……?」
「そうです」
「だってこいつ、ステータスもなんにもなしの、単なるひ弱な、おとこ女だぜ!?」
「少年」
と、白狼族のアーシャが久世の肩に手を置いた。
「この波動。ワタシも感じるよ。見たことない術だが、とんでもなく強力だ。見ろ」
アーシャは憂太が放った符を取り合いしている幼女の怪異たちをあごで指す。
「おそらくあれはワタシたちの身代わり。そういう魔法なのだろう。そしてここは結界。実際、あの女児の怪物たちはさっきからまったくこっちを見ていない。いや。見えないのだ、おそらく」
「ど、どういう……つまり、どういうことなんだよ!」
「あの怪物たちからワタシたちは見えてない。これはおそらくあの白いひらひらの紙切れがついた棒が触媒が作り出した結界だろう。あの棒からこっちは、安全。それをこの少年は作り出した」
「そ、それを、式守が……? 式守が……?」
どうしても久世は認めたくない。だがそれも仕方がない。友人の虎井があれほどまでに惨たらしい死に方をした上に、久世によって式守憂太はゴミのような存在でしかなかったからだ。イライラが募れば蹴飛ばすぐらいの、ゴミ用ポリバケツ。そう。どうしようもなく久世は憂太が嫌いだった。見ているだけで胸が焼けるほどだった。
そんな久世の背と横顔を見ながらニアが付け加える。
「ねえ。あんた、久世って言ったっけ」
「な、なんだよ」
久世はその猫耳のギャル少女を振り返る。
「あんた、いい加減、認めなよ。ここはあんたが思っているような場所じゃない。それに憂太も、あんたが思っているほど弱くない」
「そうですよ、そうですよ!」
続いたのはエリユリだ。
「私たちだってすでに何度か憂太さんには助けられているんです。あなたたちがいた世界ではどうだったか知りませんが、この世界では憂太さんこそが、勇者さまなんです」
「それにどうにも戦い慣れている」
トレシアがその静かな眼を細めながら呟いた。
「あれはここ最近の修練鍛錬、云々ではないな。幼少期より仕込まれたものだろう。彼はもしかしたら、この『TOKYO』ダンジョンでは、私なんかより数段上手の戦士かもしれない。まさに運命によって召喚された伝説の勇者なのかもしれない」
久世は愕然とする。まさか……式守が……?
静かに目を閉じ、咒を唱え続ける憂太の横顔。
確かにこれほどまでに凛とした憂太を久世は見たことがないかもしれない。
だが、だからといって。
自分が式守より劣っているなんて認めたくない。
だけど、だけどこの状況では……。
一方で田中幸子は、吉岡鮎の腕を肩にかけ、必死でこちらへ向かって来ている。
どう頑張っても鮎は脚に力が入らない。
だが懸命に、顔を真赤にして……もとより虎井から噴き出した血を浴びて真っ赤ではあったのだが……親友である鮎を助けようと引きずっている。
ほんの20メートルほど。
その距離を埋める時間が、大嫌いな数学の授業の50分よりも長く感じる。
周囲ではまるで餓鬼の群れのように、幼女の怪異が符に群がっていた。符が破けても咒は消えないようで、二つに引き裂かれると、それぞれに向かってまた怪異が取り付いていく。いわゆる無限地獄だ。憂太は怪異にとってこの無限地獄のループを作り出した。
怪異をして、地獄へと突き落とす。
怪異だからこそ、憂太の前では煉獄の鬼の前の亡者と化す。
そんな無限地獄を。なるべく声を上げないよう、荒い呼吸が漏れないよう、気づかれぬよう、幸子は少しずつ足を出していく。憂太や皆がいる場所には怪異たちはいない。つまり、あそこまで行けば安心なのだ。
怪異たちがこの白い紙切れに無我夢中になっている間に、あそこまでたどり着ければ、少なくとも命は助かる。そのために式守くんがなにか魔法の詠唱のようなものを続けている。私たちを守るために。全然、クラスでも話さなかった私たちのために。
私はなんて、人を見る目がなかったのだろう──!
やがて光明真言を唱え続けていた憂太がその目を開いた。
幸子と鮎との距離はもう10メートルとない。
今なら駆け込める。今が機だ。
「早く! 早くこの結界の中へ!」
憂太は叫んだ。その力強い声が幸子の残された力を引き出した。幸子も限界だった。だが必死に口を閉じ、息がなるべく漏れないよう、怪異たちに聞こえないよう、懸命に我慢しつつ。
まずは片手を伸ばす。まるで救いを求めるかのように。
手のひらを見せて指をうごめかす。憂太の手を取ろうとでもするかのように。
(ここまで来れば大丈夫だ。もう少し、もう少しで田中さんも吉岡さんも……)
憂太の心の緊張が解けていく。ひとまず、急場しのぎはできる。二人を助けて、全員で……いや、虎井は手遅れだが……、うまく立ち回れば、僕がうまく零咒を駆使すれば、この渋谷からの脱出は後で話し合えばいい。
(そもそも、これは僕の無自覚の零咒が招いた事態なんだ。だから、僕がやらないといけないんだ!)
そう。憂太にも自責の念はあった。無意識だった。やろうと思ってやったことではなかった。だが、陰陽印を使った空間転移術。あの無意識の術式の発動がなければこんな悲劇はなかったのだ。その罪悪感を拭いたかった。自分は悪くない、悪かったとしてもその責任は自分で取らなければならない!
そして心の何処かで、それは可能だと自分を信じている自分もいた。
そう。
──それを見るまでは。
いつからだろう。いや、先程まで、それはいなかった。
怪異が符に群がっている中。
幸子と鮎が必死にこちらへと向かっているその背中。
そのすぐ背後に。
突如として、先ほどまでスクランブル交差点に散らばっていた雛人形のうち一体が、筆で書かれた無表情で、静かに鎮座していた。
そのまぶたが、強烈な光とともに、少しずつ開いていく──!