~前夜~
~前夜~
時は昔、いつの時代かも解らぬ昔。闇夜に潜む、悪邪妖魔に魑魅魍魎。
密やか愚かに大胆に、空を飛び交い地を這いて、畏怖を撒きては恐怖を喰らう。
人は総じて、鬼と呼んだ。
ほどよく茂った木々に囲まれた山の頂、城一つ。
特別大きな城では無かったが、その作りは堅牢で、何人たりとも寄せ付けぬ雰囲気を漂わせている。
城に呼称は無かった。天守閣にほど近い部屋で蝋燭が一つ揺らめいている。十畳ばかりだろうか。
部屋は締め切っている為に風の通りは無い。蝋燭は一筋の薄い黒煙を燻らせながら、一人の女を照らしていた。
名を陽姫。肌は白くきめ細かい、見ただけでも解る柔らかそうな頬に、薄紅色に染まった唇。十二分に美しい。
加えて照らす蝋燭の明るみにより、ほのかな色気すらも帯びている。歳の頃は十七か。着物は一面に刺繍が施され艶やかと言う他無いだろう。
しかしながら、その艶やかさとは裏腹に表情は硬く、何やら思いを詰めた感じが伺える。とは言っても落ち込んでる様子でも無いようだ。背筋を伸ばし凛とした姿勢で正座し溜息を吐くでも無く、非常に落ち着いた様子であった。
薄く開いた眼差しで蝋燭を見詰めながら、陽姫は部屋の四隅に広がる何処とも言えない暗がりに向けて口を開いた。
「のぉ、古月。今は何刻じゃ」
何処からとも無く、声が返ってくる。
「はい、先ほど夜四つの鐘が鳴りましたゆえ、間も無く子の刻、夜半時かと」
優しさと逞しさを揃えた様な、若々しくも落ち着いた男の声。しかし、気配は感じられない。
「のぉ、古月。明日は満月じゃのぉ」
「はい」
返答、そして沈黙。僅かに空気が重くなった様な感覚を覚える。
陽姫は一度目を瞑り、浅くもゆるりと一呼吸した後で、思い詰めた物を振り切る様に意を固め声を出そうとした。
「のぉ。ふるつ」
その瞬間、ゴォォォォン。夜に響くは鐘の音。陽姫の声は鐘の音に遮られ、掻き消されてしまった。
「姫様。正刻の鐘で御座います。今宵も最早、夜半時。お休みになられた方が良いかと」
「よい」間を空けずに陽姫が言い放つ。
「しかし……」気配は無くとも、案ずるような口調。
「よいと言っている。まだ眠とう無い」
先程の落ち着いた雰囲気とは変わり、機嫌を損ねた子の様な、歳相応のその態度。
「それより少し風に当たりたい」
慌てて古月は止めに入った。
「そのような事。姫様、いけませぬ」
「案ずるな。大丈夫じゃ」再び落ち着き、諭す様な口調。
「それに」
陽姫は再び思いを詰めた表情を浮かばせ。
「最後になるやもしれぬ」
小さく口を開いた。
すぐ傍で、ギッと奥歯を噛む音が鳴り僅かに響く。
「古月、気に病むで無い。行くぞ」
陽姫はすっと立ち上がり、部屋の襖を開いた。
ひょうっと風が入り込み、陽姫の頬を撫でた後、蝋燭の火を揺らす。
部屋を出るなり別世界。一歩進んだその先は、おびただしきや血と油。
床、壁、天井。至る所に染み渡る。
しかしながら、陽姫は驚く様子も無くその通路を歩み出す。
亡骸こそ一つとして見当たりはしないが、その通路の隅。
折れた刃や発破の欠片が幾つも転がる光景や。
それは、城の入り口にまで続いていた。
特別大きな城では無いのだが、その内部は異様な程に入り組んでおり、グルリと周る螺旋の如き階段や、見た目下がるも、まるで登っている様な感覚に陥る通路。返しの扉に偽の襖。
いくつも越えてやっとの思いで城の入り口に辿り着く。
先程よりも心地良い風が再び陽姫の頬を撫でた。
そのまま陽姫は城外へと足を運ぶ。サワサワとそよぐ草木の音に、かすかに響く虫の音。静かな夜。この城に城下町と言った物は無い。ただただ、静かな夜。空を見上げると、満月まで後一歩という月が、名も無き城をうっすらと照らしていた。
陽姫はゆるりとした歩幅で城の周りを歩く。立ち止まり、風を感じ、また歩き、立ち止まりては、空を仰ぎて月を見る。月明り、照らし出される憂いを帯びた表情。口元がほんの僅かに弧を描く。
目蓋を閉じて、戻る口元、寂しげに。
それでも陽姫は、しっかりと月明かりを感じられた事が満足だった。
「のぉ、古月。気持ちが良いのぉ」
「はい」
古月の返事を聞いた後、陽姫は目蓋を開けて三度、月を眺めた。
「のぉ、古月。月が少し、ぼやけておるのぉ」
「はい」
おぼろげに注ぐ月明かりが、嬉しそうに笑う陽姫の美しさを際立たせる。
「古月。覚えとるかえ」
陽姫の問いかけ、そして沈黙。何を?
古月は尋ねなかった。この後に続く陽姫の言葉を、古月は感じ取っていた。
「お主に名を与えたのも、こんな夜じゃったのぉ」
「はい」
「はっきりとは見えぬ。古ぼけて見える月」
陽姫の月を眺める瞳に憂いの拍車が掛かかり出す。
「古月。まるでお主のようじゃの。そう思って付けたのじゃ」
「はい。誠ありがたき幸せ。本来ならば、名など到底持ち合わせぬゆえ」
陽姫は声の聞こえる方へクルリと身体を向けた。
が、古月の姿は見えない。少し俯いた。
「のぉ、古月。もう十二年にもなるんじゃのぉ」
「はい。姫様が五つの時に、ここへ来られましたゆえ」
再び声の聞こえる方へ向き直る。さっきよりも早く。
だが、同じく姿は見えない。寂しさが、チクリと心に障った。
「初めは、あんなに人がおったのに。もう長らく、我と古月の二人だけ」
陽姫は俯き、地面に視線を落としたまま呟いた。
「のぉ、古月。我を守ってくれるかえ」
「はい」
「ずっとずっと、守ってくれるかえ」
「はい、この命に代えましても。必ずや、御守り致します」
優しくも逞しい声が、陽姫の心を満たしていく。力強く。
「ふふふ。頼もしいの。頼んだぞ、古月」
城の外に出てからだいぶ時が経ったのだろう。静かな夜に鐘の音が遠く響き渡った。
「姫様。牛の刻で御座います。そろそろお戻りになられた方が良いかと」
「嫌じゃ!」
鐘の残響を打ち消すように、陽姫の声が辺りに響き渡った。
「まだ、眠とう無い」
駄々をこねる子のような。自身に聞かせる大人のような。
歳ごろ娘のわがまま一つ。
「しかし」古月が声を掛けるも
「嫌じゃ、もう少し。もう少しだけ」
今にも泣き出すのではないかという、か細い声。不安なのだろう。無理も無い、
いくら姫と呼ばれても、まだ十七の娘なのだ。それに明日は……陽姫の言葉が古月の胸に突き刺さる。
『最後になるやも知れぬ』
刺さりて抉り、鷲掴む。重き言葉の意味は深し。
そんな事、させぬ。何としても、何をしてでも、この身に代えて。必ずや。必ずや。
古月は己が胸に宿り燃える熱き思いを、ぐっと堪らえて贄とする。
「姫様。さすれば、せめて、これを」
陽姫の肩に後ろから、ふわりと一枚の羽衣が掛けられた。
「今宵は少々冷えますゆえ。どうか、お身体の毒になりませぬよう」
陽姫は、その掛けられた羽衣を両の手でギュッと握る。心地良い温かさを胸の中で感じた。
「ありがとう。古月」
「勿体無き御言葉に御座います」
古月の声はもう、背後には無い。気配も。一瞬感じ取れた様な気もしたが、気のせいだったと言ってしまえばそれで終ってしまう程度。
陽姫は視線を木々へと移し緩やかに、じっと眺める。その視線は古月を探してしまう。
見つけられる訳が無いのに。今までもそうだった。正直、歯がゆい。
陽姫は木々を暫く眺めた後で、月へと視線を移した。
「のぉ、古月」
「はい」
即座に返事が返ってくる。陽姫は少し微笑んだ後、
「いや、何でも無い」
「はい」
「戻るぞ、古月」
「はい」
踵を返し、城の入り口へと歩を進める。
その足取りは決して軽い物では無かった。不安を踏みしめて決意を踏み固めるかのように、一歩ずつ力強く歩を進める。その表情は先程とはうって変わり、きつく前を見据えていた。
古月もまた、進む陽姫の姿に従い、決意を固め心に誓う。
名も無き城の二人。
一人は想う
『今宵が最後になっても良い。それでも我は』
一人は想う
『今宵を最後になどさせぬ。たとえ俺が』
双方が 秘めた想いを 心に宿し
十七年目の その日を迎える