神を喪った王子
右手は星空を包むように受け皿を作り、左手は大地を貫くように杖を握りしめる。
神像の威容は星灯を青く吸い込み、ありありと浮き立っている。その神々しさを王子は仰ぎ見る。深々と跪く。
「あなたこそが唯一の神。偉大なるラガル様。その威光は原初より永久に」
神への賛美が歌となって、冷たい夜風を振るわせていく。
神像は少しも動かずただそこに立っている。王子はまた、神妙に神像を仰ぐ。
「ラガル様……あなたこそが唯一の神。あなたは1万年かけてこの世界を創られ、1万年かけて人間を創られ、そして疲れ果て石になられた。『これより1万年の後、私は眠りから覚めるだろう。死者の全てを蘇らせ、悪の全てを滅ぼし、善の全てを救け、世を光で満たすだろう。それまでお前たちが私とこの地を護るのだ』ラガル様の言葉を、我が一族は先祖代々受け継いできました。片時たりとも忘れた事はありません。ラガル様の威光に集った民草も無論の事でございます」
神像の国は信心深い国として著名であったが、中でも王子は特別に信心深かった。
王子は人生も、肉体も、時間も、精神も、何もかもすべてを唯一神たるラガルに捧げる為に生きて来た。
苦痛とも懊悩とは無縁であり、死も怖くなかった。何事に対しても勇気を持って毅然として立ち向かう好青年だった。
加えて王子は容姿にも武勇に優れ、勤勉で人当たりも良く、現国王からも愛されていた。王子の次期国王就任は誰もが疑わなかった。
……しかし王子が長い礼拝を終え、王宮へ帰ろうとした時だった。
耳をつんざく爆発音。あちこちで断続的に響いていく。
街並みには、いくつか赤々と火の手が上がっていた。
伝者の報告によると、内海で幅を利かせている帝国海軍の襲撃との事だった。
王子はすぐに鎧を身に着け、戦の号令を出した。そして自ら陣中に立ち勇敢に戦った。
帝国海軍は強大で十重二十重に砲弾の雨を注いでくるが、王子の戦術はずば抜けていた。敵の隙を突いて小舟から火矢を放たせ攪乱し、一斉砲撃で大損害を与えた。艦隊は総崩れとなり、逃げるように帰って行った。
朝焼けの中、盛大な勝どきが上がった。
「ラガル様、万歳! ラガル様、万歳!」「ラガル様、万歳! ラガル様、万歳!」
誰もがラガル様のご加護に感謝し、王子の知略と武勇を褒めたたえた。
英雄となった国軍は、隊列を組んで堂々と神像広場へと凱旋する。
神像に勝利を報告する為だった。……しかし彼らが神像広場で見たのは瓦礫の山だった。
それだけだった。
神像は砲弾の直撃を受けて、見るも無残な瓦礫の山と化していたのだ。
何が起こったか理解できず、ただただ茫然とする王子であったが、泉に顔を向けて絶句した。
泉の底には、呆けた様に天を仰ぐ神像の頭があった。
広場の石畳に目をやると、神像の白髭が幾重にも張り裂け、痛々しい断面を晒している。
空を仰いでいた筈の右手はレンガ小屋の屋根に突き刺さり、力なく垂れ下がっているし、杖を握っていた左手も、胸の宝玉も腰の帯剣も影も形も無かった。恐らく瓦礫の山に埋もれているのだろう。原型をとどめていたのは長方形の土台と尖った木靴だけだった。
王子はまず、自分の精神を疑った。夢か幻覚を見ていると信じ込んだ。
……そうだ。こんな事は絶対にありえない。
ラガル様は神像になられてすぐ、悪魔に襲われた事があった。歩くだけで天地が揺れる程の巨大な悪魔だ。悪魔はそのかぎ爪を愚かにもラガル様に振り落としたが、神像は傷一つ付かなかった。それどころかかぎ爪はラガル様の威光の前に粉々に砕け散り、悪魔は泣きながら逃げ帰ったという。……たかが軍艦の砲撃程度で神像が砕け散る筈がない。そんな事はあり得ない。万に一つも。
王子は冷静だった。努めて冷静に振舞っていた。
しかし……やがて配下達の呻き声、叫び声、怒りの呪詛、すすり泣きの声。それらがゆっくりと心に入り込んでくる。息を吸うと、埃っぽい空気と焼けた匂いに胸が膨らんで行く。
……まさか……
現実なのか……? これが……?
すぐ王子はかぶりを振った。何度も何度も、打ち消すように振り続けた。
……不敬! ……不敬だ! あまりにも不敬だ!
王子はただただ自分を呪い続けた。
絶対に起こり得る筈がない事態を少しでも俎上に上げてしまった自分の愚かさを呪い続けた。
しかし何度かぶりを振っても、怒号も号泣も消えてくれなかった。
より一層、現実感を伴って王子の頭に反響していくばかりだった。
「こんな事は、ありえない」
王子は自分に罰を与える事にした。悪魔の見せる幻覚を真に受けている自分がどうしても許せなかった。
王子は跪くと、転がっていた赤煉瓦に頭を振り下ろした。何度も、何度も振り下ろし続けた。そうしていると、やっと周囲の雑音が引いていく。溶けるように消えていった。
◇
自室のベッドで目を覚ました王子は、目を落とし俯く部下達を跳ねのけ、すぐに神像の元へと向かった。一刻も早く、不敬な幻覚に惑わされた罪を神前に謝罪する必要があった。
頭が焼けるように痛かったが、どうでも良かった。一刻でも早く謝罪しなければならなかった。しかし部下達はどういうわけか、涙声で必死に引き留めて来る。
「どうか……どうか今はお休みください」
諫める部下達の間を縫って王子は自室を飛び出した。王宮を抜け、神像広場へと道を急いだ。
しかし、神像広場には依然として白い瓦礫の山が横たわるばかりであった。
……王子は声なき声のままに礼拝台の残骸に駆け寄り、倒れ込んでいた。倒れ込んで、石造りの舗装にじっと貼り付いていた。石組みが規則正しく並んで幾何学模様を作っている。どこまでもどこまでも並んでいる。
無我夢中で石組みの細部に目を凝らしていく。しかし、どんなに目を凝らしても石組みの細部はどこまでも精緻で計り知れなかった。目を凝らしても見つめきれないどこまでも遠い神秘があった。
悪魔が作り得るような幻影とは明らかに一線を画していた。
口に入り込んだ砂粒を噛み潰しながらも、王子は心のどこかで神像の喪失を、神そのものの喪失を、少しずつではあるが揺るぎない現実として受け止めつつあった。
……だとしても。
……それが……もし……そうだとしても。
もし……そうだとしたら、一体私はどうすればいい?
これから私は一体、何のために生きればいい? 何のために死ねばいい?
……いや……違う……! やはりこんな事は嘘だ……。あり得ない。
やはり……私は狂っているんだ。誰か……頼むから嘘だと言ってくれ……お前は狂っていると言ってくれ……誰でもいい……誰でも……
悪夢にうなされるようにうわ言を呟きながら、王子はほの暗い石組みの細部の間に沈みこんで行く。やがて石組みにやったのと同様に、今度は神像の成れ果てである白い瓦礫に倒れ込み、細部を観察し続けた。何も考えず、砂粒の一つすら逃すまいと細部を……ただひたすらに細部のその先を見つめ続けた。目に映る細部はその全てがどこまでも遠く、底が知れなかった。そして王子は、ついに神の死を悟った。
◇
一週間が過ぎても、王子が立ち直る事は無かった。
自室に引きこもり、ベッドに伏してただただ涙に暮れた。
時には子供のように喚き、時には怒りのままに唸り、枕を抱きしめて泣いた。
一月が経つと、王子は殆ど泣かなくなった。
やる事といえば絨毯や壁に貼りつき細部を舐め回すように観察しているか、死んだ魚の様な目でただただ虚空を見つめるくらいであった。
思い出したかのように神像広場へと赴く事はあったが、変わらない現実に打ちひしがれるばかりだった。
時折大臣や部下が尋ねてきて王子を慰める事があったが、王子にはいい迷惑だった。
王子は、人が自分程傷つき、苦しんでいない事に失望し、驚愕していた。
どういう訳か大臣も部下も、既に神像の喪失にある程度折り合いをつけているような言い草をしていた。
その事が、なにより王子を苛立たせた。
……本気で神を信じていたのなら、そんな簡単に割り切れる訳がない。
きっと奴らは、本気で神を信じていなかった。
信じていたとしても自分の欲望を充足させる為の道具としてしか見ていなかった。
私は断じて、9000年後の復活裁判で自分が救済される為に神に尽くして来た訳ではない。私はただ、神に全てを捧げる為に、その為だけにこそ神に全てを捧げて来た。自分が救済されようがされまいが、そんな事は些細な事でしか無い。神の為なら、永遠に苦しみ続ける覚悟だってあった。……だが、奴らはどうも違ったらしい。神を表向き信仰しているが、その信仰の動機は死後に救済されたいという薄汚れた欲望に基づいている。だからあんな簡単に切り替えられる。奴らは自分の欲望の為なら平気で神を売り渡すだろう。今までも……これからも。
……そうだ。最初から、誰も神を信仰などしていなかった。奴らは……神を自分の欲望の為に利用していただけなんだ。
私だけだ。本当に神を信仰していたのは……。
だが、その信仰も最早消え去った。
私が信仰していた神は、文字通り打ち砕かれて瓦礫の山となったのだ。
誰よりも神を信仰していた私だからこそ、誰よりも神と信仰の喪失を受け止めなければならないのだ。
……そして王子は筆を執った。
羊皮紙に向かい、心のままに断片を書き綴った。
羊皮紙の中で、王子は神を罵り、神を嘲り、神を哂った。
その作業は王子にとって、血反吐を吐く程の苦痛を伴った。何度も体調を崩して寝込んだが、快復するとまたすぐ机に向かった。得体の知れない衝動が王子を突き動かしていた。
机に向かいながら、王子は自分が自分でなくなるような不気味な感覚を味わっていた。
自分の書いた断片を読み返す度、何度も驚愕させられ、頭を抱え込む。苦痛と快感で胸がざわめいて止まなかった。
手が勝手に動くように、神を呪い続けていく。王子にはそんな作業が何より重要な事に感じられた。憑かれたように机に向かい続けた。
幸い、邪魔な訪問者が扉を叩く事は無くなっていた。
「もっと……! もっとだ……! もっと書いてやる……!」
王子は誰よりも神を憎み、神を愛していた。
◇
神の喪失から1年が経とうとしていた。
王子は別人のようにやつれ、落ちくぼんだ瞳を不気味にギラつかせ、相変わらず自室にこもって神を呪い続けていた。
そんな王子の部屋に、久しぶりの訪問者があった。
王だった。
王子は正装で出迎えたが、その態度は冷ややかだった。
「何の御用でしょうか?」
「ずいぶんやつれたな」
「まあ」
そっけない返事を返す王子に、王は優しく笑いかける。
「今日はお前の誕生日だったな」
「そうですね」
「お前に一つ、見せたいものがあってな」
引き上がった王の口角に、王子の背筋が凍り付く。
王は何らかの形で王子の欲望を充足させようとしているようだった。その事が王子を恐怖させた。王子は神を嘲笑い、呪いながらも、未だに欲望を肯定する事は出来ていなかった。
「明日の朝、使いを寄こす。必ず来なさい」
「……はい」
迷ったが、王子は承諾していた。
何を見せられるかは分からないが、王は王子を喜ばせようとしている。欲望を満たそうとしている。ならば……それは願っても無い事だ。
完全に神を捨てる為には、神が批判して来た欲望に接近する必要があるのかもしれない。
◇
馬車は神像広場へと向かっていた。
祭りでもやっているのか、ざわめき声が喧しい。
石畳には露店も並んでいる。
やがて……馬車は神像広場の前で停まる。
広場は既に人でごった返していた。
いつの間にか瓦礫は完全に撤去されており、神像があった場所は白い天幕で覆われている。
王子は配下の騎士に誘導され、天幕の傍に立たされた。その時すでに嫌な予感はしていた。
ラッパの音が鳴り響き、荘厳な衣装に身を固めた王が天幕へと続く赤絨毯を歩いていく。
そして、天幕から垂れ下がった金糸の紐を握りしめ、勢いよく引き落とす。
布の捲れる音と共に、天幕が崩れ落ちていく。
姿を現したのは、修復された神像であった。
広場にこだまする万雷の拍手。歓喜の声。
「ラガル様……! ラガル様……万歳!」
「良かった……本当に良かった……」
「あの時と全く変わらない……素晴らしいご威光だ……」
鳴りやまない拍手の中、王子は真っ直ぐに王へと向かっていた。
群衆は修復された神像に夢中で、王子を気にする者は殆ど居なかった。
王に侍る騎士すらも大きな注意を払っていなかった。
だから王子が王に近付く事は容易だった。突き刺すように睨む。
「あなたは、馬鹿だ」
「…………?」
「こんな事をして、一体何になるというんです?」
「…………」
王は真顔のまま、ただただ首をかしげていた。何を言われているのか理解できていないようだった。
それでも王子は続けた。
「愚民の目は誤魔化せても私の目は誤魔化せません! ツギハギだ……! こんなものは! 死体だ! 死体を繋ぎ合わせて神の形にしても、死体は死体だ! あなたは一体何がしたい? ラガルは死んだ! 神は、死んだんです! なのに……何故こんな事を……?」
「お前らしくも無い……滅多な事を言うな」
「誤魔化さないでください! こんなものは神ではない! 神がたかが砲弾に撃たれた程度で砕け散る筈がない!」
感性の中押し黙って俯く王に、王子は畳みかけた。
「あなたも、本当は分かっているんでしょう?」
「……確かに経典の一部は間違っていたかも知れんが……」
「経典は一字一句すべて正しいという第一神官の言葉を忘れた訳ではないでしょう!? 子供だって分かる事です! 我々が信じていた神は死んだんです! 神は死んで瓦礫になったんです! 我々は神を喪ったんです! なのに……どうして……どうしてその事から目を背けるのですか? こんな死体で民を騙して、誰も彼も騙して、自分すらも騙すのですか? 私は騙されません! 私は決して騙されなどしません! 神は死んだんです! あなたにも分かっている筈です! ……ああ! 頼むから今すぐこれを打ち壊してください! 元通りにしてやってください! 頼むから早く!」
王は王子から目を背け、無邪気な歓喜に沸く民衆を見渡しながらそっと息を吐く。
「お前は少し目が良過ぎるようだが、耳は悪いようだな。民の声が聴こえないのか? これが国民だ。これが国家だ。一人一人に命があり、人生がある。国家と言うのは、お前が考える程甘くはないのだ。私には民と国を護っていく責任がある。その為には、民の拠り所が必要なのだ。……この程度の事が何だ?」
「民を嘘で騙して踊らせるのが王の仕事なのですか!? 神は粉々に打ち砕かれ、瓦礫になった! それが真実でしょう!?」
「ならば聞くが……真実に何の意味がある? 何の価値がある? お前の望む真実とやらの為に国を滅ぼして、一体何が残る?」
「あなたは死の床で思い出すだろう! 自分の吐き出した無数の嘘に、攻め苛まれながら死んでいくんだ! あなたは何も残す事は出来ない! 何一つ!」
王は「失せろ」とだけ残し背を向ける。
「お願いします……どうか……どうかこれを壊してください! ……壊してやってください……お願いします……! あんまりだ……! あんまりにも……酷過ぎる……!」
足元に縋り付く王子を、王は冷たく振り払った。
ようやく事態を察した騎士達が駆け付け、二人の間に立ちはだかる。
剣を抜いて中段に構える。
王子は立ち竦んでいた。剣に視線が吸い寄せられる。
その眩しさと鋭さに、王子は初めて恐怖を覚えていた。
地の底に突き落とされ、どこまでも落下し続けるような恐怖だった。
「もうお前を息子とは思わん」
群衆の浮かれ騒ぐ声を背景に、王の声が暗く響いた。
王子は崩れ落ち、何も出来ないまま無数の騎士に引きずられていく。
荷馬車に投げ込まれ、城門の外で放り出される。
やがて城門が閉ざされると、歓声はやっと掻き消えた。
「……どうぞ」
王の最後の情けか、あるいは配下の計らいか、年老いた馬子から愛馬の手綱を手渡される。
馬は、王子を慈しむようにじっと見つめ立っていた。
「……美しい」
馬は神々しいまでに力強く、無駄のない肉体をしていた。
王子は馬の栗毛色の毛並みをなぞり、顔を埋めた。暖かく、優しい匂いがした。
馬は少しいなないて震えた。
そしてアラドは馬に跨り手綱を握る。
秋風を切って、一人と一頭は当てもなく駆けて行った。




