写真
読みやすくしたつもりです。紅茶でも飲みながらのんびりしたいときにどうぞ。
どうでもいいようなことに重要な意味が隠れていることがあるらしい。僕は自宅で高校の制服に着替えながら鏡をみた。髪型を整え、ネクタイを緩く締めて外を出た。
真夏の外は真冬にストーブの前に立っているようなそんな気持ちになる。熱がジワジワと僕を蝕み。それを嫌うかのように額から汗が噴き出す。
どんなに涼しい夏服をきていたとしても、それは変わらない。むしろ、生地が薄いから、汗で身体に張り付いて気持ち悪くなる。
空はごろごろと唸りを上げて、今にも泣き出しそうな表情をしていた。
――また退屈になりそうだな。
僕は心の中で呟いて、空を見上げる。すると、額に雨粒が落ちてきた。冷たくて、思わず鳥肌が立ちそうになる。
僕は鞄を頭上にかざして、アスファルトを駆ける。その途中で無意識に足が止まった。あまりにもキレイな花を見つけたから。
それは紫色のアジサイ。普通は複数子、塊になって、咲いていることが多いけれど、そのアジサイはポツンと孤立して、風に揺られていた。それでも、力強く在り続けるアジサイに惹かれたのだ。
僕は携帯電話の写真昨日を利用する。画質は良い方なのだが、僕自身に写真を撮る技術が無く、いくらとってもアジサイの力強さを表現することはできない。
僕はため息を漏らした後、道草することなく学校へ走った。
学校についた頃、空はザァーと大きな鳴き声をあげた。地面には数多の涙が零れ、水溜りを作って行く。
こんなにも悲しい景色が広がっているのにも関わらず。教室はいつもと変わらない騒がしさを保っていた。
僕はその騒がしい教室の片隅でクラスメイト達の様子を傍観していた。本当なら、クラスメイト達の会話に混ざるべきなのかもしれない。でも、どうしても彼らの中に混ざる気持ちにはなれなかった。
会話をしても、面白味もない子どもの絵日記を読み聞かされているような気持ちになる世間話や、自慢話しばかりで特に創造性があるわけでもない。
むしろ、登校途中にみつけたアジサイを眺めている方が、まだ創造性がある気がしてならなかった。
僕は携帯電話に保存した、アジサイの写真を見る。しかし、写真はピントがずれていて、直でみた、アジサイの力強さは伝わらなかった。
――退屈だなぁ。
そのとき、
「ずいぶん退屈そうにしてるわね」
制服を着崩した女子が声をかけてきた。制服のYシャツは胸元まで開けて、スカートはマイクロミニサイズ。
だけど、胸が小さいせいかYシャツがぶかぶかに見える。
「ちょっと、私が声かけてるんだから私の顔を見なさいよ!」
「あ、ごめん」
女子は僕の隣の席に座り、足を組む。スカートが短すぎるせいで、どうしても彼女で向き合う勇気が持てない。
「何、委縮してるのよ、私は別に先生でも何でもないんだからさ」
「いや、で、でも……」
「あ、もしかして私の脚みて対応に困ってるんでしょ?」
「ち、違うよ」
「いいのよ? 別に視たって、視られてもいいように手入れしてるんだもん」
『なんですと!?』
気が付くと回りのクラスメイト男子が犬のようにはぁはぁ、呼吸しながら彼女の周りに集まっていた。
「別にアンタ達になんか言ってないわよ! あっち行きなさい!」
まったく、と言って彼女は組んだ脚を元に戻して、両手を膝の上で重ねる。
その振る舞いが言動に似合わず、女の子らしくて思わずドキ、としてしまう自分がいた。
「それはともかく、えっと……何さんだっけ?」
「明石よ! 明石深美! クラスメイトの名前くらい覚えて!」
「えっと、それで明石さん。僕に何か用?」
僕は少し尖った言い方で明石さんに訊ねる。さっきの口のきき方とか、生意気なところとか、正直言うと、付き合いづらそうだからできればとんずらしたい。そう思ったから。
だけど、明石さんは平然としている。それがまた憎たらしい。
「別に、ただ、アンタがさみしそうにしてたからちょっとかまってやろうと思っただけよ」
「僕は別に暇じゃないよ。独りでこれをみていたんだ」
何か悔しくて軽口を叩いた僕は携帯を取り出し。今朝とったアジサイの写真を見せつける。
「学校にくる途中でみつけたんだ。孤立しながらも力強く咲いてる感じがなんだか良くてさ」
「へぇ、意外だわ。ぼけっとしてそうでも感性があるのね」
余計なお世話だ! と言おうとする僕の口を明石さんは制止する。
「でも、ピントがずれて、見栄えがしないわ。写真取るの下手ね」
そう言われて僕はカチンときた。男としてだまっているわけにはいかない。
「じゃぁ、お前はとれるのかよ? 視た感じずいぶんガサツそうなイメージがあるんですけど?」
「なんですって!?」
明石さんは僕の顔を鋭い眼差しで睨みつける。まるでネコが毛を逆立てて威嚇しているようだ。
やがて、彼女は感情を抑えるように小さくため息をついて。口を開く。
「わかったわ。じゃぁ、みせてあげるわよ。私の実力を! 今日の放課後、一緒に帰りましょ? その途中であなたが取ったアジサイを私が取ってあげるわ。それで私がどれだけうまいかわかるでしょ?」
ただし、と明石さんは付け足す。
「もし私があんたよりすごい写真取れたら、一つだけ私のお願いを何でも聞いてもらうわよ! 覚悟しなさい!」
そして、彼女は僕が返事をする前に逃げるように、自分の席へと戻って行った。追いかけようと思ったが、周囲の男子が殺気立っていたので、チャイムがなるまで慎ましく座っていた。
「お前ってさ、男子にモテるの?」
放課後、金色に染まる空の下で僕は明石さんに訊ねた。彼女は小首を傾げるような仕草をして、僕の目を見る。
「そうね、今月は5回男子に告白されたわ バスケ部のキャプテンとか、剣道部のエースとかいろいろね」
「げ、まじかよ」
「当然の結果でしょ? このスタイル維持するのに相当努力してるんだから。認められて当然なのよ」
「その中の5人の誰と付き合ってるんだよ」
「え? 全員断ったわよ」
「どうしてだよ!? うちのバスケ部インターハイ優勝校だぞ? そのキャプテンと付き合えるとかステータスじゃん」
明石さんは小さく首を横に振る。
「私、運動部のノリが嫌なの。根は真面目かどうかわからないけど、ふざけたノリで声かけてくるところが無神経で嫌い。
「なるほどね……あ、ついたよ。このアジサイだ」
僕は足を止めて、紫色のアジサイを指さす。ポツンと孤立して咲いているアジサイの上に露のり、地面と零れていく。太陽の光を受ける露は宝石のように輝き。地面で破裂する。その光景は鳥肌ものだった。
このアジサイの写真を撮りたい。だからできるだけ手っ取り早く用事をすましてしまおう。
「じゃぁ、写真とってもらおうか」
すると、明石さんはフフンと言って、ポケットから薄型のデジタルカメラを取り出す。
「もうすでに取ったわよ、ホラ」
自身満々な表情で、明石さんは僕にとった写真を見せてくれる。
瞬間、僕は息を呑まずにはいられなかった。
紫色のアジサイから、露が零れる。その瞬間があまりにも美しく納められていたからだ。
アジサイから落ちていく露は宝石のように輝き。アジサイをキレイに装飾してくれる。
気がつけば、僕の視線はその写真にくぎ付けになっている。瞬殺だった。
「さぁ、てお願いごと一つ訊いてもらおうかな」
明石さんはニコニコと笑いながら。背中側に腕を組んで僕の顔を覗む。一体何を要求してくるのだろう。考えれば考える程、明石さんにいちゃもんつけたことを後悔したくなった。
「私のお願いはね、たった一つなの」
彼女は僕の手を取り満足げに笑う。
「明日一日だけでいいからデートしてくれる?」
その要求は僕の想像の斜め上にいく要求だった。あの口の悪い明石さんとデートをする。一体何が起こるか予想できないことが何よりも怖い。
だけど、この要求は絶対に受けなければならない。それが歯がゆかった。
「じゃぁ、きまりね! それと今日は私の家まで送ってよね?」
「お願い事が二つになってないか?」
「こっちはお願いじゃないわ。男の義務よ」
そんな上手いことを言われてしまい、結局僕は従うしかなかった。
翌日、明石さんとの待ち合わせ場所は、川原だった。川の水は病気も直すと言われているほど、キレイに透き通っていて、カップルの隠れたデートスポットになっている。
待ち合わせの予定は9時半だった。だから僕は少し早目に10分前に付くように家から出たのだが、実際に川原に付くと、腕を組んで頬を膨らませている明石さんの姿があった。
「おそーい!何分待たせたら気が付くの? 20分よ! もう服が汗で張り付きそうじゃない!」
「え、だって、待ち合わせは9時半……」
「9時半っていったら9時にくるものでしょ!?」
「んなわけあるか! 30分前とか、大学の受験会場でも行くつもりか!?」
そんな乗りで反論してみたものの、実際はそれほど不快な気持ちにはなっていなかった。
いや、むしろ気分は良好だった。
なぜなら、明石さんが見違える程に可愛く視えていたからである。
レース月の白いシャツに花柄のフレアスカート。そして、前髪はピンで止めている。学校にいたときの攻撃的な服装は一点してとても女の子らしい落ちついた服装をしていた。
「明石さんってこういう服装、以外に似合うのな」
「以外ってなによ?」
「いや、何でもない。それよりも行こうか。熱い中、待たせてごめんね」
「え、う、うん」
明石さんは挙動不審に周囲を見渡したあと、小さく頷いた。
「それじゃぁ、今日は川原に沿ってこの道路を歩くわよ?」
「あれ? 街の中心部にはいかないの?」
「それじゃ、誰といっても同じじゃない。私があなたとデートしたかったのはちゃんと理由があるの」
そう言って彼女はポケットから薄型のデジタルカメラを取り出す。
それを見て僕はようやく理解できた。彼女がなぜ僕をデートに誘ったのかを。
「私、こういう趣味……いずれは命をかけた職業としてやりたい人間なんだけど、こういうのに興味持つ男がいなくてさ。だから、アンタがアジサイの写真みせてくれたときはすごい嬉しかったの」
「な、なんか昨日と打って変って今日はやけに優しいんだな」
「別に優しくしてるつもりはないわ。素で嬉しいだけよ」
彼女は僕の手を攫って引く。
「じゃぁいこう!」
その後からの彼女は昨日からのムっとした表情とは似ても似つかない優しくて明るい表情をしていた。
キレイな花を見つけたら、その名前を教えてくれたり。子ども達が遊んでるのをみかけたら一緒に遊び、保護者の許可をもらったあと、一緒に写真をとったりした。
今までにない時間は僕にとってとても刺激てきなものだった。さまざまなエピソードとともに、彼女が納めて行く写真はまるで生きているようでとても興奮する。笑顔の子ども達や、花は写真から飛び出してきそうな程の臨場感を演出し、みているだけで、取る直前の風景を想起させてくれる。
写真に納めて行くという行為がこれほどまでに創造的で価値に溢れている者とは思いもしなかった。
気がつけば、4〜5時間は軽く過ぎていて、僕と明石さんの肌は黒く焼けていた。
「どう、こういう時間、退屈じゃないでしょ?」
「あぁ、こんなに有意義な時間初めてだよ」
「だよね〜」
アハハと明石さんは笑い青い空を見上げて、大きく伸びをする。
「だけど、ちょっと疲れてきちゃっわ。街の中心部でなんか食べない? 取った写真を確認しながらさ」
「いいね、それ」
その一声が引き金となり、僕と明石は街の中心へ向かって自然と歩いていた。
その間僕達に会話はなかった。ただ、熱いアスファルトを二人で並んで歩いているだけ。
だけど、気がつけば僕と明石は手を握りながら歩いていた。
心の中でふと思う。
もし、僕がカメラマンなら、この風景を絶対にとっているだろうなと。
街の中心部は人ごみに溢れていた。スーツを着た人や、制服を着た学生。そして僕らのようなカップルまでたくさんの人が行き交っていた。
「人の多いところって不思議ね。こんなに人口密度があるのに、他人を意識することなく歩いてる」
「そうしないと、やっていられないんだろうね」
「まぁ、わかるけど、ちょっと寂しいわ」
明石さんはデジタルカメラをバッグにしまい、周囲を見渡す。どこを見渡しても見えるのは人ばかりだ。人がたくさんいすぎて、全ての人を把握することはできない。せいぜい、たくさんいる中の2〜3人くらいしかはっきりと認識することはできないのではないだろうか。都会とは案外孤立した場所なのかもしれない。
そう思ったとき、ふと目に入ったものがあった。
それは子ネコのぬいぐるみをもった女の子。歳は慎重的に4〜5歳くらい。周囲をキョロキョロと見まわしながら、ママーと自分の母親を呼んでいた。
明石さんがその女の子を見逃すことはなかった。
「どうしたの?」
「ママとはぐれちゃったあ」
「そっかぁ、迷子かぁ。独りはつらかったね」
明石さんは女の子の頭を撫でて優しく微笑みかける。
「じゃぁ、おねえちゃん達と一緒にお巡りさんのところに行こうかママが探してるかもしれないよ」
すると、女の子は花を咲かせたような笑顔で返してくれた。
明石さんは女の子の頭を撫でて、兆に視線を向ける。
特に言葉にだしているわけではないが、それがどういう意味がはなんとなく伝わった。
僕は小さく頷いて、微笑む。
「それじゃぁ、交番までいってみるか」
僕達は女の子の手を引きながら、少し離れたところにある交番へ向かった。
一緒に歩いて、少しの間だけは明るい表情を見せていたがやがて、女の子はまた不安げな表情をするようになる。
「今日は、お母さんとお買いもの?」
「うん、今日はね、私の誕生日なの。だからってこのネコちゃんを飼ってくれたんだぁ」
女の子は片手ににぎりしめた子ネコのぬいぐるみを抱きよせて頬ずりする。そのときの女の子はとても心地よさそうだ。
「そうなんだぁ、お誕生日おめでとう」
「ありがとう、お姉ちゃん」
「あ! そうだ。 せっかくのお誕生日だし、写真を撮ろうよ」
街の広場に着いたところで明石さんはバッグからデジタルカメラを取り出す。
「え? は、はずかしいよお」
女の子はもじもじとしながら、カメラを見つめている。なんだかんだで、カメラ目線は完璧だった。
「ほらほら、恥ずかしがらずに笑って! ネコちゃんも一緒についてるよ!」
明石さんが声をかけると、女の子は自然と笑顔になっていた、ついさっきまで、不安げな表情をしてたとはとても思えないほどに、可愛らしい笑顔。
そのとき、明石さんのすごさが改めてわかった。
「ほら、できた。せっかくだからちょっと写真作ってくる! すぐそこのスーパーですぐに写真作れるところあったから。ちょっと待っててね」
明石さんはカメラを持って、目の前にあるスーパーへ足を運んだ。
僕は女の子と一緒に取り残される。彼女は僕のことをじっと見つめていたので。僕は曖昧に微笑むことくらいしかできなかった。
「写真、とってたとき、とても綺麗に笑えてたよ?」
「ほんとに?」
「うん、こんなに可愛い笑顔ができるんだから、きっとお母さんもすぐに迎えにくるよ」
「うん……」
少し元気なさげに、女の子は頷いた。
「本当はね、わたし、ママと仲良くなかったの。怒られてばかりで、いつも泣いてたの。でもね、そんなママが初めて私にお誕生日プレゼントをくれたんだ。それがこの子なの」
女の子は僕に子ネコのぬいぐるみを見せる。
「そっかぁ、じゃぁとても大事なぬいぐるみなんだね。大事にしなくちゃ」
「うん!」
しばらくして、
「おまたせ〜写真できたよ!」
スーパーから、明石さんが出てきた。彼女は嬉しそうに写真を掲げて見せる。
「おねえちゃああああああん」
女の子も嬉しそうに、明石さんの元へ駆け寄って行った。
でも、そのときだった。
女の子は横から長身の男性がくることに気付かずに飛び出してしまい。ぶつかってしまったのだ。
勢いよくぶつかってしまったので、女の子は大きく弾き飛ばされてしまう。
それなのに、長身の男性は女の子のことなど気付かなかったように人ごみの中へと消えていった。
「なんだ、あいつ。ぶつかっても知らんぷりかよ」
僕は女の子を抱き起こし背中を擦る。
「大丈夫? 怪我はない?」
女の子は、よろめきながら小さく頷いた。
女の子が吹き飛ばされる様子をみた、明石さんも慌てて彼女の前に駆け寄ってくる。
「ねぇ、ちょっと大丈夫? やだ、足擦りむいてるじゃない。ちょっとまってて」
明石はバッグの中から消毒液と絆創膏を取り出し、消毒液を傷口にかけたあと、やさしく絆創膏を貼ってあげる。
完璧な応急処置のはずだった。だけど、女の子の口から出たのは感謝の一言ではなかった。
「お姉ちゃんのばかあああ」
「え? ええええ!?」
女の子に大声で泣かれ、どうして? と言わんばかりに明石さんは困惑していた。明石さんは理解できていないのかもしれないけれど、子どもが泣くのも無理がない話だった。
子どもは泣きなが明石さんの足元へとぼとぼと歩いて行く。彼女の足元には子ネコのぬいぐるみが転がっていた。ぬいぐるみのお腹には大きな靴の跡と、穴が空いている。その痕跡は明石さんがぬいぐるみをハイヒールで踏みつけたことを物語っていた。
子どもはぬいぐるみを抱きあげて頬を寄せる。
「どうして、ネコちゃんにこんなことするの!? いたいよぉ、ネコちゃんしんじゃうよぉ」
「ど、どうしてって、そ、そんなの理由なんてないわよ……だいたい、そのネコちゃんはぬいぐるみなの! 踏まれても痛くもかゆくもないのよ!」
「おねえちゃんのばかあああああああああ、いなくなっちゃえええええええええええええ」
瞬間、子どもはぬいぐるみを明石さんに投げつけ、人ごみの中へと流れていった。
「ちょ、まちなさい! あんたまた迷子になる気なわけ!?」
明石さんは追いかけようとするが、人が多すぎて前へ進めない。
その間にも子どもは小さい身体で針を縫うように人ごみをかき分けて行く。
気がつけば、子どもの姿は見えなくなっていた。
「何よ、そんなにこのぬいぐるみの味方するなら、投げつけることないじゃない」
明石さんはぬいぐるみを踏んだ場所を軽く叩いた後。呆然と人ゴミを眺めていた。
夜、明石さんにメールを送った。いつもなら、数秒もすれば、派手な顔文字と絵文字が返ってくるのに、今日は5分待っても届かなかった。僕は携帯のディスプレイから視線を戻し、PCの画面を見つめる。
画面には夜、街灯に照らされる川や、影遊びの風景など、いろいろな画像が映っていた。これらは全て、明石さんが取った写真。
学校で僕が退屈そうにしていたときに、明石さんが誘ってくれたこと。
遊びというよりはむしろ、芸術。
明石さんが取る写真はいつもその場にいるような気持ちにさせてくれるくらいに、イキイキとしていた。
でも、明石さんは不器用で、人から遠ざかろうとする。だから、明石さんが写す世界を見たときに感じる、興奮や感動は僕以外誰も知らない。
明石さんは僕が退屈そうにしてると声をかけるくらい、人当たりがいいのに。他の人と仲良くしようとしなかった。
明石さんを僕が独占していることは嬉しいけれど、でも、明石さんがクラスメイトに悪口を言われる姿や、陰口を叩かれる姿を見るのはつらかった。明石さんのことをもっと皆に理解して欲しいと思っていた。とても複雑な気持ちだった。
僕は時計を見る。彼女にメールを送ってから、10分が経っていた。秒針が十週した、それだけのことなのに。なぜかとても不安になる。
僕は彼女の携帯にリダイヤルしてみた。僕でも知っているような有名な曲が流れる。彼女の携帯に発信はできているようだ。
でも、数秒経っても、返事は帰って来ない。
僕の不安は頂点に達した。窓の向こうを眺める。空は月に照らされて紺色に輝いている。
「少し散歩するには良いかもしれない」
僕は玄関で靴を履き。蝶結びで紐締めて、外出した。
明石さんは僕の家へいったことはないから知らないと思うが、実は僕と明石さんの家はすごく近い。10分かかる駅へ向かうよりも、明石さんの家へ向かう方が早いんだ。
初めて明石さんの家へ行ったときは驚いた。3階建て奥行きがある、ようするにとても大きな家だったから。中にはいれば、部屋がいくつもあって、全部見て回るだけでも疲れてしまいそうだ。
だけど、家の中には明石さんと僕しかいなかった。両親は出張で遠くに住んでいるらしい。家の中はとても静かで落ちつくけれど、同時にとても切なかった。
そんな静かで切ない部屋で明石さんが独りでいると考えると、僕まで胸がはち切れそうになる。
月が空を紺色に照らす夜、気がついたときには僕は明石さんの家の前に立っている。
僕はもう一度、明石さんの携帯にダイヤルした。やっぱり応答はない。
だけど、明石さんの部屋には灯りがついていたから、中に明石さんがいるのは分かっている。
僕はどうしても、明石さんの顔をみないと不安で仕方がなかった。
僕は軽く深呼吸して、明石さんの家のインターホンに手を伸ばす。
チャイムは二回繰り返され、沈黙する。
その沈黙から、30秒して、明石さんは家の扉を開けた。
「どうして?」
僕の顔をみた明石さんの第一声だった。尖った声をしていたから、怒っているのかと思って一瞬ビクビクしたけれど、明石さんは噛みしめるように口をキュっと締めているのをみて、それは違うと思った。
「入ってもいいかな?」
僕が訊ねると、明石さんは一瞬躊躇した後、入ってと、自分の部屋に招いてくれた。
明石さんの部屋は写真で溢れている。澄んだ空、宝石のような夕日、笑顔の赤ん坊。
そのどれもが今にも飛び出してきそうな臨場感を与えてくれる。
だけど、そこに一つだけ浮いた物があった。
お腹に穴の空いた子ネコのぬいぐるみ。ぬいぐるみの瞳は綺麗に磨かれ、キラキラと輝いている。ベッドの上に転がっているそれは今に泣きだしそうな表情で僕を眺めていた。ぬいぐるみの横には裁縫箱が置かれている。
「そっか、あの子のぬいぐるみを直してあげようとしたんだね。邪魔しちゃってごめんね」
「本当なら、拳で殴ってるところだけど、もう、いいの。必要なくなったから」
明石さんは裁縫箱を閉めて、押し入れに入れる。そして、ぬいぐるみを抱き締めて横になる。
「だって、あの子がどこにいるか、わからないんだもん。もう意味なんてないもん」
明石さんは顔を枕に押しつける。もしかしたら、もう話したくないというサインかもしれない。
本当はすぐにでも僕は家を出るべきかもしれなかったが、なんとなく明石さんを独りにするのが不安だった。
僕はベッドによりかかりながら、明石さんの写真を眺める。
笑顔の赤ん坊の写真。カメラを見て、幸せそうに笑う姿。その笑顔の瞬間を疑似的にでもリアルに感じ取ることができる。
だからなんとなく思った。
もしかしたら明石さんは子どもを見つけられなくても、きっと子ネコのぬいぐるみを直していたのだろうと。
「明日、交番にそれ、届なよ。もしかしたらあの子、保護されて、家でぬいぐるみのことを後悔してるかもしれないぜ?」
僕が呟くと、背中越しで明石さんが唸った。
「本当に大事だったら、粗末になんかしない」
「でも、届けたいんだろ?」
「……」
それから、僕と明石さんは沈黙した。
僕は明石さんが取った写真を眺めた後、時間を確認する。
ほんの少ししか話していないはずなのに、気がつけばもう零時を回っている。
「こんな時間か。そろそろ帰るわ」
僕は立ちあがり、部屋を出ようとする。そのとき。
「まだ、今日は立ってないでしょ。まだデートは終わってないでしょ?」
明石さんは僕の手を強く握りしめた。
彼女の手は小刻みに震えている。それは不安からか。ただの力の入れ過ぎからか。
どっちかはわからないけれど、彼女の言う通りまだ今日は過ぎてない。彼女がこれがデートというならば、デートなのである。
「お願い、今日は一緒に居て。なんかとても、怖いの。お願い」
押し殺すような声で彼女は言った。
明石さんは今にでも声を上げて泣き出しそうだった。
このまま、彼女を無視して帰る気にはとてもじゃないけれどなれない。
「いいよ、一緒にいてやるよ。その代わり、今度写真の撮り方教えてくれよな」
「ありがとう……ありがとう!」
明石さんはそういって僕に抱きついて顔を押しつけた。
一瞬、僕は困ったけれど。今の彼女の気持ちはわかっていたから。
僕はそのまま彼女を受け入れた。
「あの娘、ちゃんと親のところに帰れたかな」
「大丈夫さよ。だから、明日は交番にでも言ってあの娘のこと訊いてみよう」
「うん」
そして僕達はこのまま夜が明けるのを待った。
だけど、その必要はなかった。夜が明けて、テレビをつけてニュースみたときにそれを悟った。
――昨日、午後5時 大通りにて、少女がお腹を指されて死亡……
そのとき、テレビ画面には被害者の少女が映し出される。
それを見た瞬間、明石さんの手から子ネコのぬいぐるみが零れ落ちた。
ぬいぐるみのお腹には、不器用に縫われた跡が残っている。
「ねぇ、どうして?」
明石さんは呟いた。
「どうして、たった一つの失敗がここまで大きなことになっちゃうのかな」
「深美……」
「私が、このぬいぐるみを踏み潰しさえしなければあの子の未来は変わったはずなのに」
「深美!」
僕は明石さんの肩を掴んで、明石さんの顔を見た。明石さんが悪かったというわけじゃないことをちゃんと伝えたかったから。
よくよく考えてみると、正面から明石さんの顔をみたのはこれが初めてだと思った。正面から見る明石さんの顔は、普段横で見ているときのそれとは少し幼く見えた。淡い色をした唇は小刻みに震え、僕から焦点がずれることのない瞳は今にも溢れだしそうなくらいの涙で揺れていた。
僕は息を呑んだあと、口を開く。
「明石さんは悪くないよ。確かに、子ネコのぬいぐるみを踏んで、穴開けちゃったけど。でも、明石さんはそれを直してまで
後日、僕達は亡くなった少女の母親に会いに行った。あらかじめ、連絡はとってあったので、少年の家のインターホンを鳴らすと、すぐに母親が出迎えてくれた。家の中にはいると、彼女は冷蔵庫から炭酸飲料を取り出し、僕達二人に出してくれた。
「ごめんなさいね。娘が好きで。こればっかりなの」
クスクスと笑い、母親は自分のグラスにも炭酸飲料を注ぐ。
僕は頂きます、と言って炭酸飲料を口にした。少し薬くさい香りと、甘い香りが口の中一杯に広がって行く。
「おいしいですね。娘さんはセンスありますよ」
「ありがとう、そう言ってくれると嬉しいわ」
母親はコップを手に取り、炭酸飲料を口にする。
「あの……初めまして、明石深美と申します」
明石さんは気まずそうな表情をしながら深くお辞儀をして、子ネコのぬいぐるみを差し出す。
「これはあの娘が大事にしてた……これをどこで?」
「実は、私達、娘さんが亡くなる数時間前に一緒にいたんです」
「え?」
母親は驚いた様子で、僕達の顔を見る。今、彼女はどんな気持ちで僕達をみているのだろうか。
「娘さん、迷子になってたんです。街の人ごみに揉まれながら今にも泣きだしそうな顔をしていした。だから、彼女を交番に届けようとしたのですが……」
明石さんは声を上ずらせながら震える指で子ネコのお腹を指す。
「私の不注意で、娘さんが落としたこのぬいぐるみを踏んで穴を開けてしまったんです。それで、彼女は怒って、人ごみの中に消えて行ってしまいました」
瞬間、明石さんは席を達、母親の前で土下座をした。
「ごめんなさい、私のせいなんです。私がこのぬいぐるみを踏まなければこんなことに……ごめんなさい、ごめんなさい」
母親は困惑しながら、明石さんのことをずっと見つめていた。きっと、優しい言葉をかけてあげたかったのだと思う。少女は犯人に殺されたのであって、彼女が殺したわけではないのだから。
でも、複雑な気持ちなのかもしれない。自分の娘の最後が怒りだったと言うことはやっぱり母親としてつらいと思う。
母親はじっと、彼女を見降ろした後、小さくため息をつく。
「実は、娘は刺された後、少しの間生きていたみたいです。熱を帯びたアスファルトを這った後、これを握り締めていたみたいです。
母親はポケットから、くしゃくしゃになった物を取り出し、明石さんに差し出した。
明石さんは首を傾げながらそれを受け取り、確認する。そして、明石さんは嗚咽をあげて泣きだした。
僕は明石さんの横に寄りそい明石さんがみたものを確認する。
それは写真だった。
最初に少女に出会ったときに、明石さんがとった写真だった。写真には少女の笑顔が映っていた。少女の笑顔はまるで生きているようで、今にでも飛び出しそうだった。
少女の母親は明石さんの前に立ち、顔を伏せて泣く君を強く抱きしめる。
「この写真をみて、私ほっとしたの。娘が亡くなる数時間前。娘はこんなにも柔らかい笑顔をしていたんだって。私、娘とケンカばかりで、こんな笑顔をみたのは久しぶりだった。あなた達と出会えたおかげで、娘の笑顔をみることができた」
母親は明石さんの背中をさすりながら、囁くように言った。
――ありがとう。
そして、明石さんはもう一度大きな声で泣いた。
最期まで読んでくれた方がいらしたら。ありがとうございました。
またお会いできるときを楽しみにしています。
ちなみに、ニコ生でゲーム配信もやっていたりします。よかったら↓
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