第10之幕 「おいでおいで」
第10之幕
「ここがうちらの国の目抜き通り。割と活気あるっしょ!」
わあっと手を広げたニアの背後には大きな噴水が派手に水しぶきを上げている。
レンガ通りにはヒューマノイドのほか、数多くの獣人、ドワーフやホビットらしき人影。ほかに身の丈3メートルはありそうな巨人族が棍棒片手にのっしのっしと歩いていた。
アドリアナ公国の第八区。ほぼ国の中心部に位置しており、商業施設が立ち並び、国内でも人の出入りや人口の多い区だ。
東京で言えば恵比寿や六本木といったところだろうか。
荷車を引いているのはドラゴンの一種のようだ。馬もいればダチョウのような鳥もいる。いわゆる憂太らが想像するファンタジー世界そのものがそこに広がる。アニメやゲームで見たようないわゆる想像通りの「異世界」。そこにほぼ齟齬はなかった。
「……本当に異世界……だね……」
さすがの憂太も思わず声が出た。風景に感動して声を上ることなんて、これまでの憂太では考えられない。それほど想像通りの、いや想像以上に見知った異世界ファンタジーが確かに存在していたのだ。
ふと、憂太は考える。
以前、ニアやエリユリが言っていた「空間の割れ目」……つまり『カスケード』。それによる相互効果が憂太のいた世界にもこちらの世界にもあると言う。この世界が生まれたのが先か、それとも憂太の世界のクリエイターが創造した世界が先か。
とにかく映画やアニメで見た世界そのものが目の前に広がっている。少年ならば明らかに魂を揺さぶられるのは当然かもしれない。憂太の心踊らせるワクワクがおもちゃ箱のごとく詰まった世界がここにある。
まるで夢の国。
思わず自分のほっぺをつねった。
痛い。
つまり、夢の国だが夢じゃない。
今眼の前で起こっていること、広がる景色、果物や料理の香り、さまざまな種族が闊歩するこの街道。
本物だ。憂太が自身の眼で見て、自身の脳で認識している光景だ。
絵でも映画でもCGでもVRでもなく、そこに実際に一歩、ニ歩と足を踏み入れられる世界に憂太はいる。
『当たり前だ。小童。現実をしかと受け止めんか』
(…………!?)
え? と緊張が走った。
まただ。憂太のかすかな幸福に水を指す、この声……。
焦って周囲を見回す。だがそれらしき人影はない。
次に胸ポケット……。
『そんなんだから、お前は己が今、直面しているこの危機にも気づかんのだ』
(や、やっぱり……!?)
「あれ。どうしたの憂太さまぁ。気分よくない?」
うろたえる憂太を見てエリユリが心配そうに顔を覗き込んでくる。
「いや、そういうわけじゃなくて……」
なになに? とニアやラウラも振り返った。
「なんか薄気味悪い声が……」
三人の少女は顔を見合わせる。
「まあ憂太にとっては見慣れない風景だもんね。テンション上がって幻聴ぐらい聞こえるかぁ。つーことはかなり喜んでるっぽい。さいこー!」
「なになに~☆ もしかしてこの美少女三人に囲まれて緊張してるとかですか?」
「わたくしたちを性的な目で見ているのか、憂太。そうか。仕方ないことかもしれんが、落ち着け」
「ち、違う。本当に違うんです!」
あたふたと憂太は言った。
「き、聞こえなかったならいいんです! こ、こっちの問題だから……」
学生服の胸ポケットのもぞりとした動き。
そしてこのただならぬ気配。
間違いない。
──『咒』だ。
呪い。呪術。その類のもの。それがこれには封じられている。
化け物? 妖怪? それとも亡者? 死霊? 魍魎?
憂太の心臓が高鳴っていた。胸が熱くなる。
ドクン
ドクン
ドクン
『良いから明け渡せ。なあに。ちょっとこちらの咒に応えてくれればよいだけよ』
ドクッ
ドクッ
ドクッ
ドクッ
ドクッ
ドクッ
ドクッ
ドクッ
ドクッ
ドクッ
ドクッ
ドクッ
ドクッ
ドクッ
ドクッ
ドクッ
ドクッ
ドクッ
ドクッ
ドクッ
ドクッ
ドクッ
ドクッ!!!!!!!!!
『早くせんと、わし以外の者に喰われるぞ?』
(────!?)
それは脅しではなかった。
感じた。
憂太にも感じられた。
確かに、確かにいる。。
この『悪業罰示の式神』の他に。
咒の形を持つ者が。
空想のようなこの異世界の中に。
紛れている──!
それは、馬車や騎竜たちが横行する大通りに、なんということもなくぽつんと立っていた。
中世ヨーロッパ風の街並みには似つかわしくない和服姿。
まるで時代劇で見るような髷を結った若い女。
憂太の世界の、しかも過去の、和服の日本人女性が、目を弓のように歪めて笑っている。
口元にはかすかな笑み。
そんな彼女が。
──「おいで、おいで」と手招きしている。
「う、後ろッ!」
憂太は叫んだ。
「えええっ!?」と三人は振り返る。だが。
「なに~何もいないけど」
「どうしたんですか、憂太さん。なんかまだ寝ぼけてるんですか?」
「憂太。私が振り返った体力を返せ」
逆に三人から詰め寄られてしまった。
(やっぱり……見えないんだ、この人たちには……)
憂太の目にはまだしっかりと見えている。
その和服、和髪の女が。
さ
っ
き
よ
り
近
付
い
て
来
て
い
る
ッ
!
(あれは害を与える咒……!)
おそらく無意識だったろう。
憂太は自らの身から立ち上る『咒』。
つまりポケットの中にあるウサギを取り出した。
『なんだなんだ。荒っぽいのう』
これに対し、憂太は念を送る。
式神の中には念を持って会話、交流できるものがある。これほどの『咒』を放つ者。それが憂太の念に答えられぬわけがない。
(お前が誰かは知らない。だが、知ってるんだろ? あれが何か、あいつが何者か!)
ウサギの『咒』が、雑踏の和服の女に向けられたのを感じた。
『はてさて。あんな雑魚な幽鬼の名なんて知らんわい』
(つまりは知ってるんだな! 名でなくとも! あの正体を!)
「ねえ、どしたの? 怖い顔して」
驚いた表情でおずおずと声をかけてくるエリユリの声。だがそれは憂太の耳には届かない。
(教えろ! あれは何だ! 何でこんなファンタジー世界に、あんなのがいる!)
『うるさいのう』
式神はふてくされたように言った。なんて態度の悪いヤツだろう。
『ありゃ、名もなき幽鬼だ。昔、備後の国に現れたという記録はあるが』
備後……だって?
備後といえば今の広島県だ。
そんな地方の幽鬼がなんでここに?
『確か、寛永年間(1748~1751)に伝わってた噂だ。確か、稲生平太郎という16歳の少年の元に多くの幽鬼が現れてな。その一つがあやつであろう』
驚いた。想像以上にこの式神は学がある。一体、何者なんだ?
『なんじゃ。何を焦ることがある』
憂太はハッと我に返った。
(それはわかった! わかったがここからが大切なところだ。あれは人を襲うのか? それとも存在しているだけなのか?)
『小童、考えても見ろ。今は『空亡』だぞ?』
ぬいぐるみのウサギが笑ったような気がした。
『そりゃ、襲うだろうよ』
ニヤア……。
憂太はゾッとした。
そうだ。『空亡』。呪術や四柱推命でいう災厄の時期。悪鬼が力を増す魑魅魍魎の時空。
(まずいっ!)
そして、その怪奇現象は起こった。
「キャアアアアアアアアアアアアアア!!」
突如、エリユリの躰が地面から浮いた。
その光景を身た憂太は、あまりの異様な光景に言葉を失ってしまう。
和服の女の姿は、まだ大通りにあった。
そのまま「おいで、おいで」と手招いていた。
だがその躰には今。
──『首』がなかった。
「エリユリッ!」
ニアが戦闘態勢を取る。
ラウラが体の割に大きな魔法杖を用いて構えを取る。
だが、彼女たちには見えてない。
あの幽鬼の姿が見えていない。
何が起こったかわかっていない。
その視線は宙を泳いでいる。
だが、憂太には見えていた。
エリユリの上空に。
巨大なアドバルーンのような和髪の女の『生首』が。
そしてその『生首』の下は、躰の代わりに。
巨大な一本の腕がぶら下がっているのを。
その腕が、エリユリの髪を掴んで持ち上げている。
それは実体化を始めていた。
「エリユリッ!」
憂太も叫んだ。
その叫び声を聞いて、ピンクのウサギがいかにもおかしそうに笑った。
『ワハハハハハハ! 『空亡』の力がヤツの力をさらに強くしておるわ。このままだとあの娘、喰われるぞ? どうだ? ここでわしを解放してみんか?』
「解放? お前ならアイツを倒せるのか?」
ぬいぐるみに向かって怒鳴りつける憂太にニアが不審な表情を見せる。
「……憂太?」
かまわず憂太は続ける。
『当たり前よ! わしを誰だと思っておる。先程も言ったであろう。あれは雑魚であると』
「じゃあ助けてくれよ! エリユリを、エリユリを、救ってくれよ! どうすればいいんだ?」
『嫌ぁだね』
ウサギは邪悪な気を放った。
『解放する気もないくせに、誰が好き好んで人助けなんてするかよ。わしの目的はあくまでもお前なんだからな』
巨大な風船のような和髪の女の『生首』。それが首から生えた一本の大きな腕を持ち上げ、そのままエリユリを喰らおうとしている。
「イヤアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
『忘れるなよ。わしの目的は、あくまで貴様の肉体をいただくこと……!』
憂太の心に憎悪とも嫌悪とも言えぬ感情が流れ込んできた。
『他のヤツらのことなんぞ知らん!』
その迫力にゾッとした。だが今は怯える時ではない!
「あの子たちには見えてないんだ! だから戦えない。でも僕たちには見えている。お前なら助けられるんだろ? あいつら、ぶっ飛ばせるんだろ?」
『ならば、お前の肉体を明け渡せ』
ウサギの中に封じ込められた“何か”は繰り返す。
『その肉体を寄越せ。わしに献上しろ。そうしたら助けてやらなくもないぞ』
「肉体って……。肉体を得てどうするつもりなんだよ!」
『そりゃあ、世界征服よ』
ウサギはさらに邪悪な気を放つ。
『まずは自身の城を持つ。そして『空亡』の力を借りて、化け物どもでここの世界のヤツらを奴隷にする。どうやらこの世界の者どもは『咒』というものに耐性がないようだ。こんな好都合、そうあるものではない』
「世界を手に入れる? 何のためにそんな……」
『そりゃあ、やりたい放題したいからよ。あいつらを殺すもよし。犯すもよし。そしてその後は、この世界から例の空間のひび割れを通って、元の世界へ戻るつもりだ。一気に攻め込み、二つの世界、同時にいただく。どうだ? 胸踊るであろう?』
「悪魔……」
憂太はウサギのぬいぐるみをギリギリと握りしめた。そして。
「お前なんか……」
おおきく振りかぶって。
「どっかへ消えてなくなっちまえ!」
『う、うわおおおおおおおおおおおおああああああああああああああ!?』
怨霊の悲鳴が遠ざかっていく。ぽ~んと。妖の方向に。
あんなヤツ、死んでしまえばいい!
それよりも……。
憂太の脳裏に、母との記憶が蘇っていた。
「憂太。世の中には国家にあだなす怨霊もいるのよ」
「そんな時はどんなおまじないが利くの?」
「そうね。これは初めて教えるけど……毘沙門天法がいいかしら」
「びしゃもんてんほう……?」
「そうよ。小指はこう。あと人差し指をこうして……」
「これが、毘沙門天の印」
「毘沙門天って?」
「仏教における天部の四天王。北の守り神にして、国家の守護仏」
「守護仏」
「仏神の中でも最強クラスの武神。軍神とも言われる存在よ」
…………。
憂太の目がカッと見開いた。
それはほぼ、無意識だった。
母との記憶が肉体を支配する。
憂太の指が勝手に動く。
何度も仕込まれ、躰が覚えたその動き。
指はかっちりと毘沙門天の印を結ぶ。
口元から『咒』の呼吸が漏れ出した。
そしてそれは、とある真言を唱えだす。
「ノウマク サンマンダ ボダナン……」
この真言を、憂太に投げ飛ばされたウサギは耳にする。
『なんと……。あやつ、国家守護クラスのマントラを……!?』
そのウサギに向かって、首がない躰のほうの和服の妖が襲ってきた。
『む…………!』
妖は両手を伸ばし、『咒』を持ってウサギのぬいぐるみを捕らえようとする。
『わしを捕らえようとは……?』
途端に、そのピンクのウサギから禍々しい影のごとき、化け物の腕が飛び出した。
『片腹痛いわあああああ! このクソ雑魚があああああああああああああああああああああ!』
即。
その荒々しい爪で。
斬──!
引き裂いた!
その間に憂太は結んだ印から神々しい光の剣が伸びるのを見た。
毘沙門天の剣……。
心の中にいる母の記憶がそう語りかける。
それが悪鬼を調伏する武神の剣よ……。
「ベイシラマンダヤ……」
憂太は真言を唱えながら飛び上がり、光の剣を振りかざした。
「ソワカ────っ!!」
『ひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!』
そこへ印から伸びた光の剣が振り下ろされる!
瞬間。
風船のような巨大な江戸女の『生首』が。
半分のところで、上下にずれた。
切り裂いたのだ。真っ二つに。
往来にいた和服の幽鬼は『悪業罰示の式神』によってクマにでも襲われたかのようにズタズタになり。
上空の『生首』は憂太の力で消え失せ。
それに捕まっていたエリユリが「きゃん!」と尻餅をついて地面に落ちた。
『稲生物怪録絵巻』より