第14之幕 不動明王火炎咒
第14之幕
──すごくいい匂いがする……。
大嶋唯の隣を歩きながら憂太はドキドキする。
「ん? どうしたの?」
不意にこちらを向かれ、憂太はビクっと肩を跳ねさせた。
まさか心を読まれているということはないだろうが、それにしてもジャストタイミング。
憂太はあわあわと顔をこわばらせながら「な、なんでもないよ……」と返すのが精一杯だった。
「それにしてもこっちの世界にも天気雨があるのって不思議だね。異世界じゃないみたい」
「あ、あの……。ニアって黒猫族の子とエリユリっていうエルフの子から聞いたんだけど、この世界と僕らがいた世界って、平行世界のように干渉し合っているらしくて」
「そうなの!?」
唯が驚きで足を止めて憂太に向き直った。
「あ、う、うん。『カスケード』って呼ばれる時空の裂け目を通して繋がっているんだって。その守り神が『ウミノ・ミユ』。信仰の対象らしくこの異世界の始まりはその『カスケード』かららしいよ。そこは僕らの世界へも通じているから彼女たちと言葉も通じるし、なんとなく価値観も共通してる」
「そっか~。初耳だよ。なんでそれを大公さまは説明してくれなかったんだろ」
「きっと過去の異世界召喚で呼び出した勇者たちに話してもあまり理解してもらえなかったからじゃないかな。それに僕は、そういう不思議な話のことは好きだし、割と信じてるし……」
「そうだよね。式守くん、そういう不思議系とかオカルト系とか強そうだもん。お母様もそっち系のプロの方でしょ。そっか。よくわかんないけど、不思議系エキスパートの式守くんが言うなら私も信じるかな」
「え、信じてくれるの?」
「もちろん!」
と唯は胸を張った。そしてこっそり憂太に耳打ちしてくる。
「実は私も、怖い話とかホラー映画とか、ファンタジーとか大好きなの」
吐息が耳に触れて憂太は気を失いそうになった。「いや、あの、その、えと」と口ごもりながら完全に躰が硬直してしまった。
それに気づかず、草原を歩いていく唯の後ろ姿。
『なんじゃ。貴様、あの小娘と交わりたいのか』
突如、道満から声をかけられ憂太の左手の小指だけがピクリと動く。
『肉体を重ね合わせたいとする欲が貴様の全身で渦を巻いておるぞ』
「うわあああああああああああ!」
思わず素っ頓狂な声を上げ、いつの間にか顔の真ん前に浮かぶウサギをぎゅうっと掴んだ。
その声に驚き、唯が振り返る。
「ん? どうしたの?」
「な、なんでもないよ! 後で行くから先行っといて!」
「ふーん、変なの」
そして唯が前を向き直したのを確認して……。
「なんだよ! 勝手に人の心を読まないでよ!」
『そんなに驚くこともあるまい。正常な男の反応だ』
「それに……僕は、男なんかじゃないよ」
憂太はさらに声を潜める。
「僕には戦う術がない。武器も全部弾かれるステータスだったし、あるのは召喚術士用のこの防御服と三鈷杵だけ。あの子に僕は男だって、男らしさを見せるなんて。それができるなんて僕は自分に驕ってない」
『戦う術がない、とな?』
そう言うと道満は憂太の心の中が破裂せんばかりの大声で笑った。
『お前が手にしておるのはなんだ?』
「え。三鈷杵だけど」
『それが何かは、わかるな』
「ヴァジュラだよ。それがどうしたってんだ」
『はあ、ここまでお前が馬鹿とは』
ウサギはため息を付くように頭をうなだれた。
『今までお前は母親から何を学んできたのだ。様々な術を伝授されたのではないのか』
「そりゃそうだけど……」
『元いた世界ではあまり『咒』とは関わりがなかっただろう。だが見ろ。わしはこうして動いておる。実在しておる。怨霊としてお前とこうして会話までしておる』
「うん……」
『はあ……。ここまで馬鹿だとわしの欲しいその肉体、死んで使い物にならなくなりかねない。仕方ない。教えてやる。ここはな。この貴様らが異世界と呼ぶこの世界はな、貴様の力……『咒』が生きておるのよ』
「『咒』が……生きている……」
『おうよ。わしがこのようにこの忌々しいわしを封じる式神を操れるのもそのおかげだ。貴様は母親の教えを遂行するだけで良い』
「母さん……の……?」
『ああもう、その母さんってのが気に入らんが、その通りだ』
「じゃあ、もしかして……」
その時、前を歩いていた唯が憂太を大声で呼んだ。
「式守く~ん! 出た、出たよ! 巨大トカゲがこっちに迫ってくるよ!」
唯までの距離は15メートルほど。その唯に向かって紫色の気持ちの悪い形をした大きなトカゲが長い舌をむちのようにしならせながら走って来ている。
『そのもしかして、だ。試してみよ。己が『咒』を』
唯は魔法杖を掲げて対抗しようとしている。そう言えば、唯がどんな魔法を使い、どんな戦い方をしているかまだ聞いていない。だがそんなことより。
自分に優しく話しかけてくれた少女がモンスターに襲われている、その光景が憂太の脳を目覚めさせた。
──助けなきゃ!
と思った。
オオトカゲまでの距離はここから50メートルほど。
それでもあれほど大きく見えるということは体長は10メートル以上あるのではないだろうか。
唯はオオトカゲが自身の魔法の間合いに入ってくるのを待っているようだ。
だが。
見える。
背中が。
唯の背中がかすかに震えているのが見える。
そうだ。
怖いのだ。
当たり前じゃないか!
女の子なのだ。
いくら異世界で魔法の加護を授かり、戦う力を身に着けたといっても少女。
肉体的な争いに慣れているはずがない。
その唯の様子を見て、一人の冒険者が加勢しようと駆け寄ってきた。
だが、唯が魔法を放つよりも。
その冒険者が剣を振りかざすよりも早く。
憂太は叫んでいた。
「ノウマク サンマンダ!」
そしてヴァジュラを躰の前に掲げる。
そこにもう一本の腕を交差し、手のひらをオオトカゲへと向けた。
そもそも真言とは「三密」を必ず守らなければならない。
その「三密」とは身密・口密・意密の三つ。
身密とは「印」を結ぶこと。
不動明王の場合なら右手の指を左手の指の上にして組み、掌の中で指を交差させる。その状態で左右の人差し指を立てて合わせ、親指で薬指の方向へ押す。
これが不動根本印(不動独鈷印)だ。
口密とは声に出して真言を唱えること。
意密とは意(心)に仏様の姿を思い浮かべること。
だが母が学んだのは密教ではない。
修験道、陰陽道、密教、民間信仰すべてを合わせた亜流陰陽道。
母いわく『零咒』。
土御門の血を引く母の家に古くから伝わるその『零咒』では、「三密」のうち身密を、ヴァジュラで代用することができる。
すなわち緊急の場合、印を結ぶ必要がない。
憂太が口にした口密は、不動明王のもの。
意密によって、不動明王尊の姿を脳に思い描く。
そして憂太は、真言の続きを放つ。
「バザラダン カン!」
真言の中でも「一字咒」と呼ばれる真言。
不動明王の三つの真言で最も短い真言だ。
それが。
──ノウマク サンマンダ バザラダン カン!
不動明王火炎咒だ。
ピンクのウサギ……蘆屋道満がニヤリと笑い。
同時に。
『ギエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ!!』
オオトカゲが直径10メートルはあろう巨大な火柱に包まれた。
その炎はオオトカゲを一瞬で焼き尽くし。
灰までも燃やし尽くし。
その爆炎は、唯やかけつけた冒険者を軽く吹き飛ばした。
憂太は途方に暮れる。
子どもの頃からイメージしてきた『咒』の力。
そのまったくイメージ通りに現れた不動明王の浄化の炎。
夢の中だってこんなにうまくいかなかった。
母親の教えてくれた術は、単なる迷信だと諦めていた。
──だが、それが今、眼の前で、体現されている!
――『咒』の力は、この異世界でその本当の力を発揮している!
オオトカゲを焼き尽くすと火柱はあっという間に消えた。
その場にあった草が焼かれ、円形の土がむき出しになっていた。
立ち上る真っ黒な煙に巻かれながら、唯がおそるおそる憂太を振り返った。
だがその憂太もあまりの衝撃にそのまま動くことができないでいた。
周囲はシーンと静まり返っていた。
他のクラスメイトたちも、突如現れた巨大な火柱に呆然としていた。
ヴァジュラを握り、そこに腕を交差させ、手のひらを前に突き出していた憂太にピンクのウサギは、蘆屋道満と名乗るその怨霊は、こう囁いた。
『──それが、貴様の、力だ』