先輩が泣く話
突然ですが、最終話、はじめました。
先輩は東京の音大に進学した。
アフロヘアの親父さんの本屋を継ぐつもりは今のところなく、かといってプロの演奏家になる気もさらさらなく、母校で音楽の先生になるのが望みだった。
その為の教員免許を取るためだけに進学した。
先輩の破天荒な性格は到底教師向きには思えなかったけれど、適性と志望が異なる不幸な例なんて、たぶん世の中には腐るほどある。
僕は、高校を卒業した後、社会人になった。
僕の長距離の記録は幾つかの大学のスカウトの目に留まったけれど、実業団を選択した。
小規模な組織だったから、所属選手の数が少なくて、集団練習が大嫌いで協調性に欠ける僕には好適だったのだ。
我々の交際は続いた。
先輩はあいもかわらずむちゃくちゃに僕のことを振り回していたが、先輩は僕にできる範囲というものをよく心得ていて、その範囲で振り回していたから。
そういうのも可愛いじゃないか。
僕が先輩に愛想を尽かすことはなかった。
色々あったけど、もちろん喧嘩もしたけれど。
それさえさらに仲良くなるためのちょっとした我慢の時間に過ぎなくて。
お互いの生活もあるから、先輩とはいつでも会えるわけではなかったけれど。
でも、会うたびに僕はピアノを弾いてくれるように頼んだ。
久しぶりに会った時でも、開口一番、「ねえ、今日もあの曲を弾いてくれる?」。
普通は酷すぎると思うかもしれない。
でも、まあ、それが我々の挨拶みたいなもので。
先輩もニヤリと笑って、いつも了承してくれた。
普通の恋人同士なら、久しぶりに会ったら、愛の確認の一つや二つするのかもしれない。
しかし、我々は恋人であるとともに親友だったし、それでいいのだった。
先輩に期待に満ちて潤んだ瞳なんかでのぞき込まれたら、お手上げなのも事実だったけど、先輩はあまりそういう甘いことはしてくれない。
なぜならば先輩だから。
成人になってから始めたマルボロメンソールライトを咥えながら、「周は仕方ないな」なんて独りぐちながら、そのくせ楽しそうに弾き始めるのだ――いつもの曲を。
先輩がちょっと疲れて、煙草を片付ける。
そうしたら、リクエストの時間。
「何かもっと弾いてよ、先輩」
「お客さん、応酬は」
「つけといてくれ」
先輩がニヤリと笑って、鍵盤蓋を上げて、右手で軽く音を鳴らす。
手の方は弾きたくてたまらないのだ。
ピアノが好きなのだ。
音楽が好きなのだ。
「んー、有名な曲、でいいです」
「有名な曲って言われてもねえ」
「なんでもいいですよ。僕でも知ってるようなメジャーな曲を頼みます」
「メジャー、ねえ……。クラシックは嫌だよな?」
「たぶん、寝ます」
「まだ、寝るな」
先輩がすねたように言う。
だから、僕は言う。
「――じゃあ、いつもの曲を、もう一度」
そして、先輩はいつもの曲を弾く。
白と黒の鍵盤から生まれ流れる、先輩の世界。
耳を澄ませば、世界を共有できる。
目を閉じれば、世界は拡がってゆく。
■
スウ、スウ、ハー。
スウ、スウ、ハー。
二度吸って、一度吐く。
もうすぐ日付が変わる、真夜中。
眠らない明るい街の片隅で、それでも夜空の柔らかな儚い光を感じながら走っていた。
先輩が一人暮らしをしている部屋までの距離は、いい運動になる。
夜のジョギングにはちょうどいいから、いつもはもっとゆっくりと走るけれど。
今晩は違う。
先輩の家までもうすぐのところ、いつもだったら、ここからラストスパートしてしまうところで。
僕は止まった。
こんな夜遅くまで、シャッターを閉めずに待っていてくれた店内にそっと入る。
「遅いよ、小島君」
「これでも仕事の後、急いで来たんですけどねえ。思ったより、仕事がかかってしまいまして。ごめんね」
「浅田先輩、きっと、びっくりするよ。こんなの貰ったら、私だったら、ちょっと感激」
「そう?」
「うん、たぶんね」
花屋の看板娘が笑った。
名札には、加藤京子と書かれている。
高校時代の数少ない知り合いだ。
先輩の家の傍の花屋で、彼女がバイトをしていたのを見つけた時は、すさまじい確率の偶然に驚いた。
思ったよりも、世界は狭いのかもしれない。
「こんな時間まで悪かったね」
「本当に悪いわよ」
「でも、深夜まで営業するのがここの売りなんでしょう?」
「だからって、日付が変わる頃まで普通はやってないわよ。今回は特別だから」
「わかってるさ」
お代は先に払っておいたから、あとは受け取るだけだ。
すぐに立ち去ろうとしたら、背中から声をかけられた。
「小島君、今度、東京マラソンに出るんだって?」
「え? ああ、よく知っているね」
「私のお姉ちゃん、『月刊陸上』という雑誌の記者なの。知らなかった?」
そう言えば、そんな話を昔聞いたことがあったような気がした。
「頑張ってね。私は、小島君に、賭けているから」
賭けているとはどういうことなのだろう。
「うん」とよく判らないまま、僕は曖昧に頷いた。
「まあ、頑張るよ」
「よし、じゃあ、さっさと浅田先輩のところに行きなさい」
「へいへい。じゃあ、行くよ。加藤、本当に遅くまでありがとな」
「今度、二人きりでご飯でも奢ってもらうからね、フレンチを」
「別にいいけど?」
冗談交じりにそう言ったら、加藤は怒ったように言った。
「こらこら、この浮気者め! さっさと愛しの先輩のところへ行け」
そんな叱咤激励を背に受けて、花束を持って、彼女のところまで歩くことにした。
口笛を吹いて空を見上げたら、星がとっても綺麗で。
吸い込まれそうだった。
携帯電話を背中のバッグから取り出して液晶表示で、時刻を確認した。
あと数分で明日になる。
そして、先輩の家までちょうど歩いて数分だった。
マンションの一角、先輩の部屋が見えてきた。
電気が点いているのが判る。
まだ寝てないだろうとは予想していたが、思ったとおりだ。
もしかしたら、窓から夜空でも見上げているのかもしれない。
先輩の好きな空を。
電線で区切られたこの街の夜空には、星の光はあまりに弱すぎるかもしれないけれど、ほのかに瞬く小さな光を見つけることは、ちょっと楽しい。
雲はかかっていないようだから、単純に空気が汚く、周りが明るいだけなのだろうけれど。
欠くところのない望月が高い位置に浮かんでいる。
それを見たら、なんだか少しだけ嬉しくなった。
時計の針は、日付が変わる深夜0時。
シンデレラはもう帰る時間だけど、悪いずるい魔女にとっくの昔に捕らえられた馬鹿な男は帰らないのだ。
呼び鈴を鳴らして、突然現れた僕を見て、目を見開きながら扉を大きく開けた先輩に、両手一杯の赤薔薇の花束を恭しく捧げた。
先輩は驚いて、動かない。
びっくりしてくれたようだった。
それができたなら、僕が苦労した甲斐もあったということだ。
「周……、どうしたの、これ」
「僕が一番に言おう、と思っていたんだ。だから、夜分遅くにごめんね。好きな女の記念日は当然忘れちゃいけないって、いつだったか、先輩、言っていたでしょう?」
「ああ」
「お誕生日、おめでとう」
「……うん」
「あなたが生まれてきてくれて、とても嬉しい」
そして、先輩は何も言わない。
先輩の髪に触れた。
拒まれなかったから、そのまま向かい合って抱きしめる。
先輩はちょっと身じろぎして、少し迷った後、それから僕の胸に顔を伏せた。
女性特有の甘酸っぱい香りがした。
「――あ、ありがと」
ちっちゃい声で、耳を赤く染めて、先輩はそんな可愛らしいことを言った。
ちょっと驚いた。
なにしろ、先輩が乙女をやっている。
思わず、ちょっと噴き出してしまった。
先輩が面白い。
可愛い。
「なんだよ」
「結婚して下さい」
そんなことまでは言うつもりはなかった。
でも、思わず、そんなことを口走っていた。
結婚してもしなくても、二人はずっと親友だし恋人だろうけど。
でも、そんなことを口走っていた。
いつか言おうと思っていた言葉だから。
でも、これじゃあ、まるで僕自身が誕生日プレゼントみたいだ。
馬鹿みたいだ。
でも、もう馬鹿でいいや。
「――周のくせに、生意気」
そんなことを先輩は言った。
ぎゅっと僕の背中を掴んで、逃げられないようにして。
でも、そんなことを先輩は言った。
「僕とは結婚してくれないんですか?」
先輩が素直じゃない人だなんて、骨の髄まで知っている。
先輩は黙って首を振った。
僕の背中にまわった腕に、さらにぎゅっと力がこもった。
「――どうして、こんな急に」
その声が震えていることに気づいた。
気付いてしまった。
体を引き離す。
部屋の中から漏れてくる僅かな光に照らされた横顔。
その横顔が、その頬が、濡れていた。
先輩は泣いていた。
「泣くなよ、文子」
「本当に生意気、周のくせに」
■
真夜中なのにわざわざカフェインたっぷりの珈琲を淹れる先輩の後ろ姿を見ながら、髪が伸びたなとぼんやり思った。
男の人みたいだった漆黒の黒髪は、今は無造作にひねって結ってある。
なんだか色っぽい。麗しい。
面倒で切りに行ってないだけだと呟いている先輩には、真っ直ぐな長い髪もよく似合っていた。
静かだった。
先輩の部屋にはテレビもラジオもない。
防音処理だから、近隣からの音も聞こえてこない。
部屋の隅には、無骨で大きい黒いピアノが置かれている。
そのピアノは先輩のお気に入りだった。
その名もピッキー。
ピッキーは今日もご機嫌にピカピカだ。
綺麗に丹念に磨かれてあった。
白と黒が基調の部屋は、まるでピアノの鍵盤だ。
白いソファに埋まりながら、そんなことをいつも思う。
窓際に、真っ赤な薔薇達が白い陶器の花瓶に活けられている。
その圧倒的な色感だけが部屋の中では異彩だった。
つまり僕のプレゼントだが、思ったより良かったのかなと、自画自賛してみる。
「はいよ、どうぞ」
先輩は隣に座ると、珈琲を差し出した。
白い磁器のカップに丁寧に淹れられた珈琲は芳ばしい香りを撒き散らしている。
でも、僕は手を伸ばさない。
ソファアの上で膝を抱えて、いわゆる体育座りをする。
「なんで、すねてんの?」
「知っているくせに」
「うん、知ってる」
先輩はえへへと誤魔化すように笑った。
照れている。
時々、こういう表情をするようになった。
たぶん、僕の影響だ。
僕がニヒルで邪悪な笑みの浮かべ方を覚えたように。
先輩は照れ笑いの仕方を覚えたらしい。
「なんで結婚してくれないんですか」
「求婚は私からすると、決めていたからだよ」
先輩は何故か偉そうに、えっへんと胸を大きく張っている。
それを見て、揉んでやろうかと不埒なことを考えた。
「主導権は、絶対に周には譲らないと決めている」
また、良く判らないことを、たぶん、この場の思いつきで言い始めた。
それが先輩だ。そういう人だ。
「求婚された方が主導権を握れるんじゃないですか?」
「うぅ……」
「そうかもしれないと、今、思ったでしょ」
「黙れ、周」
結婚する前から、どうやら僕は既に完全に尻に敷かれている。
せいぜい、論理展開の矛盾の可能性を指摘するぐらいしか反抗できないが、先輩には理屈は通用しない。
なにしろ音楽家だ。芸術家だ。
奴らにとって、理屈なんて、何の価値もないのだ。
「こういうのにはね、きっかけが大切だと思うんだ」
「うん、大切かもね」
「うん、大切なのよ」
それでどうして、彼女の二二歳の誕生日にかこつけて求婚するのは駄目なのだろうか。
良いきっかけだと思ったのに。
「で?」
意地悪く、不機嫌を装って、低い声で問いかける。
「こう見えても、私だって、昔は白馬に乗った強くて素敵な騎士に求婚されるお姫様に憧れたものよ」
「憧れていたのですか」
「憧れていたのですよ」
「それで?」
「実際に求婚に来たのは、この男です。平凡な顔の生意気な後輩です」
そう言って、先輩は僕の頬をつねった。
ちょっと痛かった。
たぶん、赤い痕が残った。
「その平凡な男で満足しときなさい」
「その平凡な男で満足はできません」
ちょっと、むかっとした。
確かに先輩は、本当は可愛くて美人で。
僕にはちょっぴり高嶺の花だったかもしれないが。
でもね、先輩のことが世界で一番好きだから。
その気持ちは本当だから。
だから、他の男には絶対に渡したくなかった。
僕は問いかけた。
「何が不満なのさ?」
その一言を聞いて、先輩がニヤリと邪悪に笑った。
それを見た瞬間、直感した。後悔した。
――罠だった……。
僕は、また、いつものように先輩の罠にひっかかってしまった。
邪悪な魔女はすぐに罠を仕掛けてくるのだ。
「あれを見なさい」
先輩が机の上を手で示す。
机の上には、沢山の本が無造作に積まれている。
ちょっと、だらしない。
「読書家ですね」
「親父が、しょっちゅう本を送ってくるのよ。自分が気に入った小説やら何やらを」
「あのアフロヘアが、ですか?」
「あのアフロヘアが、ですよ」
「さすが本屋ですね。送ってくる本の量が、すごい」
僕は、ちょっと呆れた。
何を考えているのか、よく判らなかった。
こんなの到底読みきれるはずが無い。
先輩もよくアレに付き合う気になるな。
腐っても本屋の娘ということか。
「まあ、この膨大な本の山はともかく、えーと、あれはたしか……」
そう言って、先輩は机の片隅に積まれていた本の下にあった雑誌を手に取った。
それは陸上競技の情報雑誌だった。
前に僕のところに取材に来た出版社のものだ。
毎月、各種の陸上競技の情報を掲載する業界最大手の雑誌、フットボール社の『月刊陸上』だった。
「これよ、これ」
先輩はそれを手に取った。
「載るなら載るって、ちゃんと言いなさいよね。前に、そういうことはちゃんと報告するように言っておいたでしょう」
僕のことが記事になっていた。
「ごめんなさい」
そういえば、言うのを忘れていた。
オリンピック出場選手を決める為の選考会に認定されているマラソンが来年二月に首都の東京で開かれる。
その特集の関係で、取材記者が僕のもとに来たのだった。
僕も参加するからだ。
出場予定選手の中で、自己記録が上から四番目の位置にいるらしい。前回、別のレースに参加したときにたまたま二位の表彰台に上がることがあった。
その時の記録だ。
世界のトップから見たら、大した水準ではない記録なのだけれども。
しかし、まだ僕には伸びる余地がある、ということなのだろう。
「それは、ともかく……」
見ると、僕のことが載っていた記事は綺麗に切り取られている。
たぶん、保存したのだろう。
先輩は、普段はずぼらなくせに、そういうのだけはまめだった。
僕のことだからまめなのだとしたら、僕は愛されているのだろう。
それはとても嬉しいことだ。
「この雑誌には、興味深いことが書かれていたのじゃよ」
「そうですか」
芝居がかった口調で先輩が喋るときには、たいてい、ろくなことを言い出さないということを知っていた。
経験則で知っていた。
「くっくっく……」
先輩が邪悪にニヤリと笑っている。
嫌な予感がした。
「周……」
「なに?」
「この男、マラソンの日本記録保持者よね。顔に見覚えがあるわ」
先輩が一枚の写真を示した。
端正な顔立ちの男だ。
見覚えがない方が、たぶん、おかしい。
その人は、現日本記録保持者であり、前回のオリンピックで銀メダルに輝いた日本最高峰のランナーだ。
マスコミにもさんざん取り上げられたことがある。
知名度抜群の選手だ。
たぶん、日本一有名なランナーだろう。
今度の大会の、優勝候補筆頭。
ひどく嫌な予感がした。
「井口祐輔。現在、日本最強のランナーだと思うよ」
「――ということは、この人に勝てば、あんたが日本最強なわけね」
「そうなるかな」
「そうなるんじゃない?」
「そうなりそうだね」
「そうなるのよ」
そういうことになりそうだった。
冷静に考えてみた。
正直、日本の第一人者とは地力の差がまだまだあるように感じる。
最近、周囲の人が僕のことを若手のホープと呼んでいることは知っていた。
すでに日本屈指のランナーだと評価してくれる人もいるのだ。
もっとも、他人の評価なんて僕にとってはどうでもいいことだけれど。
僕は、集団で走るのが嫌で嫌でしょうがないから。
最初から先頭で突っ走って、そのまま逃げ切りたいという競馬の先行逃げきり馬みたいな走り方をして。
それが今のところ、何故か良い結果に現れている。
知ったかぶりの解説者たちの中には、僕をクレバーな選手だと評している人もいる。
ちょっと詐欺みたいで、心苦しい。
「そんなに僕と結婚したくないんですか、先輩」
心底、がっかりした声でそんな事を言ってみた。
ちょっとした演技だ。
「ん? 結婚したいよ? 愛し合っていますから?」
演技はあっさり見破られた。
先輩はニヤリと笑っている。
「だったら……」
「私はね、日本最強ランナーと結婚したいの。強くて素敵な白馬の騎士の代わりに」
「そうですか」
日本最強で、良いのか。
幸運だった。
それなら楽だ。
僕は先輩の事だから、てっきり世界最強とか言い出すのではないかと思っていた。
昔の先輩ならきっとそう言ったはずだ。
無茶苦茶な先輩のことだから。
だから、いつかオリンピックで優勝して、世界最強のランナーになるつもりだったのに。
「――だから、周、やれ」
先輩は、まるでそこにいるゴキブリをさっさと駆除しろというような口調で、簡単に命令を下した。
現日本最強を含めて、今回の東京マラソン出場者は実力者揃いなのに。
そんなことは先輩にはたぶん関係ないのだろう。
さっさと駆除しろ、か。
「勝てたら、オリンピックですよ」
「私をオリンピックに連れて行け。たまには海外にも行ってみたいではないか」
「いえ、ですが……」
「さっさと、オリンピックに、私を連れて行け。そうしたら、それが新婚旅行だ」
あいかわらず、言うことが無茶苦茶だ。
正直言って、今回のレースで勝つことは想定していなかった。
というか、あまり勝つつもりはなかった。
勝てる可能性はあるかもしれないとは思っているけれど。
でも、僕のそんな思惑なんて関係ない。
先輩がやれと言ったら、僕は命を賭して、何としてでもやりとげねばならないのだ。
それが、僕と先輩の関係。
「首尾よく日本最強になったら、日本代表にもなるでしょう。オリンピックにも出なくちゃ駄目でしょう。うん、完璧だ。優勝したら、結婚してあげるから。新婚旅行はオリンピックだ」
「――あいかわらず、無茶言いますね、先輩」
でも、先輩が無茶苦茶なことを言い出すのは――……、それは僕になんとかできる範囲でのことだ。
無理なものは無理だと知っているから、先輩は無理な事は言わない。
つまり、僕には今度の大会で勝つことが可能なのだ、絶対に。
先輩が言ったからには。
「私と結婚したかったら、この男に勝ちなさい」
「じゃあ、結婚は諦めようかな」
ちょっと意地悪を言ってみた。
実際には、そんなつもりはさらさらない。
「周……」
先輩の目が、いかにもわざとらしく、うるうると潤んでいた。
悪い魔女はこのぐらいの芝居なら平気でやってのけるのだ。
経験則で知っていた。
そして、純粋無垢で馬鹿な男は、いつもその演技にすっかり騙されることになっている。
「周、怒った?」
「いえ、別に。僕が怒るわけないじゃないですか。先輩に対して」
「怒ってもいいよ?」
「じゃあ、もう、怒った。許さない」
そう言って、隣に座っている先輩の柔らかい身体を強く抱き締めた。
「きゃあ」とか言っている先輩の綺麗な髪を撫でた。
こんなに大好きなのに。
欲深い魔女みたいな先輩にはまだ足りないのだろうか。
「周」
「何ですか?」
「ううっ、なんでもない……」
「そうですか」
先輩は僕をいつも無茶苦茶に振り回すくせに、その後で必ず後悔する。
面白い人。そして、本当はきっと優しい人。
もう後悔し始めているのだろう。
先輩はそういう人だ。
現に、もう涙声だ。
鼻を啜っている。
今度は演技じゃない。
だから、僕は先輩を強く抱き締めた。
僕は先輩を愛している。
世界で一番愛している。
先輩の為なら、きっと、何でもしてあげられる。
先輩の無茶苦茶な我侭が、僕の愛を問うものだったら。
僕はいつだってその我侭に振り回される。
何度でも振り回されるのに。
それでも、先輩は不安を感じるらしい。
「どうして急に結婚しようなんて言い出した? ――こんな、私なんかと。我侭で意地っ張りで素直になれない女なのに……」
先輩は身を震わせていた。
声も震わせていた。
泣いていた。
「――周は、どんどん変わるの。会うたびに……」
掠れた声だった。
痛々しい。
だからこそ、愛おしい。
僕は先輩を腕の中にそっと閉じ込めた。
離したくなかった。
「どんどん格好良くなる。こっそり車の免許なんかもとって、急にドライブに誘うようになって、誕生日には気障っぽく真っ赤な薔薇なんて贈ってくるし……。好きなんだ、とっても。離れたくない」
「うん」
「怖いんだよ、いつか、取り残されそうで」
「そんなこと、しないさ」
先輩の丸い背中を撫でた。
時々しゃくりあげるから、その度に震える。
だから、やさしく撫でていた。
先輩の腕は僕の首の後ろに回されている。
我々は抱き合っていた。
「私は変わらない。昔から、変われない」
「うん」
「――ねえ、本当に、私でいいの?」
腕の中から、小さな声で問われて、深く理解した。
先輩の内にあった自信のなさを。
いつも無駄に自信満々で、鋭い眼光で、威圧感たっぷりで。
ずるくて、計算高い。
自由気ままで気高い野良猫みたいな性格で。
悪戯大好き、素直には甘えてこない。
それを先輩は全然気にしていないようでいて。
その実、本当は強く気にしていたのだ。
だから、僕は先輩を安心させるために、こう言わなければならなかった。
「今度の東京で、僕は勝って、それを君に贈る」
負けられない。
次の東京マラソンは決して負けられない。
――だから、ねえ、先輩。いつもの曲を、もう一度。
バカップル反対。
でも、まあ、書いていて楽しかったですね。
周君と文子さんのお話は、ひとまず、ここまで。