エンゼルフィッシュと海
角を曲がると、潮の香りがした。
坂道を上っていくと、だんだん匂いが強くなる。今日はうみの日であることに気付く。
坂を上りきり校門の手前まで来たところで、足元を見ると、白いものが撒かれていた。砂のようだ。うみの日なのだから砂浜があってもおかしくはない。
校門をくぐると、ざざ、と波の音がした。昇降口に向かいながら靴を脱ぐ。裸足になったと同時に、ふくらはぎの高さまで波がやってきた。思わず後ろを振り返るが、波は校門の外までは届かない仕組みになっているようだった。
下駄箱に靴を入れ、裸足のまま廊下を歩く。
すでに校内にも海は広がっていた。踝のあたりでちゃぷちゃぷしている。教室へ向かうために階段を上っていると、何か違和感がある。窓の外が青かった。近づいて見てみると、ロ(ろ)の字型の校舎の中庭部分が、プール状の海になっているのだった。少し迷って窓を開けてみる。海が入り込んでくるかと思ったが、ゼリーのふたを開けた時のような、ぷるんとした断面が見えるだけだった。その場に荷物を置き、窓枠に足をかけて海に入った。コバルトブルーの水中に、朝陽が差し込んでレース模様を作っている。澄んでいるので、かなり遠くまで見渡せる。上を目指して泳いでいると、目の前を数匹のエンゼルフィッシュが通り過ぎた。前回のうみの日には見かけなかったが、ここは本物の海ではないのだから、熱帯魚がいてもいいだろう。黄色いからだがよく映えている。
水面に顔を出す。ストライプのパラソルが立っているのが見えた。海は屋上の高さまであるようだ。一旦戻り、荷物を持ってまた海に入った。こうして中庭を突っ切れば、移動教室の際に便利になる。3階まで泳ぎ、教室の窓をたたいた。クラスメイトが鍵を開けてくれる。
「オハヨー」
「おはよう。今日うみの日だったんだね」
「そうだね。わすれてたよー」
「いつできたんだろう」
「わたしが来たときはもう海だったよ」
「そう」
「エンゼルフィッシュ見た?」
「見た」
「きれいだったね」
「うん」
教室の中も海になっている。
「このくらいの深さがちょうどいいね。スカートも濡れないし」
椅子に座ったクラスメイトは、足元の海を蹴り上げた。
ふたりで夏休みの予定について話していると、クラスメイトが言った。
「ねぇ、船が出ているよ」
窓の外の海を見上げると、水面にボートのそこが見えた。
「ああ、わたしも何か持って来ればよかった」
クラスメイトは残念そうだ。
「浮き輪ならあるよ」
「え。ほんとう?」
ロッカーからずっと仕舞いっぱなしにしていた浮き輪と空気入れを取り出して手渡すと、クラスメイトは「ありがとう」と言って、手早く浮き輪を膨らませて教室を飛び出していった。薄く窓を開けて待っていると、ざぶり、という音がして海の断面が揺れた。
遠くに赤い浮輪とそこから伸びている白い足が見える。手を振ろうと左腕を海に入れたが、クラスメイトはボートの影になってすぐに見えなくなってしまった。
*
昼休み
屋上に寝転んで空を眺めていると、夏目がやって来た。
「パラソルの中に入らないの?焼けてしまうよ」
夏目は大きな傘を差している。
「うん。いいの」
私は起き上がり、屋上のふちに腰を下ろした。夏目は後ろで立ったままだ。夏目の影が私の肩に映っている。
昼休みになると、海は生徒でいっぱいになった。カラフルな船がいくつも浮かび、水中では鬼ごっこが行われているようだ。午後の授業が眠くならないといいのだけど。
「夏目」
私は夏目を呼んだ。
「なぁに?」
「ここに来て」
夏目はにっこり笑って私の隣に座った。夏目の傘は内側に空の模様が描かれている。
「気に入った?」
夏目は傘を私に差し出した。
「どうして内側に絵が描いてあるの」
「外側だったら見えないじゃないか」
夏目は歌うように言う。
私は傘を受け取ると、逆さにして海につっこんだ。鍋の中のシチューをお玉でかき混ぜるように、ぐるぐると傘を回す。夏目は黙って見ていた。
海をすくっては戻すことを繰り返していると、傘の中に金魚が入ってきた。長い尾をひらひらとさせながら泳いでいる。
「金魚すくいみたいだね」
傘の中を覗き込んだ夏目が言った。傘に描かれた空の中を、赤い金魚がすいすいと横切っていく。
「綺麗だね」
色素の薄い夏目の髪が、太陽の光を受けてきらきらと輝いている。内側の絵も悪くない、そう思いながら、私は面白そうに金魚を眺める夏目を見ていた。
「ねぇ、僕達も金魚になろうか」
傘を閉じて水気を払い屋上のふちに立て掛けると、海に入った。泳がずにふたりでそのまま沈んでいく。船の影や追いかけっこをする生徒たちの笑い声ががどんどん遠ざかっていく。
「あ、エンゼルフィッシュ」
「前回のうみの日にはいなかったね。誰かが連れてきたのかもしれない」
逆さから見る校舎は、いつもと違って新鮮な感じがした。手を伸ばすと、小さな泡が指の間を通って屋上へ上っていく。
2階まで沈むと、ほとんど人がいなかった。教室や廊下の窓から顔を出して魚の群れを観察している生徒はいたが、しばらくすると奥に引っ込んでしまった。
落ちる。落ちていく。
徐々に海が濃くなっていく。
本当に金魚になってしまったら、傘の空の中で泳いでみたいな、と思っていると、中庭に着いた。背中にあたる芝生の感触がくすぐったくて、思わず眼を閉じた。
「眼を閉じると、身体の中に海が入ってきてしまうよ」夏目が私の前髪を撫でる。
瞼の奥にコバルトブルーが広がっていく。こんなに広いのだから、少しくらいくれたっていいのに。
「後でちゃんと返しておくんだよ。海は海の中にいなくちゃいけない」
だんだん眠くなってきた。「5分前に起こして」と言って、私は夏目に背を向けた。
*
「あの、僕の魚、知りませんか」
放課後、お手洗いに行って教室に戻る途中で、後ろから声をかけられた。振り返ると、緑色の髪をした男子生徒が立っている。きっちりと締められたネクタイは、1年生を示す水色。右手には大きな半透明のビニール袋を持っている。
「魚?」
「エンゼルフィッシュです」
男子生徒はビニール袋を持ち上げた。磨り硝子のようにぼやけた袋の中で黄色い影がちらちらと動く。
「家から連れてきたんです。帰ろうと思って数えたら、一匹足りなくて」
と、震える声で肩を落とした。
時計の針は4時を回っている。学校の時計が狂うことはありえないから、あと1時間で海は終わってしまう。
「一緒に探してあげる」
「本当ですか?」
「今日一日楽しませてもらったから」
「ありがとうございます」
「急いで。海があるうちに」
一度屋上へ上り、無人の船の中にビニール袋を置く。西からふたつ目の太陽の位置を確かめてから、海に入った。
「窓枠のところは探した?」
「はい」
中庭へ下りて、芝生の生え際や松の木の中を覗いて回る。夏桜の枝を調べていた時、ざぶ、と海が揺れた。水位が下がり始めていた。
「僕がいけなかったんです」
男子生徒が泣きそうな声を出した。
「他のペットと違って、僕はあの子たちと一緒に遊ぶことができない。だからせめて、今日一日だけでも触れたかったんです。触れて欲しかったんです」
ふたつ目の太陽が月に変わった。どろりとした月の雫が、空をつたって海の中に流れ込んでくる。
「海に魚を離したら、帰ってこなくなるって聞いたことがあります。飼われている時より居心地が良くて、そのまま海のものになってしまうって。だからきっと…」
男子生徒の眼から、涙があふれた。乳白色の粒が真珠になって芝生に落ちる。
「何も望まなければ良かった。今まで通りで満足していれば良かったのに」
「あ」
私は声を上げた。
男子生徒の涙の色が濃い青に変わり、瑠璃の中からエンゼルフィッシュが飛び出した。
「ここに居たのか」
最後の一匹は、主人の姿を見つけると、嬉しそうにぐるりと回った。
「現状に満足していなかったのは、この子の方だったのね。 貴方の一部になりたいと思っていたんだから」
*
男子生徒とエンゼルフィッシュを見送って教室に戻ると、海は3階の窓の下まで下りてきていた。時計の針の音を聞きながら、ぼんやりと水面を見つめていると、夏目がやって来た。
「どこに行ってたの。探したよ」
「うん。ちょっとね」
私は行方不明の魚の話をした。主人との関係に耐えられなくなったエンゼルフィッシュが、男子生徒が眼を閉じていた隙に海と一緒に入ったのだろう、と言うと、夏目が少し眩しそうな顔をした。
ざぶ、と、波が校舎を打つ音がする。
私はふと思い付いた。ねぇ。
「ねぇ、夏目」
「なぁに」
「もし、こことは違う、もっと良い世界に行けるとしたら、どうする?」
あのエンゼルフィッシュは例外だったけれど、魚にとって海は居心地が良いらしいよ、と心の中で呟いた。夏目はじっと私を見ている。
「その世界に、清河は居るの?」
私は首を横に振った。
「じゃあ行かない」
夏目は笑顔で言った。
「帰ろう。うみの日は終わりだよ」
夏目が差し出した手を、私は両手で掴んだ。