挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

ブックマークする場合はログインしてください。

人は誰かを貶めることで生きている その2

作者:ぽんた。
原始時代を想定してみる。アフリカの大地で、一人の男性がチーターに襲われかけている。抵抗しなければ餌食になり、彼の家族は飢えて死ぬ。しかし抵抗すればチーターが死ぬのでチーターの家族も飢えて死ぬ。その男性はどちらの選択をしても何者かの利益になると同時に不利益になるのだ。

プラトン・ソクラテスは「生きること自体は善くも悪くもない」と述べたが、私に言わせれば「いい面もわるい面もある」となるだろう。彼らが主張した「善く生きる」というのは、その行為の定義自体が困難ではないのか。

いっそのこと自分自身に人生の意味を求めてしまえば簡単なのではないか。そうすれば自分の人生の意味における「他人のターゲッティング」が正当化される。これは極論すれば他人を生かすのも殺すのも、自分が生きるのも死ぬのも自由ということになる。ただし社会の秩序を維持するために法律という枠組みでそれなりの規制はしておく、と。

それでは、自分自身にさえ人生の意味を求められない場合は、死ぬべきなのだろうか。特にやりたいことがない、夢もない、そういう場合だ。この場合、意図的に死ぬことはなくとも、生きる努力が生まれないから結果的に死ぬことを許容するだろう。消極的自殺行為である。ただ・・・人は生物である以上、本能をもつ。腹が減れば食べたくなるわけだ。結局これが人にとって最後の人生の動機だろう。これは「意味」と言うよりは自分の意図とは無関係に体が反応する感じに働くのだから、「動機」という言い方をここではしたい。これに基づいて生きることは動物的であり、プラトンやソクラテスに言わせれば、人間的ではないだろう。彼らの理想論が活きる余地は、まさにここにある。消極的自殺行為こそが、古代ギリシャ哲学が肯定した理想的な生き方なのだ!!

最後は無理やりまとめた。
ちなみにマジレスすると、このオチはある点で問題提起と初歩的なレベルで矛盾している。結局「消極的自殺行為」を行ったとしてもそれはある人にとっては害悪であり、ある人にとっては有益なままだ。この点は解消されない。だから「善く生きる」ことは実現できない。一方で、プラトン・ソクラテスの定義する「善」には「動物的でないこと」が含まれており、この部分を実現することに、矛盾はないだろうというわけである。この論点の移転を整理しておきたい。

評価や感想は作者の原動力となります。
読了後の評価にご協力をお願いします。 ⇒評価システムについて

文法・文章評価


物語(ストーリー)評価
※評価するにはログインしてください。
感想を書く場合はログインしてください。
お薦めレビューを書く場合はログインしてください。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ