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水中禍(すいちゅうか)

 水没した街の廃墟で、個人授業を受けている。


「ここはかつて、とても大きな都市だったんだよ」


 山高帽に燕尾服を着た教師はそう言った。胸元に、ダイヤモンドで作られたボタンが光っている。

 教師の正体は大鷹で、私は教師の嘴に銜えられてここまでやって来たのだ。今日は、一日中個人授業が行われることになっている。


「私たちのものとは随分違う文明が栄えていたそうだ」


 元は何の建物だったのか、大きな会議室のような場所に机を二つ置いて、私たちは向かい合っている。ボロボロのホワイトボードを背にして、教師は胸を反らした。私のものとは違う教科書のページをめくりながら、いつにもまして得意げだ。


「何故水に浸かってしまったのかは分かっていない」


 ここは二階なので、水位はそれほど高くない。長靴を履いていれば濡れることはないが、教師は気にしていないのか、革靴で平然としている。


「おそらく、別の文化を持つ者たちに、滅ぼされてしまったんだろうね」


 部屋の壁はコンクリートが剥き出しになっていて、所々ひび割れている。窓は枠だけが残り、外には湖のようなものが広がっている。もちろん、本物の湖ではない。街全体が水没しているためにそう見えるのだ。元はきちんとしたタイルが張られていたと思われる床には、水草と水中花が生えていた。よく見ると、薔薇や猫柳なども水中から顔を出している。


「私が植えたものだよ。梅花藻バイカモから始めて、今ではほとんどものが育つ」


教師は言った。


「君も何か植えてみるといい」


私は、ポケットの中から、個人授業の日にはいつも持っている角砂糖を取り出すと、床に放った。角砂糖は放物線を描いて着水した。


「それは私へ渡すべきものではないかね。そういえば、ここまで連れて来たことに対する礼がまだだが」


 教師は眉を寄せる。


「もちろん先生にお渡しします」


この場所を指定したのはそちらの方ではないか、と思ったけれど、黙っていた。しばらく待っていると、キキョウの姿をした砂糖の花が伸びてくる。


「ほほう」


教師は興味深そうに頷くと、茎を掴んで花を引き抜き、そのまま口に入れた。砂糖の濃淡でキキョウの細部まで表現されている。ガラス細工のように繊細な作りだ。


「素晴らしい。この方が量も増えるし、良いかもしれないな」


 教師は、音を立てて花びらを噛み砕きながら言う。砂糖の欠片が髭に付いて、きらきらと光っていた。


「さぁ、授業を始めよう」



 午前中の授業が終わってしまうと、教師は、午後は自習だよ、と言って、どこかに飛び立ってしまった。また別の廃墟で栽培実験をするのだろう。種の入った大きな袋を嘴に銜えていた。私は、ガラスの入っていない窓から教師の背中を見送った。

 外から、ひんやりとした風が入ってきた。空を見上げると、太陽が一つだけ出ている。教師が言っていたように、やはりこの街は違う世界なのだなと思う。さっきまで薄暗かった廃墟に日が差して、床に模様ができた。水面の揺れに合わせて変化する様子をしばらく楽しむ。

 教師が戻るまで時間を潰さないといけないので、とりあえずポケットの中に入っているものを水に落としてみる。角砂糖の残りと、鉱石を少し、ビー玉と月の砂の入った小瓶を試してみたが、床に転がるだけで、何も起こらなかった。さっきはうまくいったのに。教師が傍に居ないと、育たないのだろうか。そもそも、石や砂から花が咲くものなのか。先程の光景が幻のように感じられた。

 私は、椅子に座って、長靴を履いた足でぐるぐると円を描く。静まり返った室内に、ちゃぷちゃぷと水音が響いた。緑の長靴を中心に渦ができて、水草の茎がしなった。さらにかき混ぜると、水中花の葉が足首のあたりに絡みついて、千切れてしまった。私は、長靴に張り付いた葉や花びらを剝がし、机に並べ、しおり代わりに教科書に挟んでいく。水を吸った紙がふやけていくのをじっと見つめていると、少し眠くなってきた。椅子を、背もたれが壁に当たるように移動させて、仮眠を取ることにする。明日の時間割を考えていると、すぐに眠りについてしまった。

 小一時間ほど眠っていただろうか、まだ教師は戻っていなかった。水位に変化もない。隣の部屋を覗いたり、水中花で花輪を作ったりしたけれど、すぐに手持ち無沙汰になってしまう。一階は天井まで水に浸かってしまっているから、行ってもしょうがない。水の中では息をすることが出来ないのだから。

 クラスの皆はそれぞれ何処で授業を受けているのだろうか。彼等の顔を思い出そうとするが、靄がかかったようになってしまってうまくいかなかった。特別親しくしている友人がいるわけでもないし、困ることは無いのだけれど。

 私は膝を抱えて蹲った。

 何か大切なことを忘れているような気がするが、思い出せない。

 

 教師の言うとおりに自習をする気にもなれないので、私も出かけることにする。窓の外を見ると、広々とした水面に、電柱や建物の残骸が飛び石のように頭を出していたので、私は窓枠に足を掛けて、一番近いところにあった青い車の屋根に向かって跳んだ。

 アパートの屋上や、大木の枝をつたって「湖」を渡る。魚が生息しているのか、姿は見えないが、時折、波紋が広がった。振り返ると、授業を受けていた廃墟が随分遠くなっている。小さな建物のように思っていたが、こうして離れてみると、それなりに大きいことが分かった。もしかしたら、あの廃墟は、学校だったのかもしれない。私は電話ボックスの上に腰を下ろして、ぼんやりと景色を眺めた。

 真白い雲がゆっくりと流れていく。

 何かがずれているような感じがするのに、どうすれば良いのか分からない。私は目をきつく閉じたり、開いたりした。

 観覧車、ヘリポート、ショッピングセンター。

 私は目についた「飛び石」の名前を呟く。

 踏切、ホテル、美術館。

 「飛び石」はまだ続いている。どこまで広がっているのか、水面と空の区別が付かないので、終わりがないように見える。

 松の木、病院、高速道路。

 この街に来たのは初めてのはずなのに。

 はしご車、図書館、商店街。

 どうして分かるのだろう。

 駅舎、コンサートホール、郵便局。

 どういうものかも知らないのに、唇が勝手に言葉を紡ぐ。

 テレビ局、百貨店、体育館、トンネル、陸橋、信号機。

 私は、赤い屋根の電話ボックスの上で、他人のもののように聞こえる自分の声に耳を傾けていた。

 

「このままずっと一人だったらどうする?」


 不意に、誰かが言った。


「そんなことあるはずない」


「どうして」


「授業中だから」


「誰も居ないじゃない」


 声は、揶揄うように言った。


「今は自習の時間なの」


「ははは。こんな処で?」


 声がする度に、水面に幾つも輪ができる。波紋の中心が、目のように見えた。


「ねぇ。君は此処から出られないよ」


「どうしてそんなことを言うの」


「君一人では何も出来ないから」


「私は授業で此処に来ているの」


「授業だと言うのなら、先生がいるはずだよね」


「今はいない。飛んで行ってしまったから」


「飛ぶ?」


「大鷹なのだから、当たり前でしょう」


「大鷹?何それ」


「何って…」


「ははは。大鷹の先生と授業をしに此処に来て、置いてけぼりになったの?ははははは」


 波紋が広がり、「湖」全体が揺れる。廃墟の方に戻りたいと思うのに、動けない。


「そうか。君は捨てられたんだね」


「違う。もう少ししたら迎えが来るのだから」


「大鷹の?」


「そう」


「はははははははは」


 笑い声が響く。


「ねぇ。君は今は何処に座っているの?」


「電話ボックスの上」


「電話ボックスって何?車が何か知っている?」


「え?」


「君の世界には無い物でしょう。鳥が人間になって先生をしたり、砂糖が花になるのが君の世界。そんな非現実的なことが起こる場所から来たのに、どうして此処にあるモノの名前が分かるの?」


「それは…」


「ねぇ。どうして学校が毎日変わるの?どうして夜になるの?どうして室内に雨が降るのさ」


「え…?」


「ねぇ、なんで?なんでそれを当たり前だと思えるの」


「私は…」


「ねぇ、此処はどこだと思う?」


「ここは…」


「君には此処がどう見えている?」


「…」


「君はどういう存在だと思う?」


「わたし…」



「教えてあげるよ。君はね…」


 *


「君、君、どうしたんだね」

 

 教師の声に目を開けると、私は、廃墟の中の教室にいた。


「戻ってみたら、倒れていたから驚いてしまったよ」


 私は床に寝そべっていた。ゆっくりと身体を起こすと、少しめまいがする。長靴の中に水が入って、たぷたぷとした音を立てるのが不快だ。制服のジャケットに、クレマチスの花びらが付いていた。

 教師に支えられて席まで戻る。仮眠を取るために移動させたはずの椅子は、いつの間にか元の位置にあった。

 

「何があったんだい?」


 懐から水筒を取り出しながら、教師が尋ねた。


「夢を…見ていたようです」


「夢?」


「はい」


 私は、教師から柘榴と翡翠の入った緑茶を受け取って、一息に飲み干した。


「ほほう。雪の日でもないのに…。珍しいこともあるものだ」


 教師は、私の持つ水晶のカップに、お代わりを入れてくれる。


「さぁ、もっと飲みなさい。落ち着くよ」


「先生」


 私は言った。


「なんだい?」


「私は、外に出ようとしました。水面から突き出ている残骸を飛び石代わりにして」


「そうか。君に建物から出ないように言っておくべきだったな」


「初めて見るはずなのに、私は「飛び石」の名前を知っていました。それに、声がしました」


「どんな声だったのかな」


「分かりません。聞いたことがあるような、無いような」


「何か言っていた?」


 教師は、いつの間にか大鷹の姿になっていた。大きな翼で、私を包み込む。


「…覚えていません」


 私は首を振った。

 教師に触れられるまでは、確かに記憶していたはずなのに。


「古代文明の亡霊でも出たのかな。でも、気にすることは無いよ」


 教師は嘴で私の頭を撫でる。

 羽毛から、ふわりと砂糖の香りがした。


「滅びてしまったということは、彼方あちらの方が間違っていたということだ」


「そう、でしょうか」


「皆、愉快な方が好いに決まっている。堅苦しい箱の中でずっと過ごすなんて退屈だよ。迷路が現れたり、海になったりするのは楽しいだろう?」


 さぁ帰ろうか、と言って、教師は私を銜えた。

 身体が浮く感覚がしたのと同時に、私は意識を手放した。 




 

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