第三章 龍の棲む街
(一)
風が急に冷たくなり、冬の足音が近づいてくるのが感じられた。特に海辺で働いていると、季節の変化に敏感になっていくような気がする。
恭介は横浜港で港湾荷役作業員として働いていた。仕事は港に入ってきた貨物船の船内に乗り込み、船倉ごとに二十人ほどの編成で貨物の積み下ろし作業をするというものだった。知子をキラーハンドで殺した後、恭介は川崎の工場の寮に荷物を取りに一度だけ戻ってから、この場所に逃げて来た。
音楽はもうやらないと決めていた。翔太から知子を奪った自分には、そんな資格はないと思ったからで、それはまさに恭介が自分に与えた新たな戒めだった。
芽依にも戒めを守ってずっと連絡をしていない。寂しかったけれど、せめて彼女を想う気持ちだけは忘れずにいようと恭介は心にいつも強く念じていた。
仕事が終わると、恭介はそそくさと着替えを始める。着慣れたシャツの上に羽織るのは、なけなしのお金で買ったネイビーブルーの厚手のコートだ。朝から頭がボーッとしていて、ちょっと熱っぽく、着替えている際も、立っているのがやっとだった。
フラフラとした足取りで港から離れる際に、一緒に働いている何人もの作業員たちとすれ違った。仕事を始めた当初は、数人の作業員が一緒に飲みに行こうかと何度も声をかけてきたが、毎日素っ気なく断っていくうちに今や誰も恭介に声を変えてくる者はいなくなっていた。
「よう、ようやく見つけたぜ」
寝泊りしているネットカフェに向かおうと桜木町の駅前に向かう途中で、相変らず全身黒づくめの服を着たノボルが背後から声をかけてきた。恭介は一瞬振り返るが「ふん」とため息まじりにノボルのことを一瞥しただけでそのまま歩き続ける。
「おいおい、久しぶりに感動の再会を果たしたっていうのに、その態度はないだろ」
「何の用だ? オレにもう付きまとうな」
恭介は冷たく言い放ち、ダルい体を押して足取りを速める。
「待てよ」ノボルはそんな恭介の肩を掴み、強引にその足を止めさせた。
「そうビビるなって。すぐに慣れるさ」
「何に、だ?」
恭介はノボルのことを睨みつける。麻美や知子を殺したときの記憶がフラシュバックした。そして泣いて訴えかけてくる翔太の姿が脳裏に浮かんでは離れず、いっそ自分も死んだらどんなに楽かと思った。今、彼を生かしているのは、命を賭して自分を生かした母への気持ちと芽依への想い、とりわけ彼女が殺人を犯さなくてもいいように、〝愛を理解する〟という悪魔との契約破棄の方法を探りたいという執念だけだった。
「連続殺人犯は、しまいには人を殺すことに対して無感覚になっていくらしいぜ。お前もそうなれ、お前にはその資格があるんだ」
恭介はノボルの襟首を掴み、拳を振りかざす。
「どうした? 殴れよ? この間やったみたいに」
ニヤニヤと笑いながら挑発してくるノボルの顔を見て、恭介は本気でこの男を殺してしまおうかと思ったが、突然お腹が鳴り出し、気勢をそがれた。
「何だ、腹減ってるのか? フン、だからいつも言っているだろ。金がなけりゃ、何にも出来ねえんだって」
音楽を止めるという新たな戒めを行うためとはいえ、あれほど大事にしていたギターをあっさりと売ってしまうほど、今の恭介にはお金がなかった。ノボルはそんな彼の足元を見るかのように「奢ってやるから」の一言で彼を居酒屋へといざなった。地元の大学の学生たちが多く集まる、チェーン店の大衆居酒屋だった。そのあと恭介はノボルとどんな会話をしたのかをほとんど覚えていない。覚えているのは、やたらとビールを飲んでしまったことと、軟骨のから揚げがやけにおいしかったこと、それから隣のテニスサークルに所属していると思われる男女六人のグループの大学生たちがやけにうるさかったぐらいで、気がつくと恭介はノボルとも別れて一人で桜木町を彷徨っていた。体は火照っていた。やはり熱があるようだった。
「あれ、これは、これは。よく見たら田中君じゃないか」
職場でいつも挑発してくる四人組の若者集団に出くわしたのは、酔いがようやく冷め始め、頬に当たる風を心地よく感じ始めたときだった。
「いつもこっちの誘いを断るのに、一人で飲んでいるんだ」
集団の中でも一際目立つ長身で、短い金髪で鼻にピアスをした男が嫌味な言い方でそう言うと、馴れ馴れしく恭介の肩に手を組んでくる。
「どうだ? これからオレたちと飲み直そうや。もちろん今までオレたちを袖にしてきた罰として、お前の奢りでな。金、溜め込んでるんだろ?」
そう言って目の前で酒臭い息を吐きかけてくる男を、恭介は鋭い視線で睨みつける。
「何だよ、やる気か?」
鼻ピアスは威圧的な態度で恭介を見下してきたが、恭介は呆れた笑いを微かに見せると、何も言わすそのままその場を立ち去ろうとした。
「待てよ! そういうスカした態度が気にいらねんだよっ!」
鼻ピアスは後ろから思い切り恭介の背中を蹴り飛ばしてきた。恭介は無抵抗のまま、激しく地面に体を打ちつけた。
「おい、やり過ぎだって。ちょっと酔っ払いすぎだぞ」
恭介が起き上がろうとすると、鼻ピアスの取り巻きたちの声が聞こえた。
「ほれ、痛えだろ? もっとやってやろうか? それが嫌だったら、仲良くしようや」
鼻ピアスはゆっくりと恭介の近くまで近寄ってきて、余裕ありげな態度で仁王立ちしていた。恭介はすかさず起き上がると鼻ピアスの右頬を右手で思い切り殴り、鼻ピアスが身を崩したと同時に、その腹を左足で蹴りつけた。倒れこんだ鼻ピアスは、たまらずにさっきまで飲み食いしていたものを胃液とともに吐き散らす。
「てめえ、やりやがったな」
さっきまで平静だった鼻ピアスの取り巻きたちが一気に恭介に迫ってきた。恭介は襲いかかってくる彼らの攻撃から身をかわし、反射的にその場から逃げ出す。
結局、鼻ピアスたちにしつこく追いかけられたために、恭介は相当な距離を走った。気がつくと、横浜の港が一望出来る、山下公園にまで来ていた。足はフラフラだった。貧血のために視界がチカチカしていた。とにかく警察に見つかりでもしたら厄介だと、行き交うカップルたちと距離をとりながら、人気のないベンチに座り、体が回復するのを待った。体中が煮詰められているくらい熱くなっていた。だんだんと息遣いも荒くなってきた。
「あの、どうかしましたか?」若い女の声が聞こえた。
「いえ、何でもないです」
夢なのか現実なのかわからないままに、恭介は自分の身を隠しそうと、体をねじる。ガクガクと体がわかりやすく震えていた。
「ねえ、リュウさん、こっちに来て!」
連れの男を呼ぶ女の声が聞こえた。恭介は「放っといてくれ」と向かって叫んだが、声が出ていなかったようで、女は男を呼びに走っていってしまった。早く逃げなきゃ。恭介は立ち上がろうとしたものの体が動かなかった。恭介はそのまま意識を失ってしまった。
*
日産スタジアムでの女性の変死事件から二週間ばかりが過ぎていた。神奈川県警の管轄内で起こった事件であったため、馬渕は本来捜査の進展を指を銜えて見ているしかなかったのだが、知り合いの神奈川県警の刑事から情報を聞き、独自に調査はしていた。
「馬渕さん、どうしてこの事件にそんなに首を突っ込むんですか? 神奈川県警の話じゃないですか? 何かほかの事件と関係があるんですか?」
コンビを組んでいる渡辺が、車を運転しながら何度も聞いてくる。無理やり付き合わされている彼としては、疑問が湧くのは当然の話だったが、馬渕は彼の問いかけにはろくに答えようともしない。
「着きましたよ」
そして川崎の住宅密集地を十分ほど迷ったあとで、渡辺はふてくされた調子で伝えた。馬渕は外に出ると、一目散に目的地である町工場へと向かった。そこは被害者の息子と親しくしていた田中という男が勤めていた工場だった。応対をした五十代半ばの小太りでM字に禿げかけた頭が目立つ社長の話によると、事件のあと、男は次の朝にはいなくなっていたのだという。馬渕は、無愛想な社長の態度にイラッとしながら、工藤から貰った防犯カメラに映っていた恭介の写真を彼に見せた。
「その田中という男は、この男ですか?」
社長は首に下げていた老眼鏡をかけて、写真を凝視する。
「それっぽいけれど、わかりませんね。写真が荒いから」
確かに画像は相当に荒かったのだが、その言葉の裏には、これ以上災い事に巻き込まれたくないという社長の意思が伝わってきた。
「そうですか。最後にもう一つ、彼の部屋には何も残されていませんでしたか?」
社長はウンザリした顔で首を横に振ると「元々バック一つとギターだけで来た子ですからね」と呟くだけだった。
勤め先の社長からほとんど何も聞き出せなかった馬渕は、半ば意地となって聞き込みを続けることにした。彼が次に向かうと渡辺に言ったのは、被害者が以前嫁いでいた夫の実家である町工場だった。
「馬渕さん、あそこはヤバいんじゃないですか?」
渡辺は必死に馬渕を引き留める。少年の父親はすでに他界しており、その町工場に住む、唯一の肉親である父方の祖父母が彼の身元を引き受けていたからだった。倫理的に若年であるこの少年に対しては、マスコミも取材を自粛しており、神奈川県警も簡単な取調べしかしていなかった。
「だがその子は現場にいたんだろう?」
「しかし神奈川県警の話では、彼が現場に到着したのは、母親が死んでからで、犯人の顔は見ていないと」
馬渕は真顔で言い返す渡辺に対し、「何でも鵜呑みにするんじゃねえよ」と一言だけ冷たく言い放つと、渡辺のことなど眼中にもない様子で歩を早め、目的地へと急ぐ。渡辺はため息をつきながらも、慌てて馬渕を追いかけた。
二人が被害者の少年が住むという町工場に着いたときにはすでに日が傾きかけていた。工場からは金属が軋む音が鳴り響くのが聞こえた。馬渕は無遠慮にそのまま中に入り、少年の祖父と見られる七十代の男性を見かけるや、いきなり事件のことを聞き始める。少年の祖父はそんな馬渕に対して、明らかに怒りを顔に滲ませていたが、とにかく「何も知らない」の一辺倒で、頼むから少年には近づかないで欲しいと言うばかりであった。結果的に何も情報を得ることが出来ずに、退散するしかなかったのだが、馬渕はあろうことか、今度は、学校から戻ってくる少年を待ち伏せすると言い出した。
「正気ですか? 相手は小学生なんですよ」
「だから何だ? 重要なことを知っていることには変わりないだろう」
睨みつけてくる馬渕の迫力に、渡辺はいつものように気圧されていたようだったが、それでも自らを必死に奮い立たせ、馬渕を睨み返す。
「オレ、刑事として馬淵さんをすごく尊敬してますけど、そういう強引なところは納得出来ないです」
馬渕は呆れた顔を見せて、「勝手にしろ」と一言だけ渡辺に言い放つと一人で少年が通うという小学校の方向へ歩き始めた。
馬渕がその少年、黒田翔太に接触したのは、すでに日が暮れて、微かな夕焼けだけが建物の間に顔を見せている時間帯だった。視線を落としながら歩く少年に笑顔はなく、厚手のジャンバーの袖をしきりに捲っては下げて、気にしているようだった。事件現場で彼の顔は一度見ていた。そもそも馬渕は、子どもの頃から人の顔を覚える能力が人よりも高く、刑事になってからはさらにその力に磨きがかかっていた。そんな馬渕にとって、たくさんの小学生の中から彼を見つけるのは造作もないことだった。馬渕はさすがにいつもよりも丁寧な口調で翔太に話しかけ、自分が刑事であることを名乗った上で、いきなり例の監視モニターに写っていた恭介の写真を渡して見せた。
「どうだ、坊主。この写真の男に見覚えはないか?」
翔太は写真を見た瞬間に、顔を強張らせた。馬渕は、この少年が殺害現場に居合わせていたことを確信した。
「知りません」しかし翔太は、無表情のまま、写真を馬渕に返してくる。
「そうか。じゃあ、田中という男の行方は? ギターをよく教わっていたんだろ?」
「だから、何も知らないよ」
翔太は馬渕のもとから逃げ出そうとした。馬渕はそんな翔太の進路を遮るように、すばやく翔太の前に立つ。
「お袋さんを殺したのはその男じゃないのか?」
翔太は馬渕の剣幕に脅え、思わず目を逸らす。
「お前さんはもしかしてその男を庇っているのか?」
馬渕は翔太の動揺など無視して、事件の核心の部分に触れようとする。
「お前さんがその男を庇っている理由は、お前さんがお袋さんから虐待を受けていたことに関係しているのか?」
馬渕のその言葉を聞いた途端に、翔太は敵意をむき出しにして、馬渕を睨みつけてきた。馬渕はその顔を見て、恭介に睨まれているような気がしたが、感情を押し殺して、目の前の少年をさらに追い詰めた。
「隠すなよ。お前さんがお袋さんから虐待を受けていた疑いがあるということは、ほうぼうで聞いている。なあ、もう一度聞くぞ。なぜお前さんはお袋さんを殺した男を庇っているんだ? その男がお前さんをお袋さんの虐待から救い出そうとしてくれたからか? もしかしてこの男がお前の命を救ってくれたからか?」
「違う! 知らない! 関係ない!」
翔太は大声でそれらの言葉をぶつけると、馬渕に体当たりをして、走って逃げ出す。
「坊主、自分自身の現実から逃げるんじゃねえぞ!」
馬渕は去り行く少年の背中に思わず叫んでいた。しかし少年が見えなくなり、一人そこに取り残されている自分の無様な姿を認めると、何を偉そうにそんなことを言っているのだと、自分自身を嗤いたくなった。
馬渕は以前、ある事件に関わった脳外科医から聞いたことを思い出す。その医師によると、児童虐待を受けた子どもは、脳自体の機能や精神構造に深刻なダメージが与えられているという話だった。確か、意思決定や共感などの認知機能にかかわる部分から伸びる神経回路がスカスカな状態になる一方で、痛みや不安、恐怖などに関係する部分は密となり、そうした感情が伝わりやすい脳になってしまう可能性があるという。
馬渕は、恭介が子どもであったときのことを考える。自分は確かに、彼に対して、暴力や暴言は振るわなかった。でも、父親である自分がそもそも彼の成長に関わろうとしなかったことは、彼の人格形成に何らかの影響を与えてしまったのではないだろうか。
わずかながらに見えていた太陽の欠片は目の前の住宅街の向こうに消えていた。空は青紫色に澄み、下弦の月がうっすらと見え、夜の帳が下りようとしていた。
*
恭介は目を覚ますと、全く知らない部屋にいた。部屋は八畳ほどの物置部屋のような場所で、古いダンボール箱や壊れかけた家具が無造作に置かれていた。埃塗れの不衛生な場所であったが、自分が眠るベッドだけには、清潔なシーツが敷かれていた。
どれだけ眠っていたのか気になったが、窓からは朝日が差し込んでおり、どうやら生きているということだけは確かなようだった。恭介は上体をゆっくりと起き上がらせた。まだ体はダルく、熱も完全には下がっていなかったが、だいぶ楽にはなっていた。急に両手のことを思い出した。慌てて自分の両手を見てみると、グローブはちゃんとはめていた。
「あ、起きたのね」
しばらくボーっとしていると、若い女が食事と着替えを持って、部屋に入ってきた。目鼻立ちが通った顔をしている女性で、ショートヘアがよく似合っていた。着ている白い襟付きの赤と黄色と黒のチェックのスカートの組み合わせがセンスの良さを感じさせる。
「あんたは?」
「命の恩人を覚えていないの?」
そう言われて、恭介はこの女が誰だか思い出す。
「山下公園で、声をかけてきてくれた人だな。ここは?」
「中華街よ。何か訳アリそうだったから、ここに連れてきたの。迷惑だった?」
「そういうわけじゃ」
恭介は女の顔を改めて見た。女は自分と同じぐらいの年齢で、目力があり意志が強そうだった。女は恭介の視線に気がつくと、照れるどころか、含み笑いをして見せ、持ってきた朝食をお盆ごと恭介に渡してきた。
「牛乳と、わたしが作ったサンドウィッチ。アレルギーとかないでしょ。それからこれは着替え。知り合いの古着だからあげるわ。下着は買ってきたけど、安物だから遠慮なく使って」
ジロジロと物珍しそうに眺めてくる女の視線に照れながら、恭介は用意されたサンドウィッチをガツガツと食べ、牛乳を飲んだ。
「随分おいしそうに食べてくれるのね。早起きして作った甲斐があったわ」
「色々とありがとう。食べたら、出て行くから」
恭介はかき込むようにして残りを食べ終え、颯爽とベッドから立ち上がって歩を進めたが、その瞬間に全身の力が抜け、そのまま倒れこむ。
「あはは。さすがにまだ無理でしょ。心配しなくてもいいよ。ここはリュウさんの店で物置みたいに使っている場所だからしばらくいても構わないし、泊まる場所もないような貧乏人から宿代を取ろうとも思ってないから」
恭介は「リュウさん」とは何者なのか気になったが、「そうか。ありがとう」としか言えずにベッドに戻る。
「ねえ、あなた、何であんたところで倒れていたの?」
恭介は「それは」と言いかけながら、口をつぐむ。
「別に言いたくなきゃ、言わなくてもいいけど、せめて名前ぐらい教えてくれる?」
恭介は反射的に「恭介だ」と本名を告げてしまい、慌てて「それ以上は勘弁してくれないか」と付け足す。女はほくそ笑んでいる。恭介はごまかすように、彼女に「あんたの名前は?」と聞き返す。
「唯。吉原唯。でもみんなからはウェイと呼ばれているわ」
「ウェイ? 中国人みたいな名前だな」
「中国人じゃないわ。でも中華系の人間よ」
笑顔で告げるウェイの顔を見ながら、自分が連れてこられたのが中華街であったことを思い出し、改めてそれを実感した。
「ごめん、吉原っていうから、つい」
「吉原は母方の姓なの。本当の名前は楊枝の楊に、唯一の唯と書いて、ヤン・ウェイ。吉原唯って日本名のほうがここで生きるには、色々と便利だからね」
「そうか。それにしても日本語巧いな。こっちに来て何年だ?」
恭介は思った疑問をそのまま口にした。ウェイは待ってましたと言わんばかりにこれ見よがしに笑って見せた。
「わたしは華僑なの。だから正確には華僑人といったほうが、自分的にはしっくりと来るかな」
ウェイの話によると、華僑とは中国籍や台湾籍を持ちながら、ほかの国に移住した中国系の人間を指す言葉であるようで、ウェイの場合は、そもそも曽祖父が第二次世界大戦前に横浜に移り住み、中華街に店を構え、家族は中華街の隣にある元町に住んでいるのだという。そしてウェイは中華学校に通っていたため、中国語ももちろん喋れるが、普段は日本語を喋っているために、むしろ日本語のほうが流暢に使いこなせるのだという。
恭介はそんなウェイの話を聞いているうちに、彼女は自分が歌舞伎町で嫌というほどに見てきた中国人とはまるで違うと思った。
「とにかく、すぐに出て行くから。あんたたちに、迷惑はかけたくない」
恭介はウェイとこれ以上親しくなってはいけないと思いながら、彼女に告げる。
「あなた、一体何をやったの?」
ウェイは笑って訊ねてきたが、答えは聞こうともせずに部屋を出て行った。
悪質なウイルスの仕業だったのだろうか、恭介の病気は思ったよりも長引き、気怠さはそのあと三日ほど続いた。その間、恭介はやむなくウェイの厚意に甘えることにして、体が回復するまでこの場所で療養させてもらうことにした。食事はウェイが運んできてくれ、洗濯やそのほかの世話もすべて彼女がしてくれていた。絶対に外さない両手のグローブについては一度だけ訊ねられたが、言葉を濁すと、彼女は二度とそれについて触れてこなかった。
恭介は、いつしかウェイが来てくれることが楽しみになっていった。そして、そのたびに彼女と様々な話をすることを切望するようになっていた。
ウェイは恭介に対し、社会の仕組みがどのように成り立って出来ていったのか、そしてグローバル化している社会が、貧富の差による世界的な格差と差別をどんどんと広げており、その中で女性や途上国からの在日外国人労働者などの社会的弱者がいかにして行動を起こしていくべきなのかということを、熱気を帯びた言葉でわかりやすく説明してくれた。恭介はウェイが世の中のことを考え、自分がその中でどう生きようかということをしっかりと考えていることに感銘した。素直にもっとウェイと話したいと思った。彼女から様々なことを教えてもらい、自分自身を変えていきたいとも思った。しかしそう思う一方で、体は一週間ばかりで完全に元気になってしまい、ここに残る口実はなくなってしまった。後ろ髪が引かれる思いではあったが、恭介は彼女に会わずに、朝方を待って出て行くことにした。
その日は朝から空は曇っており、まるで恭介の気持ちをそのまま投影しているようだった。気温は寒く、コートを着なければ辛い季節になっていた。恭介は布団をたたみ、寝静まる店舗を通って外に出た。外は家の中よりもいっそう寒く、中華街の人気のなさがより気温を一度か二度ほど下げているようだった。恭介は振り返った。そこには中華風にアレンジされた古びた建物があり、一階と二階が新華桜という名の中華料理屋となっていた。そして三階が恭介の寝泊りしていた倉庫部屋だった。数日ながらも自分がいた場所に愛着を感じていた恭介は、もう二度とここには来ないと思うと寂しい気がした。それでもこれ以上世話になるわけにもいかないと思い、ゆっくりと歩き出す。
「待って」
数歩歩いたところで、知っている声が背後から聞こえてきた。振り返ると、コートも着ずにビルから飛び出してきたウェイが体を震わせながら白い息を弾ませていた。
「挨拶せずに出て行くつもり?」
昨晩遅くまで店を手伝っていたウェイは、ビルの二階で仮眠を取っており、恭介が出て行く物音に気がついて起きてしまったのだと言う。恭介は、後ろめたさからかウェイと目を合わせることが出来ない。
「ねえ、会わせたい人がいるの。出て行くのはそれからでも遅くないでしょ」
ウェイは笑顔を見せながら、恭介の腕を新華桜の方へと強引に引っ張っていく。恭介は躊躇しながらも抗おうともしない自分自身の態度に素直に驚いた。
その日の午後、恭介はウェイによって、中華街の近くにあるマンションに連れて行かれた。クリーム色を基調とした横にも縦にも大きく見える建物は、中古ではあるようであったが、戸数が多く、管理が行き届いているようで、住み心地がよさそうにみえた。恭介がウェイに連れて行かれたのは、最上階である八階の部屋だった。ドアを開けると、まず中華料理屋特有の油の臭いが鼻をついた。そしてパソコンが置かれた机が六つほど並ぶ奥の部屋に行くと、一人の半裸の男がタバコを吸いながら窓の景色を眺めているのが見えた。
「リュウさんよ」
ウェイは部屋に入るなり、恭介に男の名前を告げた。リュウと呼ばれる、長髪を固めてオールバックにした男は振り返るなり、品定めをするような目つきで、恭介の顔をジロジロと眺めてきた。恭介はその男の顔を見ているうちに鳥肌が立ち、今すぐこの場を逃げ出したい気分になる。締った身体をさらし、落ち窪んだ目をしたリュウは、明らかに何人もの人を殺してきたのかと疑いたくなるぐらいに、只者ではない雰囲気を醸し出しているのだ。彼は三十代後半ぐらいの年齢で、世界のすべてを知っているようなふてぶてしさを身につけた男だった。
「ヨウ、ゲンキニナッタノカ?」
リュウは拙い日本語で恭介に言うと、口元に笑みを浮かべ、持っていたタバコの火を近くの机の上に置いてあった灰皿に押し付けて消す。恭介は困った顔をして、ウェイの顔を見た。ウェイは悪戯に微笑みかけながら「前に会ったことがあるでしょ?」と言ってきた。恭介は戸惑った顔を悟られぬように、リュウに対して愛想笑いを浮かべながら、記憶の糸を手繰り寄せ、そのうちに、自分が山下公園で倒れていたときに、ウェイとともにいたのがこのリュウという男だということを思い出す。
「ああ、あのときは、助けてくれて、ありがとう」
恭介はゆっくりとした日本語で伝えた。リュウは、軽く頷いて反応すると、中国語でウェイと喋り始めた。恭介は中国語を話すウェイを眺めながら、別人を見ているような不思議な気分に陥り、その距離の近さと楽しげな雰囲気から彼女とリュウが親密な関係にあることを悟る。
「ねえ、リュウさんが商売を手伝わないかって言っているけれど、どうする?」
ウェイが唐突に訊ねてきた。
「商売って? オレ、中国語は喋れないけれど」
不意をつかれた恭介は、とっさに距離を置こうとする。
「大丈夫だって。大した仕事じゃないって言っているし、当分新華桜の三階は使ってもいいっているから」
ウェイはリュウの仕事に加わるように説得し続けた。リュウはその間、ときどきウェイに中国語で話しかけては、恭介の出方を待っていた。結局、中華街にいて、中国人のフリをしていれば、別人として生きることが出来るからというウェイの言葉に流され、恭介はリュウの仕事を手伝うことになった。
次の日から恭介は朝からリュウのマンションに行き、彼の仕事を手伝うことになった。てっきり中華料理を作る修行でもさせられるのかと思っていたが、さし当たっての彼の仕事内容は、リュウとその仲間が赴くところに一緒に行き、彼の取り巻きの一人として、借金の取立てに参加をすることであった。
そして一週間ばかりリュウと行動しているうちに、恭介は、リュウという人物が一体どういう人間であるのか、少しずつではあるがわかってきた。まず彼は、劉逸と書いて、リュウ・イーという読む偽名で呼ばれていて、本名は不詳、ウェイのように元々家族が日本に移り住んでいたというわけではなく、二十年近く前に不法入国でやってきて、そのまま居ついたという話であった。そして商売の方は、新華桜を含めた複数の中国料理屋を経営しているらしかったが、店の運営など面倒なことはすべて部下に任せており、自らは専ら中国人技能実習生や不法滞在中の中国人相手の高利貸しと地下銀行の運営のほうに力を入れているようであった。恭介はリュウという男が堅気ではないということだけはハッキリとわかったが、ただ一つ、なぜあれほどまでに聡明であるウェイが、あのようなヤクザ者と付き合っているのかということだけが解せなかった。
恭介はそれから半月ばかりリュウと行動を共にしていた。その間、時々ウェイがリュウのマンションに現れ、彼女と喋ることも出来たが、彼女が自分の寝泊りする新華桜に来ることはなく、以前のように二人きりになる時間は皆無に等しかった。会わないことによって、恭介は、自分がウェイに惹かれていることを知った。それは多分、これまで触れたことのない優しさと喋りやすさを彼女に感じていたからだった。人にそうした感情を抱くことは危険だとわかっているのに、どうしても誰かを恋しく思ってしまう。もう自分にはそんな権利はないと思っているのに、どうしても欲望を抑えることが出来ない。
「中国人になりきって、中華街に身を隠すとは考えたな」
どこで話を聞きつけたのか、夜中にリュウのマンションから新華桜に戻る途中で、ノボルが現れた。
「またお前か。どうやってここを?」
「だから言っただろ。お前はオレには隠し事は出来ないんだよ」
ノボルはいつものようにニヤリと笑ってみせる。
「とにかくオレにはもう関わらないでくれ。あの能力はもう使うつもりはないんだ」
「さあ、どうだかな。お前にその気がなくても、周りが黙っちゃいないだろ」
「一体何が言いたい?」
恭介がノボルを睨みつけると、ノボルは怯むどころかおどけた様子で、「友だちを救ってやりたいだけさ」と言ってきた。
「誰が友だちだよ」
「ああ、戒めで友だちは作らないんだったか。それじゃ、オレたちの関係は、ビジネス上のバディっていうことで、今から大事な有益な情報を教えてやるよ。なあ、お前が今行動をしているリュウという男、アイツは相当ヤバい男だぞ」
目を見据えて言うノボルの言葉に、自分の気持ちを代弁された気がして、気味が悪かった。恭介は「どうしてそんなことが言える?」と、平静さを装って聞き返す。
「フン、ちょっと考えればわかるだろう。なぜ金もない、不法入国の男が、中華街で店を複数持ち、しかも高利貸しをやるまでにのし上がっている?」
それは恭介自身も確かに感じていた疑問であった。
「あの華僑の女だって、いつお前に牙を剥くのかわからない」
「ウェイはそんな女じゃ」
恭介はノボルに向かって、勢いよく言い掛けたが、自分が思っていた以上にウェイのことを知らないことに気がつき、言葉を失う。
「ふん、色々と戒めている割には、女を愛することだけは諦めていないんだな。まあ、せいぜい悶々としていればいい。だがあの男はすぐにお前を試すときがくるぞ。そのときは女のことなど構わずにすぐに逃げろよ」
珍しく真顔で言ってくるノボルの視線に、恭介は耐えられずに目を逸らした。
(二)
秋分の日が過ぎ、商店街やデパートでは、気が早いクリスマスのイルミネーションが目立ち始め、街はすっかりと冬色に染まり始めていた。中華街でもクリスマスムードは高まっており、色とりどりのちょうちんなどが派手に飾られた街は自然と異国情緒を醸し出していた。恭介はそんな街に身を置く自分を不思議に思いながら、相変わらずリュウと共に行動をし、少しずつであるが中国語も覚え始めていた。
「キョウスケ、ヨル、シゴト」
いつものようにリュウのマンションで出前を取り、リュウたちと食事をした後で、新華桜に帰ろうとすると、リュウが告げてきた。
「今日の夜に、ちょっと大きな仕事があるんだが、リュウさんはお前にもそれに加わって欲しいと言っている」
キョトンとした様子で困っていると、すかさずリュウの取り巻きの中で唯一日本語が喋れるチャンという三十代後半ぐらいの、薄い眉毛と厚ぼったい瞼の男が翻訳してくれた。
「仕事の内容は?」
恭介はチャンに聞くと、チャンはリュウと目を合わせてから、「それはあとで教える。くれぐれもウェイには何も言うな」とだけ告げて、肩をポンポンと軽く叩いてきた。
「ダイジョウブ。アブナクナイ」
不安げな顔を見せる恭介に、リュウは親指を立てた。恭介はそんなリュウに対して、作り笑いしか浮かべることが出来ず、指示があるまで、その場で興味もないテレビのバラエティ番組を眺めるしかなかった。
そして午後十時を過ぎた頃に、リュウたちは動き始めた。恭介はリュウに言われるがまま、マンションの前に横付けしてある、古びて細かい傷の目立つ白いバンに乗り込んだ。バンにはリュウは乗らず、チャンと運転手としてホーというまだ二十歳そこそこの若くて肩幅がやけに広い男が乗っているだけだった。ホーは行き先をすでに知っているらしく、慣れた様子でバンを運転していた。
バンの中では、チャンもホーも無言だった。二十分ばかりで伊勢崎町に着くと、チャンに「降りろ」と促されて、バンから降りた。そして彼に連れられるまま、飲み屋街を歩き始める。
「いいか、これからキャバクラに行く。お前は、特に何もしなくていい。客を装って、適当に場の雰囲気に合わせておけばいいんだ。ただし、オレが中国人だということは、絶対に言うな。オレたちは、建設会社の先輩後輩の仲という設定だ。オレのことは、山本さんと呼べ、お前は、そうだな、伊藤でいいや。いいか、山本と伊藤だぞ。それと、オレはお姉ちゃんや従業員に色々なことを訊くが、余計な口は挟むなよ」
チャンは捲し立てるように指示を出すと、どんどんと飲み屋街を進んでいき、そのうちに雑居ビルの地下にある「RUSH」という名のキャバクラに入っていく。店内は、麻美が勤めていた店よりは狭かったものの内装はずっと洗練とされていて、店を飾る花瓶や絵画、それに客が使うグラスや皿など調度品には効果で派手なものが多かった。チャンは案内されて席につくや、ウェイターらに聞こえるように流ちょうな日本語で日本人の労働者になりきり、恭介に架空の職場での話を色々と話しかけてくる。恭介は内心で戸惑いながらも、話を適当に合わせる。そのうちに女の子たちが二人ついてきた。巻き髪を金髪に染めた二十歳そこそこの女の子がチャンの隣に座り、それよりも少し年上に見える、クールな雰囲気の内巻きのショートカットの女の子が恭介の隣に座った。女の子たちは、仕事のことや二人の関係などを次々に訊いてきた。それに対して、チャンはデッチ上げた話をすらすらと答えていた。そして酒が入ってからは、チャンはほろ酔い加減になりながら、どこで仕入れてきたかわからないような、建設現場での苦労話や失敗談などを話して場を盛り上げ、女の子たちもそこに茶々を入れて楽しげな空気を互いに作り上げていた。
恭介はチビチビと出された酒を飲みながら、ぼんやりとその光景を見ていた。時折、隣に座ったショートカットの女の子が気を利かせてくれて、お酒を注いできたり、話しかけてきてくれたものの、ロクに会話を続けることも出来ない恭介の存在を持て余していると言った様子で、視線をほとんどチャンの方に向けていた。
「そういえばさ、ここの女の子たちって、他の店に比べて美人度が高いよね」
チャンがまるで酔った勢いを借りているかのように、急に女の子たちを露骨に褒め始めた。ずっとチャンの様子を眺めていた恭介には、チャンはさほど酔っ払ってなどおらず、彼の会話には意図が含まれていることがわかった。
「そうですかー? まあ、でも、新しい店ですし、何か女の子集めるのも、オーナーさんが方々から集めてきたみたいで、大変だったみたいですよ」
金髪の巻き髪の子があっけらかんとチャンの言葉に応える。
「へえ、じゃあ、みんなこの辺の子じゃないんだ」
「そうそう、この子は、福島で、わたしは青森」
今度はショートカットの子がわたしも会話に混ぜてと言わんばかりに口を挟む。
「ふーん、じゃあ、スカウトされてきたってわけだね。ぶっちゃけ、結構な支度金とか貰ったんでしょ」
チャンは酒癖の悪い客を装ってズケズケと訊いていく。
「えー、そんなことないですよ。確かに、こっちにくるときに、色々とお世話にはなりましたけど、あとは他の店と一緒ですよ。たぶん、給料とかもそんなに変わらない」
金髪の巻き髪の子は、それ以上は喋らないとばかりに情報にブレーキをかけてきた。
「そうね、もしかしたら、ちょっと安いくらいかも。実際、結構給料前になると、お金も足りなくなってくるしね」
被せるように話すショートカットの子の言葉には、明らかに打算が透けてみえた。おそらく、チャンがカモになると思い始めているのだ。そんな彼女を見るチャンの眼が一瞬、冷たく光ったのを恭介は見逃さなかった。
「ふーん、でも、それは結構遊んでいるからお金がかかっているんじゃない」
チャンは標的をショートカットの子に絞ったかのように、彼女に向けて話しかける。その間に、金髪の巻き髪の子は、他に指名がかかっていなくなる。
「そんなことないですよ。ただ、色々とさ、女の子には必要なモノが多いでしょ。そういうものを買っているうちに、それなりに足りなくなってくるの」
ショートカットの子は、自分が罠にハメられているとは気づかずに、自分が罠をかけている気になって積極的にチャンの話に乗ってくる。
「へえ、じゃあさ、給料日とかって月末? その頃にはお金があんまりないってことだよね。食事とかさ、連れて行ってあげようか?」
チャンは、スケベな男を演じて、ショートカットの子を遠回しに口説き始める。
「んー、そうだな、同伴してくれたら考えるかな」
ショートカットの子は思わせぶりな態度で、チャンを焦らす。
「わかった。じゃあ、ええと、給料日はいつだっけ?」
「毎月、二十五日だから、そのちょっと前だと、うれしいかも」
「よし、じゃあ、決まりだ。連絡先を交換しよう」
めでたく交渉成立をしたところで、チャンの隣に新しい子がやってきた。今度の子は、背の低い子で、笑窪が印象的な子だった。そこからチャンは、ひと仕事を終えたという感じで、単純に飲むことを楽しんでいた。恭介は、相変らずチビチビと飲んでいたが、途中で新しく席に着いた笑窪の子の左手首にリストカットの痕がいくつも残っていることが目についてしまい、そのことばかりに気をとられていた。
深夜に店を出ると、人通りはさすがに少なくなっていた。飲み屋街を出で少し歩いたところにあるパーキングに乗ってきたバンが止まっていた。中では、ホーがスマートフォンを弄りながら待機している。
「本当にさっきのショートの子と本当に食事をするつもりなのか?」
恭介は車に乗り込むなり、チャンに訊ねる。
「さあ、どうするかね。とりあえず、しばらく連絡は続けるが」
「目的は、彼女自身じゃないってわけか?」
恭介が訊ねると、チャンはクククと笑う。
「さすがに気が付いたか。ただ女と飲むためにわざわざこんなところにお前を連れてくるわけがないからな」
バンが動き出してパーキングを出る。恭介は、バックミラー越しに後部座席に座るこちらをチラチラと伺うホーの視線に気がつく。
「まあ、リュウさんに、『詳しい説明をしておけ』と言われているから、教えてやるよ。今日は、あの店に勤めるキャバ嬢の誰かから、あの店の給料日を聞き出すのが目的だった。正確に言えば、二十五日というのは実は最初から知っていたが、その情報が本当なのか確かめる必要があったんだ」
恭介は確かに、チャンがショートカットの子に給料日を訊いていたことを思い出す。
「なぜそんなことを? まさかその日にあの店を襲って、キャバ嬢たちの給料を強奪するつもりだとか?」
恭介は、冗談のつもりで頭に浮かんだことを口に出す。チャンは、恭介の問いかけに、何も答えず、ただニヤリと笑う。
「まさか、本当にその通りなのか?」
「お前、意外と勘がいいな。つっても、給料日訊いて、悪さするとなりゃ、それくらいしかないか」
「お前たちがやるのか?」
「誰がそんな危ない橋を渡るかよ。いいか、こういうのは分業でやるもんなんだ」
チャンは、恭介の反応を面白がるように話し始める。
「いつの時代にも死ぬほど金に困っていて、簡単に一晩で大金が稼げるなら少々荒っぽいことをやる人間はゴマンといる。大抵の場合、彼らに手を染めてもらうことになるんだが」
それ以上のことを言おうとしないチャンに、その意図を察した恭介は、自ら捕捉し始める。
「つまり金を餌に実行犯として、その手の奴らを働かせ、万が一彼らが捕まったとしても、彼らは情報を与えられているだけなので、警察はその出所を掴めない。だから、お前も、リュウも絶対に捕まることはないというカラクリか。しかも普段、高利貸しや地下銀行を運営しているから、金に困っている奴は、あっちからやってくる。随分と賢いやり方だな」
「世の中、持っている力と情報を最大限に使って上手く立ち回った人間が勝ちなんだよ。ちなみに今日行ったあの店は、シマ荒らしなんだ。あの一帯を取り仕切っている日本のヤクザから話を持ちかけられた。二十五日の給料日を狙えと。あの店で働いている子は、銀行口座を持っていない家出少女が多い。給料を手渡ししているんだ」
「場合によっては、日本のヤクザとも組むっていうわけか」
恭介は、中国人たちのしたたかさに呆れて小さくため息をつく。
「今や世の中はグローバルに動いているんだぜ。人種なんてもんは関係ないさ。ただ世の中は、バカみたいに人種というものをひどく意識しているがな」
チャンがそう言うと同時に、バンが赤信号につかまり、ゆっくりと停止する。横断歩道に備え付けてあるスピーカーから盲人用の音響信号が鳴り響く。
「なるほど、そもそも中国人に強盗をさせるつもりだから、その確認をするのは、日本人でなければいけなかったというわけか」
「尻尾を掴ませないように出来る限りの工夫をするのがプロってもんさ。あ、そういや、お前、運転免許は持っているか?」
急に訊ねられて戸惑いながらも、恭介は「いや」と答える。
「チッ、使えねえな。まあいい、いずれお前には免許を取ってもらう」
「なぜそんなものが必要なんだ?」
「この手の仕事が地方にもたくさんあるからだよ。地方じゃ、店だけじゃなく、普通の家もよくターゲットにしている。結構さ、セキュリティの甘い名家ってやつが、地方にはたくさんあるんだ」
「まさか、強盗団に加われっていうのか?」
「いや、お前は運転手役でいい。リュウさんはそう望んでいる」
「運転くらい出来るヤツは、あんたらのところにもたくさんいるだろ?」
「オレたちの組織はもとはと言えば、不法滞在中の中国人が主体なんだぜ。こっちの免許を持っている奴が少ないんだ。第一、実行犯としてヤバそうな奴を送り込むことがある。その際にもしも検問に引っかかってしまったら、当然日本人が運転していた方が見逃される可能性が高いだろ」
信号が青になり、バンが再び走り始める。
「でもお前は運がいいぜ」チャンが面白くなさそうに呟く。
「普通は、お前みたいに転がり込んできた奴は、度胸試しに実行犯から始めるのがスジだ。でも、お前には日本国籍というオレたちにはない武器がある。リュウさんがお前には利用価値があるって思ってくれたんだ。あの人に感謝しろよ」
チャンはそれだけ言うと、顔を背けて目を瞑った。今頃酔いが回ってきたようだった。もはや逃れようない犯罪組織の中にいつの間にか組み込まれてしまったことに気がついた恭介は、頭の中でどうすれば彼らから離れることが出来るのかと本気で考え始めた。
次の日の午後、リュウのマンションに行くと、チャンがすでに来ており、リュウは誰かと激しく携帯電話でやり取りをしていた。
「よう、どうだ、よく眠れたか?」
傍らでお茶を飲んでいるチャンが恭介の顔を見るなり、日本語で皮肉っぽく話しかけてくる。恭介はどうしてもこのチャンという男が好きになれなかったが、彼を通さなければ、周りと意志の疎通もままならないため、口答えをすることも出来ない。
「キョウスケ、キノウハゴクロウダッタナ」
電話を終えたリュウが、恭介の存在に気がつき、声をかけてきた。
「あの、リュウさん、話があるんだ」
恭介はそんなリュウに対して、勢いよく「そろそろ中華街を出て行きたい」と切り出した。それは恭介が自分なりに考えて出した結論であった。やはり露骨に犯罪の手助けをするという行為自体が生理的に相容れず、またこれ以上深く入り込んでしまえば、新たな災いがやってくるようにしか思えなかった。
「ソレハホンキカ?」
チャンが恭介の言葉を訳すなり、リュウはこれまで見せたこともないような厳しい顔つきになって、恭介の目を見据える。
「ああ、世話になったな」
恭介は慌てて言うと、リュウの視線から逃げ出すように、すぐに振り返って出て行こうする。
「まあ、待てよ、恭介」
そんな恭介をチャンがリュウを視線で制しながら、呼び止める。
「お前、昨日の仕事でビビッたのか?」
「別にそういうつもりじゃ」
「じゃあ、強盗の手伝いなんて出来ない。そう思ったんだろう?」
チャンの言葉に、恭介は何も答えず、ただ彼の顔だけを見つめた。
「どうやら図星のようだな。なあ、オレたちをガッカリさせないでくれよ。オレたちは需要があるからやってる。ただそれだけだ。商売なんて、そんなものだろ」
恭介は反論をしようとしたが、ただ唇をかみ締めることしか出来ない。そんな恭介に対し、チャンは声をすごませながら、追い詰めてくる。
「なあ、オレたちはもう兄弟みたいなものだ。だから、そんなに簡単に抜けられちゃ、困るんだよ。お前は色々なことを知ってしまっているしな」
「オレは誰かに喋ろうだなんて」
「わかっているよ。でもオレたちはそのまさかを考えなければいけないんだ。悪いようにはしない。オレたちと一緒にいろ。お前にはまだ働いてもらわなきゃならないんだ。それに、お前だって、お前に親切にしてくれた人間が傷つく姿なんて見たくないだろ」
チャンはニタニタと笑った。恭介は、一瞬何を言われているかわからなかったが、そのうちにウェイの顔が浮かび、彼女のことを言っているのだと確信した。恭介の動揺に構うことなく、リュウが自分の財布から数枚の万札を取り出し、恭介に近づいてくる。そして、恭介のシャツの胸ポケットの中に万札をねじ込むと「キタイシテイル。デモウラギルナヨ」と告げた。リュウは口元を緩ませながらも、鋭い目つきで、恭介の心を射抜いてきた。恭介は、ただ微かに頷くだけで、近くの椅子に座るしかなかった。
恭介はその後もリュウたちと行動をし続けた。本音を言えば、今すぐにでも逃げ出したかったのだが、リュウたちの仲間からの監視が日に日に強くなっている気がして、行動を起こすことが出来なかった。
そしてショートカットの子が言っていた、彼女たちの給料日である二十五日になり、恭介はチャンと訪れたキャバクラが中国人と思われる犯罪グループによって、強盗被害に遭ったことをニュースで知った。
恭介は日本人であるからという理由だけで、仲間として加えられている自分自身の境遇に空しさを感じ、チャン以外言葉が通じないリュウの取り巻きたちの中で、孤独感ばかりを募らせていた。唯一の救いがウェイの存在であったが、リュウに近づけば、近づくほど、リュウとウェイの間に自分の知らないところでの深い絆があることを知っていき、リュウも恭介を牽制するようにウェイとの密な仲をわざと見せつけていた。恭介はリュウという男が正直怖かった。彼は恭介がこれまで出会ってきた誰よりも何を考えているのかわからず、また何をしでかすのかわからない大胆さをもっている男だった。今の自分が敵に回せるような男でないことだけは考えなくてもわかった。遠い空に、芽依のことを想う。一体、こんなところで何をやっているんだろうと、自分自身が腹立たしくてしょうがなかった。
クリスマスが過ぎ、年の瀬が迫り、そして大晦日がやってきた。中華街も年明けの準備を始め、街全体が慌ただしくなっていた。恭介は一週間ほどリュウからもお呼びがかからなかったので、大抵は部屋で過ごしながらも、新華桜で人手が足りないときは皿洗いなどを手伝っていた。
リュウからマンションに来るように新華桜に電話があったのは、大晦日の夕方過ぎであった。気を重くしながらも、マンションに行くと、いつも雑然としていた部屋は見事に片付けられ、中華料理を中心とした立食パーティーが行われており、十数名ものリュウの取り巻きたちを中心とした中国人たちが今年の最後を楽しんでいた。
「ねえ、大晦日ぐらいもっと楽しそうな顔をしたら?」
皆、中国語で喋っているため、その場の雰囲気になじめずに立ち尽くしていると、ウェイが近づいてきて話しかけてきた。恭介は日本語が喋れる嬉しさからまくし立てるようにして喋り、ウェイも笑顔で大学のことや友達の馬鹿話など他愛のない話を話してくれた。しばらくしてから、リュウがやってきた。リュウは恭介に見せつけるように、ウェイの腰に手を回しながら、「タノシンデルカ?」と相変わらずの拙い日本語で話しかけてきた。
「ちょ、ちょっと、リュウさん」
ウェイは困った様子で、リュウの腰に回されたリュウの手を外そうとしたが、リュウは力を緩めずにウェイとの距離の近さを恭介に見せつける。
「ええ、ありがとうございます」
恭介はリュウの目を見据えながら、それだけ答えると、リュウは「ソウカ。アトデ『ショー』モアル」と恭介の耳元で囁きながら、ウェイをそのまま連れ去っていった。
リュウが大声でその場にいる皆に声をかけ、中国語で何やら喋り始めたのは、新年を迎える五分ほど前のことだった。恭介はてっきり新年を迎えるに当たっての挨拶か何かをしているのかと思っていたが、急に周りが緊張し始め、異様な雰囲気を醸し出し始めた。するとリュウの口調は、次第に攻撃的になり、急につかつかと歩き始め、一人の男を引っ張り出してきた。恭介にはそのやけに肩幅の広い短髪の男に見覚えがあった。それはチャンとキャバクラに行った際にバンの運転をしていたホーと呼ばれる若者であった。リュウは激しい中国語でホーを追い詰めると、キッチンから先が熱された鉄ごてを持ってこさせ、それを手にするや先の部分をホーの額に押し当てた。部屋中にホーの悲鳴が響く。皆は沈黙のままそれを眺めているしかない。リュウはその空気を楽しんでいるかのように、のたうちまわるホーを無理やり立たせ、額に押された蜘蛛の形をした焼印を皆に見せ付けた。
「奴は、組織の情報を本国の公安に売っていたんだ」
いつの間にか恭介の隣に現れたチャンがこれみよがしに説明をしてきた。
「だからって、どうしてあんなことをこんなときに」
「こんなときだからさ。あれは昔中国でも日本でも行われていた刑罰の一つでな。皆に見せしめるから意味がある」
チャンがそんなことを言っているうちに、一様に息を呑んでいたリュウの取り巻きたちは、次第にリュウの機嫌をとるようにリュウの行動に対して、拍手をし始める。リュウはその様子に満足したのか、ようやくホーを解放し、そして今度は努めて明るく振舞って、カウントダウンの音頭をとった。年を越えてからは、皆何事もなかったかのように先ほどと同じように雑談に明け暮れ、ホーも知らないうちにいなくなっていた。恭介は気分が悪くなっていた。あまり飲めない酒を多く飲んだことが影響していたかも知れなかったが、それ以上に、金と暴力によって雁字搦めになっている人間たちと一緒にいたくないと思ったからだった。
恭介は酔いを醒ましてくるといって、リュウのマンションを出た。さすがに冬本番になっており、寒くてしょうがなかったが、戻るよりはマシだと、温かい珈琲を自動販売機で買い求め、近くの公園のベンチに座ってそれを飲み始めた。
「いなくなったと思ったら。こんなところで何をやっているの?」
そこにウェイがやってきたのは、寒さに耐えかねて、もう新華桜の自分の寝床に戻ろうと思った矢先であった。
「別に、ただの酔い覚ましさ」
「その割には、もう帰ろうとしていない?」
ウェイは白い息を吐きながら微笑むと「ねえ、少し散歩に行かない?」と誘ってきた。
ウェイはいかにもここが自分の地元だと言わんばかりの顔をして、人手で賑わう中華街をどんどんと歩いていた。恭介はそんなウェイに遅れないようについていきながらも、リュウの取り巻きたちが自分たちを見ていないかと警戒する。
「何、キョロキョロしてるのよ。そんなに怖がらなくなって大丈夫よ」
そんな恭介の心を読むかのように、ウェイは恭介を笑った。恭介は、見苦しい言い訳を続け、余計に無様になったが、そんな会話を久しぶりに出来ること自体がうれしかった。
中華街を出て、元町に向かった。道路一つ隔てたところにありながらも、恭介は元町に来るのが初めてだった。大手のブランド店が数多く店舗を構えるその場所には、中華街とは違ったハイソな雰囲気が漂っていた。ウェイは慣れた足取りで坂を上りながら、彼女の実家がこの近くにあることを匂わせる。恭介は思い切って彼女の実家について突っ込んで訊ねてみたが、ウェイは一瞬険しい顔を見せたあとで、いつの間にか話題を逸らした。
外国人墓地を見渡せる道を抜け、所々に建てられたいくつかの気品ある洋館に見とれているうちに、港が見える丘公園に着いた。広大な山の上に人工的に作られた公園は、ムードが出るよう、控えめにライトアップされており、カップルしか入れないような空気を醸し出している。恭介はいつの間にか横浜ベイブリッジを中心に横浜港を一望できる景色に見入っていた。
「ちょっと、どうして泣いているの?」
ウェイに指摘され、恭介は自分が無意識のうちに泣いていることに気がつく。ふと麻美と虹を見たときのことを思い出した。あれから恭介は虹を見ていない。それどころか、景色や自然の美しさに心を奪われる余裕すらも失ってしまった。
「なあ、どうしてだ? どうしてリュウなんだ?」
自分の気持ちをうまく説明出来ない恭介は、勢い半分に自分の心の奥底で常に考えていた疑問をウェイにぶつける。
「どうしてって」
不意をつかれたウェイは、戸惑いながら眼下に広がる横浜港に助けを求めるかのように視線を向けた。たった数分もの時間が恭介には何時間にも感じられた。
「リュウさんはわたしの恩人なの。リュウさんがいなかったら、わたしは自分の矛盾に目を向けようともしていなかった」
恭介に視線を向けないまま、ようやくウェイが口を開く。
「彼が君に一体何を?」
「あなたには関係ないことよ」
ウェイは振り返って、作り笑いを見せながら逃げるようにその場を立ち去ろうとする。
「待てよ。あんたは知らないかもしれないがアイツは犯罪者なんだ」
恭介はウェイの行く手を遮るかのように立ちはだかって口走る。
「何それ?」
ウェイは一瞬目を見開いただけで、すぐに涼しい顔をして、薄ら笑いを浮かべている。
「もしかして知っていたのか?」
「そんなのちょっと考えたらわかるでしょ。そもそも密航してやってきたリュウさんがここまでのし上がるには多少の悪いことはしなければいけなかったんだろうし」
「じゃあ、どうして?」
恭介は思わず語気を荒げてしまった。ウェイはそんな恭介に、冷めた視線を向けると、「あなたは彼らのことは言えるの?」と言ってきた。恭介はまるで心をアイスピックで突き刺されたような気持ちになった。そうなのだ。呪われた運命を持ち、殺人を重ねている自分に、リュウたちの悪をなじることなど出来ない。
「でも」
でもウェイにはどうしてもリュウに染まって欲しくなった。それは彼がいつかウェイを破滅に追いやる気がしてならなかったからだった。
「ウェイは違うだろ。君は悪に染まっちゃダメだ」
恭介は臭いセリフだとわかっていたが、真顔で告げた。ウェイは、キョトンとした顔をみせたが、すぐに笑い出す。
「なんだよ」
「だって、あなた、わたしのことを勘違いしているよ。わたし、あなたが思っているような女じゃない。簡単に人にウソをつくし、リュウさんの犯罪行為だって、見て見ぬフリをしている。ねえ、悪い人よりも、悪い奴を見逃している人間のほうが人として下劣だとは思わない? だって、それが悪いってわかっていて見ないんだよ」
ウェイの言葉に、恭介はどこか釈然としない気持ちになりながらも、反論が出来なかった。そんな恭介にウェイは淡々と自分の曽祖父から始まる家族の歴史を語り始める。彼女の話によれば、もともとウェイの実家は戦前から中華街で中華料理屋を営んでおり、今や系列店も増え、その運営会社は中華街の中でも一、二を争うぐらいの大きな組織になっているのだという。だが会社を大きくするまでに、ウェイの曽祖父も祖父も父も皆、どんな手段も厭わず使い、大陸からの労働力を搾取した。そしてその一方で自分たちは住まいをハイソな元町に求め、一人娘であるウェイにはまるでお姫様のような生活をさせていたのだというのだ。
「わたし、自分のそんな恵まれた生活に何の疑いも持っていなかったの。いや、心の奥底ではちょっとはおかしいって思っていたかもしれない。でもそんな自分の本心には目を向けようともしないで、ずっと自分はほかの人たちは違う、特別なんだって思い込んでた」
そしてウェイはそんな自分を変えてくれたのがリュウとの出会いであったと彼女は語った。日本語もろくに喋れずに中華街にやってきていたというリュウは、中華街であぶれている元密航者たちをまとめあげ、自分の店や組織を持つようになったのだという。そんなハングリー精神の持ち主であるリュウに惹かれ、彼こそが彼女の父親たちが守っている中華街の古いしきたりを壊してくれる人物であると感じた。彼に賭けてみたい気持ちになったのだと恭介に静かに告げる。
「リュウのことを愛しているのか?」
ウェイはただ静かに頷く。〝愛を理解せよ〟それが悪魔の口にした唯一の契約破棄の条件よ。頭の中でまた母の言葉が耳元で囁かれたような気がした。
「愛しているから、犯罪も見逃すと。アイツが何をやっても許せると」
恭介は絶望を怒りに変えて訊ねる。
「そういう言い方、止めてくれる?」
ウェイは大きな瞳を険しくさせて、怒りの感情をあらわにさせる。
「確かにリュウさんは法律を犯しているかもしれないけれど、それは力がなかった彼が生きるために必要なことだったのよ」
「じゃあ聞くけど、力がない人間が何をしてもいいと言うのなら、君の一家もかつてはそうじゃなかったのか? 力がないからこそ、店を広げるためにあらゆる手段を講じたんじゃないのか?」
恭介はそう言いながら、リュウが具体的にどれだけの悪事を働き、どれだけの人間を不幸にしていているのか、その残忍で冷酷な本性をウェイは知らないのだと確信した。リュウは、自分は出来る限り安全な場所にいながら、人を脅すことで人を犯罪に引きずり込み、甘い汁だけを吸う本当の悪だった。おそらくウェイは、本能的にリュウの悪の表面を感じてはいても、それ以上のことを想像することは避けているのだろう。
恭介は、なぜリュウがウェイを手元に置いているのかを考えた。あれだけ合理的に人を利用するリュウのことだ。もしかしたら、ウェイのことも愛しているのではなく、利用しているだけなのかもしれない。そんな憶測が喉まで出かかる。恭介は、ウェイのことを慈しむように見た。彼女は、何か言い返そうと鼻息を荒くさせていたが、すぐに自分の気持ちを落ち着かせるように軽く深呼吸をし「もう止めましょう」と小さな声で言ってきた。
「ゴメン……」
「ううん。ねえ、でもこれだけは言わせて、リュウさんは悪い人じゃないの。環境がちょっと彼を粗野にしてしまっているけれど、本当はとても純粋な人なの。だから恭介もリュウさんの力になってあげて。あなたにとっても、それが一番のはずだから」
ウェイはさっきとは打って変わり、訴えかけるように言ってきた。恭介は「ああ」と答えながらも、リュウのために自分はウェイに優しくされてきただけなのだと悟った。恭介は、ウェイの視線から逃れるように顔を眼下の横浜港のほうに向けた。ライトアップされたベイブリッジがやけに眩すぎて、実際の距離よりも遥か遠くにある存在のように思えた。
(三)
三が日が終わり、街は正月気分から抜け出していた。その日、恭介がリュウのマンションから深夜に戻ってくると、ノボルが恭介の新華桜の三階の恭介の部屋に勝手に侵入し、ベッドに寝そべってグラビアアイドルが表紙を飾る漫画雑誌を読んでいた。
「どうしてここにいる?」
「冷たいねえ。新年の挨拶に来たというのに」
「帰れ。お前に構っている暇はこっちにはないんだ」
恭介は冷たく言い放つと、ドアを開けたまま、外へと指差す。
「あらあら、ご機嫌斜めだねえ」
ノボルは小柄な体をゆっくりと起き上がらせ、「これ、やるよ」と言いながら、漫画雑誌を恭介に渡して素直に出て行こうとしたが、「もしかして、華僑の女にフラれたから機嫌が悪いのか?」とすれ違い際に訊いてきた。
「何のことだ?」
「トボけるなって。お前はあのリュウって男から逃げたいと思っているんだろ?」
恭介は何も言わずに、ノボルから視線を逸らす。
「相変わらずわかりやすい反応をする奴だな。でもお前のその選択は間違ってない。最初から言っているだろ。あのリュウって男はまともに相手にしちゃいけねえ。オレもお前の能力をあの男に知られて、利用されたくはねえんだよ」
ノボルは息がかかるほど近くに顔を寄せてくる。
「いいか。今すぐこの街から逃げろ。さもないと、お前はとんでもない選択を迫られることになるぞ。オレと組めば、お前の潜伏先ぐらいいくらでも用意してやる。だから明日の朝にもこの街を出るんだ」
ノボルはそれだけ言うと、相変わらずのニヤけ顔を見せてから出て行った。恭介はノボルの言った通りだと思った。ただそう思えば思うほど、ウェイをこのままにしてよいのかどうか迷い始めていた。思い上がっていることは痛いぐらいにわかっていた。でもどうしても自分の気持ちに嘘をつくことが出来なかった。
リュウから連絡があり、チャンと一緒に茨城県の土浦市に行くように言われたのは、年が明けてから一週間ばかりが経った頃だった。恭介は熱が出て、どうしても行けないと嘘をついてこれを断った。その後も二度ほどチャンと地方に仕事に行くようにとリュウからの依頼があったが、恭介は適当な理由をつけて二度とも断った。
その間、恭介はリュウのマンションには出入りし、ほかの仕事は手伝っていた。リュウたちがこの件で何かを言ってくることはなく、彼らは普段と同じように恭介と接していた。
一月も半ばを過ぎた頃にリュウからの依頼がまたあった。それを再び断った夜、新華桜の三階にウェイが現れた。
「早く逃げて!」ウェイは、現れるなり、切羽詰った言い方で訴える。
「リュウさんたちの様子が何だかおかしいのよ! もしかして、あなた、彼らの要望を無視し続けているんじゃない? そんなことをして、本気でタダですむと思っているの?」
捲くし立てて言うウェイに恭介は気後れした。
「彼らは別に何も問題になんかしていなけれど……」
「その考えが甘いって言うの。たぶん彼らはあなたを泳がせて、出方を伺っているだけなのよ」
なかなか状況を飲み込もうとしない恭介にウェイは苛立った様子で大きくため息をつく。
「とにかく今、リュウさんたちは総出で大きな仕事に向かったようだから。逃げるなら今しかない」
「でもリュウのことだから誰か監視をつけているんじゃないのか?」
「今日それを任されているのは、わたしなの」
凛とした表情でキッパリと言うウェイに、恭介はもはや逆らうことが出来ず、結局荷物をまとめて急いで部屋を後にした。
「いいのか。こんなことをして。君が疑われるんじゃ」
中華街を走りながら、恭介はウェイに訊ねる。このまま彼女を残しては行けない。
「わたしのことはいいわ。適当に言い繕うし、第一リュウさんがわたしを傷つけると思う?」
その言葉に改めて今の自分の立場を思い知る。恭介はとにかく中華街を離れてからタクシーを拾うことにした。ウェイは慣れた様子で走って誘導し、恭介は彼女の背中を見つめ続けながら走った。ウェイが顔を緊張させて立ち止まったのは、横断歩道を渡ろうとした時だった。目の前からチャンたちリュウの取り巻きが複数で歩いてくるのが見えたからであった。ウェイは慌てて振り返った。するとその表情は絶望的な表情ものへと変化した。それは、彼女視線の先にリュウがいたからであった。
「リュウさん、何でここに?」
ウェイは必死に作り笑いを浮かべて言う。リュウはそんな彼女に中国語で何かを話すと、無理やり彼女を恭介から引き離し、恭介の目の前に仁王立ちした。
「キョウスケ、ニゲテハダメダヨ」
リュウは口元を緩ませるや、恭介の腹を思いっ切り殴ってきた。恭介は、その場に膝から崩れ落ちた。
その日から恭介は新華桜に軟禁にされた。部屋には常にリュウの部下のうちの誰かが一人、見張っており、気が休まるときがなかった。食事はときおり新華桜のまかないがリュウの部下によって運ばれてきた。恭介は、ウェイがリュウに痛めつけられていないか、気が気でなかった。
恭介がリュウの部下の手によって新華桜から連れ出されたのは、彼が軟禁されてから一週間ほどが過ぎた頃だった。店の前でバンの後部座席に乗せられた恭介は、車に揺られながら、自分もあのホーという若者のように、焼印を押されて皆の見世物にされてしまうのかと考えた。もはややけっぱちになっているのか不思議と恐怖感はあまり湧かなかった。
バンは横浜駅方面へと向かい、駅のすぐ近くになるタワーマンションの地下駐車場に入っていった。恭介にはなぜこんな場所に自分を連れ込んだのか、その意図がわからずに戸惑っていたが、リュウの部下たちは何の説明もせずにただ自分たちについてくるように言うだけだった。恭介はタワーマンションの二十五階に連れていかれた。そこは玄関が大理石で出来ている部屋で、恭介が足も踏み入れたこともないような高級感が溢れる場所だった。ほどんど物が置かれていない、モデルルームような生活感のないリビングルームに通されるとそこにはリュウとチャン、そしてもう一人、見覚えのある男がいた。
「あんたは!?」
驚く恭介の反応を楽しむかのように、男は「お久しぶりですね」と言いながら、ニヤリと笑って見せる。男は歌舞伎町のヤクザ、工藤であった。
「そんなに怖い顔をしないでください。わたしはあれからずっとあなたを捜していたのですから。だからリュウたちからあなたを匿っていると聞いた時は、運命を感じたほどです。ああ、そういえば、あのキャバクラ嬢は残念でしたね。村上の行方も警察は未だにつかめていないようですし」
「あんたが手を下したんじゃないか?」
恭介は皮肉をこめて言ったが、工藤は涼しい顔をしながら「これは、これは」と笑って見せるだけだった。
「それで、あんたがオレに一体何の用だっていうんだ?」
恭介は改めて問いかける。
「実はあなたに聞きたいことがあるのです。あなた自身の特別な能力について」
工藤の言葉に、恭介は強烈なパンチを食らったボクサーのように、大きな衝撃を受けた。この男はなぜ自分の秘密を知っているのか? 一瞬、麻美が喋ったのかと思ったが、彼女が村上を差し置いてこの男と接触している可能性は低く、またノボルについても、わざわざ商売敵になりそうな相手に有用な情報を教えるとは思えなかった。
「一体何のことだ?」恭介は懸命に動揺を隠しながら、空とぼける。
「隠さなくてもいいですよ。もう全部知っているんです。麻美を殺ったのはあなたでしょう? それから日産スタジアムでの殺しもあなただ。違いますか?」
冷静に追い詰めてくる工藤に、恭介は感情的にならざるを得なかった。
「何をわけのわからないことを言っているんだ! 何か証拠でもあるのか?」
「そんなに感情的にならないでください。わたしは別にあなたを警察に突き出そうというのではないのです。ただ今後色々と協力関係を築いていければと考えているだけです」
そう言いながらも切れ長の鋭い目つきで見据えてくる、この心底冷徹な男を恭介は信用出来なかった。この男もノボルと同じで、ただ自分の能力を利用しようと企んでいるだけに違いないのだ。
「断る。オレにはそもそもそんな能力はないし、それにあんたと手を組む義理もない」
恭介がキッパリと告げると、それまで不気味なほどに押し黙っていたリュウが工藤に対して中国語で話し始めた。
「何て言っている?」
工藤はチャンに通訳を頼むと、チャンは「工藤さんは手ぬるい。認めないのなら、力ずくでも認めさせればいい」と伝えた。工藤は含み笑いをしながら、リュウの顔を見て、浅く頷いた。するとリュウはチャンに何かを命じた。チャンは隣の部屋へと向かい、すぐに車椅子に乗せられた一人の若い女を連れて来た。
「ウェイ……」
恭介は愕然とするしかなかった。リュウが別室から連れてきたのは紛れもなくウェイであった。明らかに薬で眠らされているその姿は、心配するぐらいにやつれており、しかも首筋にはホーにつけたのと同じ蜘蛛の焼印が押されていた。
「なぜこんなことをした!」恭介は怒りに任せて、リュウの胸倉を掴む。
「ナゼダト? コノオンナハ、オマエノタメニコウナッタノダゾ」
リュウはまるで常識を話すかのような口調で言うと、恭介を突き飛ばし、懐からダガーナイフを取り出した。恭介はよろめきながらも、すぐに身構えた。リュウはそんな恭介をあざ笑うかのようにダガーナイフの刃をウェイの頚動脈に突きつけ、そしてそのままナイフを横に引いた。その瞬間にウェイの首からまるで噴水のように勢いよく血しぶきが飛び、辺りを血の海にした。恭介は頭を整理させることが出来ず、ウェイの血が自分の足元に流れてくるのを見るに及んで、目の前で何が起こったのかをようやく理解した。
「そ、そんな、ウェイ……。ウェイ!」
恭介は自分の体がウェイの血に染まるのも構わずに、彼女の元に走り、抱き抱えて頚動脈を抑えて血を止めようとした。だが血の勢いは止まらず、おびただしいほど流れ続け、ウェイは朦朧として、意識をなくし始めていた。
「どうしてこんなことを! 彼女を愛しているんじゃなかったのか?」
恭介は怒気を含んだ声でリュウを問い詰めた。
「オレヲウラギッタムクイダ」
リュウは怯むこともなく言い、そして「ソンナニカノジョガカワイソウナラ、オマエガタスケロヨ」と続けた。恭介はリュウを睨みつけた。リュウは恭介に右手の能力を見せるように促すばかりで、工藤もほくそ笑みながら、そんなリュウの趣味の悪いやり方を楽しんでいるようだった。すぐにでもリュウをぶん殴ってやりたかった。でも、そうしている間にもウェイの呼吸は粗くなり、次第に微かなものになっていった。
「クソッ」
恭介は右手のグローブを外し、ウェイの切られた頚動脈の傷口に触れた。その瞬間にまばゆい光が彼女を包み込み、ウェイの傷は瞬く間に癒えていった。リュウもチャンも口を開けたまま、目の前で起きた奇跡に茫然としており、工藤は満足げな笑みを浮かべていた。恭介は正常に呼吸し始めているウェイの様子を見て安心し、それと同時に今こそがチャンスだと思った。
「お前だけは絶対に赦さない!」
恭介は叫びながら、左手のグローブを外し、キラーハンドでリュウを殺そうと彼に飛びかかる。
「待ちなさい」
だが工藤のその場に似合わぬ冷静な声が恭介の足を止めさせた。振り返ると、工藤はいつの間にか拳銃を抜いており、銃口をウェイに向けていた。
「一度助けた命は、もう二度と助けられないんじゃないんですか? 偶発的に殺してしまったであろう麻美を助けなかったことから考えると、そういうことですよね」
工藤は感情を込めない言い方で言いながら、ゆっくりとウェイに近づいていく。そんな工藤を目で追いながら、恭介は左手のグローブを再びつけるしかなかった。
「さて、では手始めに、あなたには誰を殺してもらいましょうかね」
すぐに工藤は余裕の表情を見せ、物色するように恭介の顔を伺ってきた。
「キョウダイ、マッテクレ」
そんな工藤にリュウが口を挟み、中国語でまくし立て始める。
「工藤さん、リュウは納得が行かないと言っています。自分がこの男の能力を引き出したのだから、今回は自分にこの男の左手を利用させて欲しいと」
そしてチャンが工藤に訳すと、工藤は切れ長の目をさらに長くさせ、冷たい視線をリュウに向けた。
「それは話が違いますね。こちらとしては最大限の報酬を支払ったと思いますが」
「でもあんなものを見せられたら話は別だと。それにあなたに貰った金はあくまで情報料であり、彼を受け渡すには足りないとリュウは言っています」
チャンは厚ぼったい瞼をパチパチと何度も瞬きさせながら、リュウと工藤の双方の顔を伺って、恐る恐る訳した。工藤はそんなチャンを一瞥し、リュウの顔を見ると、ふき出すように笑い始める。
「ナニガオカシイ?」リュウは訝しげな顔をして工藤に訊ねる。
「いや、さすがにたくましいなと思いまして。わかりました。今回はあなたに任せましょう。ただし、仕事が終わり次第、彼の身柄はこちらにいただきますよ」
工藤の言葉がチャンによって訳されると、両者は固く手を握り合った。
「ふざけるな!」
恭介は叫ぶと、まだ意識の戻らぬウェイの車椅子を押し、その場から逃げようと試みた。しかしリュウはそんな恭介の動きなど最初からわかっているといった様子で、ドアに先回りをし、容赦なく恭介の頬を思い切り殴りつけた。恭介は吹っ飛ばされ、床に体を叩きつけられる。
「オマエニセンタクケンハナイ」
リュウは恭介の前に仁王立ちして言うと、何度も恭介を蹴り始めた。恭介は痛みに耐えながら、今すぐにもリュウをキラーハンドで殺してやりたいと願い、そのチャンスを伺ったが、すでにチャンが拳銃を取り出し、ウェイのこめかみに銃口をつきつけていた。恭介は何も出来ない自分を歯痒く思い、腹が立ってしょうがなかった。その間もリュウの執拗な攻撃は収まらず、痛みのあまり、次第に恭介の意識は遠のき始めていた。
「それで、誰を殺させるんです?」
恭介に抵抗が出来なくなったところで、工藤がリュウに訊ねる。するとリュウはようやく恭介への攻撃を止め、黙ってウェイを指差す。
「コノオンナノチチオヤダ。ヤロウ、ツイニヤツラノバックニイル『幇(ルビ:パン)』ヲツカッテキヤガッタ」
リュウは阿修羅のような顔になっていた。
翌日、恭介はいつものリュウのマンションの部屋に連れて来られていた。目の前にはチャンだけがおり、彼は恭介に、事務的にターゲットすなわちウェイの父親であるヤン・ファンミンのことを説明し始めた。彼の話によると、中華街の顔役でもあるヤンは事あるごとにリュウと対立を繰り返し、彼らと結びつきの深い幇という組織を使ってまでして、中華街の古い因習に従わないリュウとその一派を中華街から締め出そうとしているのだという。
「幇? それはそんなに強大な組織なのか?」
恭介は聞きなれない言葉の説明をチャンに求めた。しかしチャンは言葉を濁し、とにかく恭介の左手の能力によって、ヤンを葬れと言い、そうすればリュウたちは、晴れて中華街を牛耳っていけるのだと熱弁した。
「なぜオレにやらせるんだ? 自分たちでやればいいだろ」
恭介はそれでも反抗的な態度を見せる。チャンは取り合うつもりもなさそうに「お前はバカか」と言う。
「オレたちがヤンを殺ったとわかれば、中華街の他の連中からのリュウさんへの反発が強まるだろ。どっちみち、奴らの幇から報復を受けることにもなる。ヤンには自然に死んでもらわなきゃならないんだ。オレたちは平和的にことを進めたいのだからな」
恭介は何が平和的にだと笑いたくなったが、それよりもウェイのことが気になり、彼女の安否をチャンに訊ねた。チャンは「本当に惚れちまったようだな」とただ笑うだけだった。恭介は、次の瞬間には飛び掛って、チャンの胸倉を掴んでいた。
「さあ、言え! ウェイはどうした?」
恭介は勢い良く問い詰めた。チャンは、「オレにそんなことをしてもいいのか?」と余裕の表情で薄ら笑いを浮かべるだけだった。
「ふざけるな! オレは別にこの場でお前を殺してもいいんだぞ!」
恭介は怒りのあまりキラーハンドを掲げた。
「待てよ。冗談だ。そう、怒りなさんなって」
恭介の本気度を感じ取ったチャンはすぐに恭介を宥める。
「あの女は生きている。お前の素晴らしい能力のおかげでな。今はリュウさんが用意した病院にいる。だいぶ出血はしていたからな」
「本当か?」
「嘘なんて言うかよ。もうすっかりと意識も戻ったようだ」
「会わせろ。今すぐに」
「構わないが、止めたほうがいいと思うぜ。お前はこれから彼女の父親を殺さなければならないんだぞ」
チャンの言葉に、恭介が改めて現実に引き戻されたが、それでもウェイの元気な姿をひと目見なければ気がすまなかった。
ウェイが入院している病院にはタクシーで向かった。桜木町にある私立病院であった。病床数が百床ばかりの中規模な大きさのその病院は、リュウと取引のある中国系の男が経営しており、複雑な事情は黙認されたまま、ウェイは入院しているという話であった。ウェイはまるで学校の校舎のように、質素な作りをした病院の最上階である五階の個室をあてがわれていた。建物自体が古く、あまり奇麗とはいえなかったが、それでも個室の中は清潔に保たれ、窓からは桜木町の町並みが一望出来た。
「恭介!」
上半身を起こして雑誌を読んでいたウェイは、チャンとともに突然部屋に入ってきた恭介を見て、まるで幽霊でも見ているかのような顔をして驚いていた。
「大丈夫か?」
「うん、ちょっと疲れが溜まっていて、倒れちゃったみたい。医者には貧血気味だって言われたわ。それよりあなたこそ、よく無事で」
ウェイは安心した表情を見せていたが、その態度はどこか余所余所しく、不安が表情に表れていた。恭介はウェイが本当のことを知らされていないことを悟り、遠回しに「痛みはないか? 何かされたんじゃないのか?」と訊ねる。そしてとにかくウェイの不安を取り払おうと、必死に喋り続けたが、恭介がそうやって喋れば、喋るほど、ウェイの表情は暗くなり、言葉少なになっていった。
「どうしたんだ?」
恭介が訊ねると、ウェイは突然泣き出してしまう。恭介はオロオロとするしかなかった。見張り役のチャンはその光景を面白そうに眺めている。
「リュウさんを守ってあげて」
ウェイはしばらくしたあとで、かすれた声で呟いた。恭介は自分の耳を疑ったが、ウェイは、今度はハッキリとした口調で「お願い! リュウさんを守って!」と恭介の腕にすがって懇願してきた。
「どうして?」恭介は困惑しながら訊ねる。
「だって、お父さんが海外の幇の人たちまで使って、本気でリュウさんを中国人社会から追い出すつもりみたいなの。ねえ、恭介は普通の人じゃないんでしょ。リュウさんが言ってたわ。アイツは実はただの男じゃなかったって。自分たちを救ってくれる男だって。だからお願い! わたしたちを助けて」
恭介はまたしても出てきた「幇」という聞きなれない言葉を気にしながらも、リュウが彼女の首をかき切ったとき、彼女が眠らされていたことを思い出した。おそらくウェイは巧みに情報操作されているのだろう。恭介はチャンの顔を見た。チャンは下品な笑いを必死に抑えながら、話を合わせるように目配せをしてきた。
「お父さんのこと、やっぱり憎いのか?」
恭介はその場でチャンを殺したい衝動を抑えながら、ウェイに訊ねる。
「当たり前じゃない。幇の人たちまで使って、徹底的にリュウさんたちを迫害して」
「なあ、その幇っていうのは一体何者なんだ? そんなにヤバい連中なのか?」
「それは」
ウェイは気まずそうな顔をしながら、「とにかくお父さんは最悪よ。いつだって保守的で、自分たちのことばっかりしか考えてなくて」と捲し立てる。
「じゃあ、ウェイはお父さんとリュウだったら、リュウを選ぶんだな」
「どうしてそんなことを聞くの?」
「いや、その傷、リュウにつけられたんだなって思って」
恭介はウェイの首筋に残された蜘蛛の焼印を指差す。思わず言葉を詰まらせるウェイに、恭介は彼女がリュウの悪の部分に気がついてくれるよう願ったが、彼女は大きな目で恭介を見据えると「これはわたしが悪いんだから、しょうがないのよ」と言うだけだった。
「しょうがないだって? 恋人に傷つけられたんだぞ。どんな理由があっても、恋人の体に傷をつけるなんて」
「あなたはリュウさんのことを何もわかってないのよ!」
ウェイは感情的になった恭介の言葉をピシャリと遮る。
「これはリュウさんなりの愛情表現なの。こうやって目に見えることをしないと他人とのつながりを確認することが出来ない人なの」
そして必死にリュウを弁護しようとするウェイのいじらしさに触れた恭介は、自分の能力を試すためにリュウがウェイの命を奪おうとしたことを口にしようと思った。だが、どうしてもウェイがそんな話を信じるように思えなかった。
「そうだな。オレにはあの男はわからない」
「恭介」
ウェイは不安げな視線で恭介を見つめる。
「安心しろよ。オレは君には幸せになってもらいたい」
恭介はウェイが望む通りにすることが、ウェイにとって最も幸せなことなのだと思った。彼女はまだリュウを愛している。愛? 恭介はふと、ウェイが彼を愛する理由は、リュウという人間そのものにあるのではなく、リュウを愛することによって、ウェイ自身が抱えている不安や動揺から逃れたいからであるような気がした。ただそう思えば思うほど、恭介は自分も同じなのだと思った。自分も間違いなく、自分の心を慰めるためにウェイを愛していた。彼女を愛する理由は、彼女に出会う前から恭介自身の中にあったのだ。
恭介はウェイに笑顔を向けた。そしてそれ以上、ウェイとは目を合わせずに病室を出た。
それから恭介はチャンに連れられ、車でウェイの父親であるヤン・ファンミンの自宅へと向かった。左手は次第に制御が利かなく始め、肥大化もしていたが、発動まではまだ数時間はあった。恭介は額に流れる脂汗を拭いながら、窓の外を見た。そこは以前ウェイと歩いた元町のハイソな通りであり、ヤンの自宅はそこからさらに高級住宅街が並ぶ急勾配の坂を上り切った丘の上にあった。恭介はヤンの自宅から少し離れた場所で下ろされた。西洋風の屋敷は、御伽噺の世界でしか見たことがないような、赤茶色をしたレンガ造りの荘厳とした建物だった。
「ヤンは常に側近と行動を共にしているため、そう易々と奴に近づくことは出来ない」
チャンが周りの視線を気にしながら説明を始めた。
「チャンスは自宅にいるときだけだ。八時には使用人も帰り、奴は夫人と二人きりになる」
「忍び込めっていうのか?」
恭介が問うと、チャンは軽く頷き、再び車に乗り込んだ。
「とにかく奴が戻ってくるのを待て。もうすぐ帰ってくるはずだ。車が門を入った後、門が閉まるまで数秒かかる。そのときが侵入するチャンスだ」
「手伝ってはくれないのか?」
「冗談だろ。屋敷への侵入の仕方は教えた。それにこれはお前の仕事なんだからな。何が起こっても、責任はお前が持てよ。ただしウェイの身柄はこちらが預かっていることは忘れるな」
チャンはそれだけ言って車を走らせて去っていった。大きくため息をつきながら、もはやヤンを殺すことに迷いがない自分に気がついた恭介は、とにかく近くの街路樹の陰に身を隠す。街路樹の葉はすでに落ち、丸裸になっていたが、樹齢五十年はあるであろう、その幹の太さはたくましく、人ひとりを隠すには充分巣背後から、いつもの声が聞こえた。振り返ると、ノボルが呆れた顔をして笑っていた。
「そろそろ現れる頃かと思ったぜ」
「そりゃ、どうも。待っていてくれたとは、うれしいぜ」
「オレを笑いに来たのか?」
恭介が訊くと、ノボルは鼻で笑ってはいたが、その目はいつもより潤んでおり、恭介にはそれが自分を哀れんでいるように感じた。
「結局リュウの言いなりか? しまいにゃ、ただの戦闘マシーンになっていくわけだ」
「お前に言われたくない。お前だって、リュウと同じことを考えているくせに」
「おいおい、あんなインテリジェンスの欠片もない男と一緒にされちゃ困るな。少なくとも、オレはお前を奴隷扱いする気はない。あくまでオレたち二人の関係はビジネスパートナーだ。それに女を人質にこんな雑な作戦を取らせるほど、オレはバカじゃないぜ」
ノボルの棘がある言葉に、恭介は怒りが湧いてきたが、それが事実である以上、何も言い返すことが出来ない。
「どうする? このままリュウの言う通りにヤンを殺るのか?」
「それしかないだろ。じゃなきゃ、ウェイの身が危ない」
「まだそんなことを言っているのか? あの女が一体何だって言うんだ。お前のために一体何をしてくれた? 所詮はリュウの女なんだぞ? あの女だって、もしかしたらお前をハメるために、最初からリュウとグルだったかもしれないんだぞ?」
恭介はまさかと思ったが、自分の中に生まれた不安を打ち消すことが出来ず、自分の弱い心をごまかすかのように、ノボルに向かってキラーハンドをかざした。
「どうした? オレを殺るのか?」
そんな恭介の気持ちを見透かしたように、ノボルは冷静な口調で問いかける。車のライトが恭介の視界に入ったのはそのときだった。一台のシルバーのベンツが坂を上がってきて、ヤンの屋敷の門の前に止まった。目を凝らしてみると、後部座席に乗っている人物は、チャンに前もって見せられていたヤン・ファンミンの顔写真と同じ顔をしていた。恭介は、二メートル近くもある鉄製の屋敷の門が開くのを見た。さらにベンツが中に入っていくのを見て、慌てて飛び出し、閉まりつつあった門から、どうにかヤンの家の敷地内に滑り込んで入った。緊張からか額には汗が滲んでいた。恭介は家の敷地と同じぐらいの広さの庭の中に、大きなサクラの樹があることに気がつき、すぐにその陰に身を潜め、息を殺して屋敷の中を遠目で伺った。
恭介がヤンの屋敷の敷地内に潜入してから、一時間ばかりが過ぎた。その間に運転手や家政婦など、ヤンの使用人は次々と勝手口から帰って行った。恭介は、隠れていた庭のサクラの樹の陰から出て、屋敷の裏手へと向かい、雨どいを伝って、二階のベランダに上った。そしてベランダから、屋根へと上り、屋根にある開閉式の採光窓を開け、そこから屋敷の屋根裏部屋に侵入する。ここまで何の問題もなくうまく運んでいるのは、紛れもなくウェイの持つ情報が間接的に与えられていたからであった。
屋根裏部屋は月明かりが照らしているだけの薄暗い、六畳ほどの狭い場所で、ダンボールなどの荷物や古い骨董品で足の踏み場もほとんどないぐらいだった。恭介は屋根裏部屋を出ると、二階の部屋を回り、ヤンが一人になる確率が非常に高いであろう、彼の書斎を探した。途中、ウェイの部屋らしき場所を見つけた。彼女がここで何を考え、どんな生活を送ってきたのか存分に想像してみたい気持ちに駆られたが、血に餓えた肉食獣のごとく蠢く左手が恭介を現実に引き戻す。
ほどなくして、恭介はヤンの書斎であろう部屋を見つけた。八畳ほどの部屋には趣味のよさそうな西欧風のアンティークの置物がいくつも置かれており、壁一面に置かれた本棚には難しそうな本がびっしりと並んでいた。恭介はドアのすぐ横の壁の前に立ち、入ってきたヤンをすぐに襲いかかれるよう息を潜めて待ち続けた。十分、二十分と時間は過ぎた。キラーハンドの発動まではまだ二時間ばかりあったが、左手はすでに制御がし辛い状態に成りつつあった。ヤンが書斎に入ってきたのは、それからさらに三十分ほど経った頃だった。恭介はヤンが入ってくるなり、彼の口元を塞ぎ、すばやくドアを閉めた。
「悪いけれど、あんたには死んでもらう」
恭介は耳元で囁くと、すぐにキラーハンドをかざして、ヤンを殺してしまおうと思った。ヤンは焦る様子も見せず、何か言いたげなゼスチャーを見せる。恭介は躊躇した。その躊躇をヤンは見逃さなかった。彼は体をうまくねじって、自分の口を塞いでいた恭介の腕を取ると、そのまま一本背負いで恭介を投げ飛ばしてきた。恭介はとっさに受身を取り、すぐに体勢を整えて、ヤンを殺してしまおうと身構える。そんな恭介に対して、ヤンは「待て!」と一喝してきた。ヤンは良く見ると年齢の割には恰幅のいい体格をしており、何よりも意志の強そうな大きな目がウェイにそっくりだった。
「お前は何者だ? リュウに頼まれて、わたしの命を奪いに来たのか?」
そしてヤンは助ける呼ぶ様子もなく、冷静に恭介に訊ねてきた。ヤンの予想外の対応に恭介は戸惑うしかない。ヤンは「まあ、話を聞け。わたしを殺すのはそれからでも遅くはないだろう」と言う。
「見たところ、手の能力者のようだが、リュウには金で雇われたのか?」
ヤンが自分の左手を見ても平然としており、むしろ当たり前のように「手の能力者」として自分のことを呼んだことに恭介は驚く。
「知っているのか。オレの能力を」
「見るのは初めてだがな。話は幇の仲間から聞いたことがある」
また幇か。恭介はヤンの言葉の中にまたしても得体の知れない組織名が出てきて苛立つ。
「なあ、その幇っていうのは一体何なんだ? リュウが恐れるぐらいのすごい組織なのか?」
矢継ぎ早に質問をする恭介に、ヤンは「落ち着け」と言うと、ゆったりとした動作で椅子に座り、幇について語り始めた。ヤンの話によると、幇というのは、今でこそ、地縁で繋がる同志のネットワークのような意味で使われることが多いが、そもそもは清朝末期に出来た秘密組織のことを指すという。そして第二次世界大戦後、共産党が中国で政権を握ってからはその性質が変わっていた。共産党政権打倒のために幇のメンバーたちは、ある者とは華僑として、ある者は地下に潜って世界中に散らばり、命を賭けて互いに助け合うことによって、その力を強大にしていったというのだ。
「その人脈と思想が脈々と受け継がれていっているってわけか?」
「そうだな」
ヤンはそう言いつつも時代の流れとともに幇の性質も変わってきていることを話し始めた。当初は共産党政権を打倒するための地下活動が大きな目的であったのに、近年では世界中に散らばるネットワークを駆使して、ビジネス面での結びつきのほうが大きくなってきているのだという。人と物を斡旋するブローカー的な役割をする際に、幇のネットワークは最大の力を発揮するというのだ。
「それじゃ、今はビジネスライクな付き合いっていうわけか?」
恭介の問いかけにヤンは大きく首を横に振り「我々、幇は、侠と義のために生きている」と真顔で言う。
「侠と義?」
「ああ、世界中に散らばる幇の仲間が苦境に立ち、援助を求めてきたときには、我々はたとえ会ったことのない人物でも命を賭けて助ける」
ヤンの言葉に恭介は愕然とした。たとえ同じ民族の者で、主義思想が同じであったとしても、会ったこともない人間の命を賭けて助けるなど正気の沙汰ではない。しかしヤンはそれを当然のことにように言い、そして中華街の歴史を語ることによって、その言葉の真偽を証明し始めるのであった。
「関東大震災と第二次世界大戦で元々外国人居留地に過ぎなかったこの場所が、中華街として復興したのはまさに世界中の幇の仲間たちのおかげなんだ」
そうやって切り出したヤンの話は、異民族が敵国で生き抜くためには、いかに一枚岩になって、壮絶な苦難の連続を乗り越えなければいかないのかという話で、今まで異国で生きることなど考えもしたことがない恭介にとっては想像をしたこともない話であった。そして大戦後、共産党と国民党の内戦を経た中国人社会はどこも非常に複雑な関係をそれぞれ維持しなければならなくなっているのだとヤンは語る。彼の話によると、蛇頭の暗躍と中国の経済成長がもたらした内部格差への反発から、日本語もロクに喋れないような中国人が定期的に中華街に入り込んできていると言い、リュウたちのグループはその流れに乗った、パイオニアであるというのだ。
「アイツらには、オレたちの論理が通じないんだ。正直、アイツらの向こう見ずな行動が中華系の人間全体の評判を落としていることに迷惑している。ほとんどの中華系の人々は普通の人たちで日本人とも仲良くやっているというのに」
そして、ヤンは寂しげな顔を見せて続け、リュウたちはこれまでヤンたちが築いてきた侠や義の精神を無視して笑い、自分たちの利益だけを求めるやり方を続けているのだと熱く語った。同族をも足蹴にするやり方はいつか中華街全体に災いをもたらすのだというのだ。恭介はヤンの話を聞いているうちに、ヤンたちとリュウたちの関係がまるでパズルを組み合わせたかのように頭の中でハッキリとしていったが、それと同時にヤンたちがリュウたちの若さを恐れる理由がわかった。
「リュウたちの行動が、いつか自分たちを滅ぼすんじゃないかって、そう考えているのか? だから幇を頼り、リュウたちを締め出そうとしているのか?」
恭介がハッキリとした口調で訊ねると、ヤンは笑いながら、「リュウたちにそう吹き込まれたのか?」と聞き返してきた。
「そうだとしたら?」
「残念ながらそれは違う。ハッキリ言うが、幇がわたしたちの味方というには、ここ十数年で複雑なものになりすぎているんだ」
「複雑になりすぎている?」
恭介にはヤンの言っている意味がわからなかった。そんな恭介にヤンは諦めたような口調で説明を始める。
「さっきも言ったが、確かに打倒共産党政権という名のもとに我々は幇という組織の団結力を増してきた。しかしその目的達成への機運が薄れ、大きなビジネスチャンスを前にしている今、我々を繋ぎ止める力はあまりに小さくなってしまったんだ」
「つまり幇の中にも利益になるとわかれば、リュウたちの仲間になる人間が現れてきているということか?」
恭介の言葉にヤンは静かに頷く。
「でもリュウたちは恐れているぞ。あんたが幇の力を動員して、自分たちを本気で潰そうとしているんじゃないかって」
「それは彼らが今の幇という組織の実態をよくわかっていないからだ。見えない敵は恐ろしいものだ」
恭介は、チャンやウェイが「幇」について言葉を濁していたことを思い出す。ヤンはそんな恭介をスッキリとしたすがすがしい顔で見据えていた。
「本当は幇のことは仲間以外の人間に喋ってはいけないのだがな。でも君にはすべてを理解した上で、自分の意志を決めて欲しかったのだ。さあ、わたしは言いたいことは全て喋ったぞ。次は君がどうするのかを決める番だ」
ヤンは潔い態度で逃げも隠れもせずに、恭介と向かい合った。恭介は虚勢を張りながらも内心躊躇した。
「ウェイは? 彼女はリュウに利用され続けている。あんたはこのままでいいのか?」
恭介は訊ねながら、この人物が、本当にウェイが嫌っている人物なのかと疑問を抱く。
「あれにはわたしが保守的で、既得権にしがみついているだけの人間に見えているのだろう。確かに人間、年を取り、多くのものを手に入れるとそういう部分が出てきてしまうものなのかもしれない」
「そんな悠長な。彼女がリュウに殺されたらどうするんだ!」
感情的になる恭介に、ヤンは一瞬驚いたように目を見張って見せた。
「君はあれを心配してくれているのだな」
「あんたは心配していないのか! あんたがちゃんと彼女のことを見ていれば、あんな男にほだされることもなかったのに!」
「そうだな。わたしはわたしなりに必死だったから、その必死さを彼女にわかってもらおうと思っていたのだが、それは独りよがりな言い訳だったのかもしれない」
そうキッパリと言い切るヤンに、恭介はそれ以上彼を責める機会を逸した。
「心配してくれてありがとう。ウェイとはいつか腹を割って話が出来ればと思う」
そして自分を殺しにきた相手に礼を述べるヤンに、人間的な大きさを感じた恭介はこんな人物を殺せるはずがないと思った。恭介は部屋を出て行こうと、ドアを開けたが、立ち止まり、「もう一つだけ聞いてもいいか?」とヤンに訊ねた。
「何だ?」
「さっきあんたはオレのことを『手の能力者』って言ってたな」
恭介は芽依の顔を思い浮かべていた。彼女のために、訊けることはなんでも訊いておきたい。
「そのことなら、残念ながら詳しいことは知らない。幇の仲間から噂を聞いただけだからな。『手の能力者』というのもその男の表現に過ぎない。ただ第二次世界大戦中に満州でそのような能力を持った人物がいたと彼は言っていた。確かその男は中国に展開していた日本軍に関係していたとか。おそらく君のような能力の持ち主は昔から暗殺者として使われているのだろう。もしかしたら今も君以外にも存在しているのかもな」
ヤンの言葉に恭介は戦慄を覚えた。自分や芽依のほかに同じ力を持つ人間が今現在も存在している可能性など考えたこともなかったのだ。恭介は、その代々この悪魔の呪いを受け継いだ人間がノボルや工藤が望むように暗殺者として生きているだとしたら、それはまるで自分の未来を見ているようだった。
「なあ、その左手、もう誰を助けて発動しかけているんだろ」
そんな恭介に、ヤンは気を遣うように喋りかけてきた。恭介はそんなヤンに対してどうにか作り笑いを浮かべると、部屋を飛び出して出て行った。
恭介はヤンの屋敷を出ると、そのまま敷地の門を飛び越え、坂を下り、元町の商店街へと向かった。行き先は中華街にあるリュウのマンションであった。ヤンを殺せなかった以上、恭介には自分が殺す相手はリュウしかおらず、彼と相打ちによって命を落としても構わないとすら考えていた。キラーハンドの発動まではもう三十分を切っていた。すでに左手の制御は出来なくなりつつあり、絶えずその肥大した悪魔の手は蠢き続けていた。
息を切らせながらリュウのマンションに着くと、左手でドアの鍵を壊して中に入る。誰が飛びかかってきてもいいように身構えた。しかし部屋には誰もおらず、恭介をあざ笑うかのように開いていた窓からは北風が吹き、黄ばみがかった白いカーテンがまるでダンスでもするかのように舞っていた。恭介は焦った。キラーハンドが発動するまで時間がなく、彼にはリュウ以外の人間を殺すことは考えられないのだ。
「ここにはリュウはいねえよ」
振り返ると、いつの間にかノボルがいた。
「やっぱりお前にゃ、ヤンは殺せなかったか」
恭介はノボルの言い草に腹が立ったが、今はそんなことに怒っている暇はなかった。
「知っているのか? アイツの居場所を」
「さあな。だがだいたいの見当はつくぜ」
「どこだ?」
恭介は血相を変えて、ノボルに詰め寄る。
「そんなに怖い顔を近づけるんじゃねーよ。よく考えてもみろ。お前がヤンを殺せずに、その怒りの矛先をリュウに向ける。そんな可能性はリュウだって考えていたはずだ。それならキラーハンドが発動し、ほかの誰かを殺すまでどこかに身を隠すのは当然だろう。じゃあ、アイツにとって、お前から一番身を隠すのに適している場所はどこだ? お前がリュウを殺す姿を見られたら嫌だと思う人間がいる場所じゃないのか」
ノボルがそう言った瞬間に、恭介はリュウがウェイの病室にいることを思い浮かべ、その考えが正しいことを確信した。
「さあ、どうする? あの女に恨まれることを覚悟して、リュウを殺しに行くか?」
恭介は人を弄んでいるかのような言い方をするノボルを睨みつけると、何も答えずにそのままリュウのマンションを出た。ウェイに恨まれることは辛かったが、恭介にはリュウを殺す道しか残されていなかった。すぐにタクシーを拾い、ウェイが入院する病院に向かった。左手はすでにその獰猛な意志を示し始めており、もはや自分の腕ではなくなっていた。恭介はそんな左手の異常を運転手に悟られぬように必死に隠しながら、窓の外を見た。ネオンがチラつく窓の外の景色はまるで時間が止まっているかのように平穏そのもので、なぜ自分だけがいつも人の死と隣り合わせにいるのかと思うと、涙が急に溢れ出てきた。脳裏にはウェイの笑顔ばかりが浮かんだ。もう二度とウェイと仲良く話すこともないだろうと思うと、溢れる涙の量は増すばかりであった。恭介は無理にでもその涙を拭い、自分はやはり愛など求めてはいけない人間なのだと自分に強く言い聞かせた。
病院の前でタクシーを降りると、恭介は落ち着いた様子で救急外来の入り口から院内に入り、堂々と関係者を装ってエレベーターに乗り込むと、ウェイの病室がある病棟へと向かった。涙はもう流れていなかった。頭にあるのはリュウを殺すことだけで、自分でも驚くほどに人を殺すということに躊躇がなかった。ウェイの病室の前にたどり着くと、病室からは微かに女性の喘ぎ声が聞こえてきた。恭介は構わずにドアを開けた。ベッドの上には、裸のまま抱き合っていたウェイとリュウの姿があり、突然入って来た恭介の姿に驚いたウェイは、とっさに毛布を引っ掴んで自分の体を隠す。
「キョウスケ、ダメダヨ、ノックシナイト」
リュウは慌てる風も見せず、裸のまま立ち上がると、ベッドの脇の小机に置いてあった鞄から拳銃を取り出そうとする。恭介に迷っている時間はなかった。蠢く左手に大きくかざし、リュウに向かって駆け出す。
「きゃああああ!」
ウェイの叫び声が虚しく響く。恭介の左手はリュウの拳を弾き飛ばすと、そのままリュウの胸を鷲掴みにした。黒い光が途端に彼の体を包み、彼の命を奪っていく。そして、全てが終わった後で、恭介は恐る恐る横目でウェイの顔を見た。ウェイは恐怖で顔を引きつらせていた。恭介は踵を返して部屋を出て行く。
「人殺し!」
背中からウェイの声が聞こえた。もう二度と人を本気で愛することなどしてはいけない。芽依のためにも愛を理解しなくちゃいけないのに、そう断じられてしまったような気がした。
恭介は、そのまま廊下を突っ切って階段を下りていく。人を殺したというのに、不思議といつものような後悔はなかった。




