先輩が殴る話
突然ですが、第二話、はじめました。
案の上、陸上部の練習は辛いものになり始めた。
放課後の部活動の時間、知り合った仲間達とは言え、非自己である他人と一緒に走ることは嫌だった。
理性では集団練習の意義を十分に判っているものの、なんというかもう感覚的に駄目なのだった。
生理的に無理だった。
気持ち悪かった。
吐いた。
そして、時に休んだ。
これでは練習にならない。
だから、もっぱら、早朝、個人で走っていた。
それはあくまで自主練習であり、しかし練習の全てでもあった。
孤独な練習だった。
でも、それが気持ち良かった。
走ることは好きだった。
どうしようもないくらい好きだった。
いつの間にか、気がついたら、好きだった。
走って走って、いつか風になってしまいたかった。
そんなことばかりを考えていた。
そんな毎日だった。
親しい友人と言える人もなかなかできなかった。
先輩がその貴重な例外だった。
最低な出会い方の一つを経たというのに、先輩はあっけんからんとしていて、そして何故か僕のことが気に入ったようだった。
先輩の浅田文子という名前は、本屋さんの娘といえば納得できるような名前だったが、先輩の外見からはとても想定できないような名前だった。
でも、本人は、その名前を密かに気に入っていたように思う。
「周はいつまでたっても友達ができないね。くっくっく……」
「うるさいですよ、先輩」
「周囲から完全に浮いているよね。部活の時間もいつも孤独だよね」
「先輩だってそうじゃないですか」
「私の話はいいから」
「ちょっとずるくないですか、それ」
先輩は、一歳年上の女性だった。
といっても、いわゆる女性らしいところはあまりなかった。
その漆黒の髪は短くてぼさぼさだったし、化粧の類も好まない。
地味だ。
痩せ身だ。
日本人女性にしては長身の一七五㎝をいつも凛と伸ばして、あいかわらず眼光鋭く、周囲に無駄な威圧感と恐怖感をばら撒いていた。
はっきり言って、怖がられていた。
恐れられていた――でも、どうしてだろう。
僕にとっては、その風貌も、とくにその強い眼光も、あまり怖いものには感じられなかったのだ。
先輩は、空を見上げるのが好きだった。
だから、よく我々は屋上で一緒に空を見上げた。
それは、まるで吸い込まれそうな蒼空だったり。
鬱蒼とした雲に覆われた薄暗い重たい空だったり。
地平線に消える太陽が残す紅をぶちまけた茜空だったり。
僕は、同級生と親しくなろうという努力を一切せずに、孤独を愛する変な奴だったものだから、ついつい人気がない屋上に行く習慣だった。
先輩は、やはりその風貌で周囲の女性陣からは異端扱いされ、でもそんなことはたいして気にも留めずに、己の欲望のままに空を見る為だけに屋上に来ていた。
本来、屋上への扉には鍵が掛けられていた。
立ち入り禁止だった。
安全上の問題からだと聞いた。
しかし、先輩は何故か合鍵を持っていて、だから屋上へは自由に立ち入りしていた。
先輩は自由だった――そして、ちょっぴり、ずるかった……。
「やったね。また、じゃんけんは私の勝ち~。じゃあ、周、コーラを買ってきてね」
「今、ちょっと後出ししませんでしたか?」
「こらこら。ぶつくさ言わずに早く買いに行け」
「先輩、また、ズルしましたね。ふんっ、コーラなんて飲んだら、太りますよ」
「だって、それでも、コーラが好きなんだもん。あの甘ったるさが好き」
「――まあ、先輩はちょっと太った方がいいですけどね」
先輩とはしょっちゅう一緒にいたものだから、その仲を邪推する者によく冷やかされたりもした。
心無いことを言われたりもした。
男女の間に友情は成り立つのか。
そんな深淵かつ難解な問題には到底答えられないけれど、少なくとも、あの頃の我々の間に恋愛感情が存在していたとは思えない。
でも、友情は確かに存在していたから。
だから、あの頃の我々の関係を、敢えて一言で説明するなら、親友だった。
我々は、親友だった。
大切な親友だった。
先輩は「言わせたい奴には言わせておけ」なんて言って楽しそうに笑っていた。
強い人だと思った。
他人のつまらない評価を気にしない人だった。
いつでも先輩は先輩らしく、傍若無人で、天真爛漫だった。
器の大きい人だった。
だから、僕も一緒にいて、心地良かったのかもしれない。
それだけに先輩を悪く言われたくなかった。
先輩はその見た目から、誤解されることが多かった。
下品な噂話が流れたりもした。
先輩は気にする素振りも見せなかったが、僕が気にした。
先輩を悪く言われたくなかった。
本当は判っていた。
そんなものは無視するにかぎるのだと。
でも、とても悔しく思ったのだ。
結局のところ、先輩の方が大人で僕の方が子供だった。
あの頃、僕は、先輩を強い人だと思っていた。
「先輩」
「ん? なに?」
「次は何を練習するのかなんて、どうでもいいんですけど……」
「ふ~ん、どうでもいいのかい、私のピアノは」
「ただ、あの時間だけは。いつもの曲をお願いします」
「い~よ。でもさあ、なんで?」
「好きなんですよ、あの曲」
先輩はその野生児的な見た目に反して、ピアニストだった。
音楽部の幽霊部員。
それが先輩だった。
見るからに、やる気がない。
それでいて信じられない程、綺麗で繊細な音色の持ち主だった。
才能があったかどうかは判らない。
コンクール等には出たがらなかったし、出たとしても真面目にやっていたのかどうか。
おそらく、様々な意味で、プロの演奏家にはなれないだろう。
先輩には、演奏家として、求道者として在る為の決定的な何かが欠けていたように思う。
それでも、素人ながらにも、僕は先輩のピアノを評価していた。
まるで作り立てで混沌とした宇宙のようなピアノの音色だったが、それはそれで僕の心の琴線に触れるものがあった。
一言で言えば、先輩のピアノのファンだった。
そんな事を口に出して告げたら、先輩を増長させることが目に見えていたから、言わなかったけれども。
先輩のピアノが好きだった。
そして、どうも、先輩もそのことを知っていたように思う。
得意そうな顔でニヤリと笑うだけだったけれども。
いつもの曲――それは、先輩が適当に作曲し、適当に弾いているだけの曲だった。
名前はない。
そんな大袈裟なものではない。
あるいは曲ですらなかったのかもしれない。
なにしろ楽譜におこしてすらいなかった。
だから、弾けるのは先輩だけだった。
それはそれほどいい加減で、形式がなくて、そして、なにより自由だった。
早朝の誰もいない音楽室が先輩の遊び場だった。
折角、防音処理を施してあるのに、窓を開けて。
先輩は楽しそうに弾いていた。
子供が悪戯をするように、楽しそうに嬉しそうに。
見たことはなかったけれど、先輩はたぶん笑いながら曲を弾いていたと思う。
開け放たれた窓から聞こえてくる曲が、笑っているように感じたから。楽しそうだったから。
朝、一人で校庭を走っていると聞こえてくる。
その曲のリズムに乗って走ると、楽に走れた。
いつもより速く、それでいて楽に。
記録もどんどん向上していった。
その曲のリズムで足を動かし、腕を振り、呼吸をすると、楽に走れた。
走るという動作には、リズムがとても大切だ。
その為に腕振りを一定に保ち、歩幅を一定に保ち、そうやってフォームを一定に保つのだ。
先輩の音楽に乗ることで、僕は何故か理想的なリズムで走れた。
だから、というわけではないけれど。
いつもの曲が好きだった――名前がないから、「いつもの曲」と勝手に呼んでいたけれど。
先輩が早朝の音楽室で気まぐれに弾いているピアノの音楽が好きだった。
開けられた窓から聞こえてくる優しいピアノの音色が好きだった。
本当に、好きだった。
「見たよ、周」
「何を、ですか?」
「この色男め――酷いよ、私というものがありながら。遊びだったのね。しくしく」
「先輩って、絶望的に、そういうキャラが似合わない人ですよね」
「まあな」
「――彼女と、付き合ってみることにしました……」
お互い、違う人を好きになった。
先輩は、美術教師の黒木先生にずっと片想いしていた。
僕には、彼女ができた。
ある日、僕は、唐突に告白された。
必死な形相で「付き合って欲しい」と言ってくるその様子が、なんだか可愛く見えた。
突然だったから戸惑ったし、動揺もしたけれど。
それでも嬉しかったから、了承した。
誰かに好かれるのは素直に嬉しいことだと思う。
ちょっと浮かれていたのかもしれない。
そして、こんな走ることぐらいしか取り柄の無い馬鹿な男を好いてくれたその娘を、徐々に好きになっていった。
彼女は先輩とは全く正反対の可憐な雰囲気の持ち主だった。
彼女の名前は、丸山理恵。
僕の、小島周の初めての彼女であり、初恋の女性だった。
とはいえ、僕と先輩の友情に特別変わりは無く。
あいかわらず、二人して屋上で空を見上げながら、くだらない話ばかりしていた。
もしかしたら、一日のうちで丸山といる時間よりも先輩といる時間の方がずっと長かったかもしれない。
丸山はそのことにあまり不満をいう事は無かったけれど、彼女の友人とやらに呼び出されて注意されたりもした。
そういうのがきっと女の子同士の友情という奴だったのだろう。
どうも好きにはなれない類の「友情」だったけれども。
振り返れば、やはり、どこか交際には無理があった。
先に丸山から好きになってくれたのに、先に丸山から嫌いになってくれたらしい。
僕はある日、唐突に、あっけなく、容赦なしに振られた。
それはそれで構わないが、驚いた。
初心な僕が何もしなかったのがいけなかったのだろうかと思った。
丸山を大事に思うあまり、臆病な僕は何もしなかった。
できなかった。
手を一つ握るのにも大変な思いをした。
キスなんて恥ずかしくて、到底できやしなかった。
とても情けないが、それが事実だった。
「ふられてやんの、だせえな」
「先輩に何が判るというんですか。だいたい、先輩は女であって女じゃないようなもんでしょう。乙女心なんて持ち合わせているんですか、本当に」
「殴るぞ、周」
「殴る前にそう言って下さい。今のパンチは痛かった」
先輩は、ときどき、容赦なく、僕をひっぱたいた。
「原因なんてアレだろ? どうせ誕生日かなんかを忘れていたんだろう?好きな女との記念日ぐらい把握しておくのは当然だよ、当然。もう、バ~カって言ってやる。周のバカ、バ~カ」
「――先輩も一応、乙女だったんですね。鋭いなあ……」
丸山の誕生日をすっかり忘れていたというのが、一応、振られた理由だった。
しかし、それ以前からも、何かと不満を持っていたようだった。
もしかしたら、彼女は僕の幻を愛したのかもしれない。
想像の中で理想的な僕を描いていたのかもしれない。
彼女だけに優しくて、彼女だけに微笑むような、そんな僕を。
先輩はニヤリと笑いながら言っていた。
「きっと彼女は恋に恋する時期だったんだろう」と。
実際の僕は、冴えない馬鹿な奴のままで。
彼女の理想にはなれなかった。
無理なものは、無理だったのだ。
現実って、たぶん、そんなものだ。
「全力で落ち込んでやんの、アハハハ」
「先輩、うるさい」
「周、涙目じゃん。目が真っ赤だよ」
「彼女のことは割と本気で好きだったんですよ。落ち込みますよ、そりゃ。泣いちゃいますよ。からかうなら、帰ってくださいよ。ふんっ」
「本当に帰っていいの?」
「――いえ、やっぱり、傍にいてください……」
色々なことがあった。
泣いて、笑った。
でも、振り返ると、思い出すのは屋上で先輩とだらだらと話していた時のことばかりだ。
先輩の女性らしいちょっと甲高い笑い声や、気を抜いてぼけーっとした横顔や、邪悪そうにニヤリと笑った表情。
そんなことばかり思い出す。
色々なことがあった。
つまらないことで、悩むこともあった。
でも、確かに楽しかったのだ。
秘密基地めいた、立ち入り禁止のはずの屋上で、先輩と過ごした日々は。
親しい友人といえる人間の数も決して多くないし、社交的とはいえない性格の持ち主で、陸上部では完全に浮いてしまっていた僕が、それなりに楽しい高校生活を送れたのは間違いなく先輩のおかげだった。
幼稚で、そのくせ偏屈で。
人間嫌いのくせに、本当は寂しがり屋で。
そんなどうしようもない僕の心の逡巡を、先輩は笑い飛ばしてくれたのだ。
だから、吹っ切れた――たぶん、慰められた。
癒された。
僕は意地っ張りで、そのくせ弱虫で。
本当に伝えたいことを、言うべき時になかなか口に出せない駄目な男だったけれど――本当は、先輩には感謝していた。
でも、そんなことを口に出して伝えたなら……。
きっと先輩は笑うだろう。
先輩は、やっぱり、ニヤリと得意そうに意地の悪い笑みを浮かべるに違いない。
そういう人だから。
「先輩が卒業したら、寂しくなりますね」
「そう?」
「そうですよ。この屋上は一人でいるには広すぎますからね」
「周、泣く?」
「いえ、泣いたりはしないと思いますけどね」
「そうか、でもね、私なら、きっと泣く」
暴力反対。
次回、先輩が小悪魔する話。