第13之幕 隣の席の少女
第13之幕
静かに降りそそぐ雨を「零雨」という。
「令」という漢字は元々、神様にお辞儀をしてお願いをしている様子を表している。これに「雨」冠が付け加わり「零」になると、神様に願いが通じたあと、「静かに雨が振り始める」という意味になる。
今日はしとしとと細かな雨粒が降りそそいでいた。だが一方で、太陽も燦々《さんさん》と輝いていた。いわゆる「天気雨」、別名「狐の嫁入り」というやつだ。
──また名も知らない誰かの願いがどこかで叶ったのだろうか。
天を仰いだ憂太の顔を青空の涙がぽつり、ぽつりと濡らしていく。
陽の光を通して見る小雨はまるで銀色の針のようだ。
憂太は雨が嫌いではなかった。
雨が降っていれば外に遊びに行かなくてもいい。
憂太は昔から家のなかに閉じこもり、ひたすら陰陽や密教、妖怪や怪異の本を読んで過ごしていた。
近所のクラスメイトと遊ぶよりも一人のほうがいい。
それに呪術に興味を持つとなにより、ママが喜んでくれる。
いつも泣いてばっかりだったママ。
一度は僕を捨てて出ていったが、それでも帰ってきてからは僕につきっきりだったママ。
憂太の人生は、母親の笑顔を見るためだけにあったと言えるほどに暗く歪んでいた。
もはやそれは、それ自体が『咒い』だ。
特段、母親が好きなわけではない。
寧ろ、どこかで恨んでいる節もある。
憂太は「母親」という『咒い』に雁字搦めにされていた。
その重い鎖を引きずりながら、これまで生きてきた。
──もちろん、憂太にその自覚はない。
『なんだ、お前。他の級友たちと一緒に訓練はせんのか?』
ピンクの小さなウサギのぬいぐるみが……『悪業罰示の式神』が宙を漂いながら憂太の肩に乗って言った。
『あいつら、嬉々としてモンスター退治に興じおるようだが』
「うるさいよ。道満」と憂太はぶっきらぼうに答える。かまをかけるのではなく自然とその名が口から出た。「僕には戦える武器はないんだ」
『お。初めてわしの名を呼んでくれたな』
『悪業罰示の式神』に封じ込められた蘆屋道満がうれしそうに言った。
『なんじゃ。やっぱりわかっておったのか~。この時代にもわしの名が知れ渡っているっていうのはなかなか。悪い気分ではないのう♪』
アドリアナ公国の市壁を出て竜車で半時間。
この辺りには弱いモンスターの群生地となっていて絶好の訓練場として知られている。
現れるのは狼型のウルフファング、スケルトン、肉食の植物モンスターであるギガースフラワー。
皆それぞれ、この国のベテラン冒険者やヒーラーのサポートを受けながら、自身のステータスに合わせた武器や魔法で戦っている。
「すげーな! 一応、命がかかっているとはいえ、この程度だったらまるでサバゲーだ」
「見て見て! 夢みたい。私の手のひらから火の玉がこんなにスムーズに出る!」
「つか、弱いモンスターってスライムの印象だけど」
「ば~か。スライムってのは物理攻撃無効で、相当な強敵だぞ」
息を弾ませながらモンスター狩りを楽しんでいる級友たちが憂太にはまぶしい。
彼らから10メートル以上も離れた草原に、ひとり、ぽつんと立っている自分は、まるでこの時間に置いていかれたかのようだ。
唇を噛みしめる。
まともな武器を持てない自身のステータスを恨む。
──『空亡』の根源が潜むダンジョン探索まであと一週間。
アドリアナ大公がこの狩り場での訓練を用意してくれた。
誰もがまだ遊び半分だった。
アニメで話題の異世界転移の主人公気取り。
オンラインゲームのプレイヤー気取り。
本当の死の恐怖を彼らは知らない。
そのダンジョンに何が潜んでいるのか。
そこがなぜ『TOKYO』と呼ばれているか。
危機感のない彼らのモンスター退治を憂太は淡々と見つめていた。
『しかし、なんというか。剣と魔法の世界とでもいうのか。平安の世では考えられん光景だのう』
蘆屋道満はそうつぶやいた。
珍しくて仕方がないといった様子だ。
それはそうだろう。
平安時代。それは怪と呪いの世界だった。
このような西洋の世界観なんて想像もし得なかったはずだ。
「あんまりはしゃぐなよ、道満。皆にお前が見つかる」
『お前……とな?』
小さなピンクのウサギがイライラを見せた。
『小僧、貴様。この天才陰陽師である道摩法師様をお前呼ばわりなど数千年早いわ!』
「頼むから黙ってくれ、道満」
『し、しかも気づけば貴様、儂を、この天才である儂を呼び捨てではないか! 礼が足らぬ、礼が!』
「お前こそ、今は僕の式神だろ。僕のほうが立場が上だ」
『な、な、な、な……!』
ウサギが地団駄を踏む。
『式神も用途を間違えれば呪うぞ、祟るぞ!』
「それにお前が道満だっていう証拠もないし」
『あ~っ! 信じてない! 信じてない! 信じられない! しかもまた貴様、儂を呼び捨てにしたな! なめくさりおって。儂の力をもう何度か見ただろ! ならわかるだろ!』
「見たよ」
『では恐れ崇めよ、儂は貴様に取り憑いているも同然なのだ』
「そうだね」
『な……。ま、まあいい。儂の恐ろしさがわかっているなら、少しは敬うという気持ちは起こらんか!』
「わからない」
正直に憂太は答えた。
「僕、小さい頃からほとんど母さんとしか喋ってないから……」
『母さん?』
ウサギは目を丸くした。
『貴様というやつは! マザコンか、この!』
「なんでマザコンなんて言葉、知ってんの?」
『当たり前じゃ! 怨霊として時空のはざまを漂って1500年。わしは見て来たのじゃ。はざまに伝え聞こえる声からわしは情報を集め取り入れ、いつか令和の世にも……』
「その話、長くなる?」
『貴様なあ……』
ウサギは異様な妖気をまといながら憂太の鼻先へとゆっくり飛んできた。
『貴様、なんか考え違いしとりゃせんか? わしは貴様の肉体を乗っ取ろうとしておる天才陰陽師の魂だぞ』
その妖気を憂太は正面から受ける。
『この『悪業罰示の式神』、この『咒』から解き放たれれば、すぐでにも貴様の肉体を乗っ取り、わしはこの世に陰陽の王として君臨する。貴様はわしから見れば単なる容れ物に過ぎん。もちろん貴様がわしから逃れることもできん! わしの『咒』が貴様にまとわりつき離れることも許されぬ』
体中に鳥肌が立った。
この悪意、この殺気……本物だ!
さすがの憂太の額にも冷や汗がにじみ出る。
母から言われていた。
式神との会話は最小限にするように。
式神と心を通わせないように。
そうでなければ。
取
り
殺
さ
れ
る
!
『ほう……。すごい恐怖心だ。心の臓が弾けんばかりに打っておるな』
憂太はゴクリとつばを飲み込んだ。
『言っておくがわしは本物じゃ。本物の蘆屋道満じゃ。あまりなめた態度でくるなら、わしにも……』
「式守く~ん!」
その時、一人の少女が憂太の元へと走り寄ってきた。
頭上で大きく手を振り、息を弾ませている。
大嶋唯。
人一倍人懐っこく、憂太の隣の席に座っていた女子。
ショートボブを揺らしながら駆けてくる唯の姿に、思わず憂太は眼の前で飛んでいるウサギのぬいぐるみを気づかれないよう、はたき落とした。
『考えがあ、あ、ああああああああああっ……!?』
ぺしっと草原の上に落ちて転がるピンクのウサギ。
「あれっ。憂太くん、それどうしたの?」
「な、な、なんでもない、なんでもないよ!」
その弾む息とやわらかそうな頬をつたう爽やかな汗に、憂太のコミュ障が一気に爆発した。
「い、い、い、いや。ちょっとそこで落ちてるの見かけて」
自分でもわけのわからないことを言っていると思いながらも憂太はウサギを足の裏で踏んで隠す。
『むうううううううううううううううううううううううううううううう……!』
すまない、道満──。一応、心の中では謝った。
「ま、いっか」
大嶋唯はニコッと笑った。
「ね。憂太くんも訓練しようよ。あっちにトカゲの大きいやつがいたの。ね、一緒に倒してよ」
憂太の顔はおそらく真っ赤だっただろう。断ろうにも断れるような流れではない。それに声をかけてもらえたのが少しうれしくもある。でも恥ずかしいという想いが憂太の頭の先までつまさきまで駆け抜ける。
気づけば憂太は無言で、必要以上に頭を縦に何度も振っていた。
大嶋唯