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LR  作者: 土屋信之介
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第五章 生命《いのち》の選択

(一)


 工藤は横浜駅近くのタワーマンションの部屋にある事務所にいた。そこはかつてリュウに恭介を連れて来させた場所だった。元々は投資目的で買った部屋だったが、リュウ亡き後、中華街に本格的に進出して以来、工藤はこの部屋に机やパソコンを入れ、事務所として使っている。工藤はデスクに両肘を乗せ、手の上に顎を乗せながら、目の前のホワイトボードに貼られた何枚もの写真や文字をじっと眺めていた。それは、この二年ほどの間で不審な死を遂げた人間の分布図であった。しばらく考えてからスマートフォンを取り出し、電話を掛ける。呼び出し音の後で馬渕の重低音の声が電話の先から聞こえてきた。工藤は報道されたばかりの不審死をした被害者の情報について、馬渕に「詳しいことを知りませんか?」と訊ねる。

 馬渕から風本恭介が生きていることと、政府筋の組織の中で彼がその能力を使っているだろうということを聞かされていた。俄かに信じられなかったが、彼と同じ能力者であるスマイルによって救われたという馬渕の話には説得力があった。工藤は再び風本恭介を追い始め、馬渕とも定期的に情報を交換し合うようになっていた。

「では、やっぱりこの男の胸にも丸い痣があったわけですね」

 工藤は予想通りだとニヤつく。そして被害者である男がサイコパスの診断を受けていることを馬渕から聞き出す。被害者にサイコパスの診断を受けた人間が多いことに気が付いたのは、馬渕だった。彼は凶悪なサイコパスを捜し出し、そいつに密着していれば、いずれ能力者が現れると踏んで、首都圏にいるサイコパスの情報を得ようとしていた。だが問題はいくら警察といえども、各病院会が持っている情報の詳細には簡単にアクセス出来ない点にあった。

「わたしの方でも部下に病院でサイコパスの診断を受けている人間がいないかまた探してみましたよ。ただやはり診断までを受けたって話になるとね。まあ、実際には、わたしも含めて、お前はそうだろうって人間は山ほどいるんですが」

 工藤はクククと声をほとんど立てずに笑う。彼自身はそういった診断の類を信じていなかったし、そうしたレッテルで、人を判断することも馬鹿らしいと考えていた。サイコパスという診断があろうがなかろうが悪い奴は悪い、ただそれだけなのだし、そもそも善良な人間なんてこの世に一人もいないのだと考えている。

「ただ何人か、子供のときに行為障害の診断を受けている人間がいました。そいつらに、精神科をいくつか受診させ、サイコパスの診断をもらえれば、彼は向こうからやってくるかもしれません」

 工藤はその情報を馬渕に与える代わりに、能力者に対する情報交換だけでなく、自分の商売に対しても色々な便宜を計ってくれるよう遠回しに頼む。馬渕は曖昧な言い方しかしなかったが、それなりの情報はくれるだろう。顔に似合わず、意外と律儀な男なのだ。

 電話を切った後、部屋に置いてある客用のソファに深々と座り、再びホワイトボードを何気なく眺めた。

 ふと工藤は改めてどうして自分がこれほどまでに風本恭介という能力者に固執しているのか考えた。彼の能力が工藤のしている商売にとって有益なことは確かだった。何しろ、邪魔な人間を証拠を残すことなく殺すことが出来るのだ。闇の世界で商売をする上で、これほど都合のいい人間はいないだろう。問題なのは、風本恭介はすでに政府筋の人間になっているということだった。そういった人間に手を出すことが危険であることは工藤もよく知っていた。

 ただそれでも工藤は、どうしても風本恭介の力を手に入れたいと思う。なぜだろう? 風本恭介という能力者は、もはや政府筋にとって決してその存在を世間に知られてはいけない人間だ。そんな人間を政府が裏で利用していることを知られるとなると、それは今の体制を根本的に覆しかねない自体に陥ることは明白だろう。ということは……。工藤は口元をニヤリとさせる。風本恭介という存在を自分が手に入れ、それをどこかに隠して切り札にすれば、政府筋を脅して、自分が望むことを承諾させることが出来る。それは商売や金銭などのつまらないことだけを意味しているのではない。これまで闇の世界でせいぜいヤクザの親分として生きるしかなかった自分が、身分を変えて表の舞台で権力者になることだって夢ではないのだ。

 スマートフォンが鳴った。中華街を仕切っている部下からの今月の上がりの報告だった。ウェイの罪をダシにして、その父親であるヤン・ファンミンを実質的に配下に収めたことにより、工藤は古びた中華街を再開発し、商業施設の建設プロジェクトを裏で進めるまでの存在になっていた。しかもその勢いを借りて、今や病気で死んだ先代に代わり、彼は松林組の組長になっていた。


                       *


 ウェイはいつものように自分の部屋にいた。小さい頃から慣れ親しんだ八畳の部屋だ。高校生になってから買い換えたデスクに座り、ノートパソコンをしきりにネットサーフィンしている。画面に次から次へと現れるのは様々な会社の情報だ。ウェイはそれらを見比べては自分が入社した時のことを想像する。あれこれと頭の中でシミュレーションをしてみるが、ぼんやりとしたイメージしか浮かばず、どこに就職しても同じような未来しか思い描けない。

 ウェイは大きく息をつき、両手で顔を覆う。頭の中では恭介を殺した時のことが鮮明に再現されていた。それは、暇さえあれば、ウェイの脳裏に浮かんでは消える残像で、彼女はこの二年間ずっとその残像に苦しめられていた。留飲を下げられたのは、一瞬だった。あとは、人の命を奪ってしまったという後悔だけが心に刻みつけられた大きな傷跡として残っていた。それはかつてリュウを想っていた気持ちよりも遥かに強いものであった。恭介に対する憎しみは間違いなくリュウへの愛の大きさを証明していた。そしてその憎しみには、深い悲しみが絶えず付きまとっていた。

 ふと、首筋の蜘蛛が這いずるように疼くのを感じる。それは、精神的な疲労が溜まっているというサインだった。

 あの日を境にウェイを取り巻く状況は一変していた。父親は多く語っていなかったが、工藤に脅されているのは明白で、彼が築いて来た仕事のほとんどは、工藤によって牛耳られ、彼は心労のため何度か倒れてしまっていた。聞いた噂によると、工藤は皆の反対を押し切って、中華街にある昔ながらの建物の多くを買い取ってはビルに建て替え、家賃収入による増益を企んでいるという話だった。ウェイは毎日のように自分が警察に自首をすることで工藤の悪も暴露して、父親を救おうと考えた。ただそれをすることで、工藤に怒りを買い、家族が余計に苦しめられることは容易に想像出来た。

 ウェイは、気を取り直し再びパソコンの画面と睨めっこする。懸命に文字を追い、その企業が一体何をアピールしているのか何度も反芻するものの、何も頭に入ってこない。ウェイはこれ以上もがくのを諦めて、ヨタヨタとベッドまで歩いて行き、うつ伏せで横になる。枕に顔をうずもれさせながら自分にイラつき、ぶつけようのない怒りを消化できずに涙を流す。

 いつの間にか眠ってしまっていた。夢に出てきたのは、あの日、箱根で恭介を殺した夜の帰り道の場面だった。震える体を抑えながら、車の後部座席に乗っていた彼女は、隣に座る工藤の威圧感から逃れるように窓の外の景色をひたすら眺めていた。

 手元に置いていたスマートフォンが震え、ウェイは目を覚ます。画面には、懐かしい名前が表示されていた。躊躇したものの、電話に出る。かつてリュウの右腕であったチャンの甲高い声が「話があるから会えないか」と一方的に訴えてきた。ウェイは今話せないのかと何度も訊く。しかし彼は何かに怯えているようで、「盗聴されているかもしれないから会って話したい」の一点張りだった。ウェイは不審に思いながらも、渋々彼の申し出に了承する。電話を切った後で、彼女は最近自分がもはやリュウのことをほとんど思い出すことがなくなっていることに気がついた。


 チャンと再会したのは、次の日の午後だった。彼は決して地元で彼女と会うことをよしとせず、あくまでウェイの通う大学で会うことを希望していた。自分のプライベートな空間で彼と会うことは正直に嫌だったが、押し切られてしまった。

 ウェイは約束していた大学構内のちょうど中央にある中庭のベンチに座り、チャンが来るのを待つ。約束の時間ぴったりに校門の方から他の大学生とは明らかに違う刺々しい雰囲気を醸し出した男が手ぶらで歩いて来るのが見えた。二年ぶりに見るチャンだった。チャンの風貌は大きくは変わっていなかったが、少し疲れているように見えた。チャンはキャンパスの雰囲気に慣れていない様子で、居心地悪そうにしながら会釈をして、ウェイの隣に座る。

「実は、今日はお願いがあって来たんだ」

 チャンはいきなり切り出す。不意を突かれたウェイは「何?」と顔を引きつらせながら応える。

「まとまった金が欲しいんだ。お父さんに頼んでどうにか工面が出来ないか?」

 チャンは乞うような目でウェイのことを見つめた。ウェイは、面倒なことを言われると頭の中でわかっていたくせに、どうして彼と会ってしまったのかと少し後悔する。

「どうしてお金が必要なの?」

 ウェイが理由を聞くと、チャンは急にソワソワとし出し、周りを気にしながら気持ち小声になって説明を始める。

 チャンの話によると、リュウの死後、彼は工藤の下で他の仲間たちと働き始め、リュウのやっていた仕事のほとんどを引継いで、売り上げの一部を工藤に上納していたという。当初こそ、工藤もほとんど口を出さずに、チャンはこれまで通りに仲間たちとビジネスに勤しむことが出来ていた。だが、ウェイの父親であるヤンが工藤と手を結んでからは状況が変わってしまったというのだ。

「中華街でも、面と向かって工藤さんに逆らえる人間はもはやほとんどいない。彼が直轄する店も増え、安売りで繁盛させては、他の店の経営を圧迫させているんだ。そうやって老舗の店を潰して、自分のモノにしていく。それがあの人のやり方だ。再開発プロジェクトの話も聞いたことがあるだろ」

 チャンは語気を強めて言うと、工藤に対する不満をぶちまけた。それは、上納金が右肩上がりに上がっていったことや彼がチャンたちのビジネスにどんどんと介入していったこと、さらに感情や因習を一切無視して、信頼関係で成り立っていた同胞のコミュニティを破壊していったことに対するうらみつらみに及んだ。ただウェイは、口ではチャンに同情的な言葉を投げかけていたものの、内心今工藤がやっていることは、かつてリュウがやってきたことと大して変わらないように思えた。あのときは、それほど悪いことをしているとは思っていなかったのに、工藤と重ね合わせることによってリュウの悪が心の中で明確に浮かび上がってきた。二人の違いは、単に工藤が中国人ではないということだけで、ただ支配をする人間が変わっただけに過ぎないのだ。

 熱くなったチャンは、一年ほど前から工藤に対する背信行為を行っていたことまでをも告白した。彼は、金銭と引き換えに、工藤のライバル組織に対して、工藤のビジネスに関する情報を流していたというのだ。驚くウェイに、チャンは、急に自信のない顔つきになって続ける。

「ただどうも工藤さんにバレたようなんだ。彼は今、オレを捜している。見つかれば、オレは消されてしまう」

 チャンは声を震わせて言うと、自分にはまとまった逃走資金が必要なのだと再びウェイに訴えた。彼はこのまま中国に戻り、そこで新しいビジネスを始めるつもりだと言う。

「もちろん、タダでお金をくれとは言わない。あんたにとって大事な話を教えてやるよ」

 ウェイが迷っているのを見て取ったのか、チャンはここぞとばかりに条件を出してくる。

「あんたが犯した殺人の件で、あんたのオヤジさんが工藤から脅されていることは知っている」

 チャンの言葉に、ウェイは体を強張らせる。

「あんたは、あのヘンな能力を持った男を殺したんだろ。でも、アイツは生きている」

 ウェイは驚きのあまり、思わず「何っているの? だって彼は……」と言いかけ、そして興奮のあまり激しく脈打つ心臓の鼓動を感じながら、あの時のことを再び思い出していた。わたしは確かにあのとき、恭介の背中にナイフを刺していた。工藤も瀕死の彼にととどめを刺したはず。

「金欲しさに嘘を言っているわけじゃない。ちなみに工藤さんはすでにそれを知っている。今秘密裏に彼を捜しているところだ。もしも、あんたのオヤジさんがオレの望む通りの額を融通してくれるなら、風本恭介が生きている証拠写真を渡す。それにもう一つ、あんたが知らなかった真実も教えよう。なぜ風本恭介がリュウさんを殺さねばならなかったのか」

 ウェイは上の空になりながら、チャンの話を聞いていた。あまりに突然、思いがけないことを言われたので、それを理解するには気持ちが追いつかず、ただ冷静な顔を必死になって装うことしか出来なかった。わかっていながらも、ずっと無視していた疑問―――恭介はなぜリュウさんを殺さねばならなかったのか。そして工藤が欲しがった恭介の力とは何なのか。

「もちろん、今すぐ結論を出してくれとは言わない。オヤジさんと相談する時間も必要だろう。ただオレには時間がない。返事はなるべく早くしてくれ」

 チャンは、周りに誰か見ていないかを伺ってから立ち上がる。

「待って、あなた、あのときに来た刑事で、馬渕とかいった警視庁の刑事の連絡先を知っている?」

 ウェイは工藤よりも早く恭介を捜し出さなければならないと決意していた。工藤にばれずに恭介を捜し出すには、その道のプロの助力がなければ何も出来なかった。思いついたのは、警察の中でただ一人、自分に何かあったら報せてくれるようにと言ってきたあの馬渕という刑事だけだった。

「それは、調べられないこともないが」チャンは不審な目でウェイのことを見る。

「別にあなたのことを警察に突き出そうっていう話じゃないわ」

「わかった。ただその代わり、返事は早急にしてくれ」

 チャンはそれだけ言うと、まるで通りすがりの人間のような顔をして、足早に去って行った。ウェイはそんな彼の背中が遠くに消えていくのを眺めながら、気持ちが高まっていくのを感じていた。

 ウェイはその日家に帰ると、父にチャンに言われたことをすぐに報告した。父は、恭介が生きているという話に露骨に驚き、そしてこれで工藤の支配から逃れられ、再開発プロジェクトも止められると手放しで喜んだ。父はキャッシュで三百万円をすぐに用意し、チャンに連絡を取るようにウェイに頼んだ。


                       *


 馬渕は首都圏で不審な死を遂げた被害者の情報を得ると、手が離せない仕事がない限りはすぐに現場にすっ飛んでいき、恭介に繋がる手がかりがないかを探っていた。パートナーである渡辺はそんな馬渕の入れ込み具合に当初こそうんざりしていたが、能力者の存在が現実的に明らかになっていくにつれてその態度を徐々に変えて行き、能力者が大きな権力によって使われているかもしれないという話を信じてからは、馬渕の行動を積極的に手伝うようになっていた。

「丸い痣がありますね。やはり能力者の仕業のようです」

 検視官に頼んで被害者の胸元を見せてもらった渡辺は、馬渕に報告する。二人は池袋の雑居ビルに来ていた。ここで、麻薬の売人が死んでいるという通報を聞いて、急いでやって来たのだ。

「被害者の名前は、町村貴之。三十五歳。麻薬取締法違反や窃盗の罪で、三度刑務所に入っているようです。最近は、このあたりを根城にまた麻薬の密売をしていたようですが」

 渡辺は知り得たばかりの情報を馬渕に伝えると、小さくため息をつく。

「でも、痣がある時点で、もうこの事件もお蔵入りですね」

「そうだな。あとで、ガイシャの病歴を調べてくれ」

「わかりました。それにしても、能力者がサイコパスばかりを狙っているなんてよく気づきましたよね。まあ、世間からしたら、それはそれで、能力者はいいことをしているみたいな印象を持つかもしれないですけれど」

 軽口をたたく渡辺に、馬渕は余計なことをペラペラと現場で喋るなと目で制し、車に戻ろうと下顎を少し動かして促す。ポケットの中に入れていたスマートフォンが震えたのはその時だった。表示画面には知らない番号が出ている。馬渕は顔をしかめながら電話に出ると、若い女の声がした。女は「自分は以前中華街でリュウ・イーが殺された件で、馬渕に事情を訊かれた者だ」と言い、「ヤン・ウェイ」と名乗った。馬渕は、ウェイのことをすぐに思い出す。リュウの恋人であった彼女は、恭介がリュウを殺すのを目の当たりにし、彼の能力を直接見た数少ない人間だった。しかも、彼女には、恭介に好かれていたという事実もあり、恭介を捜す上で、重要な存在になりそうだった。会って話がしたいというウェイの申し出に、馬渕は即座に合意した。人目を避けるためにホテルを手配するので、今日の夜にもそこに訪ねるように促す。電話を切った後、馬渕は思わずほくそ笑んでいた。渡辺はそんな馬渕の顔を珍しげに眺めながら、「いい情報ですね。馬渕さんは意外と顔に出る」とからかう。馬渕は「うるせえ」と言いながら、電話の相手がウェイであったことを渡辺に告げた。


 指定した横浜のビジネスホテルのロビーに馬渕と渡辺が着くと、すでにウェイは待っていた。彼女は二年前よりも大人びた雰囲気を醸し出していて、心なし表情に翳を持つようになっていたが、顔立ちの美しさはそのままだった。彼女は部屋に入るや、開口一番に恭介のことをどれだけ知っているのか教えてほしいと頼み、恭介を探したいのだと訴えてきた。

「どうして君はそんなに風本恭介に会いたいんだ。君はアイツが君の恋人を殺したのを見たんだろ。彼に復讐でもしたいのか?」

 当然のように浮かんだ馬渕の疑問に、ウェイは息を呑み、吟味するように馬渕のことを見てから、二年前に何があったのかを語り始めた。それは、彼女が箱根で恭介を刺したという興味深い話だった。彼女の話によると、彼女が刺した後に、工藤という暴力団員が拳銃で止めを刺したのだという。そして、工藤は彼女の犯した罪をネタに彼女の父親を脅し、今や中華街で大きな勢力を持っているというのだ。馬渕はまず箱根で恭介を襲ったのがあの工藤であるということを知って驚いた。散々協力関係を築いているフリをしながら、あの男は一番肝心なことを黙っていたのだ。「あの狐野郎め」と馬渕は思わず悪態をつき、隣で渡辺も呆れている。

「工藤のことを知っているんですか?」 

 ウェイの問いかけに馬渕は「まあな」と話を曖昧に逸らすと、彼女に今話してくれた話を決して他の人間には口外せず、またこちらも彼女が不利になるようなことはしないと約束した上で、続きを話すよう頼んだ。ウェイは、馬渕を信用し、数日前にリュウの右腕であったチャンが現れたことと、そして恭介が生きていたという事実を聞かされたことを話し、三百万円と引き換えにその証拠とも言うべき写真を手に入れたことを話す。馬渕はウェイから差し出されたその証拠写真を見た。それは、どこかのホテルで撮られた監視カメラの写真で、恭介が映っていた。一緒に映りこんでいるフロントのカレンダーが、彼が生きていることを証明している。馬渕は、うまく利用していたと思っていたのに、正直工藤が自分の知らないところでここまで恭介に近づいていることに驚いた。馬渕は、工藤がこの写真をどのルートを使って手に入れたのかを調べる必要があるなと思いながら、ウェイに、自分が知っている恭介の情報を話した。それはすでに自分たちも恭介が生きていることを知っているということと、彼が別の能力者によって助けられ、その男に導かれる形で今は政府の裏組織に属し、秘密裏に暗殺を繰り返しているという事実だった。ウェイは、目を大きくさせて驚き、そのうちに「自分のせいだ」と言って泣き出した。

「お願いがあります。馬渕さんたちは、彼を追っているんですよね。わたしにもその手伝いをさせてくれませんか?」

 ウェイは必死に感情を抑えながら、馬渕に懇願する。

「君は風本恭介のことを憎んでいたんじゃないのか? だから彼を刺したんじゃ?」

 馬渕はきつい質問だと思いながらも、改めて問いかける。

「その通りです。わたしは、彼を憎んでいました。だから彼を殺そうとしたんです。でも、それはわたしが本当のことを知らなかったから」

 ウェイはたどたどしく言うと、もう一つ、チャンから聞いた真実を語り始めた。それは、恭介の能力に関する話で、リュウがウェイの喉を切り裂き、彼女を救うがために恭介が能力を使ったという話だった。リュウが左手で殺されたとき、恭介が右手で誰を救ったのかという、馬渕がずっと抱いていた疑問が今突然解消された。当時ウェイが体調不良のために入院していたことをそのまま信じていた馬渕は、苦笑いを浮かべるしかなかった。

「本当にそんな映画みたいない話ってあるんですか? ただ手を触れるだけで、人の命を救い、そして奪えるなんて」

 ウェイは呟くように訊ねる。彼女が恭介の能力について曖昧な形でしか知らされていないのだと見て取った馬渕は、恭介の能力が、彼の祖先が悪魔と契約してしまったがゆえに代々受け継がれたものであること、それに右手で誰かの命を救えば、二十四時間以内に左手で誰かの命を奪わねばならず、もしも出来なければ、左手が手当たり次第に誰かを殺してしまうことなど、恭介の能力について知っている限りの情報を与える。ウェイは露骨にショックを受けたようで、体を小刻み震えさせて「そんな話をどうやって信じろと?」と呼吸を整えながら、すがるような目つきをして馬渕に訊ねる。

「荒唐無稽な話だからな。別に信じなくてもいい。ただその悪魔の能力が存在しているのは紛れもない事実だ」

 馬渕の言葉に、ウェイはしばらく押し黙った後で、自分自身に言い聞かせるように「わたし、恭介に謝らなくっちゃ」と声を絞り出すように言う。

「お願いします! わたしも馬渕さんたちのチームに加えて下さい! 何でもしますから」

 そしてウェイは、馬渕の顔をマジマジと見ながら、今度は力のこもった声で再び懇願する。

「でも、君は就活中なんじゃないか? そんな大事な時期に」

 あまりにウェイが凝視してくるので、馬渕は思わず彼女から視線を外しながら、さっき雑談で聞いたことを言い訳にやんわりと断ろうとする。

「構いません。第一、こんな気持ちのままで、自分だけがのうのうと生きるなんて出来ません」

 ウェイのその言葉には迷いはなく、何を言っても引かないだけの決意があった。馬渕は頭の中で損得勘定をしていた。正直、素人の彼女を仲間に入れたところで、戦力にはならず、むしろ情報が漏れる可能性などのリスクの方が多いだろう。ただ恭介と心理的な面で近づくためには、彼がかつて思いを寄せていたというこの女は使える。馬渕はウェイの申し出を受け入れることにした。隣で渡辺が不安そうな顔をしていたが目で制す。ウェイは安心した顔をして、体中の力が抜けたかのように、先ほどのまで目力に帯びていた緊張の色を徐々に失わせていった。


                       *


 ターゲットである谷中翔が住んでいるのは、三軒茶屋駅からしばらく歩いたところにある、住宅地の中にあるアパートだった。丑三つ時のこの時間には行き交う人々はほとんどおらず、すれ違ったとしても、暗くてお互いの様子はあまりわからない。谷中の情報は、いつものようにリストによるものだけだった。今の恭介には、彼が組織によってサイコパスだと認定されているだけで充分だった。心臓発作を起こした、与党の大物議員の命を救ってから、まだ一時間ばかりしか経っていない。右手の指先には未だに老人を救った時の温かい感触が残っていた。

 辿り着いたアパートは築年数が古いものの、比較的手入れされている木造のアパートだった。谷中の部屋は一階の真ん中あたりにあり、案の定鍵はいわゆる刻みキーと呼ばれる古いタイプのものだった。恭介は、持ち合わせてきた針金で簡単に鍵を開ける。それは慎吾から教わった技術だった。

電気はついていなかったが、人の気配はした。靴を脱ぎ、音を立てないように気をつけながら引き戸を引き、六畳の部屋に入る。量販品の比較的新しい家具で統一された画一的な印象を受ける部屋だった。特徴的なものはなく、ただ色々な物が散乱している。谷中は万年床の上で、洗濯ものにまみれて寝ていた。恭介は懐中電灯で顔に光を当て、寝ている男がターゲットであることを確かめる。その瞬間、光に気が付いたのか、谷中が眠そうな顔をしながら、微かに目を開け、驚きの顔を浮かべた。恭介は谷中が何か言い出す前に手早く左手の手袋を外し、谷中の胸に当てた。訳もわからないといった顔を浮かべる中で、谷中は黒い光に包まれていき、数秒後には精気をすべて奪われて屍となった。恭介は仕事を終えると、振り返ることもなくその場を後にした。

 組織の人間になってから、これで人を殺したのは七人目だった。二年ほどの間での数なので、だいたい数か月に一度くらいのペースで人を救い、そして殺している計算になる。最初こそ、気持ちの整理が中々つかず、あれこれと考えてしまっていたが、こうやって何度か殺しを重ねていくうちに感覚が慣れていき、最近ではもはや感情を揺さぶられることはなくなってきていた。自分の呪われた能力に巻き込まれていった人たちのことを考えることも少なくなっていたし、芽依のことも、出来る限り思い出さないようにしていた。ただ一つ思うのは、自分がもはや人と呼べる存在ではなくなってしまったということ。かつて祖先が悪魔と契約し手に入れたこの能力は、それを受け継ぐ者を例外なく皆悪魔にしていったに違いない。つまり悪魔の真の狙いは、自分たちの仲間を増やしていくことにあったのだと思う。

 深夜の住宅街を抜け、大きな通りに出た。少し歩いたところにあるコインパーキングに慎吾が乗るシルバーの車が停めてあった。恭介は何事もなかったかのように助手席に乗り込み、運転席に座る慎吾に、滞りなく任務を遂行したことを告げた。慎吾は、「ご苦労だったな」と笑顔を見せて労うと、車を発進させる。

 慎吾は任務の時には、いつもの軽トラックではなく、目立たない車を使うことも多かった。慎吾曰く、これらの車は組織から支給されているもので、街中にあってももっとも目立たない車種と色が選定されているのだという。慎吾はいつものようにくだけた様子で、最近始めたというソーシャルゲームの話をずっとしていた。大抵の場合は、そうやって慎吾が空気を読まずに話しかけてくることはありがたかったが、時折彼のその太陽のような明るさがしんどい時もあり、今がまさにその時だった。

「慎吾さんは、この仕事を辞めたいって思ったことはないんですか?」

 恭介は慎吾の言葉を遮るように、ずっと前から訊ねたかったことを口にする。慎吾は眉をひそませたが、すぐに笑顔になり「何だ、急に」と言いながらも答え始める。

「そりゃ、気分のいい話じゃないからな。ただ不思議と時間を重ねていくにつれて、それが当たり前になっていったんだよ。こういうものなんだって。オレの場合、戻る場所なんてなかったし、辞めたところで能力をまた持て余すようになるだけっていうのもわかっていたからな。まあ、お前も似たようなもんだろ」

 慎吾はこちらを見向きもせずに言うと、ゲームの話に戻ろうとする。

「全然違うと思いますよ。似ているところがあるかもしれませんが、オレと慎吾さんの人生は全然違うものです」

 いつも大事なことをかわそうとする、慎吾の態度が今日はやけに鼻についた恭介は、珍しく慎吾に食ってかかっていた。恭介の態度がいつものと違うことを察した慎吾は、しばらく考え込んでから、初めて自分の身の上をポツリポツリと語り始めた。それは、恭介が想像していたものよりも遥かに壮絶な過去の話だった。

 慎吾は元々北関東の田舎に生まれたのだという。恭介と同じく、物心ついた時にはすでに両手に手袋をつけられていたが、恭介と異なっていたことは、彼は能力について事前に知らされていたことと、彼には五つ上と二つ上の二人の兄がいたことだった。上の兄には能力があったが、二番目の兄にはなかったという。そんな中で、父親は慎吾の母親だけじゃなく、三人の息子たちまでをもまるで奴隷のように扱っていた。兄弟はかろうじて学校には通っていたものの、山奥でほぼ自給自足のような暮らしをしていた中で、畑仕事から木の実の採集、そして川魚の捕獲まで、色んなことを強制的にさせられていたのだという。

「能力者だった親父は、あたかも自分が特別な人間だって言わんばかりの傲慢な奴だった。今思えば、アイツこそが本物の悪魔だったんじゃないかと思うくらいだ。実際、何度かオレたちの前で、人を救ってもいるし、殺してもいる。多分、オレたち兄弟に、能力者っていうのがどういうものなのか、教育したつもりだったんだろうが、あんなもの正直、子供の時に見せられるべきもんじゃないぜ」

 慎吾は話していて、当時のことを思い出したのか、口元を歪めて苦々しい顔つきになり、次第に吐き出すような口調になっていた。

「後でわかったことなんだけれどさ、あの時にはアイツはもう組織の末端として働いていたんだ。確かに、人目を避ける生活をしていたけど、派手な行動の割に警察を恐れているって感じはなかったからな」

 そして、慎吾はそんな生活が終わりを告げた時のことを語り始めた。それは慎吾がすでに高校生になっていた時の話だった。発端は、能力を持たない二番目の兄が、父親のスタンスや能力者のあり方に疑問を持ち、マスコミに伝えようとしたことだった。慎吾の父は、すでに父の右腕として働き始めていた一番の兄とともに、二番目の兄を説得しようとし、それがダメだと悟った時に、突発的にこの兄を亡き者にしようと考えてしまったようだった。慎吾が学校から帰ってきたときには、二番目の兄はすでに父に鈍器で殴られて瀕死の状態だった。それまで何も言わずにただ父の言う通りにしていた母は、このときばかりは泣き叫び、父に能力で助けるように懇願していた。父と一番目の兄は、そんな母を無視して、ただその最悪な時間が流れるのを待っていただけだった。慎吾は、そのとき激しい怒りを感じたのだという。それは、父や一番目の兄に向けたものだけじゃなく、自分の生い立ちや無用な能力、それに自分たちに居場所を与えない社会全体に対しての怒りだった。慎吾は考える間もなく、手袋を外し、父の見よう見まねで生まれて初めて右手の能力を二番目の兄に向かって使った。そして「誰かを殺さなければならないんだぞ!」と一番上の兄に諭されると、自分でも驚いたことに、今度は左手で迷うことなく父親を殺してしまったのだという。

「本当は当時覚えたてのジークンドーで奴を倒したかったんだけれどな。そっちの方はまだ全然だったから」

 慎吾は少しくだけた調子で言ってから息をつく。

「今でもその時のみんなの顔を覚えているよ。これ以上、この世には居たくないって顔をしていたな」

 そして慎吾はまるで他人事のように淡々と呟き、前を向いて車の運転に集中していた。恭介は好奇心を抑えることが出来ず「それからどうなったんですか?」と訊ねる。慎吾は「それが意外だったんだ」と言って笑顔をチラリと見せる。

「一番上の兄貴が親父を助けるのかと思ったら、見殺しにしたんだ。アイツも本当は親父のことが嫌いだったんだってそのとき初めて知ったよ」

 そしてその後、家族は皆、離れ離れになったという。二番目の兄は事件の後精神を患うようになった母とひっそりと暮らし、一番上の兄は逃げ出して、ヤクザまがいの仕事をしていたが、すぐに自殺したという話を慎吾は人づてに聞いていた。慎吾本人はというと、とにかく能力から逃れ、普通の仕事をしようとしてみたものの続かず、そのうちに父親と一番上の兄の死を知った組織の人間が訊ねてきて、父親への殺人を不問にすることと引き換えに組織の一員になるよう求めてきたという。

「最初は抵抗があったよ。あれだけ嫌っていた男の後を継ぐって話だからな。そんな生き方しか出来ない自分自身が本当に嫌だった」

 そう喋る慎吾の横顔を見ながら、恭介は、彼が以前、自分にとってのノボルの存在と同じように、最初に殺した人間の幻影をしばらく見ていたと話していたことを思い出す。その幻影とは間違いなく彼の父親で、父親は死んでも尚、しばらく彼のことを支配し続けていたのだろう。

「でも、今なら、あの親父の気持ちが少しはわかるんだ」

 慎吾は独り言を喋っているかのように続ける。

「能力者がまともに生きていくためには、まずはお上にその存在を認めてもらわなければならないんだ。ただそれを認めてもらうには、普通の人が税金を払っているように、オレたちも自分たちの能力を差し出さなければならない」

 信号が赤になり、慎吾はブレーキをゆっくりと踏んで車を停車させると、慎吾は改めて隣にいる恭介に向き直る。

「どんなに自分が正しかったとしても、自分一人でこの社会をどうにかすることなんて出来ない。オレたちが生まれた時にはもう、途方もない時間の末にこの社会にはカチカチにルールが決められちまっていて、オレたちはその中で生かされるしかないんだ」

 それはこの社会に対する諦めというよりは、この社会に順応したとでもいうような言い方だった。

「正義なんてもんは、所詮は幻想にしか過ぎないのさ。その時々に力のある人間が事実を都合のいいように捻じ曲げちまう。だったら、強い方に乗った方が安全だ。そう言う態度を非難する奴もいるけれど、大抵の人間は自分のことは棚に上げて、自分たちの利権だけは守ろうと必死になっているだけだ」

 慎吾は自分に言い聞かせるように呟くと、再び車をゆっくりと発進させる。信号が青になったのだ。さっきまでの真剣さとは打って変わり、慎吾はそのうちに流行りのブルース・リーの息子の死についての噂話をべちゃくちゃと話し始めた。恭介は適当に相槌を打ちながら、流れる窓の景色の先に見える行き交う人々の中に、なぜかノボルの姿がないか捜していた。


(二)


 夏がとっくに過ぎ、枯葉が落ち始める季節になっていた。イチョウの木からは銀杏がいくつも落ち、道端でつぶれて異臭を放っている。周りの友達たちの就職先が決まっていく中で、ウェイはまだどこの会社からも内定をもらっていなかった。そもそも就職活動そのものをほとんどしていないのだから、当然と言えば当然の話であるのだが、それでもやっぱり今は友達と話すのが辛かった。ウェイは枯葉をザクザクと踏み進みながら公園を横切り、すぐ前にある、低階層で築年数がまだ浅く、白いタイルで覆われた、見るからに清潔そうなマンションに慣れた様子で入る。そこは、馬渕の部下である渡辺が住むマンションだった。オートロックを抜けて、エレベーターで三階まで上がったところで、ウェイは、顔を引き締める。

 玄関に出た渡辺に導かれて、そのまま部屋に入ると、すでに馬渕も来ていて、二人でダイニングにおいてある食卓について資料の整理をしていた。恭介の追跡をするために、渡辺の部屋を本部にしようと決めたのは、馬渕だった。渡辺は不満を口にしていたが、もはや能力者である恭介を追ってはいけないと上司から暗に釘を制されていた彼らが密かに行動するには、プライベートな時間と空間を利用するしかなかった。

「親父さん、工藤と激しくやり合っているそうじゃないか」

 ウェイが挨拶をすると、馬渕は、顏も上げずにいきなり訊いてきた。

「工藤から聞いたんですか? まあ、こうなりますよね」

 ウェイは皮肉っぽい言い方で応えながら、恭介が生きていることを知って以来、急に精力的に動き始めた父のことを思い浮かべていた。父は、中華街から工藤の影響力を削ぎ、再開発プロジェクトを阻止するために、あらゆる企てをしていた。

「だが、ことを急いでやり過ぎない方がいい。アイツは面倒な男なんだ。一度手に入れた利権を簡単に手放そうとは考えないだろう。恐らく法を犯してでも何らかの対抗措置はしてくるはずだ」

 それはウェイも肌で感じていた。すでに工藤は、自らの勢力を使って父とその仲間たちの身辺調査を行い、あることないことをデッチ上げては、対立を煽っていた。

 ウェイは「そうですね」と言いながら、馬渕の横の空いている椅子に座り、資料を手に取る。どれもサイコパスと目される前科者たちの情報だった。サイコパスの診断を受けているかどうかが確定されていない以上、恭介たちが狙いそうな人物を前もって特定し、その人物をマークすることでしか、恭介との接触は難しいと思われた。今や彼はほとんど痕跡を残さず、仮にその痕跡が残っていたとしてもそのすべては見えない力によって消されてしまうのだ。

 ウェイは資料を見比べながら、どれも似たような凶悪犯だと思い、ここから次に恭介が狙う人間を当てるのは、宝くじの一等に当選するくらいの確率だと思った。早くも途方に暮れたウェイは、何の気なしに点けられているテレビの画面に目をやった。画面ではニュースが流れており、与党・民自党のホープと言われている饗庭将人がインタビューを受けていた。現役大臣の不正献金の問題で、政府に対して鋭く批判しているのだ。饗庭は、まだ四十代と若く、端正なマスクに、誰に対しても物おじせずにハッキリと意見を言う姿勢も相まって、世間から大きく期待されていた。

「能力者は、わかりやすいサイコパスしか殺さないんでしょうか?」

 ウェイはふと思った疑問をそのまま口にする。

「風本恭介がやったと思われる案件に関してはね。ただ彼の登場よりももっと遡ってみると、そうじゃない人間もちらほらといる。例えば、ほら、箱根であった横山っていう元大臣の秘書がそうだよね?」

 渡辺が彼女の疑問に答えてくれた。ウェイはあの日、テレビで見た箱根の事件のことを知ってその時に感じた気持ちのざわつきを思い出す。確かに、能力によって殺されたという相沢という秘書官は目の前にある凶悪な顔つきをした男たちとは違う。

「それに、もっと時代を下れば、結構な大物の死も能力者が関わっている可能性がある。まあ、今となっちゃ、調べようもないけれどね」

 渡辺の言葉を聴きながら、ウェイは相槌を打ち、何となくテレビに流れている饗庭の顔をじっと眺めていた。それは世間からの人気が抜群に高い一方で、その歯に衣着せぬ物言いは敵も多く作っていそうなタイプの男だった。実際に今現在権力を握っている人間からしてみれば、自分たちに取って代わる可能性が高い、彼のような人間は、存在そのものが脅威であるだろう。

「それなら、今後、恭介がそういった、誰かにとって都合の悪いことを知っている人間や目障りで危険な人間を殺すって可能性もあるってことですよね。例えば、この人とか」

 ウェイはテレビ画面に映る饗庭の顔を指差す。それまで無関心だった馬渕がようやく顔を上げる。

「まあ、可能性はなくはないけれど、それこそ滅多なことではしないと思うよ。だって、そのへんのサイコパスが殺されても、世間の人は誰も気にも留めないけれど、今を時めく饗庭将人が殺されたとなっちゃ、世間が大騒ぎしてしまうからね。能力者の存在を隠したいお上にしてみれば、そんな危ない橋は渡れないでしょ」

 渡辺の言うことはもっともだった。確かに大騒ぎになるのはまずい。でも、相手がそれを犯してまで、殺したいと思う相手であるならば、恭介の悪魔の能力は自然死にみせかけられる分、最適だ。

「馬渕さんはどう思います?」

 ウェイは思い切って馬渕にも話を向けてみた。馬渕は面倒くさそうに顔をこちらに向けると、「馬鹿げた話だな」と呟く。

「お上が今一番目立っている人間に手を出すわけがない。第一、彼は厳重に守られている。いくら能力があるといっても簡単には近づけない」

 馬渕はそれだけを言うと、余計なことを考えずにとにかく目の前のことをしろと言わんばかりに持っていた資料をウェイに渡してくる。ウェイは渋々資料を受け取りながら、テレビに映る饗庭の顔をじっと眺めていた。


                       *


 工藤は煌めく横浜の繁華街のネオンを横目に、顔をしかめながら車の後部座席で部下に電話をかけていた。中華街の再開発プロジェクトはおろか、その利権すらも危うくなっていた。恭介が生きていることが知られたことで、ヤンに反旗を翻されたのが痛手だった。彼は、かつての仲間たちと団結し、工藤の息がかかった人間の締め出しを始め、また工藤たちの組織の違法な行為を次々に警察にリークし始めていた。いくつもの指示を飛ばした後で電話を切ると、しばらく考え込んだ後で、再び電話をかけ始める。相手は馬渕だった。

 電話に出た馬渕は、相変わらず不機嫌そうな声をしていた。一月ほど前から、彼の態度は大きく変わっていた。明らかに自分と距離を取り始めているのだ。恐らく、恭介のことで、こちらが報告していないことを知られたのだろう。

「実は、馬渕さんにお願いがあるんです。ええ、ちょっと横浜の件でね。もうお聞きになっているかもしれませんが、色々と根も葉もない噂を立てられているんです」

 工藤は、ダメで元々でヤンたちが何を警察に話し、工藤たちの組織に対してどういった打撃を加えようとしているのか、調べてほしいと頼む。馬渕は案の定渋った様子で、適当にはぐらかし電話を切ろうとした。やはりこちらから何か見返りを与えなければ、要求には応えてくれないのだろう。

「もちろん、タダという訳ではありませんよ。風本恭介についての新しい情報を渡します。彼が中華街に潜伏していた時に、色々と世話を焼いていた女がいましたね。そこから色々な事実がわかったんです」

 工藤は暗にウェイの存在を示して、馬渕の出方を伺った。馬渕は話半分に聞いている様子で、やはり全く食い付いて来ず、電話をそのまま切った。工藤はニヤリと口元を緩ませる。彼にしてみれば、とりあえずその態度からだけでも、ある程度のことがわかったので充分だった。恐らくチャンからすべての真実を聞いたであろうウェイは馬渕と繋がったのだろう。馬渕にはひた隠しにしていた、箱根でのことが知られたのも間違いない。工藤は部下に電話をかける。それは風本恭介の捜索を任せている人物だった。工藤は電話に出たその部下に、ウェイを徹底的にマークすることを命じる。馬渕と繋がりがあるとわかった以上、彼女たちが風本恭介に先に接触する可能性があった。当然状況次第では、ウェイの身柄を拘束することも考え、その可能性も部下に伝えた。そのとき唐突にキャッチホンの音が聞こえてきた。画面表示を見ると、増岡とあった。恭介をおびき寄せるために、工藤がサイコパスの資質があると踏み、息のかかった医者にその診断を下させた部下の一人だった。電話に出ると、増岡は震えた声で、手の能力者らしき男が自分の住むアパートの前をうろついているのを目撃したので、今慌てて近くの駅まで逃げてきたと報告してくる。工藤は、自分もすぐ行くので、自分のアパートの部屋に戻るように指示を出す。理由は、人がたくさんいる場所では、能力者は手出しをしないことを経験から知っていたからだった。もしも今、恭介が増岡の様子を伺っているのだとしたら、戻ってきたところを襲うはず。もちろん、増岡もそのことがわかっているようで「戻りたくない」と懇願してきたが、工藤は受け付けず、もしも戻らないなら「わたしがお前を殺す」と脅して命令に従わせた。幸い、増岡が住むアパートは車で二十分もしないところにあった。工藤は、運転手に増岡のアパートの詳しい場所を教えた。

 増岡のアパートは、横浜駅から歩いて十数分ほどの住宅街の中にあった。工藤は近くのコインパーキングで、運転手にすぐに発進出来るように待機しているよう命じると、一人でアパートに向かって歩き出す。気分は高揚していた。それは恐怖という感情より、自分の目論み通りにことが運んだという単純な歓びと、是か非でもあの能力者をどうにか手に入れたいという欲望が入り混じった感情だった。アパートは、そもそも恭介たちが狙いやすいように工藤が借りた普通のアパートで、人気が少ない通りに建てられている物件だった。工藤は懐に忍ばせた拳銃のグリップに手をやりながら、物音を立てないように階段を上がり、廊下を進む。増岡に命じた通り、ドアは開いており、不気味なほど静かだった。工藤は一気にドアを開けて、部屋の中に土足で入り込む。そこには、すでに能力によって殺された増岡の死体があった。工藤は舌打ちをすると、すぐに部屋を出て駆け出す。まだ近くにいるはず。工藤は走りながら、自分が風本恭介ならばどこに向かって逃げるのかを想像した。より人気のない住宅街に進むのか、人気のある駅の方に向かうのか。工藤は来た道を引き返し、駅の方に向かった。これまで足取りを悟られずに逃げおおせているところからみると、近くに逃走用の車が待機していると考えるのが自然だろう。車が待機しているのなら、人気の多い大通りの方がカモフラージュになるに違いない。工藤は久しぶりに全力で走り、大きな通りに出た。そして風本恭介の背中を認めた時、思わず彼を抱きしめてしまいたくなるほどに興奮した。工藤は呼吸を整えながら、早歩きで恭介に近づいていく。

「お久しぶりですね。随分と捜しましたよ」

 そして真後ろまで来たところで、恭介に話しかけた。恭介は立ち止まり、振り返るとギョッとした顔つきをみせたが、すぐにポーカーフェイスを見せる。

「今更何の用だ? オレはお前になんて別に会いたくもない」

 恭介はまるで蔑むような目で工藤を見た。二年前に会った時よりも顔つきがずっと精悍になっていたものの、もはやもうほとんどのことを諦めてしまったのであろうか、感情が乏しくなったような印象を受けた。

「そっちはそうでも、こちらにはあるんですよ。ちょっと話をしませんか? ヤン・ウェイのことであなたと話したいことがあるんです」

 工藤は用意していたセリフをスラスラと口に出す。ウェイのことを持ち出せば、恭介は必ず乗って来ると踏んでいた。

「わかった。ただしここでだ。手短にしてくれ」恭介は少し考えてから答える。

「それがそういうわけにも行かないんですよ。あなたに見せたいものもあるんでね。ついて来た方がいいですよ。あなたの左手は今、人を殺せる状態じゃないんでしょう?」

 工藤は勿体ぶった言い方で言うと、目を細めて不敵な笑みを浮かべ、暗に自分の言うことを聞かざるを得ないようなプレッシャーをかける。恭介は「ふん」とだけ言うと、早く歩き出すように工藤に目で促す。工藤はそれを確認すると、恭介がついてくるのを背中に感じながら踵を返し、すぐに車で待機する運転手に連絡し、迎えに来るように命じた。


 車内では工藤と隣り合わせに後部座席に座った恭介は終始無言で窓の外を眺めていた。彼は焦りも恐怖も感じていない様子で、ただ淡々と時が過ぎていくのを待っているかのような態度を取っていた。おそらく暗殺家業がこの男から感情というものを徐々に奪っていったのだろう。工藤はそんな恭介の境遇が自分に似ているような気がした。不遇な出自故に、社会からつまはじきにさせ、裏社会で生きることで、人間らしさを失っていく。そう考えると、工藤はますますこの男に自分と近いものを感じて行き、不思議と近親憎悪にも似た感情をも感じ始める。

 車は指示通り、工藤の組織が持っている古い工場跡に着いた。元々化学繊維を作る工場だったこの場所は、人里から離れ、それなりに土地も広かったので色々と一目に触れたくないことをするには打ってつけの場所だった。工藤は運転手を残し、恭介と二階建ての建屋の中に入って行く。すぐにうめき声のようなものが聞こえてきた。恭介の顔に微かに不安の色が出始めているのを愉快に見ながら、彼をそのうめき声のする空間にいざなう。

 ドアを開けると、そこは大きな機械ばかりが置かれた広い空間だった。そして入ってすぐ正面に両手を磔にされるような形で縛られ、足だけはどうにか座らせてもらっているような状態の一人の男の姿があった。彼は頭を垂れて気を失っているようだった。隣にはまだ二十歳そこそこの年齢であろう若者が見張り役として座っており、工藤の姿を見るや、立ち上がって直立不動になる。

「何か新しいことを喋ったか?」工藤は見張り役に訊ねる。

「いえ、何も。ただ『他には何も知らない』の一点張りです」

 見張り役が緊張のあまり上ずった声で報告すると、捕らえられている男がようやく反応し、顔を上げる。

「チャン……」恭介が驚いた声で呟く。

「なぜこの男がここにいるのか? そう思っているのでしょう」

 予想通りの恭介の反応を楽しみながら、工藤は訊ね、説明を加える。

「この男はわたしを裏切ったのです。リュウがあなたによって殺された後、面倒を見てやったのに、ヤン・ウェイに金と引き換えに色々と喋りましてね。おかげで、せっかくうまくいきかけていた中華街でのわたしの立場が悪くなってしまったという訳です。中国に高跳びする前に捕まえました」

「ウェイにも手を出したのか?」恭介は睨みつけながら、工藤に迫る。

「そんなに怖い顔をしないでくださいよ。彼女には手を出していません。今のところはね」

 最後の一言をわざとらしく強調する工藤に、恭介は語気に怒りをにじませながら「一体お前は何を望んでいるんだ?」と訊ねる。

「すでにおわかりのはずです。わたしはあなたと仲良くしたいだけなんですよ。お互い助け合って生きていきたいだけです」

 工藤が答えると、恭介は「違う。お前は、ただオレの能力を利用したいだけだろ?」と食ってかかる。

「厳しい言い方ですね。確かにあなたの能力は魅力的ですし、それを使わせていただきたいのも山々です。ただわたしは、あなたの力を利用するだけじゃなく、あなた自身が得をするような形にしたいんです」

 工藤は言葉を慎重に選びながら紡いでいく。

「考えてみてください。あなたは先ほど『利用』と仰いましたが、では、今、あなたを動かしている組織は、あなたを利用していないのでしょうか? 確かにあなたは守られるようになったかもしれませんが、それはせいぜい一般の人間が最初から持っている権利を与えられたに過ぎないんじゃないでしょうか?」

 何も応えなかったが、恭介の表情が見る見るうちに曇っていくのはわかった。工藤は追い詰めるように続けた。

「今のままでは、あなたはただの能力者として利用されているだけで、ずっと日陰で生きていくことを強いられてしまいます。どうです? わたしと組んで日の当たる場所に行きませんか? わたしと組めば、あなたを利用している人間たちの後ろ暗い部分を脅し、逆に利用して、彼らと対等な場所に立つことが出来るようになるかもしれません」

 工藤はわざとらしく笑顔を作り、恭介に右手を差し出して握手を求める。

「能力があるだけで、裏の世界で生きなければならないというのはあまりに理不尽です。さあ、わたしと一緒に表の舞台に立って、社会を変えていきましょう」

 恭介は鼻でフッと笑うと「ふざけるな」と小さな声で呟く。 

「何が社会を変える、だ? あんたは世の中を良くしようなんてこれっぽっちも思っていないだろ? あんたはただ自分がさらなる権力者になり、もっと多くの人を支配したいだけだ」

「それは誰だってそうじゃないでしょうか? あなただって心の奥底ではそう思っているはずです。自分の思い通りに生きたい。人から敬われ、人から愛されたいと」

 工藤は負けずに恭介の心を抉るような言葉をぶつけ続けた。恭介は、呼吸を荒くしながら頭を何度も振り、踵を返してその場を去ろうとする。

「まだ話は終わっていません。あなたはわたしに従わねばならないんです」

 工藤は懐から拳銃を取り出し、銃口を恭介に向けて、安全装置を外す。

「それがお前の本性っていうわけか」

 恭介はそれだけ言うと、一気に駆け出して今いる空間を出ようとした。当然のようにそれまで何も言えずにただ様子を見ていただけの工藤の部下が恭介の行く手を阻み、殴り掛かってくる。恭介は、立ち止まり、必死にパンチを避けることしか出来ない。

「もっと自分の欲望に正直に生きたらどうです。今のまま人を殺し続けていても、ロクなことにはなりませんよ」

 工藤は一歩一歩恭介に近づきながら諭す。

 追い込まれた恭介は、間合いを取りながら、とにかく状況を打開することを考えているようだった。その時、鈍い音とともに恭介の行く手を阻んでいた工藤の部下が急に倒れ込む。長身の男による素早い打撃にやられたのだ。慎吾だった。恭介は初めて慎吾のジークンドーを実戦で見て技の切れ具合に素直に驚いた。口先だけじゃなく、彼は一流のジークンドーの使い手だったのだ。

「慎吾さん」

 そしてとっさにそう呟く恭介の言葉を工藤は聞き逃さない。

「何やってるんだ。早く逃げろ!」

 慎吾が叫ぶと、恭介はすぐに駆け出して、部屋を出て行く。工藤は逃がすまいと拳銃の引き金を引こうとするが、その瞬間に、慎吾は「アチョー」と叫びながら拳銃を蹴り飛ばしてきた。そして体勢を崩した工藤は、そのまま慎吾に殴り飛ばされる。

「二度とオレたちに近づくな」

 慎吾は倒れた工藤の胸倉をつかんで凄む。工藤は怯むことなく、慎吾の顔を間近に見ながら、クックックッと笑って見せる。

「あなたがスマイルと呼ばれる能力者ですね。しかもジークンドーの使い手だったとは恐れ入ります。もはや伝説となっているあなたにお会いできて光栄です」

 工藤のその言葉に、慎吾は顔を歪ませると、工藤をもう一度殴り、そのまま自身も恭介を追って去っていく。工藤がクラクラとめまいがするのを堪えながら、どうにか立ち上がれたのは、建物の中を駆け抜ける慎吾の足音がすでに聞こえなくなってからだった。部下の男も頭から血を流していたものの、どうにか立ち上がろうとしていた。

「すみません、オレ、追ってきます」

 部下の男は、フラフラとした足取りをしながら、慎吾たちを追おうとする。

「もういいです。目的の半分は達成しましたから」

 工藤の言葉に、部下の男は思わず首を傾げる。

「この工場には構内の至る所に高画質の監視カメラを仕掛けてあるんです。風本恭介だけじゃなく、スマイルの映像も撮れたのは大きな収穫です。それに、彼の名前が『シンゴ』だとわかったことも」

 工藤はそれだけ説明すると、部下にチャンの始末をすることを命じて、すぐに建屋の中の管理室に向かった。管理室は建屋の入り口にある小さな部屋で、ここがまだ工場として稼働していた時には守衛が使っていた部屋だった。この場所で、工場内の監視カメラを一括して管理出来るようにしていた工藤は、慣れた手つきで機材を操作し、モニターで確認する。思った通り、これまでとは比べ物にならないくらい鮮明に慎吾の顔が映っていた。

 工藤は必要な画像データを媒体にコピーして手にすると、そのまま自身の車に向かった。不安げに、車の周りでウロチョロとしていた運転手がすぐに工藤に駆け寄ってくる。

「大丈夫ですか? あの、すみません。シルバーの車がいきなりやって来て、男が中に入って行ったんですけれども」

 運転手はしどろもどろに自分が男を捕まえられなかったことの言い訳をする。

「わかっています。その後、その男は風本恭介の後に続いて出て来て、二人はそのまま車で逃走したんですね」

 運転手はバツの悪そうな顔をしながら、コクリと頷くと、「あ、あの、でも一応これだけは撮っておきました」とスマートフォンで撮られた写真を見せてきた。それは、慎吾が建屋の中に入っている間に撮られたもので、彼の車のナンバーもハッキリと映されていた。工藤は思わぬ副産物の登場に歓喜して運転手を褒める。

 そのまま車に乗り込んだ工藤は、運転手に事務所に戻るように命じた。車が動き出してしばらく経ったところで、工藤は今になって、慎吾に殴られた頬の辺りがズキズキと痛むのを感じた。大したことはなかったが、ただ殴られたことで、父親のことを思い出してしまったのは不愉快だった。子どもの頃から、暴力で人を支配し、結果的に人を殺して服役していた父親は、とっくに刑務所の中で死んでいた。自分が人間としての大事な感情をなくしてしまったのは、間違いなくこの父親のせいだった。

 工藤は恭介に、自分がさらなる権力を欲しているだけだと罵られたことを思い出す。彼には、それの何がいけないのかが正直わからない。やらなきゃ、やられる。それは、動物としての当たり前の生存手段であり、そうやってしか彼は生き延びることが出来なかったのだ。工藤は、スマートフォンを取り出して電話をかける。呼び出し音の後で出たのは懐かしい母親の声だった。一人で暮らす母親は、最初こそ寝ぼけた様子だったが、そのうちに久しぶりに聴く息子の声に喜び、取り留めもなく中身のない話を話し始めた。軽い認知症になっている彼女は、息子は大きな企業の幹部として働いていると今も信じている。日の当たる場所に行きたい。工藤は母親の話を聞き流しながら願った。


                      *


 恭介は助手席に座りながら、気持ちが落ち着くのを必死に待っていた。慎吾は車を運転しながら、珍しく不機嫌な顔をしている。恭介は「すみません」と切り出し、勝手な行動をしたことを詫びる。

「組織のスマートフォンを持たせておいて正解だった」

 その言葉で、恭介は組織から支給されて持たされているスマートフォンの追跡機能で常に監視されていることを初めて知る。知らないところで管理をされていたことに嫌な感じがしたが、それによって助けられたのだから文句も言えない。

「しかしお前も、面倒くさい奴に付きまとわれたもんだな」

 慎吾はそれだけ言うと話題を変えて「実は明日丸の内にお前を連れて行かなきゃいけなんだ」と改まった様子で告げた。

「佐藤さんのところですか?」 

 恭介は最初に会って以来、まるで接触のなかった組織の首領の名を口にしながら、体を強張らせる。

「そんな緊張しなさんなって。でも多分、重大な仕事の依頼だと思う。特定の誰かを救うのではなく、殺すことが目的の時は声でわかるんだ。おそらく政財界の大物とか、事件のキーパーソンとかを殺せといっていう話だろう」

 慎吾の言葉を聞きながら、恭介は慎吾が箱根で議員の秘書を殺したことを思い出していた。自分もいつかはそういった暗殺をする日がやってくるのかとぼんやりと考えたことがあったが、いざそういった話が舞い込んでくると、どんな風に気持ちを持って行けばいいのかわからない。そんな恭介の気持ちを慮ってか、慎吾はまるで他人事のような態度で、これまで彼が担ってきた重要な暗殺の数々を語り始めた。そのうちのいくつかは恭介も知っている政治家や経済人で、いずれも殺人ではなく、病死や自殺と報道された人たちだった。


 翌日、慎吾と丸の内の高層ビルに行くと、初めて来た時と同じ手順で前と同じ部屋に通された。しばらくしてから佐藤がいそいそとやって来て、恭介たちが座るソファの前に座った。佐藤は、恭介の仕事ぶりを逐一聞いていると言い、その仕事ぶりを褒めた。

「さてと、今日呼び出したのは、ちょっと重要な案件があってね。我々はこの男を葬らねばならなくなったんだ」

 佐藤は鋭い眼光を向けながら、持ってきた資料を慎吾と恭介にそれぞれ配る。恭介は資料に目にした瞬間に驚きのあまり声を失った。そこには、誰もが知っている政治家の顔写真とプロフィールが乗っていたからだった。恭介は思わず、隣に座る慎吾の顔色を伺う。慎吾はポーカーフェイスを貫いている。

「この人を殺すんですか?」恭介は、震えた声で佐藤に訊ねる。

「そうだ。セキュリティは厳しいのだが、彼の日程を隈なく調べ上げて、こちらから知らせる」

「あの、それはそうなんですけれども……」

 恭介は言い淀みながらも、次の言葉を口にしていいのか迷った。ターゲットとなっているこの男は、ただの政治家ではなく、今や国民の期待を背負っている男で、この男、与党・民自党の衆議院議員、饗庭将人を殺すことによる影響はあまりに大きいように思われたからだ。

「この男は危険なんだ」

 そんな恭介の動揺に答えるかのように佐藤はハッキリとした口調で告げる。

「確かに世間からしてみれば、彼の姿は魅力的に映るだろう。彼が持つ強力なリーダーシップも、今の世の中に求められているものだからね」

「じゃあ、何が? 彼を担ぎ出せば、民自党だって選挙で有利に戦えるわけですから、その存在には価値があるじゃないですか」

 恭介は淡々と説明する佐藤に理屈で反論する。

「彼は強すぎるんだ。確かに強力なリーダーは求められているが、あまりにそれが強力であり過ぎると、全体の秩序を乱すことになり、この国にとってマイナスとなる」

 佐藤はそれまでの温和な表情から一気に顔を強張らせ、力強い口調で説明する。

「それに、これはあまり大きな声では言えないことなのだが、彼の政治的な偏りにも大きな問題がある。彼は、この国の安全保障上、最も重要な同盟国との関係を重視せず、新たに複数の国と関係を再構築することで現状を変えようとしている。しかも、すでにいくつかの国との接触が頻繁にあり、具体的な計画が練られ、そのための資金も流れている」

 佐藤のその言葉に、それまでダンマリを決め込んでいた慎吾が初めて顔を上げ「それは本当ですか?」と訊ねる。佐藤はコクリと頷くと、改めて恭介の顔を見据え「国家観を守り、出来るだけ多数の人間が幸せになるには、時に犠牲も必要なのだ。それは必要悪ともいうべきものだ」と告げた。

「何か、彼の弱みを握って脅すとか、そういう形ではダメなんですか?」

恭介はそれでも何も殺すことはないと抵抗する。 

「彼はこちらの弱みも多く知っているからね。暴露合戦になってしまうと、こちらも都合が悪い」

 それ以上の反論が出来なかった恭介は、なし崩し的に暗殺を引き受けることになった。しかも慎吾ではなく、恭介が手を下すことまでが決められた。それは、恭介にとって、この暗殺が組織の中で確固たる地位を築くための最後の試験だということを意味していた。

 

 佐藤との会談を終えた恭介は、そのまま住んでいるマンションまで慎吾に車で送ってもらうことになった。そこは、組織が用意してくれた住処だった。重苦しい雰囲気を払拭したかったのか、慎吾はラジオを点け、歌番組に合わせる。車内には軽快なポップミュージックが流れ、先ほどまでの会話がまるで遥か昔の遠く国の出来事のように感じられた。恭介は、ぼんやりと饗庭将人とのことを考えていた。彼はこれまで恭介が手を下してきた人間とはまるで違う、社会に大きな影響を及ぼすことの出来る人間だった。頭の中で、そんな人間を自分のような半端な者が殺していいのかという思いと、あくまで自分はただやらされているだけなんだという言い訳めいた思いが混在し、何も答えを出せないまま、自分の部屋までの距離だけが縮まっていった。慎吾は、余計なことは一言も言わずにただ雑談だけを繰り返していた。考えることに疲れた恭介は、目を瞑りいつしか眠りに落ちていた。夢の中でなぜかウェイが現れた。夢の中のウェイは優しく声をかけてくれたが、恭介は彼女の声に馴染むことが出来なかった。恭介は、もうしばらく彼女に会わないうちに、彼女の声がどんなだったのかを忘れてかけていた。


(二)


 馬渕は車を降りてから、吹き荒ぶ浜風を一身に浴びていた。髪の毛はグチャグチャになり、頬はカサカサに乾き切っている。すでに辺りは薄暗くなっており、曇り空の中で太陽も人知れず沈みかけている。外は想像していたよりもずっと寒かった。

 海沿いに埠頭をしばらく歩いてところで、鑑識による人だかりが出来ていた。ちょうど遺体が専用のビニール製の遺体袋に包まれ、検死を受けるために車で送られる準備がされているところだった。顔見知りの鑑識官と目が合う。神奈川県警の所属である彼は、露骨にウンザリした顔を見せながらも死体の状況を簡単に説明してくれた。

 横浜港で身元不明の遺体が上がったという情報が馬渕に寄せられたのは、一時間ほど前のことだった。かつて恭介が長く滞在していた横浜での事件だったというのが馬渕の勘に引っかかり、彼に足を運ばせていた。馬渕は鑑識官に無理を言って、遺体の顔を拝ませてもらう。鑑識官は損傷が激しいので無意味だと言ったが、馬渕は引き下がらなかった。

 遺体袋のチャックを開く。中からパンパンに腫れ上がった男の顔が出てきた。隣で渡辺が目を背けるのを横目で見ながらも、馬渕はその遺体をじっと眺め、それが自分の会ったことがある人間かどうか記憶を辿る。顔が腫れあがる前の状態を自らの想像だけで頭の中で形作るのは至難の業ではあったが、何度もこうしたことの経験がある馬渕にとっては、決して出来ない相談の類のものではなかった。確か超認識力とか言っただろうか。馬渕は、以前知り合いの医者に教えられた馬渕の持つ能力の名前を思い出す。ちなみにその医者によると、超認識力を持つ人間は、世界の人口のうちで二%としかいないという。それは、通常人はこれまで会った人の二割程度しか思い出せないのに対し、八割以上思い出すことが出来るという能力だった。どうやら脳の紡錘状回顔領域という場所の発達に関連している可能性があるらしかったが、実際、科学的な理屈は、馬渕にとってはどうでもいい話だった。

 馬渕はまずは目を瞑り、遺体と少しでも似ている人間の顔を思い出していく。そして、何度も目の前の遺体の顔のそれぞれのパーツを凝視しては、候補者を一人、また一人と削っていく。

「一人、似ている顔の男がいるんだ」

 馬渕は鑑識官に告げる。頭の中に一人だけ候補者が残っていた。

「チャンという中国人だ。元々中華街で徒党を組んでいた不法滞在者の集団の一人だ。中国に戻るという話を聞いていたんだが、出国記録は確認出来なかった」

 顏だけじゃなく、状況だけでも、この遺体がチャンである可能性は高かった。鑑識官は馬渕から一つの有力の情報を聞くや、これまでの邪険な態度とは打って変わり、丁寧な言い方でその線でも調べてみるといい、結果が出たら知らせると約束する。

「あのホトケがチャンだとすると、やっぱり工藤ですかね?」

 車に戻る際に、渡辺が興奮した様子で話しかけてくる。

「多分な。ただあれでは多分身元がわかったところで殺った人間を特定するのは難しいだろう」

 馬渕はそれだけ答えると、そそくさと歩き、車に乗り込む。渡辺も続いて車に乗り込み、キーを差し込んでエンジンをかける。馬渕は、本庁に戻るように指示を出したが、渡辺は車を発進させずに、何か言いたげな様子で馬渕のことを伺っている。

「言いたいことがあったらハッキリと言え」

「あの、ウェイが調べている件についてなんですが」

 遠慮がちに渡辺に切り出された話に、馬渕は少しウンザリした。薄々と気がついてはいたものの、いつの間にか渡辺までもがその話に加わるようになっていた。

「饗庭将人の件なら、お前たちだけでやれ。ただヘンに首を突っ込んで、饗庭側に怪しまれてもオレは知らんぞ」

 馬渕は冷たく言い放つ。

「でも、彼の今後の予定はかなりちゃんと調べたんです。セキュリティのパターンも見つけました。お願いします! せめて話を聞くだけでも」

 馬渕は、渡辺が必死に食らいついてくる姿を見て意外に思った。それは、これまでこの若造がここまで自分の主張を馬渕にぶつけてくることはなかったからだった。良くも悪くも、あの娘に呑まれたということか。

「わかった。でも、話を聞くだけだぞ」

 この男のこれからのためにも、この話をこれ以上無下には出来ないと思った馬渕は渋々了承する。渡辺は目を輝かせて「ありがとうございます!」と大きな声で言うと、行き先を勝手に自分のマンションに変更し、ウェイにもそこにくるように電話で告げた。


 馬渕たちが渡辺のアパートに着いた時には、夜の帳はすっかりと降り、夕飯の時間になっていた。馬渕たちがコンビニに寄って食料を調達してから部屋の前まで行くと、すでにウェイが待っていた。

 部屋に入ると、ウェイは待ちきれないといった様子で、馬渕が夕飯を並べるよりも先に資料を並べ、饗庭将人の行動予定を説明し始める。おそらく渡辺が知らぬ間に協力したのだろうか、馬渕が想像していた以上に、ウェイは饗庭将人のこれから数カ月にわたる予定を念密に調べていた。ウェイは馬渕が黙って聞いているのをいいことにそのまま説明を続け、自分が恭介の立場なら、この日に饗庭を襲うだろうと、自身の予想を明確に告げる。それは二週間後だった。

「この日に饗庭将人は、羽田から海外渡航をする予定になっています」

 ウェイは馬渕の出方を伺いながら、静かに告げる。

「ちょうどアメリカの大統領が来日しているときだな、つまりは、セキュリティの労力と注意がほとんどそちらに向かう時がチャンスだというわけか」

 馬渕は表情を変えることなく応える。

「その通りです。現在閣僚でもなく、党の三役にもついていない饗庭は、大統領の来日に関しては特に関わりがないようで、早々にこの海外渡航を決めていたそうです」

 ウェイは手ごたえを感じているのか、ハキハキした様子で説明を加えると「そしてもっと言えば」と勿体ぶった言い方をしながら続ける。

「この渡航には、秘書すら伴わず、饗庭はあくまで一人で行動するようです」

「ふん、怪しい話だな。奴はどこに行くつもりなんだ」

 馬渕は、思わず鼻で笑いながら呟く。確かに何やらキナ臭いものを感じる。

「飛行機の行き先は、マレーシアのクアラルンプールです。三日後に帰って来る予定のようですが、何のために行くかまでは、ちょっとわかりません。秘書や地元の後援会の人には、海外の要人と会談をするとだけ伝えているようなんですけれども」

 馬渕の態度に不安を感じたのか、ウェイは渡辺に助けを求めるような目をチラチラと向けながら説明を加える。

「なるほど。恭介が饗庭を殺るとなれば、空港のどこかでチャンスを伺うっていうわけか。饗庭がトイレにでも行こうものなら、人目に触れず殺すことだって出来なくはないからな。お前、これをどうやって調べた?」

 馬渕は渡辺の方に向き直り、訊ねる。

「大変でしたよ。わざわざ長野にある饗庭の選挙区まで行き、事務所や後援会の人たちから、支援者を装って話を聞いたり、あとは陳情のふりをして、東京の議員事務所まで行って、何人かの彼の秘書と接触したりしました。和やかに話しているうちに、人間っていうのは、ポツリポツリと言わなくてもいいことを言ってしまうものなんですね」

 自信ありげに答える渡辺を見ながら、馬渕はこの若者がいつの間にか刑事らしくなっていることに驚いた。まともに教育などしてことなかったが、無理に引きずり回した結果、勝手に成長したらしい。ただ彼らの努力を認めるが、それとこれと話が別だった。

「ダメだな。話が曖昧過ぎる。無駄足になる可能性が高い。それに、やはり人が多すぎる。そんな危険を冒してまで能力者が饗庭を狙うとは思えない」

 馬渕はキッパリと言い切って、話を終わらせようとする。

「待って下さい!」そんな馬渕を逃がすまいと、ウェイは食ってかかる。

「確かにこの話は、元々わたしの思いつきに過ぎないんですけれども、でも、たとえ1%でも可能性があるんだとしたら、行動するべきなんじゃないでしょうか?」

 思い切って言うウェイの言葉に、馬渕はカチンと来る反面で、彼女が言っていることが正しいような気がしてしまった。

「わたし、前から思っていたんですけれど、馬渕さんはどうしてそんなに恭介にこだわるんです?」

 そんな馬渕の動揺を見逃さなかったのか、ウェイは感情を抑えながら、馬渕に迫る。

「ずっと不思議に思っていたんです。どうして馬渕さんは、他の刑事さんたちと違って、恭介を追い続けているのかって。しかも、執拗に追いかけていそうで、近づこうとすると、どこか自分から遠ざかるような態度を取る」

 馬渕は自分の心の中を素手で直接触られたような気がした。自分でも気が付いていなかったが、恭介を捜していながらも、確かに知らず知らずのうちに、馬渕は恭介と接することを恐れていたかもしれない。それは、父親として彼とどう接したらいいのかわからないからに他ならず、そしてそのことについて考えることさえも避けていた。

「馬渕さんは本当に恭介のことを見つけたいんですか? 彼を見つけて捕まえることだけが目的なんですか?」

 さらなるウェイの追及に馬渕は何も答えることが出来ず、逃げるように渡辺の顔を見る。渡辺は同情と非難が入り混じったような目で馬渕のことを見ていた。渡辺にこんな顔をされる自分が惨めに思えて仕方がなかった。

「オレは、アイツの父親なんだ」

 長い沈黙の後で、緊張感に耐えられなくなった馬渕はポツリと告白する。自分で口にしていながらも、馬渕にはその言葉は他人が喋っているように聞こえた。

「な、何言っているんです? 馬渕さん」

 突然の告白に、何をどう理解していいのかわからないといった様子で、渡辺が声を震わせながら訊き返す。

「言葉の通りだ。アイツの母親とはアイツがまだ赤ん坊の時に別れた。それ以来、アイツには会っていなかったんだ。オレは、アイツの母親の家系に悪魔との契約によってあの能力が受け継がれてきたことも聞いて知っていた。正直、アイツが事件を起こすまでそんなバカげた話なんて信じていなかったが、アイツが能力者であるということも明らかにさせていくにしたがって、自分でもどうしようもないくらい、どうにかしなくてはという気持ちにさせられていった」

 言葉を紡ぐように重ね合わせながら、馬渕にはなぜ自分が今になってこんなことを告白しているのかがわからなかった。ただこれ以上、自分自身を偽ることは出来そうになかった。

「ありがとうございます」

 ウェイの発した意外な言葉に、馬渕は元妻の言葉を聞いたような気がした。

「あの、正直何をどう答えたらいいのか分からないんですけれども、でも、うれしいです。馬渕さんが自分のことを喋ってくれたことが」

 ウェイは笑顔を作った。馬渕は恭介がこの娘に惚れた理由がわかったような気がした。同時にこの娘の直感を信じてみようという気になった。この娘なら、見えない力で恭介を呼ぶことが出来るかもしれない。

「すまない。本音を言えば、オレはまだ、アイツと会ったところでどうしたらいいのかわからないんだ。どんな言葉をかけていいのかもわからないし、そもそもアイツに手錠をかけることが出来るかどうかもわからない」

 馬渕は改めて、ウェイと渡辺の顔を見た。二人とも目に涙を溜めていた。それを見て、馬渕は初めて自分も涙を流していることに気が付いた。とっくに枯れ果てたと思っていた涙が自分の体内にもまだ残っていた。

「まったく手前勝手な話だな。公私混同も甚だしい。お前はどうする? オレと彼女にはアイツを追う理由があるが、お前にはない」

 馬渕は涙を袖で雑に拭いながら、渡辺に訊ねる。

「自分で巻き込んでおいて、今更ふざけたことを言わないでくださいよ」

 渡辺は笑いながら答えると「これで決まりですね」とウェイが手に持っていた資料を手に取り、そのまま馬渕に手渡す。資料には饗庭将人の顔写真が載っており、彼について調べられたことが詳しく書いてあった。馬渕は二世議員として華やかな生き方をしている饗庭の経歴を眺めながら、だいぶ恭介とは違うなと思った。議員の息子に生まれたからこそ、その後も日の当たる人生を歩み続けている人間と、おかしな能力が遺伝してしまったがためにずっと隠れるようにしか生きられない人間。馬渕はそんな身に生まれてしまった恭介のことを不憫だと思えば思うほど、父親として何もしてこなかった自分を改めて呪った。これ以上、彼を暴走させてはいけない。彼に何と言葉をかけていいのか、正直まだ何も頭に浮かんでこなかったが、馬渕はどんなことをしてでも恭介と会って、一人の人間として、彼に向き合わなくてはいけないと強く感じた。


                       *


 佐藤から饗庭暗殺の指令を受けてから数日が経っていた。ニュースはアメリカの大統領が近く来日することを連日大きく報道していたが、町の人々はさしてそれには関心がないといった様子で、師走の猥雑さにどの人も追われているという感じだった。恭介は羽田空港の中を慎吾とともに歩き、どの場所でなら人目に触れずに饗庭を暗殺することが出来るのかシミュレーションを繰り返していた。既に組織から綿密な計画書を送られており、いくつかある計画の中の一つがこの空港での暗殺計画だった。アメリカの大統領が来日するその日に、饗庭はマレーシアのクアラルンプールに旅立つ。非公式に他国の政府高官と密会をするらしく、秘書すら同行させないという話だった。セキュリティから外れるその時は確かに大きなチャンスといえる。

 慎吾は羽田空港内の国際線ターミナルの様々な場所を歩きながら、これだけ多くの人が行き交いながらも意外と人目につかない場所を多く見つけていた。ただ問題はそこにどう饗庭を連れて行くか、だった。恭介はコートに両手を突っ込みながら、ひたすら慎吾の後について行き、彼の話を訊き続ける。頭の半分で、彼とともに暗殺の仕方を思い描いていたが、もう半分では饗庭将人自身のことを考えていた。

 恭介は佐藤に指令を受けてから、恭介は自分も饗庭の経歴を詳しく調べていた。暗殺をするには、相手のことを何も知らない方がいい。それは、最初の暗殺で恭介が学んだことだった。実際、彼は何も知らないからこそ、これまで多くの人間を殺してこられたし、精神的に追い詰められるほどの良心の呵責もなかった。自分が完全な悪魔になってしまったような気がしていたが、慎吾にそれはこの道で生きていくための職業病みたいなものだと諭されて、無理矢理納得もしていた。

 だが、饗庭将人は、これまで彼が暗殺してきたサイコパスたちとはすべてが違い過ぎた。彼を殺すことで生じる社会への影響の大きさもそうだったし、何より饗庭には犯罪の臭いが何もなかった。恭介は饗庭を殺す理由を見つけたかった。どんな些細な事でも、饗庭の人間性を疑わせるような事実を知って、いつものように無感情に彼を殺したかった。ただどんなに調べても、饗庭に対する負の情報は見つからず、調べれば調べる程、自分とはまるで違うその華麗な経歴に羨望するしかなかった。それはもはや悪魔の仲間となった自分とは似ても似つかぬ非の打ちどころのない人生であり、常に日の当たる場所を歩いている人生で、何かを一つずつ諦めていかなければならなかった恭介の人生とは、まるで違っていた。

 恭介は、ふと、自分もこんな能力などなく、将来が約束された中で育ったのなら、どんな人生を送っていたのだろうかと考えた。ただいつも満足しているだけなのか、単にそういうものだと受け入れて生きているだけなのか、恭介には皆目見当もつかない。確かに饗庭は、他の議員よりは遥かに弱者にとって優しい考え方を持ち、それを政権や官僚に向かって強く主張していた。それは政治家として一番大事なことだった。でも饗庭のような煌びやかな人生を歩む人間に、本当の意味で社会の底辺で蠢く人々の気持ちなどわかるのだろうか?

 そんな疑問を抱きながら本当に自分は饗庭将人を殺してもいいと思っているのだろうかと、恭介は何度も自分自身に問い続ける。思い余って慎吾に相談しようとも思ったが、いつもの変わらぬ調子で淡々と仕事をこなしている彼の姿を見て、それは無駄な話だと思った。

「やっぱりここは難しいかもな」慎吾の言葉で恭介は我に返る。

「時間帯がもう少し早けりゃ、充分に狙える可能性があるが、ヤツが乗る飛行機は、真昼間だからな」

 自分の言葉が周りの喧騒にかき消されるのをわかっているのだろう、慎吾はいつもよりも開けっ広げな物言いで恭介に話す。

「じゃあ、もう一つの候補でやりますか」恭介は軽い気持ちを装って訊ねる。

「その日はクリスマスイブだから、こんな仕事はしたくないんだけどな」

 そんな恭介に、慎吾は皮肉っぽく言うと、笑顔を見せる。恭介は、ふと左手が疼くのを感じていた。まだ右手を使っていないのに、すでに人の血を欲しているのだろうか。ふと饗庭の家族の顔が頭に思い浮ぶ。彼には愛する元女優だった美しい妻と七歳と五歳の男の子の兄弟がいた。恐らく彼らのうちのどちらかが父親の地盤を継ぎ、そして政治家になるのだろう。恭介は、親から受け継がれた資本や遺伝で人生の優劣の大部分が決まってしまうことへの憤りを感じる一方で、今饗庭を殺してしまえば、彼の妻や子どもたちが悲嘆に暮れる姿を容易に想像していた。一体何をすることが正しいのか。その正しさは誰が決めるのか。慎吾は空港の地図と睨めっこをしている。傍から見れば、自分たちは旅行者に見えるだろう。恭介は、今すぐ一人で飛行機に乗って、どこか知らない国に行くことが出来たらどんなに楽だろうかと思った。


                       *


 工藤が招かれたのは、丸の内にある大きなビルだった。案内に従って通された一番上のフロアにある大きな応接間で待っていると、小柄な老人が現れた。佐藤と名乗る老人は、ひと目でただ者ではない雰囲気を醸し出しており、この男が大きな権力を握っているということは、これまで数々の修羅場をくぐり抜け、様々な人物と相塗れてきた工藤にはすぐにわかった。工藤は、この男に食われてはならないと自分に言い聞かせながら、恭介と慎吾が映った写真を彼に差し出し、自分が能力者についてかなりのことを知っているとうそぶく。それを聞いた佐藤は表情一つ変えずに、どうしてこの場所を訪ねてきたのかと、訊いてきた。工藤は慎吾が現れた際に乗っていた車のナンバーから所有者を割り出し、巡り巡ってここに辿り着いたことを説明する。佐藤はその話を聞いて軽く微笑んだ。そして「それは確かに自分たちの組織の車であるが、何カ月も前に盗まれた車であり、盗難届も出ている」と言って、むしろ「車を盗んだ相手を捜し出してくれてありがとう」と礼を言うのだった。工藤は、さすがに一筋縄ではいかない人物だと思いながら、とにかく自分の希望だけを告げることにする。それは、過去の経歴を一切書き換えて、自分を与党・民自党の国会議員の公認候補として比例区の上位で選挙に出馬させることだった。「なぜ今更政治家などになりたがるんです?」と佐藤は訊ねながらまた笑う。工藤は理由を答えずに「さらなる証拠を掴んでまた来る」とだけ告げて席を立った。

 車に乗り込み、ビルの駐車場から一般道路に出たところでスマートフォンが鳴った。盗聴器を使ってウェイの動向を探らせている部下からだった。その報告によると、アメリカの大統領が来日するその日に、彼女は馬渕たちとともに羽田空港に向かう予定だという。さらに詳しく話を訊くと、どうやら彼女たちは、恭介たちが衆議院議員の饗庭将人を恭介たちが狙うと踏んで、饗庭が非公式に外遊するその日に恭介を確保するつもりだという。工藤は、恭介が饗庭将人を狙うことに半信半疑になりながらも、もしも本当にそうであるならば、自分もその場に行って、どんな手でも使って彼女たちよりも先に恭介を確保しなければならないと思った。それは、やはり彼自身を手に入れない限り、佐藤と対等に話すことが出来ないと感じたからだった。

 車が都心の中枢部を抜け、品川辺りに差し掛かったとき、工藤の電話がまた鳴った。表示画面を見ると、見知らぬ番号が出ていた。工藤は不審に思いながら電話に出る。すると、知らない病院の職員を名乗る女性が慌てた様子で、工藤の母親が今しがた救急車で運ばれてきたことを告げた。工藤は頭の中が真っ白になりながらも、冷静に受け答え、搬送されたその病院の場所を訊き、運転手にそこに向かうよう指示を出した。病院に着くまでの間、工藤は母親のことを考えてきた。頭の中に残っている記憶のほとんどは夫である彼の父の暴力に従うしかなかった弱い母の姿だった。

 病院に着くと、母親はすでに亡くなっていた。胸部大動脈が破裂し、救急隊が駆けつけた時にはすでに手の施しようがなかったという。工藤は病院内の霊安室に寝かされている母親の姿を見ながら、こんなに小さかったかなと思った。工藤が覚えている母親は、もっと大きく、綺麗な肌をしていたような気がしていたが、今目の前にいる母親は小さく縮こまっており、皺だらけだった。工藤にはそれはもはや人ではなく、精巧に出来た蝋人形であるかのように見えた。

 工藤はしばらくの間、母親の遺体と一人で向き合っていた。最初は母親との記憶が次々に思い出されてきたが、次第にその記憶の影が薄くなり、それと入れ替わるように自分自身のこれまでの生きてきた時間の記憶が断片的に脳裏に浮かんできた。工藤はなぜ今自分のことを思い出すのか、わからなかった。次第に彼の脳は意思とは関係なく、次々に自分が裏の世界でのし上がっていった記憶を蘇らせていき、そのうちに彼は、母親に認めてもらいたいからこそ、これまで自分はずっと人を出し抜くことばかりを考えてきたのだと理解した。

 葬儀屋と打ち合わせを済ましてから車に戻った工藤は、自分が一滴の涙も流さなかったことに気が付く。そして何となく恭介のことを考え始めた。ついさっきまで、どうしても彼のことを捜し出したくてたまらず、彼を利用し、どうにか自分が日の当たる場所に行きたいと願っていたくせに、いつの間にかそう願っていた自分が遠い過去の自分のような気がしていた。自分は本当は何になりたかったのか。これまで生きてきた自分の人生が全部偽物であるかのような気持ちになりながら、工藤は心のどこかで、未だに母親の笑顔を追い求めている自分に気がつき、そんな自分を憎たらしく思う一方で愛おしく、そんな自分のために何か形のあるものを手に入れたくてしょうがなくなっていた。工藤は無理に恭介の顔を思い出す。不思議と記憶の中にある恭介の顔が、やけに自分に似ているような気がした。


                       *


 ウェイが目を覚ましたとき、日はまだ完全には昇り切っていなかった。彼女は重い体を無理に起き上がらせて支度を始める。昨日はよく眠れなかった。それは饗庭将人がクアラルンプールに旅立つ日がついにやってきたからにほかならなかった。ウェイは緊張していた。恭介が現れるかどうかわからなかったが、自分が今日一日非日常的な時間に身を置かざるを得ないのは間違いなく、必死にあらゆる最悪なシチュエーションを思い浮かべていた。彼女はまた実際に恭介と出会った時に、彼にどう謝り、何をどう伝えたらいいのか未だに何も頭に浮かんでいなかった。偉そうに馬渕にせっついたくせに、そういう自分もとにかく恭介に会うことばかりしか考えてこなかったことに気づき、ただひたすらに焦っていた。

 家を出た時には、朝日はすっかりと道端を照らしていた。澄んだ空気が気持ちをちょっと元気にさせてくれる。吐く息は白く、肌はあっという間に乾燥していた。ウェイは寒さに身を縮ませながら、とにかく駅へと急ぎ、そのまま電車に乗って、饗庭将人の家がある品川に向かう。電車の中では、恭介のことばかりを考え、駅に着いてからは、意識的に何も考えないようにして頭を少し休ませた。

 馬渕と渡辺は、饗庭将人の自宅を伺うことが出来るコインパーキングに車を駐車させており、中で朝ごはんのおにぎりを食べていた。ウェイは後部座席に乗り込むと、早速饗庭の動きを訊ねる。渡辺はまだ家の中の電気が点いてないことを告げ、今のうちに朝食を食べるように彼女に勧めた。

 動きがあったのは、それから二時間ばかりが経った後だった。大きな邸宅の入り口に備えられた駐車場のシャッターが開き、中から藍色のBMWが出てきた。どうやら運転しているのは饗庭本人らしく、その他に車に乗っている人物もいないようだった。情報通り秘書が同行しないのは確かなようで、こちらにとっては尾行しやすい状況が生まれていた。

 羽田までの道のりは空いていた。渡辺によると大統領は、福生にある米軍基地に降り立つそうなので、東京南部にはそれほど交通規制はないのだという。空港の地下駐車場に車を止めてから、第一ターミナルの地下一階に行き、そこからモノレールに乗って国際線ターミナルに向かう。

 国際線ターミナルに着くと、饗庭はカフェに入り、しばらくコーヒーを飲んで時間を潰していた。まだ饗庭が乗る飛行機の離陸まで一時間ばかりの時間があった。馬渕と渡辺がそれぞれカフェ周辺で待機しているのに対し、ウェイは一人カフェに入り、饗庭から数メートルほど離れた場所の席に座って、饗庭の動向を伺った。ウェイの目からは、饗庭は完璧な人物に映る半面で、どこか薄っぺらい人間のようにも映っていた。それは多分、あまりに彼がすべてを兼ね備えているが故だろうと思う。どうしても彼女には、饗庭が自分の足で立ち、自分の言葉を喋っているようには思えないのだ。ウェイはふと恭介のことを考える。それは彼が饗庭のことをどう思っているのかが急に気になってしまったからだった。仮にウェイの予想通り、恭介が饗庭の命を狙わねばならなくなっているのだとしたら、彼はどれくらい悩んでいるのだろうか? 

 饗庭が席を立った。ウェイは、慌ててカフェの外で待機する馬渕と渡辺に電話で連絡を入れ、饗庭に悟られぬように間を置いてから、カフェを出る。饗庭はエスカレーターで上に上がり、出発ロビーへと向かっていた。馬渕と渡辺がそれを追うのが見えた。これから先は、警察手帳のないウェイは進めない。彼女は、最初に予定していた通り、万が一に備えてこのエントランスプラザで待機することにした。

 近くにあったベンチに座った途端に、緊張が解かれたのか、疲れがどっと出て、ウェイはやはり馬鹿げた直感だったのかもしれないと思った。恭介に謝りたい。そう思ってここまで来ていたが、本当は恭介のためじゃなく、自分自身の免罪のために彼を追っているのだということがいつの頃からかわかっていた。恭介を罵倒したい。恭介を殴りたい。そして恭介を抱きしめたい。溢れ出る彼への様々な感情がウェイの中でぶつかり合い、彼女の気持ちを疲弊させる。ふと、遠目に、ぎこちない動きをしている空港職員が見えた。まだ若く、黒縁眼鏡をかけていて、スマートフォンでどこかで連絡をしている。彼が雑踏に消えた後に、ウェイは彼が恭介の変装した姿であることに気がついた。


                       *


 恭介は緊張していた。それは慣れない制服を着て、空港の職員の真似事などをしているからではなく、これから饗庭将人を殺さねばならないからだった。饗庭が出発ロビーに向かったことは確認していた。どのみち出国手続きをしてゲートの中に入らない限り、暗殺のチャンスはないだろう。恭介は気を落ち着かせてから、暗殺の手順を考える。すでに組織が空港内のスタッフに手を回し、手荷物検査の際に薬物反応があったとして饗庭を別室に連れて行く手筈が整っていた。この手筈が整ったからこそ、一度は候補から外されたこの空港が、暗殺現場として選ばれたのだった。あとは彼が監視カメラのない別室に入るなり、恭介が呼ばれ、彼を殺すだけだった。

 すでに昨日の夜に、恭介は病院でバイク事故によって死にかけていた男子高校生を救っていた。まだ未来がある若者を救えたことはよかったが、これで饗庭将人を殺すという任務を全うするしか道はなくなっていた。恭介の携帯電話に連絡が届く。すでに先に出発ロビーに客として紛れ込んでいる慎吾からだった。饗庭の手続きがもうすぐらしい。あとは何食わぬ顔をして出発ロビーに用意されている別室まで行き、そこに連れられてきた饗庭を殺すだけだった。恭介は、出発ロビーに向かって歩き出す。その時、見覚えのある顔が彼の行く手をさえぎるように現れた。

「お久しぶりですね。ちょっとお話をする時間はありますか?」

 工藤だった。突然現れたこと自体にも驚かされたが、それ以上に彼の変わり果てた風貌に驚かされた。これまで、この男はどんなときにも冷静で、飄々としていたのに、今目の前にいる男は、怒りとも悲しみともとれぬ感情を滲ませる、野獣のような雰囲気を身に纏っていた。

「饗庭将人を殺しに行くんですよね。その前にわたしとお話をしませんか?」

 恭介は、何も言わずに彼の脇を通り抜けようとする。彼に構っている時間などない。

「困ったな。頼んでいるんじゃないんですよ。こっちは命じているのですよ」

 工藤はすれ違いざまにそんな恭介の腕を掴んで、自分の身に引き寄せ、ポケットに入れたままの拳銃を恭介の脇腹の辺りに突きつける。鉄の硬さと冷たさが恭介の体を一気に強張らせた。やむなく恭介は、工藤の言う通りに歩き出し、二人は近くにある多目的トイレの中に入っていく。

「あなたはわたしの仲間になるべきだ」

 ドアが閉まるなり、工藤は拳銃をポケットから取り出し、銃口を向けたまま恭介に告げる。

「どうしてわからない? あなたはわたしと同じなんだ。あんな得体の知れない奴らに利用されるべきじゃない。あなたはわたしと共に奴らを利用し、日の当たる場所に行くべきなんだ」

 工藤は熱をこもった言い方で、恭介に訴える。恭介には、なぜ工藤がここまで自分に執着するのかが全く理解が出来なかったが、ただ一つ彼の言葉を聞いてはいけないということだけはわかっていた。

「お前だって、オレを利用したいだけだろ?」恭介は言い放つ。

「違う! わたしは復讐をしたいだけだ。それは、あなただって同じはずだ。あなただって、こんな差別と偏見に塗れた世界が嫌なはず! さあ、言え! わたしとともに闘うと! わたしとともに日の当たる場所に向かうと!」

 鬼気迫るような言い方で、恭介に詰め寄って来る工藤に、恭介は後ずさりし、チラリと後ろを見て、この異常な空間から脱出することを考える。工藤はそんな恭介の意図を悟ったのか、銃口を強く恭介に圧し当て「ならば死ね!」と吐き棄てる。その瞬間、恭介の左手が勝手に動いた。左手は、拳銃を持つ工藤の右手を、まるで林檎を握りつぶすかのように強く握り締めた。苦悶の表情を浮かべる工藤は、そのまま拳銃を床に落とす。工藤は慌てて拳銃を拾おうとした。左手はそんな工藤を突き飛ばし、息もつかせぬ速さで、彼の心臓に手をやった。たちまち黒い霧が工藤の体を包み込み、工藤の生が蒸発するように消えていく。後には工藤の屍が残っただけだった。恭介は震えながら、工藤の顔を見た。彼はなぜか安らかな顔をしていた。

 恭介はとにかく工藤が持っていた拳銃を拾って、多目的トイレから出た。予め調べておいた監視カメラに映らない死角の中を歩き続け、急ぎ足で地下にある地下鉄の駅に向かった。工藤を殺してしまった以上、饗庭暗殺の予定は中止せざるを得ず、一刻も早くこの場から逃げ出さなければならなかった。

 駅に着いた時には、息が少し切れていた。恭介は予定通りに駅のロッカーに預けてあった鞄を取り出し、再びトイレに入って着替えた。空港職員の制服姿のままではあまりに目立ちすぎると思ったからだった。普段着に戻った恭介は、改札口を抜けて、ホームに入ってきた電車に乗り込む。車内は比較的空いていた。恭介は、隣に誰もいない端っこの席に座り、仕切りにもたれかかるような体勢になる。疲れていた。人を殺したという生々しい感覚は相変わらずだったが、それ以上に精神的に疲れ果てていた。暗殺が失敗したからだけでなく、最後の最後で工藤の人間らしさを目の当たりにしてしまったからだった。ずっと工藤に対して、アンドロイドのように感情のない冷淡な印象をずっと抱いていた。恭介は自分を追い続けるこの男が内心怖くてたまらなく、彼と対峙すること自体が嫌で嫌でしょうがなかった。ただ今日の彼は、明らかに何かに怯えていた様子で、溢れ出る感情を抑え切れずに、しきりに恭介に救いを求めているような感じだった。あれが本来の彼の姿のような気がした。そんな彼を殺してしまったことが心苦しかった。必死に、今まで殺してきたサイコパスと同じく、工藤も殺されてもしょうがない人間だったと思い込もうとしても、彼の気持ちの裏にあった何かが恭介の心に入り込み、何も考えないでいられる自分になることを邪魔していた。

 恭介は、気持ちを落ち着かせるように息を吐いてから、スマートフォンを取り出して慎吾に暗殺が失敗に終わったことをSNSで短く暗号文で告げる。とにかく眠りたかった。眠ることで一切合切をリセットしたかった。

 車内では喋っている人はほとんどおらず、電車の走行音だけがやけに響いて聞こえた。目を瞑ったことでウトウトと意識が遠のいていくものの、眠りに落ちることはなく、体は絶えず震えていた。車両を繋ぐドアが勢いよく開く音がした。隣の車両から人が入って来たらしく、その人物がこちらに向かって歩いてくるのを気配で感じる。恭介は堅くなに目を開けずに足音が目の前を通り過ぎていくのを待つ。そのうちに、近づいてきた足音が自分の目の前で止まったことに気が付いた。

「恭介」

 自分の名前を呼びかける声を聞く。意識半ばの夢の中の話だと思ったが、もう一度呼びかけられて、それが夢ではないのだと確信する。忘れていた記憶が思い出され、ウェイの声かもしれないと思ったが目を開けるのが怖かった。今更、こんな姿の自分をウェイに曝したくなく、彼女と何を喋ればいいのかもわからない。でも、ウェイにすがりたい気持ちが間違いなく心のどこかに存在していた。恭介はゆっくりと目を開ける。目の前には、やはりウェイが立っていた。ウェイは、無理に笑顔を作ると、遠慮がちに隣に座ってくる。恭介は反射的に姿勢を整え、ウェイから少し距離を取る。なぜウェイがこのタイミングでここにいるのか。そんな疑問が頭をかすめる。

「ごめんなさい。わたし、あなたに酷いことしちゃった。あなたがわたしのことを助けてくれたことを知らなくて」

 ウェイは「久しぶり」の言葉もなく、いきなり謝り始めた。恭介には、最初彼女が何を言っているのかわからなかった。そのうち彼女が箱根で自分を刺したことや、それ以前に死にかけた彼女を救ったこと、彼女の目の前でリュウを殺したことを過去を遡るように一気に思い出していき、同時にそれが遥か遠い昔の、今の自分とは違う人物の物語であるかのような錯覚に陥っていく。ウェイと最後に会ってから、恭介はたくさんの人を救い、たくさんの人を殺してきた。それらの経験がどんどんと恭介という人間性を無感覚なものと変えて行き、彼の心はすでに取り返しのつかないくらいに堅くなっていた。恭介は何と答えたらいいのかわからず、首を振って気にしていないと意思表示し、微かに微笑みかける。ウェイはそんな恭介の反応に満足できなかったのか、目に涙をいっぱい溜めながら、「あなたが今、どんな状態にいるのかを知っているの。悪魔との契約によって代々受け継がれてきたという能力の話も」と伝えてきた。

 それからウェイは、チャンから真実を告げられたことや、警視庁の刑事と連携をとって恭介のことを捜してきたこと、それに恭介がスマイルと呼ばれる人物と共に巨大な権力に守れられながら治療と暗殺を請け負っていることを知っていると小さな声で、訥々と話ししてきた。今ここに彼女が現れたことの意味を考えれば、彼女がそれらを知っていることに驚きはなかった。

「オレを捕まえるために捜していたのか?」

 恭介はウェイの顔を見ずに訊ねる。饗庭を狙ったこと、工藤を殺したこと。それらを彼女はどこまで知っているのか。

「わからない。ただわたしは、とにかく謝りたかった。自分勝手な人間だと思われるかもしれないけど。その後のことは正直、何も考えてないの。刑事さんたちとは空港で別れちゃったから、わたしたちはこのままどこにでも行けるわ」

 ウェイは明るい口調で話していた。たとえ嘘だとしても、恭介は、思っていた以上に彼女にそう言ってもらえたことがうれしかった。恭介は、今はもう殺しについての話はしたくなかったし、考えたくなかった。

 電車はいくつかの駅に着き、その間に何人かの人が降り、何人かの人が乗って来た。恭介たちが座る席に近くにも他の乗客が乗って来て、車内は都心に近づくにつれてだんだんと混雑してきた。恭介たちは、ただ黙って隣り合って座っていた。恭介は、ポケットの中で何度もスマートフフォンが震えたことに気が付いていた。慎吾からの連絡に間違いなかったが、今は電話に出ることも、SNSを確認することもしたくなかった。

 蒲田に近づいたところで、ウェイが乗り換えて横浜に行かないかと誘ってきた。自分の馴染みのホテルで少し休まないかというのだ。そこに誰が待っているかわからない以上、恭介にはそれが危険だということはわかっていた。そんな恭介の躊躇を感じ取ったのか、ウェイは一緒に捜していた刑事には連絡しないことを約束し、「心配なら、自分の電話を預かっておいて」と言って、スマートフォンを差し出してきた。恭介はさすがに受け取らなかったが、ウェイの気持ちには応えたいとは感じ、彼女の申し出に頷いた。乗り換えた電車はかなり混雑していた。横浜に着くまでの間、恭介はウェイと大した話をすることが出来なかった。さっきまで晴れていたのに、窓の外では雲行きが怪しくなっていた。


 ウェイに連れられてやって来たホテルは、それほど大きくはないものの、小奇麗にメンテナンスされているホテルだった。恭介は言われるがままウェイの後を追い、そのまま部屋に入る。シングルベッドが二つ並ぶ八畳ほどの大きさの部屋に入ってからは、横浜にいた頃の思い出話を少しした。二人とも、意図的にリュウのことは口に出さず、二人でいて、楽しかったことだけを切り取って喋った。

 それから雨に濡れる町並みを眺めながら、ルームサービスで頼んだ夕食を食べた。以前と違っていたのは、二人とももう成人していたので、お酒を飲んだことだった。食事を終えた後、少しほろ酔い加減になったウェイはおもむろにこれからどうするつもりなのかと訊いてきた。恭介は、しばらく考えてから「わからない」と答える。

「人を殺すのを止めるわけにはいかない?」

 ウェイはやっと言えたという感じで訊ねた。今にも泣き出しそうな様子で、見ているだけでこちらがつらくなるような表情をしていた。

「オレにはもうこうやって生きるしか道は残されていないんだ」

 恭介が答えると、ウェイは「そう」と相槌を打ち、そのまま黙りこくる。重苦しい沈黙が流れた。恭介は、やはりもう自分は後戻りすることは出来ないんだと思いながら、もう少しウェイが早く自分の目の前に現れてくれていたらと心の中で呟く。

「わたしね、人と人っていうのは、どんな人の間でも連なっているんだと思うの」

 ウェイがふと思いついたかのように語り始める。恭介はウェイが発した言葉の意味が分からず、黙ったまま軽く首を傾げる。

「あの人はこうとか、この人はこうとか、みんな、勝手なイメージとか、無理に作った数字とかを使って人を分類しているけれど、本当はそんなの何も当てにならないじゃない」

 ようやくウェイが自分の能力のことを言っているのだと気がついた恭介は、小さく頷く。ウェイはニコリと口元を緩ませると、小さく息をついてから自分に言い聞かせるように喋り続ける。

「みんな、ただ他人を分類して、優劣をつけたり、差別をしたりして、自分たちに都合のいいように納得することで、安心したいだけなんだよね。わたしたちはあの人たちとは違う。わたしたちはまともで、悪いのは全部普通じゃないあの人たちなんだって。わたし、今わかったの。わたしとあなたは同じなんだって。あなたにどんな力があろうと、わたしとあなたは同じ人間なんだって。わたし、あなたにそのことを伝えたかったんだ」

 ウェイは顔を上げて、恭介の顔を見据えた。いつの間にかその頬には涙が伝っていた。

「わたし、あなたのことを心のどこかで自分とは違う人だと決めつけてた。ごめんなさい。今更謝ってもしょうがないのかもしれないけれど、本当にごめんなさい」

 恭介はウェイの気持ちに触れて、心のざわつきを感じていた。それは、単純な歓びと同時に自分がどう振る舞えばいいのかわからないという不安だった。ウェイはたくさんのこれからの可能性を口にし始めた。どこかに二人で逃げるとか、名前を偽って生きるとか、どれもが実現性に乏しいものばかりだった。恭介はそれらを否定せずに、ただ笑顔だけを作って聞いていた。

「また会えないかな。例えばクリスマスイブとか」ウェイが突然訊いてきた。

「その日はダメなんだ。大事な用がある」

 恭介が答えると、ウェイは「もしかして彼女?」と遠慮がちに訊いてくる。

「まさか。でも、その日は本当にダメなんだ」

 その日は、饗庭を暗殺するために用意された二番目の候補日だった。空港での暗殺が失敗した場合、その日に軽井沢の別荘に滞在する予定の饗庭を殺ることになっていた。空気が微妙に変化したのを感じ取ったのか、ウェイは話を逸らし、就職活動に身が入らないことなど、最近の自分の話をし始め、そのうちにお酒が回ったのか、ベッドに横になりそのまま眠ってしまった。恭介は、無防備に寝ているウェイを見ながら、男としての欲望が体の中から沸いてくるのを感じた。彼女の元に近づき、寝顔を眺めると、規則正しい小さな寝息がすくそこに聞こえた。〝愛を理解せよ〟。それが悪魔の口にした唯一の契約破棄の条件よ。母の言葉を思い出す。もしも彼女と生活を共にし、愛を理解することが出来れば、その願いはかなうかもしれない。そんな想像が一瞬頭を過ぎったが、それはあまりに自分勝手な考えだと思った。血塗られてしまった自分には、もう人を愛する資格などないし、愛を理解することが出来るとも思えない。そもそも人を愛してはいけない人間であったのだ。今、ウェイを襲うことは出来るが、欲望に任せてそれをしてしまえば、自分はもう自分でなくなり、骨の髄まで悪魔そのものになってしまうだろう。

 恭介はふと、そうやって相手を快楽の対象として強く見ている限り、本当の意味で相手を愛することなど出来ないと思った。人という生き物は、相手が自分にとって脅威ではなく、支配できる関係にある時に快楽を感じるものなのだ。快楽を得るための手段として相手を愛するフリをしてはいけない。愛とは相手を理解しようと願うことなのだから。そのことにもっとは早く気付けていたら、あるいは違う未来があったのだろうか。

 恭介はもう一つのベッドから布団を引きはがし、それをウェイにかけてやる。ウェイは一瞬体勢を動かし、起きかけたものの、再び心地よさそうに寝入っていた。まるで世界中のすべての時間が停まってしまったかのような静かさだった。恭介はベッドの脇のイスに座った。いつの間にかうつらうつらと眠ってしまっていたが、夜が明ける頃には自然と目を覚ましていた。朝日が海の方から昇って来て、太陽の光が町に生気を与えている。カラリと晴れた青い空に大きな虹がかかっていた。虹を見るのは久しぶりだった。芽依は元気にしているのかと思った。今の自分が彼女にしてやれることはないかと考えたが、何も思い浮ばなかった。ウェイは体勢を変えていたが、まだぐっすりと眠っていた。恭介はそのまま立ち上がり、ドアに向かって部屋を出た。


                       *


 馬渕は眠れないままひと晩を過ごしていた。工藤の遺体が羽田空港で発見されたことを受けて、その対応に追われ、帰宅したのは深夜だった。なぜ工藤がその場にいたのかはわからなかったが、胸に痣がある点からも、それが恭介の仕業であることは間違いなさそうだった。偶発的に殺したのか、それともそもそものターゲットは工藤であったのか。例のごとく工藤の死は心臓発作と診断された。馬渕は彼なりに感じた不自然な点を上司に述べたが、やはり彼の言葉が聞き入れられることはなかった。

 姿を消していたウェイから、恭介と一緒に居るという驚きの連絡があったのは、夜になってからだった。SNSの短いメッセージで、一緒に居ること以外に書かれていることは何もなく、馬渕としては続報を待つしかなかった。気持ちはずっとざわついていた。馬渕はまだ恭介に何を伝えればいいのかわからなかった。彼を逮捕するべきかどうかも決めておらず、ただ自分自身を情けなく思っていた。待ちきれずに自分からウェイに電話をかけたのは、太陽が昇り切った頃だった。彼女は取り乱した様子で電話に出た。彼女の話によると、横浜のホテルに恭介と一緒に居たのだが、朝起きると彼はいつの間にかいなくなっていたのだという。勝手な行動を取ったことと彼を引き留めることが出来なかったことを詫びるウェイに対し、馬渕は羽田空港で工藤の遺体が発見されたことを告げた。

「饗庭将人じゃないの? 工藤が……どうして……本当に恭介が殺したの?」

 震えるウェイの声に、馬渕は「胸に痣があった」と答える。

「あとはいつもの通りさ。突然死と判断され、捜査は行われない。アイツは、恭介は何か言っていたか?」

 馬渕が訊くと、ウェイは「ううん」と答え、しばらく考えてから「そういえば、空港から逃げ出すとき、何かから必死に逃げ出すかのように電車に飛び乗っていた」と絞り出すような声で言う。ウェイはそれから暗い気持ちを振り払うかのように、恭介とひと晩一緒にいて、彼にちゃんと謝れたことや、自分の気持ちをキチンと喋れたことを報告する。そんな彼女に対し、馬渕は、無意識のうちに礼を言っていた。それは、父親として息子の孤独を少しでも癒そうとしてくれたことへの感謝であり、そして彼に何かをされたのではないかという不安が入り混じっての発言だった。どこか言い淀む馬渕の言い方に彼の気持ちを察したウェイは「彼は悪魔なんかじゃない。どこまでも紳士だった」と告げ、「追っている刑事が父親だってことは言いませんでした。それは馬渕さんの口から言うべきだって思ったから」と付け加える。馬渕はウェイの優しさに感謝し、そして父親らしいことなど何一つしたこともないのに、今更何を父親面しているのかと急に恥ずかしくなる。

「でも、アイツが饗庭を狙っているであろうことだけもわかって収穫だった。君の勘が正しかったな」

 馬渕は気持ちの動揺を誤魔化すようにウェイのことを褒める。

「……結局何も出来なかったから。ただ多分なんですけれど、次に彼が饗庭将人を狙うのかはいつなのかは、わかったような気がします」

 ウェイの言葉に、馬渕は「いつだ?」と訊き返しながら、思わずスマートフォンを持つ手に力を入れる。

「彼は多分、クリスマスイブに再び饗庭を狙うつもりです。外せない大事な用があるって言っていました。その言い方が変だったというか、何かを言い含んでいる感じがして」

 馬渕には、もはやウェイの言葉を信じない手はなかった。

「その日の饗庭の予定はわかるか?」

 馬渕の問いかけに、ウェイはハッキリと「はい」と答えて、続けた。

「饗庭将人は、その日、軽井沢で講演する予定になっています。彼の友人がこの町で県議をやっているんです。その人物の政治資金パーティーで彼がゲストとして登壇することになっています」

 ウェイの報告に、馬渕は即座に渡辺を含めた三人で軽井沢に行くことを決めていた。 


 電話を切った後で、馬渕は浮ついた気持ちをどうにか落ち着かせようと何気なくテレビを点けた。テレビではニュースが流れていて、アメリカの大統領が昨日来日したことを告げ、早速総理大臣と共に夕食会に臨んだ時の映像が映し出されていた。馬渕はぼんやりとその画面を眺めながら、頭の中では恭介のことを考えていた。もう手の届くところまで近づきかけている。父親として手を差し出すのか、刑事としてその手に手錠をはめるのか、それを決める前に、馬渕はしなければならないことがあった。それは、自分自身の過去にケリをつけることだった。馬渕は立ち上がり、身支度をしてからテレビを消して家を出た。天気はよく、ひんやりとしていたものの、空気は澄んでいた。

 馬渕が向かったのは、最寄りの駅にある駅ビルの屋上だった。そこは佐和子と付き合っていた時によく行っていた場所だった。

 二十数年ぶりに来るその場所は、建物自体は変わっていないものの、様相はだいぶ変わっていた。昔は、半分は子供向けの草臥れた遊具やゲーム機が置かれていて、もう半分は駐車場になっていたのに、今は芝生が広がる小さな庭園となっており、ベンチがそこかしこに置かれていて、洒落た雰囲気になっていた。まだ午前中の早い時間だったので、馬渕以外に人はいなかった。馬渕は、屋上からの眺めが見渡されるベンチに座り、景色を眺めた。屋上の様相は変わってしまったものの、そこから見える町並みは、大きくは変わっておらず、それは紛れもなく佐和子と見ていた風景だった。馬渕はこの場所で、佐和子と過ごした時のことを思い出していた。記憶は曖昧で、断片的なことしか覚えていなかったが、毎日の激務に追われていた馬渕にとって、その時間は、数少ない自分自身の素の感覚を取り戻すことの出来た時間だった。馬渕は空に向かって、そこに佐和子がいるようなつもりで、心の中で語りかける。馬渕は知りたかった。自分がどうすればいいのか。目の前の景色は、まるで穏やかにすべてを包み込んでしまうかのように大きく広がっていた。時間の流れがゆっくりになったような感覚に陥り、少しだけ心が透明になったような気がした。佐和子の記憶は、何も語ってはくれなかった。ただ馬渕の記憶に残っている佐和子の微笑みが彼を勇気づけてくれていた。ふと、佐和子は恭介の左手によって殺されたとき、どんな気持ちだったんだろうと想像した。もっと生きたかったんだろうと思い、自分がいなくなったあと、ずっと辛かったんだろうなと思った。本当は佐和子にもっと優しくしたかった。恭介にも父親として語りかけたいものがあった。自分の刑事としてのキャリアを否定する気はない。でも、馬渕は自分がただ責任を負うことから逃げていたことに気が付き、その後ろめたさと向き合うことが怖くて出来なかったことを認めた。ただもう一度だけ佐和子と一緒にこの場所にいた時間に戻れたならば、佐和子の手を優しく握りたい。馬渕は素直にそう思い、ゆっくりと目を閉じる。心の中にある一文字の漢字が自然と浮かんだ。


(三)


 クリスマスイブは、早朝から大雪が降っていた。ウェイは東京駅で馬渕と渡辺に合流し、朝一番の新幹線で軽井沢に向かう予定だった。馬渕たちには東京駅ですぐに合流することが出来たのだが、問題は新幹線が大雪のために遅延していることだった。北陸新幹線は、雪には強い構造になっているはずなのだが、普段、そこまで雪が降らない地域で、想定以上の積雪があったために、除去作業に少し時間がかかっているという話だった。

 日本に戻って来ていた饗庭将人が出席する予定のパーティーは午前中に執り行われることになっていた。新幹線の遅延具合によっては間に合わないかもしれなかった。

 落ち着かずにイライラしてしまったウェイは、何度も周辺をウロウロしては時計を気にしていた。渡辺も同じように時間を気にしていたが、馬渕は泰然と弁当を食べていた。待合室は、時間が経つにつれて出発出来ない乗客たちで溢れ返るようになっていた。

「座ったらどうだ? 先はまだ長いぞ」

 そう声をかけてくる馬渕を、ウェイはキッと睨みつける。

「馬渕さんは何でそんなに呑気にしていられるんですか? もし間に合わなかったら」

 そこまで言いかけたところで、ウェイは周りに多くの人がいることに気づき、口を噤む。馬渕はそれ以上何も言わずに箸を動かし続けていた。

 それまでは威圧感ばかりを感じていたのに、不思議と今の馬渕には柔らかな印象を持つようになっていた。渡辺がトイレに立つと、ウェイは、入れ替わるように彼が座っていた馬渕の隣の席に座り、おもむろに「馬渕さん、何かあったんですか?」と訊ねる。馬渕はこちらに目を向け、「何の話だ?」とぶっきらぼうに答えたが、その表情は何故か笑っている。

「ただ何となく。印象が変わったかなって思ったから」

「ふん、何も変わってねえよ」

 馬渕の答えに、ウェイは「嘘ばっかり」と言わんばかりに軽く含み笑いをすると、「恭介は、まだ饗庭将人を殺すつもりなんでしょうか?」と話題を変えて訊ねる。

「わからん。恥ずかしい話だが、オレにはアイツが何を考え、何を望んでいるのか、サッパリわからないんだ。お前の方が分かるんじゃないか?」

 そう切り返されたウェイは、曖昧な相槌を打ちながら、あの日、横浜のホテルで目の前にいた恭介の顔を思い出し、改めて、自分がどうしたいのかを自分の気持ちの奥底に問いかける。もう伝えたいことは伝えていた。あとは彼がどう応えてくれるかだったが、彼の答えは最後まで聞くことが出来なかった。正直、後ろめたさはまだある。自分を助けたことがキッカケで、恭介が人殺しに手を染めざるをえなくなったことを考えると、胸が苦しく息が詰まりそうにもなる。ウェイは、自分が彼を助けられるのかと思う。おこがましいと思う半面で、せめて彼の気持ちを想像することくらいは出来るかもしれないと考え、彼が闇から抜け出してくれることを切に願う。彼のことを愛してはいない。今誰かに聞かれれば、ウェイはそう言い切るだろう。これから愛せるかと聞かれれば、その自信もないと答えると思う。ただ、あの日の夜だけは、そんな今の自分の気持ちとは少し違っていたような気がした。それは単なる贖罪ではなく、もっと意地悪なもので、もっと自分の嫌な部分を暴き出してしまうような感情だった。ウェイは、恭介の本当の気持ちを知りたかった。自分をどう思っているのか、自分を憎んでいるのか、そして自分のことを愛しているのか。彼女は、彼女自身が彼に抱かれることで自分の気持ちの奥底に眠る何かを確認したかったのだ。ただ恭介は自分に指一本触れて来なかった。恭介は、自分などには似つかわしくない気高い人間だった。

 当初の発車予定時刻よりも三時間遅れて、新幹線はようやく動き出した。首筋に焼き付けられた蜘蛛が自分の存在を忘れるなと主張するように、また疼き始めた。


                       *


 恭介は迷っていた。饗庭を自分の手で殺すか、それとも彼を慎吾の手から救うべきなのか。空港で饗庭を殺すことに失敗してから、慎吾からは何度も連絡が来ていた。恭介はそのことごとくを無視した挙句に、スマートフォンを破壊して通りがかったコンビニのゴミ箱に捨ててしまった。それは、組織の追跡から逃れたかったというよりは、これ以上絶え間なく連絡を受けることに耐えられなかったからだった。

 昨日から降り注いでいる雪は、ようやく止み始めていた。昨日のうちに軽井沢にやってきてよかったと思う半面で、恭介は、どうするべきなのか決められないままに、この地までやってきてしまっていた。

 泊まっていたホテルから、バスに乗って北軽井沢に向かった。それは、慎吾がパーティー会場で饗庭を暗殺するのではなく、今日宿泊予定のロッジで暗殺することを知っていたからだった。パーティーの前日に軽井沢に入った饗庭は、ホテルで一泊した後で、パーティー当日は、自身の持つ別荘に泊まる予定だった。

 バスの中には、ほとんど他の乗客はいなかった。数少ない乗客は皆、自分では運転の出来なさそうな老人ばかりだった。恭介は、窓の外の景色を眺めながら、ウェイと再会したことで、気持ちの変化があったことを認めていた。彼女に再会しなければ、慎吾と再び連絡を取り、組織にまた戻っていただろう。たった数時間のウェイとの過ごした時間が、恭介の中に眠っていた考える力と勇気を蘇らせていた。

 饗庭将人は本当に殺すべき人間なのだろうか。佐藤は、彼がのし上がることでこの国の秩序を壊してしまうと言っていた。慎吾はその命令に対して、考えることも悩むこともなく、ただ命令を遂行することだけを考えていた。皆が皆、目に見えない現状維持のために、とにかく自分たちに災いをもたらそうという人間を排除し、余計なことは何も考えないということを正当化していた。政治や経済にそれほど詳しくない恭介には、この国の構造やこの国において誰が力を持ち、どの国と仲良くしたり、どんな政策を採ることが皆にとっていいことであるのかはよくわからない。ただ、誰かが得をするための決まった答えを盲目的に信頼し、何も考えなくなるというのは、恐ろしいことのように思えた。

 恭介は、饗庭の顔を思い浮かべていた。彼がどれだけ優秀な政治家であるのかどうかは知らない。正直、恵まれた境遇に育ち、約束された人生を送っている彼に、強い羨望を感じていることも事実だった。ただ、彼が他の政治家とは違い、何かを変えようとしているのは確かなことのようだった。それが、本当に皆のためにやろうとしているのか、自分がのし上がるためにやろうとしているのかはまだわからない。ただ、今彼を殺してしまえば、その答えが永遠にわからなくなってしまうということだけは間違いなかった。彼を殺してはいけない。心の中で、眠っていた自分が呟く。それは、誰かの影響でも、誰かの考えでもなく、自分自身が自分の中から発した言葉だった。もしも彼の命を慎吾から守れば、組織と完全に反目することになり、また逃げ隠ればかりの生活に戻ってしまうだろう。もしかしたら今度は自分が命を狙われることになるかもしれない。でも、もしそうなったとしても、このまま何も考えずに人を殺していくよりは、遥かにマシな人生だと思う。そして、そうした選択をした自分を見せることだけが、芽依に対して、今の自分が出来るたった一つのことであるような気がした。


 目的の場所でバスを降りた恭介は、そのまま山の方に向かって歩き始める。そこは別荘地としてもう何十年も前に開拓された場所らしく、雪に埋もれていたものの、いくつものロッジが点在しているのが見渡せた。この中のどれかが、饗庭将人の別荘だった。恭介は、雪道を苦労しながら登り始める。こうした状況を予想して、登山用のブーツを履いて来たのだが、それでも足取りは重く感じ、何度も足を滑らせた。ロッジはどれも似たような形をしていた。饗庭の別荘に振られた番号を暗記していたものの、白銀に染められた世界の中で、どこに何があるのかがよく分からない。とにかく当てずっぽうに山の中を歩き、一軒一軒近づいては、それが饗庭の別荘であるかどうかを確かめた。

 時間は刻々と過ぎていた。慎吾がどのタイミングで現れるのかがわからなかったため、恭介は、早く饗庭と接触しなければいけなかった。時計を見るととっくにパーティーが始まっている時間になっている。焦った恭介は少し早歩きになって山を登るものの、単に息を余計に切らせただけだった。饗庭の別荘は見つからず、そのうち山の上の方まで来てしまい、辺りにロッジ自体が見当たらなくなっていた。やむなく恭介は山を下りながら、もう一度地図を確かめる。よく見てみると、山の反対側にもう一か所ロッジの区画への入り口があり、饗庭の別荘はそっちにある可能性が高いということがわかった。恭介は急いで山を下り、そこから少し山を迂回するような形で移動して、別の山道があるのを見つける。そこにはやはりいくつものロッジがあり、恭介は先ほどと同じように、一軒一軒確かめながら山を登って行く。

 ようやく饗庭の別荘を見つけた時には、すでにお昼をとっくに過ぎている時間になっていた。饗庭の別荘は山の上の方にあり、他のロッジとは少し離れた場所にあった。車はなく、まだ彼は到着していない。すでに慎吾が潜伏しているかもしれないと思い、辺りを隈なく探したが、その形跡はなさそうだった。恭介は車庫の入り口に立ち、饗庭をそこで待つことにした。慎吾が先に現れるかもしれなかったが、それならそれで自分が饗庭の代わりにキラーハンドの餌食になってもいいと思った。

 さっきまで晴れ間が少しのぞき始めていたが、再び雲行きが怪しくなっていた。雪がチラホラと降り始め、視界はだんだんと悪くなっていく一方だった。恭介はその様子をぼんやりと眺めながら、今は何も余計なことを考えないように努める。それは、せっかく決めた決心を鈍らせたくなかったからだった。それから二時間近く待ったところで、ようやく一台の車がこちらに向かってくるのが見えた。饗庭の所有する藍色のBMWだった。先に現れたのが饗庭であったことにホッとした恭介は、すぐにBMWに近づき、運転席から一人で出てくる饗庭に早く逃げるように懇願する。待ち伏せされていた人物にいきなりそんなことを言われた饗庭は怒り、ここからすぐに立ち去るように言い放つ。恭介はそれでもめげずに、饗庭に語り続け、自分が能力者であることや組織が饗庭を殺そうとしていることを必死に告げた。饗庭の顔つきが変わった。「話は中で聞こう」と態度を軟化させて、恭介を別荘の中に入れてくれた。

 ロッジは思ったよりも大きな作りをしていて、一階から二階が吹き抜けになっている開放的な空間だった。勧められるがまま席に座った恭介は、正直に自分の能力のことやこれまでの境遇、それに組織のことや饗庭が狙われていることを詳しく話した。饗庭は難しい顔をしながらそれを聞いていた。そして恭介が一通り話し終えると、話してくれたことについて礼を言った。

「能力者のことは聞いたことがあったが、まさか本当に存在していたとはね。しかも自分が狙われるようになるとは」

 そんな恭介に、饗庭は皮肉っぽく言うと「車に乗って引き返そう」と続けて言う。

「どうして、そんなに簡単に信じてくれたんです。オレが暗殺者かもしれないのに」

 あまりに呆気なく饗庭が決断してくれたことに驚いた恭介は思わず訊ねる。

「それは、君の目だ。嘘をついている目つきじゃないと思ったから。あとは、直感というやつかな。長年、政治の世界にいると、そういう感覚が嫌でも磨かれてくるんだよね。人の後ろ暗い部分なんかもすぐにわかってしまう。本当はそんなものなんて見たくはないんだけれどね。ただ、いいことも悪いことも、わかってしまった以上は、出来る限りはどうにかしないといけない。政治家っていうのは、そういう人間であるべきであると思うんだ」

 やはりこの人を殺してはいけない。恭介は自分の判断が間違っていなかったことを確信した。

「お願いがあります。オレはどうなってもいいです。どんな罰も受ける気があります。だから、能力者のことを、組織のことをあなたの口から世間に公表してくれませんか? あなたが言えば、みんな信じると思うんです」

 恭介は、改めて饗庭に懇願した。饗庭は「とにかく車の中でもっと詳しく話を訊こう。ここを離れた方がよさそうだ」と言い、立ち上がり、玄関に向かいかけた。恭介たちを照らしていた電気がいきなり消えたのはそのときだった。立ち尽くす饗庭を見ながら、恭介は慎吾が現れたことを直感した。恭介は急いで饗庭の手を取り、逃げ出そうとしたものの、その逃げ口である玄関の脇から慎吾がスッと現れ、彼らの前に立ちふさがる。慎吾はブルース・リーが「死亡遊戯」で着用していた、彼のトレードマークともいうべき、黄色のトラックスーツを着ていた。

「久しぶりだな。恭介」

 慎吾はあからさまに左手の指をカクカクとさせて、それがもはやキラーハンドとなっていることを示し、ジリジリと恭介たちに近づいてくる。

「何だ、貴様は! 無断で人の家に……早く出て行け!」

 怒鳴る饗庭に、慎吾はフッと笑いかけ「初めまして、饗庭さん」と語りかける。

「騒いでも無駄ですよ」

 慎吾は立ち止まり、再び恭介に視線を向けると「話は全部聞かせてもらった」と言って盗聴器をこれみよがしに取り出して見せる。

「まあ、でもお前とは、もう兄弟みたいなもんだ。お前がそうやって悩むのもわかる。だから、さっき聞いたことは聞かなかったことにする。スマートフォンを捨て、連絡を絶っていたことも組織にはオレの方からうまく説明しよう」

 慎吾は恩着せがましく言うと、視線で自分の方に来るように促してきた。

「嫌です」そんな慎吾に、恭介はキッパリと答える。

「慎吾さん、やっぱりこんなの変ですよ。オレにはどうしてもなぜこの人を殺さなきゃいけないのかがわかりません」

「それは、何度も説明しているだろう。この男は、この国にとって危険なんだ。この男の存在が大きくなることで、この国の安定が脅かされることになる。なぜそれがわからない?」

「違う! それは違うよ、慎吾さん。この人がいることで脅かされるのは国じゃない。今の秩序の中で力を持っている人たちだ。その力を持っている人たちが、力を失うことが怖いだけなんだ」

 恭介は慎吾に飛びかかり「逃げてください!」と饗庭に向かって叫ぶ。饗庭はオロオロとした様子を見せ、腰が抜けた様子でその場にへたり込んでいた。慎吾は慌てて恭介を突き飛ばし、そんな饗庭に向かって左手を振りかざそうとする。恭介は、二人の間に割って入り、饗庭を守るように身を挺して両手を広げた。

「どけ、恭介! これはもう決まったことなんだ。たとえ、この男やお前に正義があったとしても、今のこの世界を作っている秩序がそれを求めなければ、そんなものはクソの役にも立たない。一人の人間のちっぽけなヒロイズムで世の中を変えることなんて出来やしないんだ。オレはお前を殺したくない。オレたちは、従うしかないんだよ」

「違う! 違う! 違う! そうやって何も考えずに強い者に従って生きること自体が自分自身に対する裏切りなんだ!」

「じゃあ、どうしろと? 世の中の一人一人が自分勝手にそれぞれの正義を語り始めたら、それこそ世界はパンクしちまう。いいか、恭介、この世に正義なんてものはないんだ。大事なのは、出来るだけ多くの人が幸せに暮らせる、そんな秩序を守ることなんだ。そのためには誰かが悪魔となって汚れた仕事をしなくちゃいけないんだ!」

 力強く言う慎吾に、恭介はやはりわかり合うことは出来ないのかと落胆する。

「取りこぼされた人はどうすればいいんです?」恭介は呼吸を整えながら呟く。

「出来るだけ多くの人って言いましたが、そこに入れない人たちは、その秩序の中でどうすればいいんです? 人に言えないようなことをやって、施しをありがたく受け取りながら生かせてもらうしかないんですか? 恵まれた人たちが簡単に得られる幸せを一つ一つ諦めていくしかないんですか?」

 恭介の問いかけに、慎吾は今まで見せたことのない苦々しい表情を見せながら「そんなのは、屁理屈だろう」と奥歯に物が挟まったような言い方で答えると「お前は、その目の前の男がそういった人たちを救うとでも言うのか?」と続ける。

「もしもそうだとしたら、一ついいことを教えてやる。なあ、その男がなぜ今日は一人でこのロッジに泊まる予定だったか知っているか? 秘書を連れて来ずに、なぜ一人で来たのか?」

 不意に思ってもいなかったことを訊かれて、恭介は言葉を詰まらせる。

「この男は、不倫をしているんだよ。夜になったら、相手の女がここに来る予定だ。どんなに正義面しても、人間なんて所詮はみんなそんなもんさ。どいつもこいつも、てめえのことしか考えていない。そんな世の中なら、何も考えずに長いものに巻かれて生きた方がはるかに楽だろ」

 慎吾がそう言った瞬間に、背後で物音がした。振り返るとさっきまで倒れていたはずの饗庭がいつの間にか手に包丁を持ち、猛然と慎吾に向かって走り出していた。そして、止める間もなく恭介の脇を通り抜けると、そのまま慎吾の胸に包丁を突き刺す。

「何しやがる!」

 慎吾は叫びながら左手で饗庭の首を掴もうとする。饗庭は、とっさに包丁を慎吾の胸から抜き、今度は襲ってくる左手に突き刺し、そのまま壁に串刺しにする。

「さあ、これでその左腕は殺せない。そいつ以外で攻撃を加えれば、こっちに外傷が遺るからな。そうすれば、お前の雇い主が困るぞ」

「ちっ、舐めるなよ。こっちはどんな手を使ってもお前を殺すように命じられているんだよ! アチョー!」

 慎吾はとっさに饗庭を蹴り飛ばし、饗庭はそのまま床に彼の体ごと打ちつけられた。恭介はその様子をただ見ていることしか出来なかった。それからの数秒がまるでスローモーションのように長く感じられた。慎吾は、朦朧としながらも左手に突き刺された包丁を抜こうともがいていた。饗庭は、そんな慎吾に止めを刺そうと、包丁をもう一本持ってきて、振りかざそうとしていた。慎吾は懐に隠していた銃を抜いた。「あっ」と恭介が思った瞬間に、慎吾は手早く引き金を引き、放たれた銃弾は饗庭の首を貫いた。

 気が付くと、その場が血の海になっていた。慎吾も饗庭も瀕死の状態になっている。恭介は見下ろすように二人の間に立っていた。このうちの一人を殺すことによって、一人を救うことが出来る。饗庭を助けなきゃと理性では思いながら、脳裏には慎吾と過ごした日々が走馬灯のように浮かんでくる。慎吾を失いたくないと思った。彼は、鏡の中の自分の姿であり、彼を殺すことは、自分を殺すことと同じだった。彼は間違いなくもう一人の自分でもあるのだ。慎吾が何か言おうとしていることに気がつく。恭介はすぐに駆け寄って、耳を近づける。

「クッソ、ジークンドーの使い手が銃に頼っちまうなんて、情けないな」

「こんなことになるなんて……慎吾さん、すみません、オレ……」

「なあ、恭介よ、愛を理解することは出来ない。なぜならわかり合えないからこそ、人は誰かを愛するからだ。かつてはオレもそうだった」

慎吾はゆっくりと話すがその声は段々とかすれていく。

「慎吾さん? 何が言いたいんだよ?」

「他人を理解出来ると思い込むこと自体が驕りに過ぎないんだよ。オレはもう愛というものなど信じちゃいない。でもこれだけは本当だ。オレはただお前に幸せになってほしいから、組織に誘ったんだ。……ああ、オレもブルース・リーみたいに、映画に出てみたかったな」

そこまで言ったところで、慎吾は意識を失う。

「慎吾さん! 慎吾さん!」

何度呼びかけたところで、もう慎吾が次の言葉を発せられないことはわかっていた。

「ケケケ、さあ、どっちを殺して、どっちを救うんだ?」

そのとき、目の前に消えたはずのノボルが現れた。恭介は、右手の手袋を外した。


                      *


 馬渕たちが軽井沢に着いた時には、すでに饗庭将人が出席していたパーティーは終わっていた。馬渕たちは急いで昨日の晩に饗庭が泊まっていたホテルに向かい、そこで彼の秘書を捕まえた。そして秘書から、饗庭が自身で所有する別荘で今日は泊まるということを聞いて、急ぎその別荘に向かった。

 馬渕は正直朝から嫌な胸騒ぎを感じていた。ただ新幹線が遅れた時点で、これはもう神の意思なのだと開き直るしかなかった。別荘へは饗庭の秘書が運転する車で向かった。饗庭と連絡が取れないと言う秘書は、馬渕たちが現れたことによって、あからさまに不安な表情を見せていた。

 車の中では、皆ほとんど無言だった。どちらかというと切迫感というよりは、悲壮感の方が強く、事件現場に行くというよりは、葬式に向かうといったような雰囲気だった。

 饗庭の別荘に到着した時には、すでに日が傾きかけていた。そこには確かに饗庭の藍色のBMWが止まっていた。馬渕たちはBMWの中に誰もいないことを横目に確かめながら、ロッジの玄関まで行く。饗庭の秘書が震える手で合鍵を取り出して、鍵を開けた。馬渕が先頭に立つような形で、静かに建物の中に入って行く。人の気配がした。それと同時に、血の臭いがし、リビングに近づくにしたがって、床に大量の血が流れているのが見えてきた。馬渕は、自分の心臓が今にも爆発してしまいそうなくらい大きな鼓動を打っていること感じながら、歩を進めた。どんな光景を見ても、自分がしっかりとしなくてはならないという強い義務が彼に勇気を与えていた。

 リビングに入り、彼がまず目にしたのは、部屋の隅で小さくなりながら震えている饗庭の姿だった。そして、壁に左手を串刺しにされながら血の海の中で崩れ落ちているスマイルと思しき男の姿が目に入り、最後にその近くでこちらに目を向けることもなく、ただ茫然と俯き加減になって立ち尽くしている恭介の姿が目に入った。彼の髪は真っ白になっていた。

「先生! 先生! 大丈夫ですか!?」

 重苦しい沈黙を打ち破るかのように、後から入って来た饗庭の秘書が彼の元に駆け寄る。何があったのか矢継ぎ早に訊ねるが、饗庭は震え続け、訳の分からないことを呟き続けているだけだった。

「恭介、恭介……」

 次にウェイが恭介の元に駆け寄り、名前を呼びかけた。恭介は、ようやく顔を上げ、ウェイの顔を見た途端に少しだけ安心した顔を見せたが、すぐに寂しげな表情を見せた。

「一体何が起きたの? この人は?」

 ウェイの質問に、恭介は何も答えずにただスマイルの亡骸を眺めている。

「ダメです。死んでます」

 スマイルの亡骸を確認した渡辺が改めて告げる。

「悪魔が現れたんだ」

恭介が呟く。そして涙を流しながら「奴は言ったんだ。お前は愛を理解した。だからお前の契約は破棄されたって」と続ける。

恭介の言葉に馬渕は目を見張る。ウェイはただ彼の次の言葉を待っていた。

「今更何で……何が何だか全然わからないよ……」

 恭介は天を仰ぐ。そしてただ訳のわからないことを呟き続ける饗庭の声だけが目立って聞こえた。

「風本恭介だな」

 馬渕は、ここでようやく口を開き、恭介に対峙する。ウェイが不安げな顔をしながら、二人を見つめる。

「わたしは、警視庁の馬渕だ。お前をずっと追っていた」

 馬渕は警察手帳を見せ、恭介に目を合わせた。赤ん坊の時以来に間近に見る息子の顔は、思いのほか佐和子に似ていた。馬渕は小さく呼吸を整えながら、決意を決め、思い切って「そして、わたしはお前の父親だ」と恭介に告げた。恭介は、言葉こそ発さなかったものの、驚きを隠せない様子で、ただ馬渕の顔を見ていた。

「今更、お前の前に現れ、しかもこんな形でしか会えなかったのは残念に思う。すまない。わたしは、父親として失格だ。父親として、お前に何もしてこなかった」

 馬渕は恭介に深々と頭を下げた。殺人現場で、その容疑者と思しき人物に向かって、刑事が頭を下げるなんて異常な光景であることはわかっていたが、今の馬渕にとっては、それは極めて自然な行為のように思えた。顔を上げると、恭介は、何を言ったらいいのかわからないと言った様子で、馬渕のことを見続けている。その瞳には、怒りと不安の色のほかに、侮蔑と期待が入り混じったような複雑な感情を滲ませていた。馬渕は、頭の中で、〝愛〟という一文字の漢字を浮かべていた。それは、この数日間、ずっと恭介に伝えたかった言葉だった。

「わたしは、お前を愛している」馬渕は、ゆっくりと、確かな言葉で恭介に伝える。

「もっと早くお前にそう伝えるべきだった。お前だけに悩ませるのではなく、お前と一緒に悩んで考えるべきだった」

 世界が止まってしまったかのような気がした。自分を強張らせていた何かから解放され、ただの一人の人間にようやくなれたような気がした。馬渕は全身の力が抜けたような気がして、その場に崩れ落ちそうになる。彼を踏みとどまらせたのは、長年嗅いできた血の臭いだった。

「この男を殺ったのは、お前か?」

 馬渕は、静かに訊ねる。恭介は、小さく頷いた。まるでそのことを問われることを最初から待っていたかのようだった。馬渕は手錠を取り出し、腕時計で時間を確認してから、それを恭介の両手に嵌める。ウェイのすすり泣く声が聞こえた。その声をかき消すかのような大きな声で、渡辺がスマートフォンで地元の警察に応援を要請した。

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