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高層階の猫

 私は、坂道を駆け上がっている。

 途中、何人かの生徒を追い越したが、そんなことは大した効果にならない。

 今日はもっと早くに登校しなければならなかったのに。昨夜、我慢できずに書庫の扉を開いてしまったことを後悔した。(スカート)が翻るのが煩わしく、ぎゅ、と唇をかみしめた。

 ようやく坂を上りきり、門の上の唐猫から木札を受け取る。祈るような気持ちで裏側を向いたそれを表に返すと、墨汁で書かれた文字が現れた。

 

 伍

   参

    陸 

 

 ああ。


 私は(こうしゃ)を見上げた。上層階はすでに雲に隠れてしまっている。鮮やかな色硝子が嵌め込まれた角砂糖のかたちをした窓が、螺旋を描いている。時折、ぴかぴかと光る。壁面に絡みついた蔦は、まだ成長を続けているようだ。

 私は、ほう、と息を吐くと、強く地面を蹴った。


 やっとの思いで教室に入り、席に座って息を整えていると、夏目なつめがやって来た。


「お早う。今日は遅かったね」


 私は返事をせずに、夏目をにらみつけた。まだ喋ることができないのだ。


「あと十分早かったら、専用の昇降機エレベーターが使えたのに」


 そう言って、何が入っているのか大きな紙袋を抱えたまま、私の隣に座った。


 昇降機に乗り遅れた私は、一度、地下三十階まで降りてから、気球でここまで上って来たのだった。髪は乱れるし、鳥たちには笑われるし、散々な目に遭った。


「その様子じゃ昼食の用意はまだだよね。空中庭園まで行けるかい?」


 一言も発しない私に構わず、夏目は言った。

 そうだった。

 今日は食堂が最上階に移動する。六百階以下の低層階に居る生徒は、食堂での昼食を諦めて、売店で買って済ますのが常だった。


「今日の売店は二百五階にあったけれど、ほぼ売切状態だったよ。みんな朝のうちに買いに出てしまうからね」


 何が可笑しいのか、夏目は喉の奥でくつくつと笑った。今日は意地悪だ。


「嫌い」


 私は、ようやく出るようになった声でそう言うと、夏目に背を向けた。色硝子に映った私の前髪がはねている。鞄から鼈甲(べっこう)の櫛を取り出して梳こうとしたら、萌黄色の窓が透明に変わってしまった。外を見ると、地上からの風に吹き上げられて、さまざまなものが浮遊している。紫陽花(あじさい)の葉と、雨蛙あまがえる。紙飛行機に、蒲公英(たんぽぽ)。教科書が飛んで来たのには、笑ってしまった。


「やっと笑顔になったね」


 貸してごらん、と、背後から夏目の腕が伸びてきた。私の手から櫛を取ると、ゆっくりと梳きはじめる。


「今日は随分と長く伸ばしているんだね」


 私は怒っているのに、夏目は気にせず話し続けている。


「昨日の短髪ショートも良かったけれど。ねぇ、後で結ってみようか」


「嫌」


「ふふ。怒ったり笑ったり忙しいね、清河きよかは」


 髪全体を梳き終わると、夏目は櫛を置き、私に紙袋を差し出した。


「何?」


「さっき買って来たんだ。朝食は済んでる?多めに買ってあるから、今食べてもいいよ」


「・・・ありがとう」


 夏目は満足そうに頷いている。やっぱり今日の夏目は意地悪だ。

 袋の中から、炭酸水に躑躅つつじと水晶を閉じこめた飲物ドリンクを取り出す。喉が渇いていたので、一気に飲んでしまった。

 窓の色は、まだ透明のままだ。ふと思いついて、窓を開け、ボトルをひっくり返した。瓶の口から躑躅と水晶が流れ出て、まっすぐ階下に落ちてく。しばらく待っていると、風と一緒に、炭酸水の雫が舞い上がってきた。頬に触れると、しゅわ、とはじける。続いて、躑躅と水晶が帰ってくる。薄紅色の花弁が回り、水晶の欠片は空中に散った。欠片が窓に当たって音を立てるのに合わせて、硝子の色が変わっていく。


「ああ、綺麗だね」


浅葱、鴇、芥子、若草、蘇芳、杜若


 色が変わる度、夏目が名前を教えてくれる。


瑠璃、蜜柑、柳、金糸雀、青藤


薄花、唐茶、紺碧、橙、深緑


 嫌いなんかじゃないよ、そう言いたくて口を開いたけれど、かすれた音しか出なかった。

 すらすらと名前を挙げる夏目の声を聴きながら、私は制服の裾を握りしめていた。


 *


 二時限目が終わると、個人授業の時間だ。

 前日に担当教師に提出した手紙の返事を、八咫烏から受け取る。白藍の薄紙が涼しげだった。手紙には、今日の授業は、千三十四階で行うと書かれている。

 燐寸(マッチ)を擦って手紙をきちんと燃やし、灰を集めて小瓶に入れてから、手提げ鞄に教科書を詰めた。席を立って、塵箱(ごみばこ)に小瓶を捨てると、私は窓を開けて外へ飛び降りた。

 壁面に絡まる蔦の葉を数えて時間を潰しながら五十階ほど落ちたところで、嫌な事に気付く。


 誰も居ないのだ。


 昇降機は混んでいるだろうから、風を使って階上へ行こうと髪が乱れるのを我慢して外に出たのに、落ちているのは私しかいない。さらに百階落ちた時、ようやく分かった。風が吹いていない。どうやら今は止み時のようだ。

厄日、という言葉が頭に浮かんだ。このままでは地面に叩き付けられてしまう。全校生徒の笑い者だ。それだけならまだしも、授業に遅れることになったら。授業に遅れるなんて、月が一個になるとことと同じくらい有り得ないことだ。ここは、恥を忍んで大鷹を呼ぶことにする。

私は、衣嚢(ポケット)の中から角砂糖を取り出して口に含むと、呪文を唱えた。角砂糖が溶けた頃、鋭い鳴き声と共に十二米ほどの鷹が現れて、私の襟首を嘴で咥えた。

大鷹によって元の階まで引き上げられながら、今この姿を誰かに見られたら如何思われるだろう、と考える。

 教室の移動の際に大鷹を呼ぶことなんて滅多に無いのだから、よっぽどの緊急用件で召集されている途中か、道を間違えたかのどちらかだ。どうか、どちらにも思われませんように、と祈る。

 太陽の光が眩しいということにして、私は手で顔を覆った。


 教室にはもう誰も残っていなかった。大鷹に礼を言い、褒美の品について尋ねると、嘴をもごもごとさせて何事か呟き、胸元の辺りをさすった。大鷹の胸元に手を入れて羽毛の中を探ると、瑪瑙(めのう)で出来た(ナイフ)があった。刀を耳元に当てて髪を一房切り落とし、大きめの角砂糖を添えて大鷹に渡すと、大鷹は大きく羽を広げた。刀はくれると言うので手提げ鞄にしまい、改めて礼を伝えてから、私は踵を返す。後ろで、大鷹は羽ばたく音がした。

 大急ぎで広場まで行き昇降機に乗り込むと、千階まで上がった。その後列車に乗り換える。空中庭園まで直通の列車なので、千三十四階には止まらないのだけれど、瑪瑙の刀を渡したら、特別に配慮してくれた。もう一度、心の中で大鷹に感謝する。


 椿紋様の入った扉をゆっくりと開けて中を窺うと、誰も居なかった。

席に着き、すっかり硬くなった手脚を揉んでいると、燕尾服を着た教師が入って来た。ゆっくりと壇上に上がり、形良く整えた髭を撫でる。


「やぁ、予習はちゃんとしてきたかな」


 上着に付いた金剛石の釦が、ぴかぴかと光った。


「先生、その釦は」


「君がくれた髪と氷砂糖を混ぜて作ったものだよ」革の鞄の中から定規と秤と水草を取り出しながら、教師は答えた。


「しかし君。まさか授業の直前に私を呼ぶとはね。教師が授業に遅れるなんて、太陽が一個になることと同じくらい有り得ないことだよ」


 私は教師に頭を下げる。


「すみません。遅刻しそうだったものですから」


「刀は役に立ったかい」


「ええ、とても」


「それは良かった。

 さぁ、授業を始めよう」


私は教科書を開いた。


 *


同級生(クラスメイト)たちと昼食を取っていると、耳が生えてきた。


「あら、耳」


 向かいに座っていた同級生が声を上げた。私は、衣嚢(ポケット)から朝受け取った木札を取り出した。裏を見ると、小さく猫の手形が押されている。


「まぁ。猫」


「猫だわ」


「何猫かしら」


「三毛?縞?」


「斑かもしれないわ」


「素敵」


「それは素敵ね」


「申請書はもうお書きになったの?」


「そうだわ。申請書」


「申請書を書かなくては」


「まだ?」


「まだなの?」


「大変」


「それは大変よ」


 さざ波のような会話の後、桃色の髪をした同級生が「取ってきてあげるわ」と言って、窓の外に消えた。まだ風は吹いていないはずだけれど。


「先刻の個人授業で、どこかの教室(クラス)が朝顔の種を蒔いたのですって。あっという間に伸びてしまって」


「葉の上を歩けば直ぐに帰って来られるの」


「緑の階段よ。素晴らしいでしょう?」


 朝顔が(こうしゃ)を支柱にして巻き付いているところを想像して、少し愉快な気持ちになる。

 同級生たちの会話は続く。


「放課後までに花が咲くかしら」


「どうかしら」


「咲くといいわね」


「わたし、一度、朝顔の中に入ってみたいと思っていたのよ」


「まぁ。変わっているのね。まだ入ったことが無かったなんて」


「紫色が一番良いのでしょう?」


「そうね。赤は駄目」


「赤は駄目よ」


「ええ。それはもう絶対に」


「もし赤に入ったら…」


「ただいま。あら、何のお話?」


桃色の髪の同級生から申請書を受け取り、必要事項を記入する。

職員室で判子を貰い、教室に戻ってきた時には、もう猫になっていた。


「まぁ、黒猫」


「黒猫だわ」


「素敵」


「素敵ね」


 午後の最初の授業は、自分の机の上で丸くなって過ごし、ふたつ目の授業は夏目の上着の中で過ごした。始めは膝の上に居たのだが、私は本物の猫ではないので勝手が分からず、困っていたら、夏目が懐の中に入れてくれたのだった。教師の声が遠くなり、少しうとうととする。夏目は右手で文字を書き、時折左手で私の背中を撫でる。


 今日は随分と長く伸ばしているんだね



 夏目の言葉を思い出す。

 あの時、嫌がらずに髪を結って貰えば良かった。夏目のゆっくりとした掌の動きを感じながら、私は眠りに落ちた。

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