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先輩が万引きする話

突然ですが、ラブストーリー、はじめました。



見上げれば、透き通った夜天に輝く銀月がとても綺麗だった。


街の明るさにかき消されそうに弱々しく瞬く星もあるけれど、その儚さすら美しいと思った。

なんだか、愛おしい。

星の光がひどく優しいから、そう感じるのかもしれない。


呼吸を整え、静かな気持ちで、走っていた。

時間をゆったりと捉え、穏やかな楽な気持ちで、自分のペースを意識しながら。

その土地や空気と一体となれるように祈りながら。


静謐に保たれた凛とした空間を割り、風を乱し、それでも前へ進む。

前へ。前へ。前へ。


聞こえるのは、脈動と呼吸音だけ。


歩幅を保ち、腕を振るリズムもできる限り一定にして、走った。

走れば、いつも自然を身近に感じるのに、その動作の一つ一つはひどく機械的だ。

本物の機械になれば、きっと、疲れないのだろう。

しかし、それでは、走る意味がない。

走る意味は走る人の数だけあるはずだけど。

少なくとも僕にとっては、それでは走る意味がない。


僕にとって、走ることは散歩の延長みたいなものだ。

だから、速く走ることにはもともとそれほど関心がなかった。

終着点にはいつか辿り着けばいいと思っていた。

歩いてでも、這いずってでも、最後にそこに到達できればいいと。


長針と短針が時を刻むように、左右の両足が距離を刻む。

足の指で、凹凸を感じるように、柔らかく地面を掴む。

掴んだら、それを後方に放り投げるようにして、引く。

それを繰り返す度に、身体が前へ進む――そう、前へ……。


足音が響くように感じてきたら、それは疲れてきた証。


走っている最中に思考すると、疲れやすい。

でも、疲れてきたら、癒されればいい。


できるだけ思考を研ぎ澄ますことで、明瞭になり、透き通り、薄まり、拡散し、おそらくは無へ近づく。


空っぽになる。

虚ろになる。


何もかもが無くなった後で、剥き出しになって、身体を取り巻く風を感じればいい。

ただ、風と一体になれ。

人工の都市の片隅を吹き抜けるささやかな風は、でも、その流れはいつか世界を巡るはずだから。

そんな空想は、あるいは幼稚で愚かなものかもしれない。


しかし、素敵じゃないか。


――ふとした瞬間に、その曲は聞こえてくる。


それは例えば、何気なく赤い夕空を見上げた時だったり。

どこからか流れてくるピアノの音色を聴いた時だったり。

冷たい雨が降る日に、本屋へ駆け込んだ時だったり。


そんな時には、いつのまにか頭の中をその旋律が流れている。


集中して走る時。

その脈動と呼吸音が、自身にとって最適のリズムを刻む時。

そして、走る身体に纏つく風を強く感じる時。


そんな時には、いつでも、その曲は聞こえてくる。

頭の中に響き渡る。


そして、その曲が聴こえて来ると、ふっと身体が軽くなるのだ。

それは背中に羽が生えたように、ひたすら軽やかに。

おそらくは、錯覚の一種なのだろう。

しかし、確かに癒された。身体も、そして、心さえも。


だから、それを求めて、ただ走る。走り続ける。


このまま消えてなくなってしても、それはそれで構わないような、そんな恍惚感。

それはとても気持ち良いから。

生きていることを感じさせてくれるから。


だから、僕は今まで走ってきたのかもしれない。


   ■


子供の頃から競争が嫌い。

誰かと一緒に走ることも嫌い。


だから、陸上部ではいつも浮いた存在だった。

長距離走という競技は個人競技だが、練習はたいてい集団で行う。

その方が、一般に、利点も多いからだ。

共に切磋琢磨し、協力する事が、より高みを目指すには容易な道だ。

つまり、楽ってことだ。


だが、僕は嫌いだった。


走ることは好きだったけれど、「みんなと一緒」に行う練習形態を好まなかった。

耐えられなかった。


他人の呼吸音や、足音。


走っている最中に、明らかに自分のものではないそれらを感じる度に、嫌悪感を抱いた。

自分の世界を、自分の領域を、乱すものとして嫌悪感を抱いた。


気持ち悪かった。

鬱陶しかった。


そんな感情は自然と相手にも伝わるものだ。もちろん、相手にも嫌われる。

陸上部ではなかなか友達ができなかった。

変わり者だと認識され、疎まれ、憎まれてすらいた。

孤立していた。

そのような環境に身を置くことは辛いものだった。


だから、陸上部の練習には参加しなくなっていった。


中学生になって初めて入った陸上部。

半年程で我慢できなくなり、一年も経つ頃には籍を残すだけの幽霊部員になっていた。

使わなくなったスパイクが、部屋の片隅に寂しげに転がっていた。

誕生日に両親に買って貰ったスパイク。

あのスパイクは、結局、どうしただろう。身体が成長して、足のサイズも変わって、使われないまま履けなくなってしまったあのスパイクは、そのまま捨てられてしまったのだろうか。

あの頃、確かに大事に想っていたはずなのに。僕はその最後すら、ろくに知らない。


先輩に初めて会ったのは、一六歳の春だった。


冷たい雨が降っていた。

空は暗くて、気が滅入った。


生家から一番近かった公立高校に進学し、やっぱり走ることぐらいしか好きなことがなかった僕は、再び陸上部に入った。どうせ長続きしないことは判っていたけれど、それでも陸上部を選んだ。

春の冷たい雨のおかげで、室内での筋トレをこなしてから、早々に帰宅という事になった。


その帰り道のこと、ふと寄り道した本屋で万引きを見つけた。


万引きは、犯罪だ。


だが、その本屋さんには何の義理もない。

したがって、積極的にその犯罪を防止する気にもなれなかった。


ただ、僕の美学というか倫理観に反するので、そいつには何か一言投げつけてやろうと考えた。

そいつの年齢がだいたい自分と同じくらいだろうと思ったのも理由の一つだった。

注意もしやすいから。


そいつは無造作に文庫本を一冊棚から取り出したかと思うと、鞄に自然な動作でそっと素早く入れた。

その大胆不敵な振る舞いに驚いた。

その本が、夏目漱石の『こころ』だったことに更に驚いた。


好きな作家に対するその不愉快な振る舞いが、たぶん、僕の心の一部を強烈に刺激した。


「――ちょ、ちょっと、あんた」


店を出たところで、そいつに声を掛けた。

緊張して少し口籠もった。


現行犯を抑えた方が良かったことに遅まきながら気付き、ちょっと勢いが弱くなった。


「なに?」


そいつは大胆不敵にも立ち止まり、こちらを見下ろした。

自分より相手の方が僅かに背の高いことに、その時初めて気がついた。

そして、その声からして、そいつが女性であることにも。


そいつの眼光は鋭かった。

言い換えるなら、目つきが良くなかった。

折角、整った顔立ちをしているのに、その目つきで全てが台無しだった。


髪が短かったから、とっさに女性と判別できなくても、たぶん仕方のないことだったように思う。

ぶかぶかの草臥れたブルージーンズに、白いセーターとジャンパーを着ていたせいで、体のラインも良く判らなかった。


「見たよ」


鋭い眼光を浴びせられながらも、表面上はなんでもないかのように平静を装った。

飄々として、若干余裕がありそうな顔を見せる。

その実、口はカラカラに渇いていて、手はぎゅっと握り締められていた。


「なにを?」


そいつが表情を一切変えぬまま言った。

口調も最初と変わらない。硬いままだ。


なんだか侮られた気がした。

たぶん、とぼけてやり過ごす気なのだろうと思った。

だから、言ってやった。ガツンと。


「――お前が万引きしたところを……、だよ」

「万引き?」


そいつは一瞬怪訝な表情を浮かべた後、それからニヤリと笑った。

人を小ばかにするような意地の悪い笑みを浮かべた。


「ああ、なるほど……」

「夏目漱石は僕の好きな作家でね」

「ふーん。でも、そんなことは聞いてないよ」


確かに、余計なことを言ったようだった。


「で、どうするんだ、泥棒さん?」

「どうもしないさ」

「見た目通り、ふてぶてしいね」

「失礼だな、後輩の癖に。いきなりタメ口をきくなよ。私は先輩だぞ」

「先輩?」


思わず目を見張って、そいつを見た。

だが、そいつとは初対面のはずであり、僕の先輩であるかどうかなんて、当然、確証が持てなかった。


「陸上部の新人だろう、お前」

「そうですけど?」


ちょっとだけ口調を改めた。今更だが。


「この前、窓から見えたんだ、新入生が走らされているのが。お前は先頭だったろう?」


他人と一緒に走るのが嫌だから、僕は集団の先頭で走るか、それとも最後尾を走るかのどちらかが常だった。

そして、その時は本当に先頭で走った。


どうやら、彼女が先輩であるというのは確かなようだった。


「なるほど。嘆かわしいね。僕は自分の高校の先輩の犯行現場を目撃してしまったのか」

「違うよ」

「違わない」


彼女は、先輩は、残念ながら犯罪者だ。

そして僕は目撃者だ。


「判った。口で説明するより、見せた方が早いだろう」


そう言うなり、先輩は僕の腕を掴んだ。

思ったよりも強い力で痛かった。


そのまま引きずられるようにして店内に戻った。

一階は新刊と雑誌と、奥に文庫本が置かれている。

店の入り口には、アフロヘアのおじさん。

それが店長。

少なくとも、名札にはそう書かれている。

その事実に、その時初めて気がついた。

そこそこに大きい本屋だから、店長自らレジを打っているとは思わなかったのだ。


「で?」

「これが親父」


先輩がおもむろにアフロヘアを指差した。


「ん? 初めまして。文子のお友達かい?」

「友達じゃない、後輩。名前は知らない」


親子の対談を急に目の前で始めた。しかも、紹介までされていた。

その光景に、顔が引きつった。


「親子って本当に?」

「うん」


本当に親子なのか。

親が経営する本屋だったから、その本屋での犯罪めいた行為を容認されていたのか。

読みたい本を持っていっても良かったのか。


「もう一度訊くけど、本当に?」

「しつこい」


アフロヘアが困ったような笑みを浮かべていた。

きっと事情がよく飲み込めずに戸惑っていたんだろう。

だが、否定をしないということは、事実ということだ。


先輩は、その隣でニヤリと邪悪に微笑んでいた。


「親父の許可は貰っているんだ」

「そうでしたか」

「そうなんだよ」


そういうことのようだった。

万引き反対。

次回、先輩が殴る話。

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