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LR  作者: 土屋信之介
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第四章 生きる代償

(一)


 馬渕が在日華僑であるヤン・ウェイに面会することが出来たのは、リュウ・イーが殺害されてからすでに一週間が過ぎた頃だった。ウェイへの取り調べは公式的には所轄である神奈川県警が執り行っており、その身柄も県警によって保護されてしまっている以上、馬渕にはしばらく手が出せなかったのだ。ウェイの証言により、風本恭介は、リュウ殺害の容疑者として全国に指名手配されていた。しかし「能力」のことはなかったことになっており、あくまで恭介はリュウを殴り殺したことになっていた。


 ウェイは横浜駅に近いビジネスホテルに神奈川県警と彼女の父親によって隠されていた。馬渕は部下の渡辺を伴って、約束の時間に彼女が泊まっている部屋を直接訪ねた。ドアをノックすると、ウェイが顔を覗かせた。瓜実顔の美人であったが、相当やつれていた。首筋にある蜘蛛の焼き印がやけに目立っている。

 ベッドに腰かけるウェイに対し、馬渕と渡辺は部屋に置かれている椅子に座って、彼女の話を訊き始めた。最初は、リュウ・イーとの関係から訊き始め、それから恭介との出会いと彼がリュウを殺したいきさつの知っている限りを話してもらった。ウェイは、慣れた様子で淡々とそれらを話し、リュウの元で働いていた恭介が逃げたがっていたことや、彼がリュウを快く思っていなかったことを証言した。それまで感情を抑えていたウェイの言葉尻が突然強くなったのは、話が「恭介がリュウをどうやって殺したのか」という質問に及んだ時だった。彼女は、まるで鬼の手のようになった恭介の左手がリュウの胸に触れただけでリュウが黒い光に包まれて死んでしまったと堰を切ったように告げた。

「その話は県警にも?」馬渕は冷静に訊き返す。

「もちろんです。でも、なぜかこの話のくだりの部分だけは話半分にしか聞いてくれなくて。まるでわたしが夢でも見ていたんじゃないかっていう言い草なんです」

 憤懣やるかたない様子で語るウェイに、馬渕は「でも、リュウの胸には丸い痣のようなものは残っていたんだろう?」とすでに県警から聞いていた話を持ち出す。

「わたしもそれは見てます」

「お嬢ちゃん、それこそがあんたの話が本当なんだっていう証拠なんだ」

 これみよがしに告げる馬渕に、渡辺が「馬渕さん!」と余計なことは喋らない方が言わんばかりの態度で牽制する。

「どういうことなんですか?」ウェイは身を乗り出して訊き返す。

「言葉の通りさ。上の連中は認めちゃいないが、そいつは人智を超えた能力なんだ。実際、似たような死に方をしている被害者はほかにもいる。一つ訊きたいんだが、風本恭介が誰かの命を救ったという話は?」

「さあ、わたしはあのとき体調が悪くて入院していたので何も」

「じゃあ、彼は、お嬢ちゃんのことをどう思っていたのかな? その何だ、恋心というか、何ていうか」

 ウェイはごまかすように笑いながら「それも何とも」と答える。

「でも、嫌われてはいなかったと思います。わたしにもリュウさんから離れるように何度も言っていましたし」

 わざと言葉を選んで告げるウェイに、馬渕は思ったよりもずっと頭のいい女なのだという印象を抱いた。そして、少なくとも彼女の言葉から、恭介がウェイに対して特別な感情を持っていたことを悟り、彼女は利用出来る存在なのだと確信した。馬渕は立ち上がり、ウェイに自分の名刺を渡す。

「お嬢ちゃん、オレはあんたの話を全部信じるよ。だから、何か困ったことがあったらここに電話をしてくれ」

 ウェイはキョトンとした様子で名刺を受け取るとコクリと頷く。渡辺が不満そうな顔をしていたが、馬渕は気にもかけずに、そのまま部屋を出た。渡辺もそれに続く。

一人取り残されたウェイは、馬渕の名刺を指先で弄びながらしばらく思案し、そしておもむろにスマートフォンを取り出して電話をかける。電話の向こうから、抑揚のない怜悧な声が応答する。以前リュウから紹介されていた工藤というヤクザの声だった。

「この間の話だけど、乗るわ。わたしは恭介にもう一度会いたい」

 ウェイが真剣な面持ちで告げると、工藤は喜んだ様子でウェイの勇気を称え「また連絡をする」とだけ告げて電話を切った。ウェイはそのままスマートフォンをバックにしまうと、馬渕に渡された名刺を折り曲げて、くず入れに投げ入れる。その瞬間力が抜け、心臓の鼓動が激しく高鳴るのを感じた。


                       *


 リュウの命を奪った後、恭介はその足で熱海まで電車で行き、住み込みのバイトを募集していた旅館で働くことにした。仕事の内容は、旅館内の雑用や温泉の掃除が主で思ったよりも仕事はきつかったが、今は何も考えずにただ体を動かしていることが気持ち的に楽だった。何かしていないと、どうしても自分が殺した人たちのことばかりを考えてしまうのだ。リュウを殺した戒めとして、恭介は新たにもう人を愛さないと決めていた。人を殺していくにしたがって戒めばかりが増えて、もはや自分が何者であるのかわからなくなっていたし、一度人を愛さないと決めてしまえば、悪魔との契約破棄の条件を満たすことは出来ないこともわかっていたが、それでも恭介は何かを戒めずには平静さを保てなくなっていた。

 本格的な冬が過ぎ、梅が咲き始め、寒さが幾分和らいできたような気がした。恭介は、しばらくこの地でゆっくりしていたいと願ったが、呪われた運命はどこまでも彼を追い続けていた。自分を捜しに来た刑事がこの近辺をうろついていると恭介が感づいたのは、この地で働き始めてから二週間ほどが経った頃だった。偽名を使っていたものの、いつバレるんじゃないかと胸中は常に穏やかじゃなくなり、そしてある日、旅館の女将が不審な目で自分を見ていることに気が付いた。恭介はその日の真夜中に旅館を抜け出し、そのまま始発に乗って熱海を後にした。行く当てなどなく、お金もあまりなかった。胸に広がるのは果てしない絶望と孤独感だけだった。どこに逃げても無駄なような気がしてきた恭介の脚は、自然と富士山麓に向かっていた。樹海に入り込めば、そのまま誰に知れることもなく、命を絶つことが出来るとぼんやりと考えていた。

 電車とバスを乗り継いで、青木ヶ原の樹海に辿り着いた時には、すでに夕暮れが迫っていた。正直、明るさが失われていく樹海は、まるで地獄のような場所で、あれだけ死を覚悟していたのに、恐怖心ばかりが募った。

 恭介は、震える心を鼓舞するように、これが最後だと戒めを破ってスマートフォンを取り出して電話をかける。受話器に出たのは、旭川の叔母の声だった。叔母は、突然恭介が電話をしてきたことを訝しく思ったのか、終始素っ気ない態度をとっていた。恭介は、すでに彼女は自分が指名手配されてしまったことを知っているのだと確信した。ただ「芽依に電話を代わってほしい」と頼んだむと、何も言わずに代わってくれた。

「お兄ちゃん! どこにいるの? ねえ、元気に暮らしているの?」

 電話に出るや、芽依ははしゃいだ様子で矢継ぎ早に質問してきた。恭介は、自分の現状を上手くはぐらかしながら、「何とかやっているから、心配するな」と告げた。

「ねえ、この間ね、とっても綺麗な虹を見たんだ。何と、虹がね、二重にかかっていたんだよ。すごくない? インスタに上げたから見てくれるとうれしいな」

 芽依は、電話を切らせまいとどんどんと言葉を紡いでいく。

「そうか。後で必ず見るよ」

「ありがとう! そうだ、最近ね、わたしのインスタに、同い年くらいの男の子がよく来てくれて。色々とコメントしてくれるんだ。わたしの虹の写真がとっても好きだって言ってくれて」

 麻美を殺してから、あえて芽依のインスタは覗かないようにしていたが、その同い年くらいの男の子が翔太であることは直感で分かった。彼の母親を奪ったにもかかわらず、約束を守ってくれた翔太に、頭の中で深く頭を下げる。 

「お兄ちゃん、早く戻って来てよ。また一緒に暮らしたい。こっちで、また前にみたいにお父さんたちの仕事を手伝って暮らせばいいじゃない」

 そして我慢しきれなくなったのか、芽依は何度も恭介に戻ってくるように訴える。

「ゴメンな。当分まだこっちでやらなきゃいけないことがあるんだ」

 恭介は誤魔化しながら、そろそろ電話を切らなくてはいけないと思う。このままずっと喋っていたい。でも、人殺しの自分が存在していたら、芽依にとって迷惑にしかならない。

「これからも、お父さんとお母さんの言うことはよく聞くんだぞ。それから、ちゃんと勉強をするんだ。社会がどういう仕組みになっていて、その中で自分がどう生きるべきなのかをよく考えるんだ。オレは、お前にはそうやって生きてほしい」

「さよなら」は言えない。ただ彼女をずっと励ましたかった。まだ話し続けようとする芽依の言葉を遮って、恭介は無理矢理電話を切る。静寂がすぐに戻り、自分が一人であることを強く感じた。これでもう思い残すことはない。心にそう念じながら、恭介はスマートフォンをその場に置いて、さらに森の奥へと歩を進めていく。


 しばらく歩いた後で、右も左も分からなくなり、空腹な上に寒さも厳しく、脚も痛くなっていた。恭介は、やむなく適当な樹の根の上に座り、そこで寝ることにした。樹木に遮られた地には月明かりもロクに届かず、時折聞こえる鳥や獣の鳴き声以外は何も聞こえなかった。脳裏にはいつものように次々に自分が殺していった人びとの断末魔の顔が浮かんできて、エンドレスに続いた。どんなに割り切っても、良心の欠片が少しでも残っている以上、自分には逃れられる場所はない。恭介は、いつの間にか眠りに落ち、そして太陽がようやく大地を照らし始めたころに、あまりの寒さに目を醒ました。

 その日一日は、とにかく樹海の中をさまよった。もはや自分がどこにいるのかわからず、このままどこかで行き倒れになることだけを望む一方で、心のどこかでノボルでもいいから目の前に誰か現れてほしいと願い続けていた。人影のようなものを見かけたのは、太陽が昇り詰めたころだった。急いで近づいてみると、それは木の枝に紐を吊って縊首している遺体で、死んでからかなりの時間が経っているのか、腐乱していた。そのあまりのおぞましさに思わず走って逃げだした恭介は、ここで死ねば自分もああなるのだと怖くなった。恭介は、その後も彷徨い続けた。もはや空腹と寒さのあまり思考力も鈍り始めていた。陽が傾きかけ、再び闇の世界に落ちようとしていた。昨日を経験しているからか、ただ淡々と時が過ぎるのを待っているという感覚だった。適当な木の根の上に座り、幹に寄りかかる。このまま眠るようにし寝たらどんなに楽だろうと思いながら、かすかに芽依のことを思い出す。あの子のために、能力について知らなきゃと、ようやく気持ちが少しだけ前向きになれたが、体がなかなか動かない。

 あれほど死のうと思っていたのに、それでも生きようとしている自らの生への執着に恭介は驚いていた。それは呪われた両手がそうさせているのか、それとも自らの本心がそうさせているのかは分からなかったが、体は間違いなく生きることを欲していた。

「おい、兄ちゃん、生きてるのか?」

 夢心地になりつつあったときに突然声をかけられた。目を開けると、目の前に大きなリュックを担いだかなり大柄な男が立っていた。癖っけのある長い髪の男で、やけに人懐っこそうな顔をしていた。男は自分の水筒を取り出して蓋を開けると、中腰になって恭介に差し出してくる。恭介は本能的に水筒を受け取ると、勢いで全部飲み干してしまった。男は無精ひげが目立つ口元を綻ばせながら「それだけ飲めりゃ大丈夫だな」と言って立ち上がり、恭介の手を取って立ち上がらせる。

「近くに車を停めてある。とにかくそこに行って温まろう。メシもあるからさ」

 武骨な風貌の男だったが、気のいい感じがした。恭介は自然と彼の後ろを追っていた。


 男の名は、遠山慎吾といった。自作のキャンピングカーとして改造された軽トラックで、気ままに一人で旅暮らしをしているのだという。洞窟の探検が趣味で、樹海の中にある洞窟に行った帰りに、たまたま恭介の姿を見かけたというのだ。恭介は慎吾が差し出したコンビニのおにぎりを貪るようにして食べ、自分が生きていることを実感する。

「兄ちゃん、何があったのかは聞かないけれど、よかったらしばらくオレと一緒にいないか。箱根の温泉に行くところだったんだけどさ、喋る相手がいなくて寂しかったんだよ」

 その気遣いの言葉に、恭介はこの男は体の大きさに似合わず、かなり繊細な男なのだと思う。

「でも、やっぱり迷惑だと思うので、オレ行きます」

 本当は男の好意に甘えたかった。でも、そう思う以上に、自分が指名手配犯だと男がわかったときの男の変節が怖かった。

「金の心配しているのか? それなら心配するな。これでもオレは億万長者なんだよ。それに、何を隠そうオレはジークンドーの使い手だ。兄ちゃんが悪い奴に追われていたら、やっつけてやる」

「ジークンドー?」

 恭介は言っている言葉の意味がわからず首を傾げる。

「えっ? 知らないの? ブルース・リー?」

 知らない方がおかしいと言わんばかりの態度で驚く慎吾は、鼻を親指でこすってブルース・リーの物まねをしながら両手だけファイティングポーズをとる。

「これがジークンドーの構えであるオンガードポジション。ボクシングでは、利き手利き足を後ろにして構えるけれど、ジークンドーの場合じゃ、利き手利き足を前にして構えるんだ。打撃・投げ・極めなどの全局面で戦うことを想定してブルース・リーが考案したんだ」

 慎吾は訊いてもいないのにスラスラとジークンドーの説明をすると、「アチョー」と叫んでさらにブルース・リーの物まねをしながら、拳で空を切る。恭介は、ブルース・リーが昔のアクションスターであることだけは思い出したが、なぜ今、この状況においてここまでブルース・リーを熱く語られるのかがわからず、戸惑うしかない。

「よし、それじゃ、これからジークンドーの世界をもっと教えてやる」

 そんな恭介の戸惑いを見透かしたように、慎吾は笑顔を向けながらも有無を言わさぬ調子で言って発進させる。もはや反論する余地もない空気に、恭介は、死ぬことすら出来なかった今の自分には選択肢すらないのだと思う半面で、今は慎吾のこうした素っ頓狂な強引さをどこかありがたく感じた。


 箱根に着くまでの間、慎吾はブルース・リーとジークンドーについて喋り続けていた。まずは彼自身が小学生の時にブルース・リーのDVDを借りて観た時にいかに衝撃的であったのかを語り、彼の出演映画である「燃えよドラゴン」や「死亡遊戯」について熱く語った。慎吾の話題のほとんどは、ブルース・リーがらみの話で、彼は会話の中に時事的な話はほとんどなかった。慎吾が意図的に避けているのかどうかはわからない。ただ慎吾のこうした態度が恭介の人を遠ざける姿勢を少しずつ和らげていった。

 箱根湯本の温泉街にある旅館に着くと、すでに予約がしてあったようで、恭介は慎吾と共にそのまま部屋に通された。慎吾はこういった旅館に泊まることに慣れている様子で、この旅館にも何度か来たことのあるようだった。部屋は小奇麗な八畳ほどの部屋で、このような清潔な環境で過ごすこと自体が滅多にない恭介は少し居心地の悪さを感じる。それでも山の幸がふんだんに盛り込まれた夕食を食べていくうちに、段々と慣れて行き、慎吾と温泉に浸かっている時には、久々に訪れた平穏を楽しみ始めていた。部屋に戻ってからは泥のように眠った。想像以上に体は疲れていたようで、夢を見ることすらなかった。起きた時には、すでに陽は昇り切っていて、慎吾が朝風呂から戻ってきたところだった。恭介の寝坊ぶりを笑う慎吾に、恭介は笑って応えながら、自分がかつてないほどに安全な場所にいるのだということを実感する。

 それからの毎日は、ブルース・リーの映画を立て続けに観させられたことには辟易したものの、恭介は自分でも信じられないほど楽しかった。最初は身元がバレるかもしれないので、眼鏡を買って変装し、なるべく人との接触は避けていた。それでも慎吾に促されて、箱根の各地を一緒に観光したときには、初めての経験にはしゃぎ過ぎてしまった。


 あっという間に箱根に来てから一週間ばかりが過ぎていた。慎吾はいつまでこの地にいるのか決めていない様子で、「金のことは心配するな」と言い続けている。数年前まで投資家をやっていた彼には、本当に数億もの資産があるという話だった。

 この頃になると、恭介は慎吾に自分の心内を少しずつ話し始めていた。恭介には、これまで母親以外に自分の気持ちを素直に話せたことなど、北海道の叔母さんたちも含めてなかった。麻美やウェイにも見せなかった自分の弱さをなぜか慎吾には素直に話し始めている自分に、恭介自身が正直一番驚いていた。もちろん能力によって人を殺めたことも救ったことも話してはいない。けれども恭介にとって、自らが感じてきた孤独を口にすることが出来ていること自体が自分の存在自体を認めてもらっているようで、その経験は思っていた以上に、彼に生きる希望を与えた。

 二人はやがて兄弟や親友のように振る舞うようになっていた。恭介にとって慎吾は「能力のことをわかってもらえるかもしれない」と思えるくらいまで信頼出来る存在になっていた。友だちを作らないという戒めを破ってしまったが、もう気持ちの後戻りは出来ず、恭介は再び人と関わりを持てることや彼と過ごす平和な日々にかつてないほど喜びを感じていた。

「相変わらず甘ちゃんだな。そうやって人を信じては傷ついて来たんだろ。いい加減、人は皆、金がすべてで、世の中には、出し抜くか出し抜かされるかのどちらかしかないってことを学べよ。まあ、ブルース・リーについてだけは馬鹿みたいに学んだようだけどな」

 そんな恭介の気持ちに水を差すようなことを言ってきたのはノボルだった。しばらく姿を見せず、存在自体を忘れかけてきたのに、この疫病神とも言える人間は恭介の居所を誰よりも早く突き止め、恭介が一人で町に散歩に出かけたのを見計らって、彼に声をかけてきた。

「訊いた風な口をきくな。お前に慎吾さんの何がわかるっていうんだ」

 もはやノボルが突然現れたことに驚きもしない恭介は、怒気を含んだ言い方でノボルを威圧する。

「おー怖っ。まあいい、嫌な思いをするのはお前だからな。でも一つだけ教えてやる。いいか、楽しい時間っていうのはいつまでも続かない。常に背後には注意していろよ」

 ノボルはそれだけ言うと去っていった。恭介はいつもとは何か様子が違うノボルの態度に戸惑いながら、慎吾の待つ旅館の部屋に戻った。


 その後も数日間、恭介は慎吾と温泉に浸かりつつも、彼からジークンドーを教わって過ごしていた。慎吾は時折、ふっといなくなり、歩き回ったりしているようだったが、慎吾にも自分の世界があるのだろうと恭介は気にも留めていなかった。それよりも彼の頭の中では、次第にノボルが吐き棄てていった言葉の方が気になり始めていた。もしかしてまた呪われた運命が姿を現し、今度は慎吾を餌食にするのではないか。恭介のそうした不安が加速度的に増していく。

「何だ、心配事でもあるのか?」

 そんな恭介の不安定な気持ちの揺れをすぐに察した慎吾は、夕食の際にそう語り掛けてくる。

「慎吾さんは、他人をどこまで信用することが出来ますか?」

 とっさに切り返す恭介の問いかけに、慎吾は思わず含み笑いをして見せる。

「いきなり直球勝負で来るな。何かあったのか?」

「そういう訳じゃないんですけれど、ただ慎吾さんはそのへん、どういう風に考えているのかなって」

 慎吾は「うーん」と唸ってから語り出す。

「そうだな。正直そんなことはあんま考えずに生きているけど、ただ一つ言えることは他人の言葉を信用するもしないも、結局決めるのは自分でしかないってことかな。自分が信じてダメならしゃーないかなって思えるから」

 慎吾らしいあっけらかんとした答えだった。恭介は「そうですか」と言いながら、再び夕食に手をつけ始める。慎吾はすっかりと今さっきの会話を忘れたかのように、旅館のお土産コーナーにすごい美人がいたなどといって勝手に一人で盛り上がり始めていた。


 恭介のささやかな平穏を壊したのは、それから数日後の夜に旅館のフロントから内線で部屋にかかってきた一本の電話だった。吉原という女性が恭介に面会を求めてきているという。恭介は耳を疑った。それが本当ならば、ウェイがもうすぐそこにいるのだ。一瞬、彼女がどうして自分がここにいるのかが疑問に思ったが、それよりもウェイに今すぐ会いたいという欲望が勝った。リュウを殺した自分を恨んでいるに違いないと思いながらも、聡明な彼女ならすべてを理解した上で自分を赦すためにわざわざ自分のことを捜し出したのだと都合のいい解釈が頭の中でどんどんと広がっていった。恭介は、詳しいことは聞いてこないものの、訝しがる慎吾に「大丈夫。何でもないです」とだけ告げて、いそいそとフロントに向かう。そこには確かにウェイの姿があった。彼女は別れたときとはパッと見変わっていない。見覚えのある水色のワンピースの上に白いジャケットを着ている。恭介が近づいてきたことに気づくと、彼女はその大きな目をギロリと向けてきた。

「こんな素敵な旅館に隠れていたなんて意外だったわ。その眼鏡、似合ってるわよ」

 皮肉っぽくそう言うウェイの言葉には棘があった。その一言で、恭介にはウェイがまだ自分のことを赦してなどいないのだと悟る。ウェイは話があるから、自分について来てくれと言う。本能では「行くな」という言葉が大きな声で叫ばれていたが、それでもウェイを信じたいという気持ちと目の前で恋人の命を奪ってしまったという後ろめたさが、恭介の足を進めさせる。ウェイの背中を追いながら、恭介は「結局決めるのは自分なのだ」という慎吾の言葉を思い出し、ウェイを信じた以上、半ばもうどうなっても仕方がないと覚悟を決めていた。

 旅館を出ると、ウェイはどんどんと人気のない暗闇の方へと歩いて行った。外はまだ肌寒く、コートを持ってくればよかったと後悔しながら恭介はウェイについて行く。ウェイは、温泉街からは少し離れた潰れた旅館の駐車場まで恭介を連れて出した。そこは数えるほどの街灯しかなく、目の前の人物の顔の判別がどうにか出来るほどの明るさしかない場所だった。人影はまったくなく、ただ一台のベンツだけがポツンと止まっている。ウェイに連れられるがまま、そのベンツまで進んで行くと、ベンツから男が三人ゆったりとした動作で出てきた。男のうちの二人はプロレスラーのような体躯をしていて、恭介には見覚えがなかったが、もう一人は二度と見たくないと思っていた細面の顔だった。

「捜すのになかなか手間がかかりましたよ。何しろ組員総出で裏からの情報をかき集めましたからね。とにかく警察よりも早く見つけることが出来て良かった」

 恭介はそう話す男―――工藤の顔を睨みつけた。ノボルのように、自分をしつこく追い続け、自分の能力を金儲けの手段としか考えないこの氷のような表情をしたこの男のことが恭介は大嫌いだった。

「オレはあんたなんかに二度と会いたくはなかった」恭介は絞り出すような声で告げる。

「それは酷い言い草ですね。でも、あなたはまだ自分が置かれている状況がわかっていないようだ。すでに指名手配されているあなたには、もう破滅の未来しか残されていません。そこでわたしたちが救いの手を差し伸べてあげようというのです」

「救いだと?」

「そうです。わたしたちの組織に加わり、わたしたちのために働いてくれれば、あなたの安全は保障します。警察がわからないように身元を変え、住むところと毎月の給金を提供しましょう。女も調達しますよ」

「馬鹿にするな!」恭介は怒気を含んだ声で叫ぶ。

「誰があんたらのために働くものか。都合よくこの手の能力を使うだけなんだろっ!」

 そんな恭介に対し、工藤はあからさまに呆れた顔をしてため息をつく。

「わからない人ですね。今のあなたに選ぶ権利などないんですよ。手荒なことはしたくありません。さ、早く車にお乗りなさい」

 言葉の丁寧さとは裏腹に、工藤の言い方には有無を言わさぬ重みがあり、恭介に強いプレッシャーを与えてきた。恭介は頭の中で、どうやったらこの場を逃げられるのかと必死に考えた。とにかく走って逃げるしかなかったが、問題はどのルートで逃げるか、だった。動かない恭介に見切りをつけたのか、工藤が目で合図を送ると、彼の二人の部下がジリジリと近づいてくる。きっと恭介を無理やり車の中に押し込めるつもりなのだろう。恭介は一歩下がり、走り出そうとした。背中に激痛が走ったのはそのときだった。振り返ると、ウェイが血のついたナイフを震える手で持っていた。

「ウェイ、どうして……」

 恭介は背中から溢れ出る血を必死に抑えながら訴えかける。

「このアマ、何てことしやがる!」工藤の部下の一人がウェイに向かって叫ぶ。

「どうしてって、わかるでしょ。わたしはリュウさんの仇を討ちにここに来たの。リュウさんが感じた死の恐怖をあんたも味わえばいいわ」

 恭介はその言葉を聴いたところで、彼女に向かって微笑むしかなく、そのままその場に崩れ落ちた。

「ふっ、わたしたちを出し抜くとは、中々面白いことをしてくれる女ですね。これだけ深くえぐったら、もう助からないじゃないですか」

 工藤は努めて冷静に話すと、部下たちにこの場から去ることを指示し、ウェイにも車に乗るように促した。恭介が微かに顔を上げると、工藤の部下が、放心状態のウェイから血の付いたナイフを没収し、彼女を引っ張って車の中に押し込めている様子が見える。

「残念です。だから、早くわたしたちの仲間になっていればよかったのに」

 工藤はサイレンサー付きの拳銃を取り出し、恭介の背中に一発撃ち込んだ。鋭い痛みが恭介を襲い、恭介は痛みのあまり気を失いそうになる。

「急所は外しました。死ぬまでの苦しみを味わうことが彼女の望みだそうですから」

 工藤はそれだけ言い残し、車に乗り込む。もはや恭介の目はかすれてよく見えなくなってきている。車が走り去る音が聞こえた。ノボルが言っていた「背後に気をつけろ」とはこのことで、やはり彼は正しいことを言っていたと薄れゆく意識の中で考える。痛みが全身に行き渡っていき、呼吸が荒くなっていく。自分が殺した相手も、こんな風に感じていたのかと思うと、これは天罰なのだと思い、せめてウェイに復讐をさせてあげられただけでもよかったと思うようになっていた。ふと、誰かが近づいてくる気配を感じる。大柄な男が立っているように見えた。男は、その右手を恭介の刺された場所と撃たれた場所の辺りにかざす。その瞬間、眩い光が恭介を包み込む。恭介は背中の痛みが引いていくのを感じた。間違いなくドクターハンドによる治療を受けていた。目が眩むような眩しさの中で、恭介は目を凝らし、どうにか男の顔を見る。そこにあったのは、慎吾の顔だった。

「どうして慎吾さんが?」

 問いかけたところで再び意識が遠のいていく。あまりにたくさんの血が流れたためだった。


(二)


 目を覚ました時には、すでに陽は高く昇っていた。点滴をされているところをみると、どうやらどこかの病院に寝かされているらしかった。血だらけだった服がいつの間にか入院着に着替えさせられていた。そのうちに看護師がやって来て、その後に医者がやってきた。人当たりの良さそうな中村という名の小柄な医者は、疲れた顔を見せながら何があったのかと訊いてきた。何と答えればいいのか何も思いつかなかった恭介は、むしろ「どうしてここにいるのか」と訊き返す。すると中村は、大柄な男が道で倒れていた恭介を連れてきてくれ、まとまった治療費だけを置いて行って去って言ったことを告げたのだった。

 その後、一時間ばかり休み、どうにか歩けるようになった恭介は、無理に退院し、一目散に泊まっていた旅館に向かった。自分を助けた男がドクターハンドを使ったということはハッキリと覚えていた。しかもそれは慎吾だった。もしも自分の体験したことが夢でなければ、慎吾は自分と同じ能力者であり、そしてこれから誰かを殺さねばならない。

 温泉街が騒然としていることに気がついたのは、病院を出てすぐだった。物々しい雰囲気で町中が包まれており、警察や救急車の車両も停まっていた。恭介は胸騒ぎを感じた。とにかく少しでも情報を集めようと、恭介は野次馬として集まっている観光客や町の人に何があったのか訊いてみる。断片的にわかったことは、救急車に運び込まれようとしているのは、贈収賄の疑惑が取りざたされている与党の国会議員の若い男性秘書で、死因は心臓麻痺らしいとのことだった。恭介は疲れた体に鞭を打って駆け出す。

「いよう、もう体の具合はいいのか?」

 旅館の部屋に駆け込むと、慎吾は荷物の整理をしていた。そして、飄々とした様子でそう訊いてくる。

「外の騒ぎ……あなたが殺したんですか? 手の能力で……どうして?」

「まあ、まずは落ち着け。置いていったりはしないから」

 慎吾は視線を据えて恭介にまず荷物の整理をするように促す。恭介は釈然としないながらも、渋々と慎吾の言う通りにする。慎吾が再び口を開いたのは、旅館を出て、駐車場に止めてあるあった軽トラックに乗り込んでからだった。

「オレはお前と同じ能力者だ。昨日、お前を助けたのもこのオレだ」

 慎吾は車を発進させながら、あっさりと告白した。

「じゃあ、死んだ議員秘書は、やっぱりあなたが左手で……」

 慎吾は、コクリと頷く。

「どうしてその人を? もしかして手当たり次第に?」

「オレはお前を助けてやったんだぜ。それに、あの男を殺したのは偶然じゃない」

 冷静に話す慎吾の言葉に、恭介は背筋をゾクッとさせる。

「もしかして、最初からあの男を殺す目的で箱根に? あなたは殺す人間を探していたんじゃなくて、救う人間を探していたとでもいうわけですか?」

 慎吾はその問いかけには曖昧に笑っただけで答えず、代わりに彼が所属する組織について語り始めた。名前こそハッキリと明かさないが、それは日本の政治にも経済にも大きな影響を及ぼす組織で、彼はそこで能力者として働く代わりに毎月莫大な給金を貰い、そして決して逮捕をされることもないというのだ。

「ようするに生活と身の安全を引き換えに、暗殺の片棒を担いでいるってわけですね」

 その話を聞いた恭介は怒りを抑え切れずに口走りながら「他にも手の能力者がいる」とヤン・ファンミンが言っていたことを思い出す。

「まあ、そう言いなさんなって。考えてもみろよ。こんな能力をもっていることを公にしたって、世間からは忌み嫌われるだけだってことは、お前だってよくわかっているだろ。オレは、その両手のおかげで、ずっと隠れるようにして生き、自分自身を好きになることも出来ずにとにかく逃げ続けるしかなかった。お前だってそうじゃないか?」

 同じ境遇であるだけに、慎吾の言葉に重みがあった。

「組織はそんなオレに居場所を与えてくれたんだ。暗殺が何だ。あの秘書を生かせておけば、きっと何人かの与党の議員が逮捕される。そうすれば、政権運営に大打撃になり、社会が不安定になってしまう」

「そんなのは詭弁だ! 人を殺していい理由にはならない。たとえ、偉かろうが金があろうが、罪を犯せば、償いをしなきゃいけないんだ。何がブルース・リーだよ。あなたは弱い者を守るためにジークンドーを学んでいたんじゃないのか?」

 恭介は反論したところで、自分自身の言葉の矛盾に気がついた。自分だって散々人を殺しておいて、罪を償うこともなくこうしてのうのうと生きているのだ。慎吾は赤信号で車を停めると、改めて恭介の方に顔を向ける。

「わざわざしたくもない選択などせずに安全な立場にいれば、いくらでも正義面をすることが出来る。でも、オレたち能力者は嫌でも選ばなきゃいけないんだ。組織はお前の居場所も用意してくれるって言っている」

 慎吾の言葉が、恭介の頭の中を通り過ぎていく。大きな権力が自分を保護してくれるというのは、確かに魅力的に聞こえた。ずっと一人で自分を否定しながら生きてきた彼にとって、自分の存在を認めてもらえるということ自体が自分の追い求めてきたものであったかのような気がした。

「もしかして、最初からオレに近づくことを目的に、あの日、あの場所に?」

 恭介はふと頭に浮かんだ疑問を口にする。信号が青に変わり、再び前を向いて運転し始めた慎吾は含み笑いをしながら答える。

「正直放っておけなかったのさ。組織からオレと同じ力を持つ人間がもう一人いるらしいって話を聞いてから、どうにか仲間にしたいと思っていた。それで組織に頼んだら、彼らもその気になってね。警察が持っている以上の情報が与えられたってわけさ」

 恭介は、鳥肌が立つのを感じた。まるで自分が、仏様の手の中で騒ぐ孫悟空のように滑稽に見えた。

「まあ、そんなに結論は急がなくてもいい。気持ちが固まったところで連絡してくれ。ただその前に、一つだけ教えてやる」

 慎吾の改まった言い方に、恭介は体を緊張させる。

「時々、自分の殺した相手か、もしくは救った相手の誰かが目の前に現れることはないか?」

 ドキッとした。頭の中でノボルのニヤけた顔が浮かんだ。

「そいつは幻覚だ。解離障害といって、つまりは違う人格が出てきてしまうんだ。オレもそうだったんだが、どうやら能力者はそういった精神的な問題を起こしやすいらしい」

 慎吾の言葉を恭介は半ば上の空で聞いていた。あれだけ自分の前に現れ、嫌味を言い続けてきたノボルが現実に存在しないなんてにわかには信じられなかった。恭介は、ノボルのとの再会から、彼が目の前に現れて来た時々のことを必死に思い出す。彼の記憶の中で、ノボルはやはり存在していたが、一方で今こうして考えてみると、不自然な部分もたくさんあることに気づいていく。そしてその瞬間に、突如として記憶の断片が次々に脳裏に浮かび上がってくる。

 麻美のマンションで、麻美がシャワーを浴びている間に、村上のことを調べている自分の姿。見つけたのは、彼の携帯電話の番号で、それを殴り書きでメモをしていた。翔太の家では、知子のパソコンを調べる自分の姿があった。翔太からパソコンのパスワードを聞き、彼女が買ったチケットの履歴をメモしていた。確かにノボルが持ってきたと思っていた情報は、すべて自分の別の人格が持ってきていたのかもしれない。そう考えると、金、金、言っていたノボルの言葉は、自分がひた隠しにしている自分の本音だということになり、恭介はこれまでにないくらい自分自身を激しく嫌悪した。

「狐につまされたような顔をしているな。まあ、無理もないさ。オレの場合は、最初に殺した相手がことあるごとに現れたんだが、ずっと自分が殺しそびれただけなんだって思い込んでいた」

「調べたんですか? その人が本当に生きているかどうかを」

 恭介は動揺をどうにか顔に出さぬようにしながらも、掻き毟るような胸の高鳴りを抑え切れずに訊ねる。

「まあな。でも考えてみろ、自分が本当に人を殺したのかどうかを調べるんだぜ、趣味が悪すぎるだろ」

 そう言ってケタケタと笑う慎吾を横目に見ながら、恭介はノボルの実家を訪ねようと考えていた。もしそこで本物のノボルと会うことが出来れば、少なくとも自分の見てきたノボルが本物かどうかわかる。

東京までの道のりの間、慎吾はすっかりと能力のことなど忘れてしまったかのように、他愛もない話を繰り返していた。恭介は適当に相槌を打ちながら、一刻も早くノボルのもとに行くことばかりを考えていた。


                       *


 ウェイが箱根から横浜に戻ってきたのは夜も明けきれなうちだった。今も恭介を刺したときの肉を切った感触が手には残っている。リュウさんの仇をとったはずなのに、達成感も喜びもなく、あるのは胸に広がる虚しさと頭に浮かんでは消える悔恨の気持ちだけだった。戻って来る途中、工藤は不気味なほど何も言わず、ひたすら窓の外を見ながら何かを考えているようだった。彼がこれからどんな危害を自分に加えるのか考えただけでも恐ろしかったが、心のどこかでもう自分の存在などどうなってもいいと破れかぶれになっていた。

 工藤は元町でウェイを降ろすと、何も言わずに去って行った。ウェイはあの蛇のような男がこのまま許すわけがないと思いながらも、ようやく彼らから離れられたことにホッとしていた。すでに父親も母親も寝ていたので、ウェイは静かに二階にある自分の部屋に行き、そのまま眠りについた。夢に出てきたのは、絶えず屈託のない笑顔をして過ごしている小学校の時の自分だった。あのときは、周りに潜む矛盾に気づかず、ただ目の前にある幸福に浸っていられた時間だった。

 目を覚ますと、すでに陽は高く登っていた。リビングに降りていくと、父親が一人でソファに座り、新聞を読んでいた。「おはよう」と声をかけられたが、無視した。もうまともな会話をしなくなってからどれくらいの時間が経ったのだろう。ウェイはテレビを点け、ニュースにチャンネルを回す。そろそろ恭介の死体が発見され、報道されていてもおかしくないと思ったからだった。何を知ったところで安心など出来る訳がないのに、どんな些細な情報でもいいから欲しかった。

 フランスの大統領選挙のニュースの後で、画面には箱根湯本の温泉街を映し出されていた。相沢悠馬という名前の議員秘書が死んだという話だった。ウェイは一瞬、恭介が議員秘書でもしていたのかと思ったが、すぐにそんなはずはないと思い直して、眉間に皺を寄せながら首を傾げる。

「事件性はないと言っているが、口封じに殺されたのかもな」

 いつの間にか顔を上げてニュースを観始めていた父親が話しかけてきた。

「知らないか? 横山っていう元経済産業大臣の贈収賄疑惑。最近、週刊誌でも散々叩かれているだろう。この相沢という横山の議員秘書は、疑惑の対象になっている帝都鉄鋼とのパイプ役だったって言われているんだ。ずっと雲隠れをしているって話だったんだがね」

 頼んでもいないのに、父親が端的に話を要約してくれたので、ウェイは事件のあらましを知ることが出来た。それでも、どうして恭介が死んだことが伝えられないかはわからなかったし、そもそも恭介を殺したのとほぼ同時刻に、同じ町で有名な贈収賄事件の疑惑のカギを握る人物が死んでいたというのは偶然にしては出来過ぎているような気がした。電話の呼び鈴がけたたましく鳴った。まだ家政婦が来ていなかったので、キッチンにいた母が電話をとった。

「お父さん、電話です。工藤って人から」

 母は訝しげな顔をして電話の子機を持ってくる。ウェイは、その名を聞いただけで体が強張るのを感じ、手足が震え始めていることに気づく。

「工藤? どこの工藤さんだ?」

「訊いたんですけれど、教えてくれないんですよ。ただ『話を聞けばわかる』の一点張りで」

 父は強くため息をついてから、面倒くさそうに母から子機を受け取る。ウェイは居ても立ってもいられなくなっていたが、その場から逃げ出すわけにも行かず、ただ父の様子を眺めていた。受話器の先から工藤の話を聞きながら、父の顔がだんだんと青ざめて行くのがわかった。父は驚いたように目を見開き、ウェイの顔を見る。ウェイはその視線から逃れるように俯き、目に涙を浮かべていた。


                       *


 馬渕が渡辺とともに箱根に着いた時には、すでに急死した議員秘書・相沢悠馬の遺体は近くの市民病院に運ばれた後だった。未だに管轄外で目立った行動を取ることに躊躇している渡辺は、そのまま捜査を続ける気でいる馬渕にブツブツと文句を言っていた。馬渕はそんな彼の言葉などまったく意に介す様子もなく、有無を言わさぬ調子で車を病院に向かわせるように指示を飛ばす。馬渕は直感から、横山事件の疑惑のキーパーソンであった相沢悠馬を殺したのは、恭介ではないと確信していた。そもそも恭介にそんな大物を殺す理由がないと思っていたし、他殺だという証拠がほとんど残っていない点でプロがやったことだと考えていた。

 病院に着くと、馬渕は無理に頼んで相沢の遺体を少しだけ見せてもらった。そこにいた医者は、死因がわからず首を傾げていたが、遺体の胸にはやはり薄らと丸い痣があった。

「スマイルですかね?」渡辺が澄ました顔で訊ねる。

「多分な」馬渕は言葉少なに答えると、そそくさと病院を後にする。

「どっかでメシでも食べて帰りますか」後から追いかけてきた渡辺が呑気に言ってきた。

「馬鹿野郎これからだ」

 馬渕の有無を言わせぬ答えに、渡辺はうんざりした顔を隠さずに「でも、スマイルか殺ったっていうんなら、どうせ迷宮入りじゃないですか」と反論する。

「オレたちが追っているのは、もう一人の方だ。何か臭うんだよ。とにかく温泉街に戻って聞き込みだ。メシはどっかで適当に食べろ」

 馬渕のぞんざいな言葉に対し、渡辺は露骨に不服そうな顔をしたまま車に乗り込んだ。馬渕はそんな渡辺を見ながら「もしもスマイルが恭介に近づいたとしたら」とふと頭の中で浮かんだ可能性を呟く。渡辺はチラリと馬渕の顔を見た。


 温泉街に戻った馬渕は渡辺と手分けをして周辺に聞き込みをした。当然、管轄から来ている刑事たちは二人に対して文句を言ってきたが、馬渕は意に介すこともなく、聞き込みを続けた。その結果、相沢が死んだ旅館から、わずか数件しか離れていない別の旅館に、今朝までおかしな若い二人組の男が長い間泊まっていたことがわかった。女将に詳しく話を聞いたところ、二人のうちの一人の風貌が恭介に似ているようだった。馬渕は別の場所で聞き込みをしていた渡辺を呼んでから、旅館のロビーに設置してある監視カメラを観させてもらうことにした。

「これって、すごい大発見じゃないですか」

 画像はかなり悪かったものの、監視カメラには恭介と思しき男が映っていた。眼鏡をかけて変装していたが間違いはなかった。そして、もう一人の長身で癖っけのある長髪のフーテンのような風貌をした男が映っており、その男がスマイルである可能性が高かった。

「馬渕さんの言う通り、風本恭介がスマイルと繋がったとしたら、コイツがスマイルってことですよね。スマイルの正体を突き止めたなんて大手柄ですよ」

 興奮のあまりはしゃぐ渡辺に、馬渕は「静かにしろ」と一喝する。

「スマイルの正体を暴いたところで意味はない。どうせ上の奴らに揉み消されるだけなんだ。それよりも、問題なのは、どうして風本恭介がスマイルと思しき人間と一緒にいるかってことだ」

 それから馬渕は二人について、旅館で働くすべての人々にしつこく聞き込みをした。二人は部屋に引きこもっていることが多かったため、ほとんどの人たちは大して記憶していなかった。それでも仲居のうちの一人が重要な証言をした。それは、昨日の夜の話だった。いつもは二人で行動していたのに、その日に限っては夕食後、長身の方の男しか見かけなかったというのだ。そして、もう一人の男はフラフラになりながら次の日の朝に戻ってきたという。その仲居が心配して声をかけると、男は「病院に行ってきたから大丈夫」と答えたという話だった。

 その話を聞いた馬渕は、女将にこの近くにある病院のすべてを調べてもらい、その一つ一つに電話で連絡を取って、昨日の夜に入院し、朝になって退院した若い男がいないか訊ねた。すると、その中から温泉街から歩いて行ける距離にある小さな診療所に該当者がいることがわかった。馬渕は渡辺を引き連れて、その診療所に急いだ。

「その今朝、退院したという男は、この男じゃないですか?」

 そして男を担当したという中村という医師と四十代の女性看護師に、馬渕が恭介の写真を見せて確認をとったところ、二人は頷いた。馬渕は恭介がどうして運ばれてきたのかを詳しく訊いた。

「それがよくわからないんですよね。目立った外傷があるわけでもないし、一通りの検査もしたんですが、貧血以外には特に異常はなくて。ただ病み上がりといった様子で、ひどく体調が悪そうだったので、様子を見るということで入院してもらいました」

 中村は言葉を選びながら、馬渕の質問に答える。

「目立った外傷はない。じゃあ、その男に何か身体的な特徴はありませんでしたか?」

 中村は「うーん」と唸ってから、「そう言えば、背中の辺りに薄らと傷が治った痕が二つありましたね」と呟く。

「傷ですか? それは、どんな傷ですか?」

 いきなり激しく食いついてくる馬渕に、中村は気圧されながらも「たぶん何か鋭利な刃物で切られた傷と銃で撃たれた傷だと思います」と答えると、「でもヘンなんですよね。大きな傷なのに縫合された痕はなく、しかも瘢痕やケロイドも出来ていない。でも傷口はきれいに塞がっているんです。自然と塞がったみたいな感じで」と続ける。

「そういうことは、普通あり得る話なんですか?」馬渕が中村に丁寧に訊ねる。

「いやあ、少なくともわたしは見たことはないですね」

「そうですか。ご協力ありがとうございました。おい、行くぞ」

 馬渕は、中村にそれだけ言うと、渡辺を促してそそくさと診療所を後にする。

「馬渕さん、今の話って、もしかして」

「ああ、間違いない。何があったのかわからんが、死にかけていた風本恭介はスマイルに救われた。そして、スマイルの発動した左手が相沢を殺したんだろう」

 その推測が正しいとすると、スマイルが偶然ここにいたのではなく、最初から相沢を狙っていたことが推察された。そしてもしもスマイルが恭介に近づいたことも計算づくであるとするならば、恐らく彼は、恭介と自分が属する組織の責任者とを引き合わせるだろう。もしも恭介がその組織の人間になってしまえば、もう追うことは出来ない。馬渕は絶望的な気持ちになりながらも、車に戻ると、渡辺に東京に引き返すよう指示を出した。


                       *


 東京に戻って来た恭介は、慎吾と別れると私鉄に乗って、自分がかつて母と住んでいた町に向かった。ノボルの存在について、慎吾が言っていたことが本当かどうか、今すぐ確かめたかったのだ。すでに平日の昼下がりになっていたので、電車の中は空いていた。恭介は座席に座りながら、自然とノボルのことを思い出していた。再会してから、何度も現れたあの男は、彼の中では確かに実在していた。何度も彼を迷わせたものの、時に彼を救ってくれたことも事実だった。恭介は、今にもヒョッコリとノボルが目の前に現れて、憎まれ口を叩く姿を想像した。もしも慎吾の言う通り、ノボルがただの自分の幻想なのだというのなら、自分は二重人格者で、ノボルが持ってきたと思っていた数々の情報は自分で得ていたのだろう。もちろん、そんな実感がない恭介にとっては、それは考えただけでも気味が悪い話だった。


 母と暮らした町に戻ってきたのは、子どもの時、この町を出て行った以来だった。目の前の商店街や町並みに懐かしさを感じる一方で、建て替わっている建物を所々に見つけて、嫌でも時の流れを感じた。恭介は当時ノボルが住んでいた家に向かうことにした。うる覚えであったが、一度だけ遊びに行ったことがあるので何となく場所はわかっていた。

 ノボルの家に行くまでの途中に、通っていた小学校の前を通り過ぎた。学校を取り囲むフェンスが新調され、以前よりも中が見えにくくなっていたが、校舎や校庭は何も変わっていない様子で、恭介の脳裏には小学生の時の記憶が一気に甦ってきた。あそこからすべてが始まった。あの日、ノボルを助けなければ、母を殺すこともなかった。

 だんだんとノボルの家が近づいてきた。足取りが重くなり、彼の家が近づくにつれて恭介は事実を知ることが段々と怖くなっていく。ノボルの家は比較的大きな公園に面したわかりやすい場所にあった。白かった壁が薄汚れ、全体的に古くなった印象はあったものの、大きな変化はなく、表札を見る限り少なくともノボルの両親は今もここに住んでいるようだった。震える指先でインターホンを押す。応答がなく、もう一度押そうとした瞬間に「どなたですか?」と素っ気ない口調の女性の声が聞こえてきた。恭介は、念のために別の同級生の名を語り、同窓会を企画していて、連絡が取れない人を直接訊ねていると嘘を並べた。

 しばらくしてから、小じわが目立つ一人の初老の女性が玄関口から顔を覗かせた。どこかノボルの面影を感じさせる顔だった。ノボルの母親に違いなかった。

「本当にノボルの友達なんですか?」

 ノボルの母親は、恭介と目を合わすなり、怪訝な言い方で訊ねる。

「ええ、途中で引っ越しちゃって、その後は会っていないんですけれども」

 適当に応える恭介に、ノボルの母親は「ふーん、そうですか」とまるで品定めをするかのような視線でジロジロと見ていると「じゃあ、知らなくて当然かもね」とため息交じりに切り出す。

「何を、ですか?」

「あのね、ノボルはもう死んだのよ」

 時間の流れが止まったかのような感覚に陥った。そんなはずはない。

「もうだいぶ前の話よ。高校生の時にバイクの事故でね。スピードを出し過ぎたの。呆気なかったわ」

 しかしノボルの母親は、次の瞬間にぼくが想像していたのは、まったく違う理由でノボルが亡くなったことを告げた。もう時が充分に過ぎているからか、ノボルの母親はそのこと自体を語ることには慣れている様子で、ただ事実を淡々と語った。

 せっかく助けてやったのに命を粗末にしやがって。気持ちの整理がすぐにつかず、その事実をどう受け止めたらいいのかわからない恭介は、ノボルに対して激しい怒りを感じた。自分の母親が犬死をしたみたいな形になっていることが許せなかった。

「それじゃ、もういいわね」

 ノボルの母親はそれだけ言うと、そそくさとドアを閉めてしまった。一人残された恭介は、ノボルが死んだということは、これまで会ってきたノボルは、慎吾の言う通り、やはりすべて自分自身が生み出した幻想なんだということを確信せざるをえなかった。見えない人間が見えているなんて、精神的な病気以外の何ものでもないだろう。解離障害、認知症、統合失調症、覚えている限りの様々な精神病の名前が頭の中に浮かぶ。両手だけが他の人と違っているだけでなく、手の影響で脳までもが障害を負ってしまったという事実は、正直かなりショックだったし、それ以上にこれまで恭介を追い詰めてきたノボルの言葉がそのまま自分の心の叫びであったことに激しくショックを受けた。恭介はトボトボとその場を離れ駅に向かって引き返す。何からどう考えていいのかわからず、頭に浮かぶのは慎吾の顔だけで、彼が言っていることが正しかった以上、もはや彼の言う通りにするのが、一番筋が通っているような気になっていた。ふと、芽依の顔が脳裏に浮かんだ。組織に入れば、もしかしたら能力を消すことについて、何かわかるかもしれないという期待が恭介の気持ちを後押しする。

 駅に着いたところで、恭介は慎吾の携帯に電話をかけた。慎吾は「おう、待っていたぜ」と温かみのある声で電話に出た。

「言う通りでしたよ。オレを追いかけてきた奴は、もうとっくに死んでいた」

 恭介は端的に、ただそれだけを告げる。

「そうか。まあ、でも気にするなよ。お前が幻想を見ていたのは、お前がおかしくなったからじゃない。お前に取り憑いた能力がそうさせていただけなんだ。そのことさえ自分で理解すれば、もう幻想を見ることはなくなる」

 自らも経験したのだからと言わんばかりの口調で慰めてくる慎吾の言葉に、恭介は救われた気になりながらも、もう二度とノボルの顔を見ることはないのだと思うと、それはそれで少しだけ寂しく感じた。慎吾は、自らが属する組織にこれから恭介が加わることを前提に話を続けた。そのことについて、恭介にはもはや異存はなく、彼の話をそのまま聞いていた。もうとっくに芽依には二度と会わないと決意をしていた。慎吾以外に親しいと呼べる人もいなかったし、聴衆の前でギターを弾くこともない。今後、人を愛することもないだろう。恭介にはもう失うものは何もなかった。

慎吾は、まずは指定するホテルで体と精神を休めるように指示を出す。それは、有無を言わさぬ感じであったが、お金のことは心配するなと言ってくれる彼の言葉が、正直今はかなりありがたかった。恭介は電話を切り、慎吾が指定されたホテルに向かう。電車に乗り込み、ドアの前で手すりに寄りかかって窓の外を見ていると、背後に視線を感じた。

「ケケケ、心配するなよ。オレはずっとお前の味方でいてやるからさ」

 ノボルの声が聞こえたような気がした。慌てて振り返ると、営業帰りであろうか、疲れた顔をした三十代半ばほどのサラリーマンが片手で吊り輪に掴まりながら、無気力な様子でスマートフォンの画面を見ている姿が見えた。


 慎吾から再び連絡があったのは、渋谷にあるビジネスホテルに引き籠ってから半月ばかりが経った頃だった。すでに町のあちこちで桜がこの世を謳歌しているかのように乱れ咲く季節になっていた。

 いつものように慎吾の軽トラックに乗り込み移動した。組織の世話役と呼ばれる男と面談するという話だった。

 軽トラックは丸の内に向かい、ビジネス街のど真ん中にある大きなビルの駐車場に入った。高級車ばかりが目立って走るエリアの中で、慎吾の軽トラックはかなり異質に見え、それに乗っている自分もこの世界において異物であるような気がした。地下にある駐車場から、高速エレベーターでそのままビルの一番上のフロアまで行く。慣れた様子の慎吾にそのままついていくと、途中で中年の男が待っていて、その人物の案内で応接室に通された。そこは学校の教室程の広さがある大きな部屋で、窓からは付近のビジネス街が一望出来る場所だった。彼はひどく居心地が悪そうに、慎吾に勧められるがまま備え付けてある大きなソファにちょこんと座る。

 案内をしてくれた男がお茶菓子を用意してから退室すると、しばらく経ってから鞄を持った別の男が入ってきた。八十をゆうに超える白髪の小柄な老人だった。老人は名前を名乗ることも、名刺を渡すこともせずに恭介の目の前のソファに座ると、目を細めながら「君が風本恭介君だね」と語りかけてきた。恭介が老人のただ者ではない雰囲気に気圧されながら、コクリと頷き、助けを求めるように隣に座る慎吾の顔を見る。

「この方が組織の世話役だ。色々と訳があって、名を明かすことは出来ないが、今の日本の政財界の中心にいる人だ」

 慎吾の紹介に、男は苦笑いを見せる。

「そんな大そうな者じゃないさ。わたしは皆の調整役をしているだけだ。ただ名無しの権兵衛じゃ君もやりづらいだろう。わたしのことはとりあえず、佐藤とでも呼んでくれ」

 匿名性を表わすためだろうか、男は、日本で一番多い名字を名乗る。

「さて、君の能力のことも、君が起こした事件のこともすべて聞いている。その上で君の力を借りたいと思っている」

 佐藤は恭介の気持ちを推し量るように、丁寧な言い方で告げる。恭介は、わかってはいたが、自分が起こした事件のことを全て知られているのだと改めて思い知る。

「それは、慎吾さんのように能力を組織のために使えということですか」

「その通りだ。ただ闇雲に人を助けて殺せと言っているのではない。あくまで社会の平和を維持するために必要に応じで能力を使ってほしい。指示はこちらから出すから、君はただこちらの言う通りに動けばいいだけだ」

 恭介は、佐藤の言葉にどこかうさん臭さを感じた。それは、どんなに綺麗事を並べても、人を殺すことには変わりないと素直に思ったからだった。

「もちろん君の身の上はこちらが保証する。生きていくために充分な給金を与えるし、任務において万一があった場合でも、こちらがしかるべき措置をとって何とかする」

 段々と強くなっていった佐藤の言葉尻は、最後には迫力あるものとなっていく。ここまで来てしまった以上、もはやこの話は拒否することは出来ない。

「一つだけ聞いてもいいですか?」

芽依の顔が浮かんでいた。本当のことを知る数少ないチャンスだと思った。彼女のためにも、恭介は、訊けることは何でも訊いておきたかった。

「何かね?」

「あの、オレたちの能力についてです。昔、母親がオレの祖先が悪魔と契約したからこの能力が代々受け継がれるようになったと言っていました。そのことはご存知ですか?」

努めて冷静に訊ねる恭介に、佐藤は顔色一つ変えずに「もちろん知っている」と言うと、淡々と語り始めた。

「知っている限り詳しく話せば、その君の祖先という男とは、戦国時代に生きたキリシタンだ。その男の愛した妻が男の留守の間に野武士によって凌辱を加えられた上に斬られたんだ。もはや虫の息の妻を前に男は嘆き悲しみ、不条理な世の中を、神を恨んだ。その時に悪魔が現れたという。そしてその悪魔と契約を交わした男は、与えられた能力によって妻を助け、彼女を襲った野武士を見つけ出して殺した」

「その話はどこで知ったんですか?」

 恭介は想像以上に詳しく語られた昔話に興奮しつつも慎重に訊ねる。

「この話は慎吾の家系で語り継がれた話だ。おそらく彼の家系と君の家系はどこかで繋がっているのだろう」

 恭介は隣に座る慎吾の顔を見る。慎吾は表情一つ変えずにただ話を聴いている。

「じゃあ、もちろん悪魔との契約破棄の方法も知っているんですよね」

 恭介は前のめりになって訊ねる。

「〝愛を理解せよ〟というやつか。それも慎吾から聞いているが、それを実現出来た者はいないという話だ。そうだな、慎吾?」

 佐藤は鋭い視線を慎吾に向ける。慎吾は顔を強張らせながらコクリと頷く。

「言葉の意味を解明した人間は誰もいない。わたしが知っていることはそこまでだ。その悪魔の残した言葉が本当なのかどうかもわからない。相手が悪魔だけに騙されているだけなのかもな」

「そうかもしれませんね……」

 恭介はもはや佐藤の言葉に頷くしかない。芽依に対して、結局なにもしてあげられないことに絶望し、申し訳ない気持ちになる。

「夢を見続けるよりも、現実をどう生きるかに気持ちを向けた方がいい。早速仕事に取取り掛かるといい」

 佐藤はビジネスライクに言うと、鞄から一枚の紙を取り出して、それを恭介に手渡す。紙には、五十代くらいの恰幅のいい男の顔写真とその男の病状及び入院していると思われる病院と病室が書かれてあった。

「君にはまずこの男の命を救ってほしいと思っている。彼は末期の癌でな、余命いくばくもないんだ」

 佐藤は端的に補足する。

「この人は、何者なんです?」

恭介は、自分のルーツを知った衝撃から自らを立ち直らせようと、自分に叱咤をしながら訊ねる。

「それは本来ならば君が知らなくていいことだ。ただ今回は、最初なので少しだけ教えよう。この男は、とある企業のCEOなのだが、アメリカの現国務長官とハーバードで同窓だったんだ。国益に関わることなので、これ以上のことは言えないが、とにかく今は、国として彼が持つ強力なパイプを失わけには行かないというわけだ」

 人の命というよりも、その人間が持つ関係性を失いたくないという理由に、恭介は少しげんなりした。大きな組織の論理なんて、結局はそういうものなのだろう。

「彼を救った後に、誰を殺せば?」

 恭介は、自分にとって一番の問題を恐る恐る口にする。

「その男を君が救った後に、追ってこちらから連絡する。もう一度言うが、その点について万一があった場合でも、君が捕まることは絶対にないから心配するな」

「わかりました」

 恭介が答えると、佐藤は立ち上がり「あとは彼の指示に従うように」と言って、慎吾に目配せをしてから部屋を出て行く。

「そんなにビビるような事は何も無かったろ」

 放心状態になっている恭介に、慎吾が張り詰めていた空気を打ち消すようなくだけた口調で言う。

「そうですね」

 恭介が無感動な様子で答えると、二人はどちらともなく立ち上がり、入って来た部屋の出入り口に向かって歩き出す。

「ただわかっているとは思うが、組織を裏切るようなことはするなよ。この組織が、お前の存在自体を最初からなかったことにすることなんてわけないんだからな」

 歩きながら何気なくそう忠告する慎吾の言葉を恭介は聞き流してはいたものの、微かに背筋がざわつくのを感じた。


 それから再び慎吾の軽トラックに乗り、指定された男を救うべく彼の入院している病院へと向かった。体を強張らせる恭介をよそに、慎吾はずっと恭介にこれから仕事をしていくためには車の免許を取った方がいいと勧め、軽トラックをキャンピングカー仕様に改造する楽しさを語り続けていた。恭介は、いちいち相槌を打ってはいたものの、これから人を救い、そして殺すというのに慎吾がどうしてこんなに陽気でいられるのかがわからなかった。

「慎吾さんは、何とも思わないんですか?」

 慎吾のお喋りが一瞬止まったタイミングで恭介は切り出す。

「何が、だ?」慎吾は飄々とした様子で応える。

「だから、その、この仕事のことです。当然最初から知っていたんですよね。悪魔との契約のことも。それなのに、どうしていつもそんなに楽しそうにしていられるんですか?」

 恭介の問いかけに、慎吾は浅く笑うと、「そうだな」と呟いた後で「それは楽しむしかないからじゃないか」とまるで他人ごとのように答えた。

「だって、考えてもみろよ。オレたちは、人の生き死に関わるのが当たり前なんだぜ。悪魔だか何だか知らないが正直荒唐無稽のよくわからない話にいちいち思い悩んでちゃ、こっちの神経が持たないだろ」

「それはそうですけれど」

どこか釈然としていない表情をする恭介に、慎吾は「もっと楽に考えたらどうだ」と諭す。

「楽に、ですか」

「ああ、考えてもみろよ。今社会で仕事に就いている人間だって、ほとんど自分は気づいていないだけで実は間接的に人の生死に関わっている。例えば、病院で働いている人間や、交通機関の運転手なんてわかりやすいだろ? それに、物を売る商売だって、安全じゃない食べ物や有害物質の含んだ製品を売ってしまう場合だってあるし、社内でのパワハラやセクハラ被害によって、最終的に死を選んでしまうほど精神的に追い詰められることだってある」

 理屈ではそうだった。そして地位や権力が大きければ大きいほど、一人の人間が他者に影響を与えることは大きく、しかも困ったことにほとんどの人間が大抵目の前のことで精一杯で、自分が与える影響をほとんど自覚すらしていないのが現実だ。

「でも、だからといって、みんながそうだから、自分が色んなことを考えなくてもいいっていう理由にはなりません」

「優等生の意見だな。じゃあ、聞くが、逆に言えば、お前だけが思い悩まなきゃいけないっていう理由もないだろ」

 その通りだった。言葉が詰まった恭介に、慎吾は畳みかける。

「お前は、お前一人が悩んだところで、世界が変わるとでも思っているのか? それはちょっと傲慢過ぎやしないか? お前はまずは自分の幸せを第一に考えるべきだ」

 慎吾の言葉に、恭介は、自分がこれまで能力を抑えることばかりを考えて生きてきていて、自分の幸せなど願ったことすらなかったことに気づく。そんな恭介の微かな気持ちの変化につけ入るように、慎吾は珍しく真顔になって続けた。

「オレもお前も自分で選んだ訳じゃないが、現実として特殊な能力を持った人間だ。頭がいい奴、野球や上手い奴、顔立ちがいい奴、人はそれぞれ持って生まれた能力があるけれど、オレはこの悪魔によって授けられた能力もそういったものと変わらないと思っている。自分を否定するな。お前は自分の持つこの悪魔の能力が疎ましかったかもしれないが、その能力を持つのがお前なんだ」

 慎吾の言う通りかもしれなかった。少なくとも恭介は、これまで自分の能力と自分自身を切り離して考えばかりいて、悪魔の能力を持つ自分と本気で向き合ったことなどただの一度もなかった。

「心配するな。組織の言う通りにさえしていれば、組織は決してお前を裏切らない。お前は一人の人間として生きられるんだ」

 慎吾の言葉に恭介は作り笑いを浮かべて相槌を打ち、涙が出そうになるのをごまかすように顔を窓の外に向ける。視線の先には、小雨が降って来たのか、チラホラと傘を差し始めている人がいた。恭介は開いた傘の数を何気なく数えながら、不思議と心にのしかかっていた重しのようなものが少しだけ軽くなったように感じた。


 予め佐藤に教えられた病院は、東京の湾岸部にあるガン専門の国立病院だった。外来の患者がいなくなってからという話だったので、約束の時間は夜に設定されていた。恭介は慎吾の後について行き、すでに通常の入り口は閉まっていたため、救外口から病院の中に入る。慎吾はどんどんと前に進むと、受付で誰かを呼び出していた。五分も経たないうちに、神経質そうな顔をした小太りの男性職員が鞄を携えてやってきて、慎吾に挨拶をするや先導するように歩き始めた。恭介は慎吾とともに彼の後について行き、エレベーターで病院の八階にまで上って、そのフロアの一番奥にある部屋に通される。八畳ほどの大きさの個室には、例の写真の男が全身に管をつけた状態でベッドの上に横たわっていた。男は写真よりもずっとやせ細っており、明らかに死にかけていた。

「この新しい方が行うのですか?」

 男性職員が改めて慎吾に訊ねる。慎吾はコクリと頷くと、恭介に目配せをした。恭介は体を震わせていた。ドクターハンドで人を救うこと自体は、難しくなかったが、その代償としてこれから誰かの命を奪わねばならないことや、日常的な仕事としてこんなことを続けていかねばならないことを考えると、どうしても気持ちが前屈みにはなれない。

「わかりました」

 恭介はそれでも自分の迷いを振り払うように言うと、無理に一歩前に出て横たわる男の隣に立つ。そして右手にしていた皮のグローブを外し、軽く深呼吸をしてから男にかけてあった毛布を捲り、患部だと教えられた彼の腹部の辺りに右手を重ねる。眩い光が男を包み込んだ。恭介は右手の指先からエネルギーが放出されていくのを感じながら、これまでとは違って、冷静にこの瞬間を客観的に見ている自分に気がつく。

「終わりました」光が薄らぐと同時に、恭介は告げる。

「お疲れ様です。では、サインをお願いします」

 男性職員は鞄から一枚の書類を取り出して、ボールペンとともに差し出してきた。恭介はそれらを受け取り、指定された場所にサインをしながら、まるで荷物の受け渡しをするかのようにこんなことをしなければならないことにバカバカしさを感じた。

「簡単だったろ。オレたちはただ案内されるだけでいいんだ」

 病院を出ると、慎吾がいつものようにくだけた調子で言ってきた。

「そうですね」恭介は話を合わせるように、言葉少なに答える。

「大変なのはこれからだって思っているんだろ。心配するな。そっちの方も慣れさえすれば問題なく終わる」

 慎吾は自信ありげに言うと、自分の軽トラックに向かって歩き出す。恭介は小雨に体を濡らしながら、慎吾のその大きな背中だけを見て、彼の後を追った。


 次に慎吾と恭介が向かったのは、新宿駅だった。地下の駐車場に軽トラックを停めて目的の場所に歩き始める慎吾に、恭介は「ここに殺す相手がいるんですか?」と訊ねる。

「まあ、そう焦るなって。リストがここのロッカーに届いているんだよ。万が一に備えて電子上に履歴を残すのはまずいからな」

 慎吾は小声でそれだけ言うと、「ブルース・リーが親指で鼻をこする理由を知っているか?」と急に話題を変えて訊ねてきた。

「いや、わからないですけれど」恭介は戸惑いながら答える。

「あれはな。鼻炎なんだ。鼻が詰まるからイチイチああやっていたんだ。何げない癖が誰もが認める彼のトレードマークになってしまったんだから面白いよな」

 慎吾はどや顔でウンチクを披露すると、さらにブルース・リーにまつわるこぼれ話を一方的に続けた。そしてそうこうしているうちに二人はJRの中央改札口の近くにあるコインロッカーの前に辿り着く。予め暗証番号を教えられていたのか、慎吾はテキパキとした動作でそのうちの一つを開け、中からA4サイズの茶封筒を取り出す。

「そこに殺す人間の指示が……」

 恭介が言いかけたところで、慎吾は目配せをしながら小さく首を横に振る。恭介は自分の迂闊さに恥ずかしく思いながら、慎吾から渡された茶封筒を大事に抱え、慎吾とともに早歩きで来た道を戻った。

「ブルース・リーが戦いのときに発する「アチョー」っていう叫び声は「怪鳥音」っていうんだ。広東語を喋るリーのセリフは、ほとんど北京語に吹き替えられているんだけど、怪鳥音だけはリー自身の声なんだ。ただし北米版の『ドラゴンへの道』と国際版の『死亡遊戯』だけは、怪鳥音の掛け声も別人の吹き替えになっているんだけどな」

 慎吾は帰り道でもずっとブルース・リーのウンチクを喋り続けていた。そして地下駐車場に戻ってきた途端、お喋りを止める慎吾を見て、恭介はようやく彼がカモフラージュのために喋り続けていたということに気がつく。

「さてと、もういいぞ。ずっと気になっていたんだろ」

 軽トラックに乗り込み、周囲に誰もいないことを確かめてから、慎吾は恭介に茶封筒を開けて中を見るよう促す。茶封筒の中には十枚ほどの紙がゼムクリップでまとめられており、その一枚一枚に顔写真と共にその人物ものものと思われるプロフィールや行動範囲などが詳しく記されていた。

「この人たちは犯罪者か何かなんですか?」恭介は恐る恐る訊ねる。

「まあ、それに近い存在だな。そいつらは反社会人格障害だと診断された連中だ。サイコパスっていった方が一般的にはわかりやすいかな」

 サイコパス。確かに恭介はその言葉なら聞いたことがあった。良心や道徳心が欠けている人間のことで、悪いことをしても悪いと思わない人間だと、よく映画やアニメで描かれていた。恭介は、一人一人のプロフィールに詳しく目を通す。そこには、それぞれの窃盗や詐欺、強姦などの犯罪歴が並べられていた。

「この中から自分が一番悪いと思う人間を選べ」

 そう命じる慎吾の言葉には、これまでにない冷たさと侮蔑が込められていた。

「でも、この人たちは死刑を宣告されているわけではないんですよね?」

 そう訊ねる恭介に、慎吾は呆れたような顔をして含み笑いをする。

「当たり前だ。もし死刑判決を受けていたら、そもそも刑務所から出られないんだからな。国から死刑と言われていない奴を殺す自信はないか?」

 慎吾は今さら何を言っているんだという調子で逆に問い返す。

「自信というか。ただ本当にオレが決めちゃっていいのかなって。それに、この人たちが本当にサイコパスなのかとか、治る見込みがないのかとか、色んなことを考えちゃって」

 しどろもどろな言い方でどうにか答える恭介に、慎吾は説明を加え始める。

「いいか。このリストに載っている連中は皆、小さい頃から行為障害があり、複数の医師からサイコパスだと診断されている。それに、サイコパスは残念ながら、今の現代医学では症状を多少抑えることが出来ても治すことが出来ない。その原因がハッキリと分かっていない以上、治療が難しいんだ」

 治すことは出来ない。だから、殺してもいい。恭介はそうした理屈を頭では理解しながらも、どうしても賛同することが出来ない。そんな恭介の心内を見透かしたのか、慎吾はより強い口調で続けた。

「もっと言えば、コイツらに同情をして、コイツらが社会で生きることを許したら、コイツらはそんな社会に対して、何度も悪事を働く。お前がこいつらを殺さなければ、何の罪のない人たちがコイツらから危害を加えられるんだ」

 そんな言葉は詭弁だと恭介にもわかっていたが、罪のない人たちが傷つけられるかもしれないという可能性は、想像以上に恭介の胸をざわつかせた。

「何なら、オレが選んでやろうか? そっちの方が楽だろう」

 このままでは埒が明かないといった様子で、慎吾が提案する。

「待って下さい」

 恭介は慌てて言うと、まずはリストにある数少ない女性や比較的若い人間は除外した上で、一番殺されてもしょうがないほど素行が悪い人間を選んでほしいと慎吾に頼んだ。慎吾は「わかった」と言うと、しばらくリストを眺めた上で、そのうちの一枚を恭介に渡す。それは、澤村壮太という男のプロフィールだった。澤村は、載せられている写真を見る限り、見るからに柄の悪そうな顔をした五十四歳の男で、小動物の虐待や家庭内暴力などの行為障害に始まり、大人になってからは数々の障害事件や強姦未遂事件を起こしていながらも、精神障害を装って罪を免れてきた男だった。

「コイツは実家とも疎遠で、結婚もしていないから、ほぼ天涯孤独の身だ。しかも今は仕事もしていないので、他人との接触も少ない。殺しやすい人間だと思うがどうだ?」

 リストを目にして明らかに嫌悪感を覚えている恭介の様子に、慎吾は満足した様子で補足する。

「この精神障害を装って罪を免れているって話は本当なんですか?」

 恭介は冷静に訊ねる。

「ああ、最初の頃こそ奴は計略通りに、精神障害だと認定されていくつもの罪を免れてきた。でも、嘘に嘘を重ねていくうちにどんどんと矛盾点が出てきて、今じゃ、ほとんどの精神科医が奴の病気は詐病だと認めている」

 慎吾の言葉には説得力があった。彼はリストに載っていること以上の情報を知っているようだった。

 恭介は澤村を左手で殺すことを承諾した。それは、これ以上リストを眺めていても、皆同じようにしか見えなかったからだった。

 慎吾は、澤村が住んでいるという浅草近辺に向かって車を発進させる。車が駐車場を出て、大通りに出た頃には、慎吾はいつものようなくだけた調子でお喋りを始めていた。それは犬の生態系についての蘊蓄だった。しかし、これから人を殺さねばならない恭介に楽しげに会話をする余裕などあるわけがなく、恭介は慎吾の話に適当に相槌を打ちながら、ただひたすら澤村を殺すことだけをイメージしていた。さっきまで降っていた雨は、いつの間にか止んでいた。


(三)


 恭介が浅草に来たのは、子どもの時以来だった。以前に来たのは母と一緒だった。正直ほとんど記憶には残っていないが、浅草寺の近くの店であんみつを食べたことだけは覚えている。車をコインパーキングに停めてから、慎吾を追うように歩き始めた恭介は、母とあんみつを食べた甘味処がまだ残っていないか何気なく横目で探してみる。そして自分のぼんやりした記憶と似通った店を何軒か見つけたものの、母がもうこの世にいない以上、それ以上確かめる術はもはや何もないことにすぐに気づく。

 夜になっても観光客で賑わっている浅草寺界隈を抜け、慎吾と恭介はどんどんと庶民的な雰囲気を残す住宅街の中に足を踏み入れていった。澤村が住んでいるというアパートは、浅草寺と吉原のちょうど真ん中あたりの場所にあった。リストに書かれた調査結果によれば、現在生活保護で暮らしている澤村は、ほとんど毎日家の中に引きこもっており、夜はだいたい家にいるという。

 人目を伺いながら、今すぐ澤村の部屋に行き、奴がドアを開けたところで一気に襲おうと主張する慎吾に対し、恭介は「もう少し様子をみさせてもらえませんか」と言って異を唱える。

「何だ、今さら怖気づいたのか?」

「そうじゃないんです。ただもう少し自分の目で確かめて納得がしたいだけです。人を殺すっていうのは、それだけのことだと思うから」

 恭介は必死に自分の中のモヤモヤを言葉にしようとする。

「この辺をウロウロすればするほど、周りから疑われるリスクが高くなるんだぞ。澤村自身にも自分が狙われていると悟られるかもしれない」

 慎吾は恭介の煮え切らなさに理屈で苦言を呈す。

「わかってます。でも、どうしてもまだそういう気持ちにはなれないから」

 それでも素直にウンと言わない恭介に、慎吾は露骨に大きなため息をつくと、しばらく考えてから「わかった」と呟く。

「これからのためにも、自分で納得できるところまでやってみるのもいいだろう。ただし人目にあまり触れないように気をつけろよ。明日まで待ってやる。何かあったら呼べ」

「ありがとうございます」

 慎吾がその場から離れるということに、恭介は大きな不安を感じた。ただそれ以上に今の恭介には、自分が言い出した以上、自分が納得できるように自分で行動を取らなければならないのは当然のことだとも思う気持ちの方が強かった。


 一人になった恭介はとりあえずもう一度慎吾からもらった澤村のプロフィールを詳しく見てみることにした。澤村は数々の事件を起こす前に、千葉県の銚子市に生まれ育っていた。恭介はまずはそこに向かおうと思った。そこに行けば、澤村について他に何かを知ることが出来るかもしれないと思ったからだった。リストには実家の場所までは書いていなかったが、卒業した小学校と中学校の名前が記されていた。情報はそれだけだったが、その周辺で聞き込みをすれば、必ず澤村のことを知っている人間に出会うはずだという根拠のない自信があった。

「お前は奴の何を知りたいんだ? さっさと殺せば済む話だろ」

 銚子に向かうローカル線に乗り込み、人気があまりない車両で四人掛けの席に座っていると、いつの間にか対面にノボルがいた。

「幻影のくせに余計なことを言うな」

 恭介は小さな声で呟きながら、視線を窓の外に映す。窓の外では、新緑の田園風景が流れていた。

「オレはお前の本音を語ってやっているだけだぜ。理性的な判断をしてもらうために」

 恭介はその言葉に再び視線を戻す。ノボルだったはずの男が、慎吾に代わっていた。そしてギョッとした瞬間に、目の前には誰もいなくなり、自分がやはり幻影を見ていただけなのだと思い直す。逸る鼓動を落ち着かせながら、恭介は小さく息をつき、視線をまた窓の方に向けた。


 銚子に着いた時には、すでに町は寝静まっており、恭介はまずは駅から一番近いビジネスホテルに飛び込みで泊まることにした。そこは小さなホテルで、あまり景気がよくないのかロビーにほかの客は見当たらず、手続きに待たされることもなくチェックインは済んだ。部屋はシングルベッドとテレビだけが置かれた小さな部屋だった。恭介は、途中で買ってきたおにぎりを食べたあと、浴室でシャワーを浴びてすぐにベッドの中に入る。眠りにつくまでは、ゴチャゴチャといろいろなことを考えてしまっていたが、疲れていたのか、ひとたび寝入ると夢を見ることもなく、ぐっすりと眠れた。

 日の出とともに目が醒めると、そのままホテルをチェックアウトし、銚子港に向かった。港ならすでに漁師たちが働いているはずで、そこで片端から澤村のことを聞いて回ればいいと思ったのだ。

 港ではちょうど水揚げされた魚を運んでいるところだった。その他にも朝市の準備やら何やらで、皆忙しそうに働いていた。明らかに場違いに挙動不審な様子でウロウロしていた恭介に、その場で働いている人々は若干不可解そうな様子で見ていたが、特に文句を言ってくるという訳でもなかった。朝起きた時から、すでに左手は意思を持ち始めていた。時折震える左手を右手で抑えながら、恭介は手が空いていそうな人を見つけては、澤村の写真を見せて彼のことを知らないかと訊ねてみた。ほとんどの返事がつれないもので、中には「忙しいときにヘンなことを聞くな」と露骨に怪訝な態度を見せる人もいた。

 何も情報を得られなかった恭介は、ひとまず食事をとろうと近くの食堂に向かうことにした。そこで、給仕をしていたおばちゃんや地元の人っぽい客のおじさんにも澤村のことを聞いてみたものの、やはりつれない答えしか戻ってこなかった。気を取り直して、とれたての新鮮な魚がこれでもかと入った海鮮丼を食べた後に、恭介はもう一度港の周辺をうろつき、地元っぽい人を見つけては、澤村のことを聞いて回る。

 夕方近くの時間になっても、澤村のことを知っている人間には誰も出会わなかった。そろそろ東京に戻らなければ、左手が暴走してしまう。最悪の事態が頭を過る。

「澤村壮太のことを探っているのはあんたかい?」

 漁師風情の男が声をかけてきたのは、もはや諦めかけた恭介が、駅に向かおうかと思い始めたときだった。白髪交じりの短髪で、太い眉毛が目立つ顔をしている澤村と同年代の男だった。よく陽に焼けているガタイのいいその男は、澤村のことを聞き回っている人間がいると他の人間が話しているのを訊いて、恭介を探していたのだと告げ、謝礼を払ってくれるなら喋ってもいいと言う。男の申し出に、恭介は「これでなら」と指を一本立てる。男はコクリと頷く。

「あいつは元気にしているか?」

 竹中と名乗るその男は、交渉が成立するや、屈託のない笑顔でいきなり訊いてきた。

「ええ、まあ、それなりに」

 恭介は言葉を濁しながら、とりあえず近くの喫茶店に竹中を誘う。移動中、恭介のことを探偵だと勝手に思い込んでいた竹中は、澤村が何をしでかしたのか何度も聞いてきたが、恭介は適当に守秘義務があると言ってごまかし続けた。

 恭介と竹中が入った喫茶店は、いわゆる町の小さな喫茶店だった。もう何十年も営業しているのか、店内の調度品のほとんどはかなりくたびれている。客は二人のほかには、初老の男性が奥に一人いるだけで、店内には一昔前のポップスがBGMとして流れていた。恭介と竹中は窓際の席に座り、お冷を運んで来たおばちゃんにコーヒーを二つ注文した。

「オレはさ、壮太に礼を言いたいんだよな」

 コーヒーがくるなり、竹中は待ちきれんといったばかりの様子でいきなり切り出す。

「何か、彼に恩でもあるんですか?」

 悪評を期待していた恭介は、竹中の反応に戸惑いながら慎重に訊ねる。

「いや、特別に何かをされたってわけじゃなかったんだけどさ、アイツとは一年くらいかな。確か小学校の高学年のときだったと思うけれど、短い間だけやたらと仲がよかった時期があったんだ」

 竹中は目を細めながら、懐かしそうに語り出す。

「楽しかったなあ。クラス替えで、初めて一緒になって、二人で毎日のように遊んでいたよ。それまでオレは引っ込み思案で、友達と遊ぶことがほとんどなかったんだけど、アイツがどんどんと色んなことを教えてくれたんだ」

 竹中の話によると、澤村は物怖じを全くしない性格で、好奇心が旺盛であったという。彼は大人が入り浸るような場所に強い憧れを抱いていたようで、彼に誘われて竹中もパチンコ店や麻雀店にしょっちゅう忍び込んでいたそうだ。

「一番印象に残っているのは、駅前のスナックに昼間に訪ねていったことだ。もちろん店はまだやっていないんだけどさ、そんなのお構いないしでさ。そしたらママさんが出てきて、ソーダ水を出してくれたよ」

 竹中は本当に楽しそうに澤村との思い出を語っていた。竹中が語る澤村は、恭介が想像していたものとも期待していたものとも違っていた。どこか釈然としない恭介は、楽しかった思い出以外に澤村について覚えていることは何かないかと竹中に訊ねる。竹中はよく日焼けした顔を皺くちゃにして、腕を組んでしばらく考え込んでから「そういえば、よく虫を殺していたな」と呟く。

「虫って、アリとか蚊とかですか?」

「いや、それなら当たり前だろ。アイツは普通の子どもなら珍しがる虫を残虐なやり方で殺すんだ。例えばカブトムシやクワガタを入れた虫籠に爆竹を投げ込んだりして」

 話を聞いただけで虫唾が走った。しかし竹中は、そんな澤村の行為を「気持ち悪いと思いながらも、澤村自身も周りの友達たちも盛り上がっていたので特にそれがおかしいとまでは思っていなかった」と言う。

「他には何かありませんか? 例えば家庭のことで澤村が悩んでいたとか」

 竹中はどうしてそんなことを聞くんだという不審な顔をしてから、「そうだな」と考え込む。

「家庭のことはよくわからないな。そういえば、家にも行ったことがないし、あいつ自身あまり話したがっていなかった気がする。家に父親がいないって話は他の誰かから聞いたことはあるけれど」

 恭介は澤村が他の友達との関係で何か問題がなかったか重ねて訊ねる。

「まあ、普通だったと思うよ。ただ喧嘩はしょっちゅうしていた。思い出せないくらいくだらない理由でさ。でも、そんなのは、それぐらいの子どもだったらみんなやっていたことだからな」

 竹中には、澤村についてあくまであまり悪い印象がないようだった。それ以上話すことがなくなったのか、竹中は手持無沙汰な様子で何度もコーヒーをすすっている。恭介もこれ以上何を訊いたらいいのか考えあぐねていた。左手も段々と制御が効かなくなり始めている。

「そういえば、思い出したんだけど、なぜかアイツ、やたらと金回りだけはよかった」

 竹中が突然思い出したかのように呟いた。

「オレもしょっちゅうおごってもらったりしていたよ。ただ中学になってからアイツが親の財布とか店のレジとかから金を盗んでいたっていう話は聞いた。一度捕まって少年院に行きかけたっていう噂もね」

 それは、大人になってからも窃盗を繰り返している澤村にとっては、あってもおかしくないエピソードだった。しまっていた記憶の引き出しが見つかったのか、竹中は再び澤村との思い出を語り始める。

「あとイタズラが好きだったことも覚えている。女子の自転車のサドルに唾を吐きかけたり、気の弱そうなやつの筆箱とかリコーダーとかを隠したりしてさ。見つかって先生に滅茶苦茶怒られていたときもあったけど、オレからしてみたら、自分に出来ないことをやっている壮太は、何だかすごい奴に見えていたんだ」

 竹中は澤村の話のほとんどをまるで武勇伝のように語っていたが、冷静に考えるとどれも酷い話だった。殺された虫にしても、お金を盗まれた人にしても、物を取られたり隠されたりした人にとっても、澤村はただの加害者でしかない。同級生と喧嘩をしたというエピソードにしても、相手にとって理不尽な理由がなかったとは限らない。

「なあ、壮太の一体何を調べているんだ? アイツ、何か悪いことをしたのか?」

 竹中がもしかして自分が余計なことを喋ってしまったんじゃないかと思ったのか、不安げにまたこちらのことを探ってくる。

「いや、たいしたことじゃないんです。ただ、その彼と交際をしている女性の家族から、彼のことをちょっと調べてほしいって頼まれているだけで」

 恭介は、思いついた嘘を並べる。竹中は少しホッとした顔を見せる。

「それならいいけど、アイツさ、本当に面白い奴なんだ。不器用で、たまに不機嫌そうな顔をしているから、誤解を受けることも多いかもしれないけれど、根はいい奴なんだよ」

 竹中は、自分が喋ってしまった言葉を必死にフォローし続けた。懐かしそうに澤村のことを語る竹中の顔を見ているうちに、もう彼から聞くべきことはないと恭介は感じる。すでに急いで東京に戻らねばならない時間になっていた。恭介は約束通り竹中に一万円を払う。

「もしアイツに会うことがあったら、よろしく言ってくれ。あの時は楽しかったって」

 別れ際に言われた竹中の言葉が妙に耳に残る。左手はまるで飢えたオオカミのように獲物求め始めていた。


 東京に向かう電車の中で、恭介はなぜ竹中の話を聞いてしまったのかと後悔していた。何も知らなければ、もっと楽に澤村を社会不適合者として殺すことが出来たのに、彼の話を聞いてしまったあとでは、恭介の頭の中で澤村は一人の人間として存在してしまっていた。慎吾の言う通り、澤村には幼い頃から行為障害があり、竹中の話を合わせても、彼がサイコパスであるということに疑いはなさそうだった。ただ彼の行動の一つ一つが障害による症状の結果なのか、後天的な環境によるものなのか、それとも彼の悪意によるものなのか、つまるところよくわからなかった。恐らく精神科医でも裁判官でも判断することが出来ないだろう。澤村本人にしてみても、自分の行動のいちいち自覚などしておらず、ただ茫漠と生きているに過ぎないに違いない。

 左手はすでに大きく膨れ上がり、右手で抑えてないとその蠢きを止められなくなっていた。恭介はとにかく澤村は悪い人間なんだと思い込み、澤村を殺す理由を探し続ける。

 東京に着き、澤村が住むアパートの前まで来た時には、すでに左手が発動するまで十数分しかなかった。いつの間にか小雨が降り始め、傘を持っていない恭介は、だんだんと髪や服を湿らせていく。雨の臭いを敏感に感じながら、恭介は「もう迷っている暇はない」と自分に言い聞かせていた。澤村以外の何の罪のない人を殺すわけにはいかないのだ。

 澤村が住むアパートは木造の古びたアパートで、あまり管理がされておらず、雨どいは割れ、壁にもヒビが入っていた。恭介は今にも壊れそうな建物が醸し出す不気味さを感じながら、ところどころ青いペンキが剥がれて赤錆色を剝き出しにしている外階段を登る。澤村が住む部屋は奥から二番目だった。一歩一歩前に進んで行き、ドアの前に立ち止まる。恭介は震える右手の指先でインターホンを押した。「誰だ?」という怪訝な声が聞こえてくる。

「宅配便です」

 思わず出た言葉はベタな嘘だった。すぐにドアが開き、澤村が顔を覗かせる。初めて見るその頬骨が張った顔は思った以上に皺が多く、髪も薄くて、写真よりもずっと老けて見えた。

「何だよ、てめえ、業者じゃねえな」

 澤村は不安げな目をしながらも、強い口調で威嚇する。一瞬気圧された恭介は、次の言葉が口に出せない。澤村は舌打ちをすると、ドアをそのまま閉めようとする。その瞬間、恭介の左手がまるで意思を持ったかのように勝手にドアを掴み、無理矢理こじ開ける。

「な、何しやがる!」

 澤村は恭介に向かってきたが、もはや肥大化した恭介の左手は、逆に澤村を部屋に引き戻すかのように彼を突き飛ばした。突然の出来事にパニックに陥った澤村は、腰が抜けてしまったのか、腕の力だけで部屋の奥までゴキブリが生えずり回るような格好で逃げていく。恭介は土足のまま部屋に入り込む。澤村の部屋は、六畳の狭い部屋で、物が散乱していた。部屋に入ってすぐの場所に小さな本棚があり、歴史ものの漫画が並んでいる。そして、意外だったのが本棚の中に、澤村が一人の女性と仲睦まじく写っている写真が飾られていたことだった。〝愛を理解せよ〟。それが悪魔の口にした唯一の契約破棄の条件よ。久しぶりに母の言葉がまた脳裏に浮かんだ。それだけじゃなく、麻美やウェイの顔までもが次々に浮かんできた。

「な、何なんだよ、お前は一体誰なんだよ」

 澤村はようやく震えた声でそう言葉を叩きつけると何か武器を探そうとその場でキョロキョロとし始め、ようやく武器になりそうな大きなカッターを手に取ると、恭介に立ち向かってくる。恭介はすぐに撥ねつけ、澤村を再び突き飛ばす。

「この女は誰だ?」

 訊くべきではない質問だということはわかっていた。それでも恭介には訊かずにはいられなかった。澤村はキョトンとした顔を浮かべたものの、「別に、ただの元カノだよ」とぞんざいに答える。

「なぜ元カノの写真なんて飾っているんだ?」

 澤村の答え方にイラついた恭介は、もう一度強い口調で訊ねた。

「それは、オレのことを唯一認めてくれた女だから」

 そう答える澤村を見下ろしながら、恭介は、彼が強い言葉遣いとは裏腹に恥ずかしそうにしているのが手に取るようにわかった。恭介はこんなものを後生大事に飾っている澤村に対して腹立たしく感じていた。もっとわかりやすく自堕落で、誰からも嫌われて当然だと思わせるものしか目に飛び込んで来なかったら、何も感じずに彼を殺すことが出来た。でも、今、彼の目の前にいるのは、やはり一人の人間であるのだ。

 左手が血を求めて、今にも澤村に飛びかかろうとしている。恭介はそれを必死に右手で抑えながら、そのままその場を後にした。


 外に出ると先ほどまでの小雨だった雨脚がいつの間にか強くなり、空も一段とどんよりと曇っていた。恭介は左手を必死に抑えながら、とにかく澤村のアパートから離れ、人気のない場所に向かおうとした。自分が馬鹿なことをしていることはわかっていた。澤村を殺さなければ、何の罪のない人を殺してしまいかねないということもわかっていた。

 すれ違う人たちが皆、傘もささずに左手を必死に抑えながら走る恭介をギョッとするような顔つきで見ていた。左手は今にもそのうちの誰かに飛びかかろうとしている。焦りながらも、恭介は頭の中で、澤村は自分と同じなのだと思い至るようになっていた。他人と違う人間、他人に害を及ぼすことなく、普通に暮らすことが出来ない人間。ただ違うのは、澤村の障害にはサイコパスという悪人としかいいようのないレッテルが貼られていたのに対し、自分の能力には権力者にとって利用価値があっただけだった。芽依の顔が頭に浮かぶ。後ろめたさから、記憶の中の彼女の顔を正視することが出来ない。

 恭介は絶望感に打ちひしがれながらとにかく走り続け、やがて大きな通りに出た。通りには、多くの人が行き交っており、無心に歩く人もいれば、胡散臭そうに恭介をチラリと見てから去っていく人もいた。この中の誰かを殺さなければならない。そう思ったとき、五メートルほど前に慎吾が立っていることに気づく。

「奴を殺せなかったんだろ。まあ、予想通りといったところだな」

 慎吾は優しく語りかけると、自分についてくるように恭介を手招きした。恭介はもはや自分で何を考えたらいいのかもわからず、ただ彼の冷静さにすがるしかなかった。慎吾はそのまますぐ近くに停めてあるワゴン車の乗るように恭介を促す。ワゴン車は銀色をしていて、窓はスモークガラスで加工されており、外から覗くことが出来ない。

「早くしろ。オレが餌食にされちまう」

 慎吾の言い方に違和感を覚えながらも、恭介はとにかく言われるがまま後部座席からワゴン車の中に乗り込んだ。それは運転席と助手席以外には席のない、荷物を運ぶためのワゴン車だった。そして中には、手足を縛られ、口元も黒いテープでグルグル巻きにされた中年の男が一人ポツンと横たわっていた。わけもわからず、ただその男の様子を見ていると、背後でドアが閉まる音がした。車内には恭介と目の前の男の二人しかいない。この男を殺せと言うのが、慎吾の明確なメッセージだった。男は、恭介に気がつき、必死に「んー! んー!」と唸りながら、縛られた手足をジタバタさせて、目を血走らせて助けてくれるよう訴える。恭介は男に対して何か言葉をかけようとしたものの、何を喋ったらいいのか、言葉が何も見つからないでいた。左手が暴走したのは、そのときだった。キラーハンドは迷うことなく、目の前の男に勝手に襲いかかり、黒い光を発するとともに男の精気を吸い取っていく。黒い光が晴れた後に残ったのは、もはやモノと化した男の亡骸だけだった。

 頃合いを見計らって、慎吾が中に入って来る。

「この男は一体?」恭介は絞り出すような声で訊ねる。

「心配するな。コイツもサイコパスだ。あのリストの中にもあった。見覚えはないか?」

 恭介は男の顔をもう一度見てみる。中年で細目だということはわかるが、顏の下半分が黒いテープによって隠されていたのでそれが誰であるのかは正直よくわからない。

「こうなることがわかっていたんですか?」恭介は慎吾に訊ねる。

「まあな。だが別にお前を信用していなかったわけじゃない。ただオレも同じだったからわかるんだ。サイコパスだからって簡単に殺してもいいのか? サイコパスだって人間で、自分と変わらないんじゃないかって、思ってるんだろ?」

 恭介は自分の気持ちを言い当てられてゾッとする。

「なあ、英語で障害って何て言うか知っているか?」

 そんな恭介の気持ちをさらに逆撫でるかのように、慎吾は訊ねてくる。恭介は口ごもるしかない。

「disorderだ。秩序を意味するorderに否定を意味する接頭語のdisがついている。つまり、障害とは、秩序を乱すという意味だ」

 得意げに説明する慎吾に、恭介は「何が言いたんです?」と苛立った様子で食ってかかる。

「まあ、そんなに怖い顔をするなよ。要するにだ、それがお前と澤村の違いってやつさ。確かにお前も澤村も普通の人間じゃないってことでは一緒だ。だが、大きく違うのは、澤村の障害は奴を秩序から逸脱させていくしかない一方で、お前の能力は使い方を間違わなければ、秩序を守ることに役立てる」

 慎吾の言葉が重くのしかかって来るかのように、恭介の頭の中で鳴り響く。

「オレたちは正しいことをやっている。もう迷うな。たとえそれが汚れ仕事であっても、誰かが導かなきゃ、世界はうまく回らないのだから」

 力強くそういう慎吾の顔は自信に満ちていた。恭介はどうしたらこんな顔になれるのだろうと思いながら、自分が今殺したばかりの男の死体を眺める。この男にも本気で愛し合った人がいたかもしれない。これからやりたかったこともきっとたくさんあっただろう。でも、この男が生きていることによって、たくさんの人たちが苦しめられている。胸が掻きむしられているかのように痛かった。楽になりたい。心からそう思う。恭介は慎吾に向かってぎこちなく笑顔を作ってみせる。

「何か言いたげだな」慎吾は恭介の苦しみを悟っているかのように訊ねる。

「あの、オレたちの能力ってなくなるってことは本当にないんですかね?」

恭介は、思わず訊いていた。自分が修羅の道に行くことになったとしても、せめて芽依だけでも救うことが出来ないかと願っていた。

「契約破棄の話か? まだそんなことを言っているのか。〝愛を理解せよ〟。まあ、随分とロマンティックな話だがな。残念ながら、オレはそんな話を信じちゃいない。かつて誰一人として契約破棄に至った人間がいないのが現実だ」

そう言われるのはわかってはいた。恭介は「そうですよね」と合わせるように無理に笑う。

「オレたちの能力って、一体何なんですかね」恭介は落ち込みを悟られないように呟く。 

「さあな。いつか悪魔に直接会えたら訊いてみたいな」

今度はふざけるように言いながら、慎吾は早く助手席に移るように目で促した。


                      *


 馬渕は夢を見ていた。赤ん坊を抱いた佐和子が出て行くのをただ見送っていた、あの日の夢だった。元妻を夢に見たのは何年ぶりだろう。馬渕は目を覚まし、体を起こす。夜は明けておらず、窓の外は暗い。もう十数年も暮らしている1LDKのマンションに帰って来るや、そのままソファに寝っ転がり眠ってしまったことを思い出す。

 節々が痛むのを堪えながら、キッチンに向かい、電気を点ける。照らされた小さな食卓は書類に埋もれ、もはやその機能を果していない。いつか片づけなくてはと思いながら、時間だけがそのまま経ってしまった現実を突きつけられ、それらのすべてを見なかったことにしてシンクに向かう。シンクには洗い残した食器の山があり、かすかに異臭を放っていた。馬渕は顔をしかめながら、そこから目につくコップを手に取り、それを適当に洗ってから、そのまま水を入れて一気に飲み干す。体の中に水分が染み渡っていくのを感じる。

 トイレに行ってから、リビングのソファに戻り、薄暗い部屋の中でぼんやりと雑然とした部屋を眺めながら、なぜ今更佐和子の夢を見たのかと自らの女々しさを嗤い、そして恭介のことが気がかりだからこそ、彼女のことを思い出したのだと悟る。馬渕は無意識のうちに、佐和子が死んだときのことを思い出していた。彼女の死を聞いたのは、もう彼女の葬式が終わったあとだった。教えてくれたのは、彼女の妹だった。義妹は恭介を北海道に連れて行った旨を事後的に告げ、了承を求めた。

 馬渕はそのとき、自分でも驚く程何の感情も湧かず、むしろ恭介を引き取れと言われずに、ホッとしたことを覚えている。警視庁捜査一課に入ったばかりで、仕事が激務であったことは確かなのだが、それ以上に夫としても父親としても何もしてこなかった自分自身の後ろめたさと向き合いたくなかったのだと思う。佐和子の妹は、佐和子は病死したと言っていた。あのときは、その言葉を鵜呑みにしてしまったが、今考えると、もしかして恭介の左手によって、佐和子が殺されたのではないかという疑念がチラリと頭に過る。

 陽が昇り始めたのか、窓の向こうが微かに白み始めている。馬渕は自分が居れば、佐和子が死ぬことはなかったかもしれないと想像し、すぐにそれは驕りだと戒める。次々に彼がこれまで捕えてきた犯人たちの顔が脳裏に浮かんできた。皆、一癖も二癖もある悪人面で、その表情にはそれまでの人生の怒りや悲しみといった負の感情がすべて刻み込まれていた。馬渕はふと、彼がこれまで捕まえてきた犯人と自分は一体何が違うのだろうと考えた。怒りや悲しみを常に抱えていることは同じだった。程度の差こそあれ、人を出し抜いたり、騙したりすることも、時には暴力を振ることも同じだ。ただ大きく違うのは、自分は運よく権力の側に辿り着き、そこでのうのうとしているのに対し、彼らは皆、元々弱い立場にいて、正しい社会の仲間に入る機会をほとんど与えられずに大人になってしまったという点だった。そして、そういう意味では恭介も同じなのかもしれないと思う。佐和子から能力のことを、それが彼女の祖先が悪魔と契約したがゆえに代々受け継がれることとなったものだと聞いていたにも関わらず、すべてファンタジーだと決めつけ、その挙句に父親として、彼に何も教えてこなかった自分の罪は、果てしなく大きいに違いない。馬渕は生まれて初めてといっていいほど、自分が何もしてこなかったことを狂おしいぐらいに後悔した。そして今更ながらに自分は息子のことを愛しているのだと深く感じた馬渕は、こんな自分にも人間らしい心があったのだと知って、愕然とした。馬渕は人並みに泣きたくなった。ただ涙は少しも流れることはなく、胸に込み上げる感情は行き場に困って、彼をひたすら苛立たせた。泣きたくても、泣くことすら出来ない。馬渕はそんな風になってしまった自分こそが人の皮を被った悪魔であるような気がした。


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