第一章 第二幕 女神?との邂逅
時は天文十六年閏七月。
ここは信濃国南部、甲府から佐久への入口となる小さな平野部。目下に見える千曲川を溯れば、俺たちの故郷がある。今この地に居るのは、元服間もない七人の下級武士。
信濃国は広大だ。数多の川が入り乱れ、山脈が縦横無尽に走り、その合間を埋めるように盆地が点在する。
北東部に位置し上野に抜ける要所、『佐久』。諏訪湖を中心とした南部の地域、『諏訪』。駿河国に抜ける『伊奈』。西部には『筑摩』、『木曽』。北部には『上田』、『長野』など地域も多彩だ。
信濃国は山間部が多く、隣の集落とも山を隔てているので独立の気運が強い。元は同一の家系でも時代が下り、和合離反を繰り返している。
大きく分けると、次の家々が名を連ねる。
由緒正しき、諏訪家、小笠原家。
土地を武力で護る、村上家、高梨家、大井家。
源平合戦時に活躍した木曽家。
そして、外敵でもある甲斐の武田家。
諏訪家は、諏訪大社の大祝。諏訪大明神を代々祀り、護ってきた。諏訪大明神は諏訪湖に御座す。諏訪湖は信州一の湖で、霊験灼たかでもある。諏訪家は、一番古い一族でもあるだろう。
小笠原家は、天皇家からこの信濃国の統治を任されていた。その職を『国司』や『守護』と呼ぶ。国司は俺の知る限り小笠原家が務めていた。つい最近までは。今では、甲斐武田家が任命されている。
甲斐の武田晴信は、領土拡大の矛先を信濃に向けている。調略を仕掛け、派兵を繰り返す。
敵である武田晴信には悪い噂も多い。例えば五年前、家督を奪った事が有名だ。実父である信虎に謀略を仕掛け、国外に追放したのだ。
しかし、外交・戦上手でもある。数年前に信濃の名家、諏訪家の攻略に成功。婚姻関係を結び確固たる支配を実現。実質的に諏訪家を手中に収める。その結果、信州南部は武田家の領地同然となる。
朝廷との交渉で、信濃国の守護として任命。国を治める名目を得た武田家は、信州北部の占領に動く。
信濃国の様な、情勢が不安定な地域が狙われるのは仕方がない。しかし巻き込まれる方としては、迷惑極まりない。
俺の仕える領主は笠原新三郎清繁様。志賀城を拠点とした一城の主だ。
笠原家は代々、佐久地方の荘園を治められている名家の一つ。元を辿ると諏訪家からの分家筋に当たる。
俺は仕えているだけなので、笠原家の家格をどうこう言っても何もないのだが。まぁ戦乱の世である中、何代も治めているのだから心強い。
昨年、武田の軍勢が内山城を手に入れた。内山城は志賀城の目と鼻の先。つまり喉元に楔を打ち込まれた形となる。
領主笠原様から直々に命が下り、俺たちは甲府から佐久への道を監視している。敵の軍勢が通ったら、狼煙を上げて、次の伝令地へ走って知らせる。
狼煙では細かい事は伝わらないが、何かが起こった事は直ぐに伝わる。遅れて伝令が走りつき、内容を口頭で伝え、次の伝令が同じように次の地へ走る。
「おーい、清三郎。次はお前だぞ」
「あいよー」
読んでいた本を閉じ懐にしまい、俺は腰をあげる。そして山の中腹にある小さな洞窟から外に出る。この洞窟は斥堠の中心拠点として、塒として使っている。
「今日は満月か――」
煌々と光る月を見上げ、一人呟く。
志賀城を出立したのは新月だったので、丁度半月だな。
戦乱の世とはいえ、元服したばかりで戦場に出たことはない。
派兵から戻ってきた怪我人や亡骸は何度か目にしている。しかし、それが生活の一部となっているので、殊更恐怖を感じる事は無い。
つまり戦乱が日常の一部になっている俺たちの緊張は、永くは続かない。
終日昼夜問わず交代で見張っているので、非番は寝るか博打か猥談だ。
満月の夜とはいえ、周りは闇だ。斥堠という隠密裏に行う活動。よって松明など、闇夜に目立つ道具は使えない。
木々の間を抜け見張りの場所に行く時には、いつも緊張する。そして、いつもの道順を慎重に進む。
正直、夜の番は遠慮したいが…順番なのでしょうがない。山には獣や物怪の類が潜んでいるからだ。
俺は武家の人間ながら、御世辞にも武術が得意とは言えない。親兄弟にも呆れられ、寺で学文をやらされていた。まぁ俺自身には武術よりは、肌に合っていたのだが。
斥堠場所まで辿り着き、身を傴めて準備に入る。
「さて、では始めますか……」
今まで何も起きたことが無いので、今回も何も怒らないと心の底では思っている。しかし役目は役目だ。気合を入れて目下に集中する――。
集中を始めたところ、後ろに何か妙な気配を感じる。背後に仄かな光が発せられているのを確信する。
「神様、仏様、御先祖様、
南無釈迦尼佛、
南無八幡大菩薩、
そして、おっかー」
信じてはいなかったが、毎日唱えさせられていた御題目。そして思いつく限りの助けを乞う。そして、恐る恐る振り返った。
明らかに松明の光ではない。見た事のない金色の光だ。
「仏の…光?」
恐ろしさはまるでなく、癒されるような心地すらしていた。
光の中から木製の薙刀を持った乙女が現れる。
整った顔立ち、優しくも凛々しい眼。腰まで伸びた艶やかな黒髪、上質な布の上衣と袴。
きっと神様に違いないと、咄嗟に平伏する。
「えっ、ここは……。あれ、更衣室じゃない! しかも夜?」
驚き戸惑っている女神様(?)の声が聞こえる。
「あの…女神様…で、ございますか?」
俺は違和感を覚えながらも、平伏したまま声をかける。恐れ多いと思いながらチラリと顔を見上げ、すぐに額を地につけた。
「えっと、私は草彅葵衣。高校生なんですけど……」
『こうこうせい』? 物怪の類か? 狐か狸に化かされている?
いずれにせよ、身動きがとれない。
「失礼ですが、あなたは?」
澄んだ、そして優しい声が、俺に向けられた。
「は、拙者は武居清三郎茂玄。領主笠原様の下知にて、甲斐武田の動向に対し、斥堠をしております」
なんか、自分の言葉遣いが丁寧過ぎて笑ってしまう。
一瞬しか見えなかったが、神々しく美人で凛々しい乙女は、俺には刺激が強すぎた。でも、これが夢なら覚めないで!
「えっと武居茂玄さん、ですか。とりあえず、頭を上げて欲しいです」
澄んだ声が、俺の鼓動を加速させる。
現れた女性が笑顔で右手を差し出した。その手を借りようと手を出して気が付く。
《俺の手、汚れているじゃん!》
とりあえず服で手をこすって、少しでも綺麗にする。
柔らかさと共に、肌理細やかな肌。少なくとも村や城では見たことも、体験したこともない。
さて、手を曳かれて立ち上がったは良いが――。女神様ではないとの事だが、美人が故に顔を直視できない。
何を話せば良いかもわからない。しかし先ほどの言動から、現状が理解できていないようだ。
記憶喪失か? いや、名前もはっきり覚えていた。そういえば、『葵衣』という名も珍しい。また姓を名乗っているのだから、それなりの身分なのだろう。
気丈にも落ち着いている様に振舞っているようだが……少し表情は硬い。ここは漢として矜持を見せねば。
先ほど平伏していた時、彼女の足が見えていた。そういえば裸足だったな。身なりを考えれば履物が無いとは考えにくい。
ふと、自分の腰に結び付けられた、替えの履物がある事を思い出す。新品で良かった。
「も、もしよろしければ、この足半をお使いください」
「あ、ありがとうございます……」
踵まである草履があれば良かったが、下級武士の俺には過ぎたるものだ。
しかし、武術に心得があると見えた。重心を踵に乗せずに見事に履きこなしている。
少しだが渙ち解けて、乙女の表情も和やかになる。
この人を仲間には見せたくない。なんというか、独り占めしていたい。
そして、猥談をしていた事は尚更知られる訳にはいかない。
「えっと、先ほど甲斐武田への斥堠と仰っていましたが……武田とは武田信玄の事ですか?」
信玄? 聞いたことが無いな――
「いえ、武田晴信です」
「あの、武居さん。変な事伺いますが……今日はいつですか? 年、月、日。全てを含めて」
確かに妙な質問だ。しかし彼女の真剣な表情から察するに、ふざけている様子ではない。きっと重要なのだろう。
「今日は満月なので、天文十六年、閏七月十五日。だと思います。永く出ているので、正確な日は覚えていませんが…」
「天文十六年。西暦だと一五四七年。武田晴信という名前から考えても、戦国時代まっただ中ね……」
『せいれき』? またもや聞いたことが無い言葉が出てくる。大陸明の言葉だろうか? 一方の乙女は、現状を整理する事に集中しているようだ。
「これが現実ならば、タイムスリップしたのね。考えられないけど……」
先ほどまでは状況を把握できずに、心中は狼狽していた様に思う。面には出していなかったけど。
何を言っているのか意味は解らないが、状況を整理し始めて落ち着いてきている気がする。
「あの、武居さん」
「あ。はい、なんでしょうか?」
背筋を伸ばして返事をしてしまった。俺の様な下級侍の悲しい性でもある。
「私の事は『葵衣』と呼んでください。この時代ですと、女性は名で呼ぶと思いますので」
「葵衣さん、ですね。では拙者も茂玄とお呼びください」
何か恐れ多い気もするが――葵衣さんに笑顔で頼まれたのだから、喜んでお言葉に甘えよう。
名前で呼びあえることで急に距離が近くなった気がする。
《チーン、ポクポク、ジャラーン》
《チーン、ポクポク、ジャラーン》
俺は野辺送り、つまり葬列の音を聞く。輪、木魚、錫杖――。
寺に居た時に、自然に体に染みついた感覚だろう。重々しい音が次第に近づいて来ている――。
人は必ず死ぬ。だから、いつ葬儀があっても不思議ではない。ただ、今までとは何かが違う。場違いというかなんというか……。




