第二章 想い出の母
(一)
夏が過ぎ、過ごしやすい季節になっていた。東京をあとにした恭介は、川崎にある町工場に勤め、寮で生活していた。木材を様々な合板に加工する会社で、そこでは三十人ほどの社員が雇われているのだった。
工場は木材の匂いが常に漂う場所だった。切削機や生単板を乾燥させるドライヤーなどの巨大な機械が存在感を出して並んでおり、その合間を縫うようにフォークリフトが動き回っている。恭介は、最初はライン生産ぐらいの気楽なイメージで就業していた。だが実際に入ってみると、この仕事が思いのほか重労働で大変な仕事場であることに初日で気がついた。基本的に熟練の技を必要とする仕事は、いわゆる職人さんたちが行っていたのだが、恭介は彼らの仕事をアシストするために絶えず動かなければならず、しかも業界用語や機械の動かし方など、覚えることも多くて複雑なのだ。それでも恭介は、黙々と働いていた。空気を読みながら周囲と話を合わせ、つつがない毎日を過ごそうと必死だった。それは、せめてちゃんと生きていないと、芽依に合わせる顔がないと思っていたからだった。
恭介は、工場が早く引けた日は、一度寮に戻り、アコースティックギターを持って多摩川の土手に向かった。夏の日差しによって大きく成長した雑草が生い茂る土手は、人を寄せ付けさせていなかった。しかし恭介にとっては、その人気のなさこそが好都合で、そんな場所でギターを弾くことだけが唯一自分が自分であることを確認することが出来る瞬間であった。麻美を殺してしまった自責の念は、未だに晴れていなかったが、恭介はどうにか生き続けようともがいていた。
「兄ちゃん、それ、何て曲だ?」
小学校の高学年ぐらいの少年が恭介に話しかけてきたのは、恭介が工場で働き始めてから二週間ほどが経った頃だった。小麦色に日焼けをした、逆立った直毛の髪形が印象的な少年は、夏が終わり少し肌寒くなっているというのに、いつもTシャツしか着ていなかった。しかもそのTシャツも襟の部分がかなりくたびれた粗末な代物なものだった。
「『愛のロマンス』。『禁じられた遊び』っていう昔のフランス映画の曲だ。ギターの定番曲なんだけれど、オレは結構好きで、いつも指慣らしに弾いている」
「ふーん、いい曲だな」少年は曲調を恭介のギターに合わせて口ずさみ始める。
「ごめん、独りで弾きたいんだ。悪いけれど、あっちに行っていてくれないか?」
自分に近づいてはいけない。自らの悪魔に呪われた運命に少年を巻き込みたくないという思いが、恭介の言葉遣いを素っ気なくさせる。
「わかった。でもせめてその曲だけでも聴かせてくれないか」
少年は懇願し、約束通り「愛のロマンス」だけを聴いて帰った。しかし彼はその日から毎日のように恭介が土手でギターを弾いているときには現れるようになった。必ず「愛のロマンス」を聴かせてくれとせがみ、不自然なほど恭介の指使いを凝視しながらそれを聴き、曲が終わると素直に帰って行った。
「ガキに好かれているみたいだな」
そしていつものように少年が去ったある日、ノボルが土手に現れた。いつもの黒いシャツの上に、黒いジャケットを着ていた。
「何をしにきた? 工業地帯は油臭くて嫌だったんじゃないのか?」
ノボルはどこからともなく忘れた頃に現れては、恭介の様子を伺っていた。
「ケッ、まったくだぜ。まあ、でも身を隠すつもりなら、お前にしては上出来な選択だ」
ノボルは相変わらず上から目線で恭介に言いたいことを言い、そしてことあるごとに自分と組んで商売をしないかと誘ってきた。
「さあてと、次は誰が死に目に遭うのかな。さっきのあのガキなんていうのはどうだ?」
「ふざけるな」
「オレはふざけてなんかいやしないぜ。現実を見つめようとしない、お前のほうこそどうかしている。いい加減、自分のするべきことに気がつけよ。金がなけりゃ、何も出来ず、誰にも信用されないってこともさ。戒めを増やしたところで、自分を苦しめるばかりだぜ」
恭介はノボルを睨みつけたが、ノボルは涼しい顔をして、恭介の肩をポンと叩いて去っていった。恭介はやり場のない怒りを感じ、いつものように皮のグローブで覆われた自分の両手を眺めてから、それをギュッと握り締めた。もう虹の写真は撮っていなかった。芽依との関係を完全に断つこと。それが麻美を殺した恭介が新たに自分に課した戒めだった。
日が暮れておなかも空いてきたのでギターをケースにしまって家路に着くと、いつの間にか例の少年がついてきていることに気がついた。恭介は気づかないフリをして、早歩きをしたが、少年は見失うまいと、露骨に走って追いかけてきた。そのうちに恭介は会社の寮の前に着いてしまった。築浅の十人程の住人が住んでいるワンルームマンションで、恭介が勤める会社が一棟まるごと借り上げている建物だった。そのまま少年を無視して中に入ってもよかったが、一定の距離をとりながら、何か言いたげにずっと自分の方を見つめている少年の姿がけなげに思えてきた。
「何か用か?」恭介はやむなく声をかける。
「え、あ、うん!」
動揺を見せながらも少年は顔をほころばせ、恭介の前に近づいてくると、「オレにギターを教えてくれよ」と頭を下げてくるのだった。
「ギターだって?」
「うん、オレも兄ちゃんみたいにカッコよく弾きたいんだよ」
素直にそういう少年の言葉はうれしかった。なぜ彼がそこまでギターを弾けるようになりたいのか気になったが、訊けば教えざるを得なくなることが明らかだった。
「駄目だな」
「えー、なんでだよ?」
「そういうのは性に合わないからな。どうしてもって言うんだったら、講師料は高いぜ」
お金のことを話した途端に、少年の表情が急に暗くなったのがわかった。
「お金、やっぱり取るのか?」
「当たり前だろ。それが世の中の仕組みだからな。それから、一つだけ教えておいてやるけれど、人に物を頼むときは言葉遣いに気をつけろよ。教えてくれよ、じゃなく、教えてください、だ」
少年は恭介の言葉に反応することもなく、うつむき加減になってしまった。恭介はため息をつき、仕方なくポケットから五百円玉を出して少年に握らせた。
「何だよ、これ」
「これで何か食ってけ。腹減ってるんだろ」
それは異常なほどにやせ細っている少年の姿に気がついたからであり、恭介なりの優しさのつもりであったのだが、少年は途端に顔を真っ赤にして恭介を睨みつけてきた。
「いらねえよ、こんなもん! バカにするな!」
少年は五百円玉を恭介に投げつけると、そのまま走って去っていった。恭介は一瞬何が起こったのかわからず、立ち尽くすしかなかったが、そのうちに少年には少年なりのプライドがあるのだと思うようになり、そんなことを深く考えもせずに軽率な発言と行動を取った自分が恥ずかしくなった。
翌日、いつものように先輩に顎で使われながら、恭介はあくせくと指示通りに加工途中の木材を運んでいたが、頭の中は少年のことでいっぱいだった。子供のくせに、お金には流されないプライドの高さがいじらしく思え、ギターぐらい教えてやればよかったと感じ始めていた。
仕事が終わると、恭介はすぐにギターを持って土手に向かおうと寮に戻った。だが寮に着くや、恭介は一階にある部屋の窓が外から割られ、誰かが侵入した跡があることを発見した。慌てた恭介は、自分のすぐにお金や通帳など貴重品の無事を確認したが、ギターだけがいつも置いてある場所にないことに気が付いた。
恭介は発狂しそうになりながらもどうにか気持ちを落ち着かせ、とにかく部屋を出た。まだこの辺にギターを盗んだ人間に追いつくことが出来るかもしれないととっさに考えたからだった。しかしいくら走り回っても、ギターを持った人間などいなかった。高校生のときにお金を貯めて買った愛着のあるギターをもう目にすることはないと想像しただけで、泣きたくなった。
アコースティックギターの音色が微かに聞こえてきたのは、土手の近くを歩いていたときだった。そのたどたどしい調べは「愛のロマンス」の出だしだった。出だしだけが何度も繰り返し引かれている。恭介は走って、音色がする方向へと向かった。土手に上がり、辺りを見回すと音色の正体をすぐに発見した。
「お前、何やってるんだよ」
恭介が近づいた先には、いつものくたびれたTシャツ姿の少年がおり、見よう見真似で大きさの合わない恭介のギターを弾いていた。
「見りゃわかるだろ。ギターの練習だよ」
「それはわかってるよ。問題はそのギターだ」
恭介の問いかけに、少年は唇をかみ締めてうつむき加減になり、黙ったままギターを弾き続けていた。恭介はそんな少年の姿を見ているうちに、慌てていた自分が急にバカらしくなり、少年の頭をポンと叩いてから、横に座った。
「しょうがねえな。一日三十分だけだぞ」
少年は驚きと笑顔が入り混じった表情で恭介を見る。
「ギター。教えてやるって言ってるんだよ」
「でもオレ」
「金ならいらねえよ。あ、でも割ったガラス代はそのうち弁償してもらうからな。ていうか、どうして部屋の場所がわかったんだ?」
「それは、実はあの日だけじゃなく、何度も内緒で追いかけていて、部屋に灯りが点くのをみていたから」
恭介は大きくため息をつくと、「そうか……二度とああいうことはするな」と静かに告げる。
少年は恭介の言葉に大きく頷き、テンションが上がった様子でギターをメチャクチャに弾き始める。
「止めろって。ギターが傷むだろ。そもそも持ち方からして間違ってるぞ、お前」
そう言いながら、少年の手を持って正しくギターを持たせようとする恭介に、少年は素直に従い、笑顔をこぼす。恭介の頭の中では、自然とその笑顔が芽依の笑顔と重なっていた。
*
そのころ馬渕は新宿歌舞伎町を歩いていた。殺された麻美の事件直前の足取りを追っていたのだ。麻美は歌舞伎町で生活をし、情夫であった村上が経営するキャバクラに勤めていたという。ほかの刑事たちは皆、村上を血眼になって捜していた。麻美と村上が売春組織を手広くやり、麻美が村上を出し抜いて売上金を持ち逃げしようとしていたという話が本当であるならば、彼が麻美殺しを疑われるのは当然のことだった。
だが馬渕はこの村上説に納得はしていなかった。それはキャバクラの黒服や女の子たちの話から、麻美の周りにはどうも頭が混乱気味の別の若い男の存在があったという情報を得ていたからだった。
馬渕は秋風に吹かれながら、赤ん坊の頃から会っていない息子の名前を呟き、もしも犯人が呪われた運命を背負った息子の仕業だとしたら、自分はどうすればいいのかと考えた。刑事として罰するべきか。父親として愛情を口にするべきか。何をいまさらと頭のどこかでそんなことを考えてしまう自分を嗤いながら、自分は一人の刑事として修羅の道を生きるしかないのだと、勝手に結論をつける。麻美の遺体の胸についていた丸い痣を見て以来、馬渕はそんなことを何度も繰り返しては考え、そうやって頭の中を納得させることで、無理に心の中の平衡を保っていた。馬渕は古びた雑居ビルの前で立ち止まり、中に入る。エレベーターに乗って五階で降りると、目の前にドアがあり、そこには大宝エンターテイメントの名前が丁寧に白いシールで貼られていた。
「工藤はいるか?」
馬渕は八畳ほどの雑然としたオフィスに入るや、すぐ目の前に座る、少しオドオドとした様子のショートボブの黒髪の若い女性に不躾に訊ねる。
「え、あ、あの、すみません。ただいま外出中でここにはいないのですが」
「なら、電話をかけて呼べ。馬渕が出向いてやったと伝えればわかる」
威圧的な態度で言う馬渕に、ショートボブの女性は気圧された様子で、素直に電話をかけ、馬渕の言葉をそのまま電話口の工藤に伝えた。
工藤が馬渕の待つ自分のオフィスにやってきたのは、女性が電話をかけてから二十分ほどが過ぎた頃だった。
「馬渕さん。お久しぶりですね」
工藤はパリッとした外国製のスーツを着ており、言葉遣いとは裏腹に鋭い切れ長の目で馬渕を牽制する。
「遅い。何分待たせる気だ?」
馬渕はそんな人を食ったような工藤の目が気に食わなかった。
「これは、なかなか手厳しいですね。いらっしゃるのなら、前もって連絡しておいていただければ」
「ふん、オレは忙しいんだよ」
工藤は釈然としない顔をしながらも「どうです? 近くの店でもいきますか? ウチの店に来てくだされば、大いにサービスさせていただきますよ」とへつらった言い方で馬渕を誘う。
「聞こえなかったのか? オレは忙しいんだ。ここでいい。ちょっと聞きたいことがあるだけだからな」
馬渕の言葉に、工藤は細い目をさらに細くして、馬渕の顔を眺めた。
「村上の件ですか?」
「察しがいいじゃねえか」
「今が旬の話題ですからね。でもそのことなら、もうほかの刑事が根掘り葉掘り訊いていきましたよ。残念ながらわたしたちはあいつの居所を知りません」
判を押したようなセリフをよどみなく喋る工藤に、馬渕は鼻で笑って応える。
「オレが知りたいのは、麻美が付き合っていたもう一人の男の方だ。若い男がいただろう? そいつが麻美の商売の裏帳簿も持っている。違うか?」
工藤は一瞬、驚いた顔を見せたが、すぐにポーカーフェイスに戻り「さあ、知りませんね」と言って、馬渕から目を逸らす。
「オレは嘘が嫌いだ。わかっているな?」
「嘘なんか言ってませんよ。知らないものは知りません。ただ麻美が商売のときに利用していた男の名義なら知っています」
工藤に言葉に、馬渕の視線が光った。
「そいつは誰だ?」
「タダでは言えないことは、あなたが一番よくわかっていることでしょう」
馬渕は、厚顔で答える工藤を睨みつけながら、息を一つつき、ゆっくりとした口調で「何が知りたい?」と訊ねる。
「近々歌舞伎町の賭博場のガサ入れがあると噂で聞きました。それはいつですかね」
工藤の問いかけに、馬渕は「そんな情報は知らない」と言いつつも、二人が話している場所のすぐ横の受付に置いてある万能サイコロカレンダーをいじり始め、十月十八日に合わせる。
「ちょうど二週間後ですね」
「さあな」
「ではこれが本当だったら、先ほどの件、お教えしますよ」
工藤はニヤリと笑って見せた。馬渕は工藤を牽制するように睨みつけ、「邪魔したな」と一言だけ言い残してその場を後にした。
(二)
十月に入り、段々と肌寒い季節になっていた。恭介は日がすぐに落ちてしまうことに季節がどんどんと移り変わっていくことを実感しながら、夕暮れの中で人々が家路についていく姿に情緒を感じ、その姿を見ているだけで少し幸せな気分になっていた。恭介は約束どおり、仕事帰りに三十分だけ土手で少年にギターを教えていた。最初はとにかく「愛のロマンス」が弾きたいと言ってきかなかったが、まずは基礎からだと諭して納得させた。
「翔太、お前、寒くないのか?」
恭介は少年の名前だけは聞き出していたが、それ以外のことは聞いていなかった。
「おい、聞いているのか?」
翔太は気のない返事でようやく「うん」と答えたが、コードを覚えることに集中しているらしく、恭介の言葉が耳に入っていないようだった。恭介は翔太と接する時間が長くなればなるほど、彼の日常生活に疑問を持つようになっていた。特にだいぶ寒くなっているにも関わらず、翔太が真夏と変わらない、襟の部分がかなりくたびれたTシャツばかりを着ていることは、さすがに気になってしょうがない。
「なあ、そういえばさ、お前、どこに住んでいるんだよ?」
恭介が問いかけると、翔太は「どうしてそんなことを聞いて来るんだよ?」と逆に訊き返してくる。
「そりゃ、ご両親に挨拶の一つでもしといた方がいいだろ。毎日、遅くなって、心配しているんじゃないのか?」
「別にいいよ。どうせ親なんていないし」
さらりとそんなことを言ってのける翔太に、恭介はギョッとした。
「本当かよ。じゃあ、誰と暮らしてるんだ?」
詰め寄るように聞く恭介に、翔太は目を見据えてきて、急に含み笑いをしてみせる。
「嘘だよ。嘘。母ちゃんしかいなんだ。仕事でいつも遅いから、先生は心配なんかしなくていいよ」
恭介はギターを教え始めてから呼ばれている。「先生」という呼称に未だに違和感を覚えながらも、翔太が自分と同じ母子家庭であることを知って親近感が余計に湧いてしまった。
翔太が帰ったあと、恭介はそのままギターを弾き続けていた。すでに日はだいぶ落ちていた。
「どうだい? 子供に『先生』なんて、呼ばれる気分は? 生徒と先生の関係なら、友人じゃない。それなら戒めも破っていないってわけか。屁理屈にしか聞こえないがな」
ノボルは突然現れるや、ヘラヘラと笑いながら言う。
「大きなお世話だ。お前には関係のない話だろ」
「またまたそんなつれないことを言っちゃって。それにしてもいいのか? ガキの言うことをみんな信用しちまって?」
恭介は振り返り、ノボルを睨みつける。
「そんなに怖い顔をしなさんなって。けど自分でも感じているんだろ。あのガキには何かおかしいところがあるって」
冷淡な口調で言うノボルに、自分の気持ちを言い当てられた恭介は、苦虫を噛み潰したような顔をしながら、ノボルから目を逸らす。
「まあ、せいぜいガキを自分の運命に巻き込ませないことだな」
無責任にそう言って、その場を後にするノボルの背中を眺めながら、恭介は思い出したかのように自分の左手を強く握り締め、大きく息を飲み込んだ。
恭介が翔太を尾行したのはそれから三日後のことだった。ノボルの言葉ことなど無視しようと思いながらも、翔太の襟元がくたびれたTシャツを見るたびに、恭介はこの子が家でどのような扱いを受けているのか気になってしょうがなくなったのだ。母子家庭ながらも、あの忌々しい出来事があるまで幸せに暮らしてきた恭介にとって、息子にろくな衣服も着せない母親など信じたくもない存在であった。何かやむ得ない事情があるはずと願いながら、恭介は翔太に気づかれないように彼の後をつけ、歩き続ける。
恭介が翔太の家を突き止めたのは、尾行を始めてからわずか十分程度のことだった。それは木造の古いアパートで、翔太は一階の奥の部屋に住んでいるようだった。翔太が鍵を開けて部屋の中に入っているのを見て、母親の不在を確認した。とにかく今夜のところはその場を去ることにした。
翌日、午前中の工場での仕事を終えた恭介は、昼休みの時間に恭介は翔太の家にそのまま向かった。汚れたつなぎを着たままであることに少し抵抗を感じたが、着替える時間がなかった。
「ごめんください」
恭介は呼び鈴を押しながら何度もドアを叩いたが中から反応はなかった。この時間ならば、翔太は学校に行っており、都合がいいと思ったのだが、やはり仕事に出ているのか、母親はいないらしい。恭介はドアの上に無造作に貼られている手作りの表札を眺めながら少し不安を感じていた。「黒田知子」とマジックで書かれているその字は乱雑で、この字が翔太の母親のものであるならば、それは大いに不安定さを感じさせるものだった。
「あの、何か用ですか?」
しばらくその場に立ち尽くしていると、いきなり背後から声をかけられた。振り返ると、買い物袋を両手に持った女性が立っていた。一目見た途端に、恭介は体を強張らせた。それは、性別はおろか、見た目がまったく似ていないのに、不思議と自分自身の姿を見ているような気がしたからだった。肩までかかる茶髪の女性は濃い目の化粧をし、両手に持った買い物袋とはアンバランスな露出度の高い服を着ていた。ぱっと見、その童顔からか、どうみても二十代の前半ぐらいにしか見えず、翔太の母親としては若すぎるように思われたが、よく見ると顎のラインの辺りが少したるんでおり、見た目よりも年齢は行っているようだった。
「翔太君のお母さんですか?」恭介は気を取り直して訊ねる。
「はあ」知子は答えながらも、不審者を見るような目つきでこちらを見ている。
「あの、オレ、翔太君に今、ギターを教えている者なんですけれど」
「ギター?」
「聞いてませんか? 少し前から三十分だけなんですけれど、河原の土手で翔太君にギターをちょっとだけ教えてあげているんです」
「すみません。あの子、何も言わないもので。でも、その、今までの分はおいくらに?」
知子は動揺を隠すように必死に笑顔を作っていた。
「いや、別に月謝を取り立てにきたというわけじゃなくて、単にお母さんに挨拶をしといた方がいいかなって勝手に思ってきただけです」
恭介の言葉に安心したのか、知子は肩の力を抜き、あからさまに息をつく。
「そうなんですか。でもそれじゃ」
「気にしないでください。オレも楽しませてもらってますし。あ、でも翔太君にはオレが来たことは内緒にしてください。あまり自分のこと、知られたくないみたいですから」
恭介の言葉に知子は一瞬眉をひそめたが、すぐに笑顔を作り直して「ありがとうございます」とオーバーに深く頭を下げてきた。
「止めてください。ホントに、全然大したことじゃないんで」
思いのほか大げさに感謝をされたことに面食らった恭介は、背中のこそばゆさから解放されたいがためにも足早にその場を去ろうとした。そんな恭介に、知子は「あの、お名前は?」と訊ねてくる。
「え、あ、田中です」
恭介は思わず偽名を口にしていた。麻美の件があって以来、神経質になっていた。
仕事に戻ってから恭介は知子のことばかりを考えていた。なぜ彼女を自分に似ていると思ったのだろう。ただ翔太の風体や言動にやや疑問を感じ、ちゃんと扱われていないのではないかと不安に思っていたのだが、その点については、自分が考えすぎていたのではないかと反省をしていた。
仕事の後、恭介はいつものように土手に行ってギターを弾き始めた。そのうちに翔太もやってくるのだろうと気楽に思っていたが、翔太がその日現れることはなかった。
恭介は日が暮れてから、今日はもう翔太は来ないのだと悟ると、川崎駅前に向かった。大きな店舗の本屋に行くのが目的で、翔太のために初心者のためのギターの教則本や楽譜を買ってやろうと思い立ったからだった。そしてめぼしい本を買い、帰り道に着いたとき、信号待ちの大通りを挟んだ向かい側に、どこかで見たことがある茶髪の女性がいるのが視界に入った。信号が青になり、一歩前に進んだ瞬間に、恭介にはそれが知子であることに気がついた。彼女はつい数時間前に会ったままの服装をしていた。先ほどと違い、なぜかその姿には、恭介は自分の似姿を感じなかった。彼女は家族と一緒のようだったが、そこには彼女よりも一回りほど年上の髪の毛を短く刈り上げ、ふちのない眼鏡をかけたスーツ姿の男性と五歳ぐらいの男の子がいるだけで、翔太の姿はなかった。
父親はいないんじゃなかったのか。どうして翔太がいないのか。頭の中で色々な疑問が湧いて出たが、とにかく恭介は、すれ違いざまに笑顔を作って、知子に向かって頭を会釈した。知子はそんな恭介に気がつき、確かに横目でチラリと視線を向けたが、すぐに視線を逸らし、隣にいる男性に笑いかけながら去って行ってしまった。狐につままれたような気分になった恭介は、信号が赤に変わるまで、そのまま知子とその「家族」の後姿を見送っていた。
翌日仕事が終わると、恭介は翔太にギターを教えるべく、彼にプレゼントしようと思っていた教則本や楽譜を持って、真っ先に土手へと向かった。いつものようにギターを弾きながら、翔太が現れるのを今か今かと待っていた。しかしいつまで待ってもその日も翔太が来ることはなく、その次の日も、さらにその次の日も翔太が恭介の前に姿を現すことはなかった。恭介は、それでも翔太が病気か何かに罹り、単に来たくても来られないだけなのだと自分に言い聞かせたが、さすがに一週間もそんな状態が続くと心配になってきた。恭介は迷った末に、再び翔太のアパートに向かった。そして玄関を前にして、表札にマジックで乱雑に書かれた黒田知子の文字を見ながら、恭介はゆっくりと呼び鈴を押す。この間と違って反応はすぐにあった。中で誰かが動いている物音が聞こえたのだ。だがドアが開けられることはなく、恭介がもう一度呼び鈴を押し「ごめんください」とドアを叩きながら呼んでみても反応はない。居留守を使われているのかと思い、ますます翔太のことが心配になり、いけないとは思いながらも、アパートの裏手に周って、塀を乗り越えた。その瞬間に、いくつもの小さな十字架が突き刺してある小さな裏庭に目を奪われた。一体、何を意味するものなのかがわからなかったが、今はそれどころじゃなかった。恭介は、窓の外から部屋の中を眺めた。
「翔太」
恭介は絶句した。雑然とゴミが散らかった部屋の中で、翔太は手足を縛られた状態で倒れこんでおり、動けないでいた。恭介は居ても立ってもいられず、窓から侵入しようと試みた。窓は開いていた。部屋の中に入ると、途端に食べ物が腐った臭いが鼻についた。
「おい、翔太、大丈夫か?」
恭介はゴミを飛び越えながら翔太の元へと急ぎ、抱きかかえるやいなや、手足を縛っていた紐をほどく。翔太は痩せてグッタリとしていて後頭部には乾いた血の跡があった。着ている服は、いつものようにかなりくたびれており、洗濯をせずにずっと着続けていたせいで、異常なほどに黄ばんでいた。
「せ、先生、何で?」
恭介の呼びかけに、翔太はようやく薄目を開けて、かすれた声で呟く。
「何があったんだ? お母さんは?」
翔太は目にいっぱいの涙を浮かべながら、恭介の言葉に微かに頷くことしか出来なかった。恭介はそんな翔太の表情に、翔太と知子の母子の関係の破綻を確信し、自分がギターを教え、お節介にも知子にそのことを伝えたがゆえに、彼がこんな目に遭っているのだと自らを責めた。
「わかった。とにかく今、救急車を呼んでやるからな」
恭介は児童相談所にも電話をしなくてはいけないと考える。
「待って」
しかし翔太は必死に腕を動かしてスマートフォンを取り出す恭介の腕を弱々しく掴んでくる。
「お願い、誰にも言わないで。お母さんと離れちゃうから。先生、お願い」
翔太は懇願しながら、目に溜めていた涙を頬にこぼした。恭介は母親に対するいじらしい翔太の想いに触れ、思わず自分の子供時代を思い出していた。恭介にも翔太と同じく、父親が居なかった。自分の生活のすべてを母親に委ねるしかなく、愛情というものの意味を知るには、母親の存在に頼るしかなかった。
恭介は知らず知らずのうちに涙を流し、ノボルの言葉を思い出していた。それは自分の呪われた能力の力が他人の死を招くという言葉で、恭介の心を締め付け続けている言葉だった。もしそれが本当なのだとしたら、翔太もこのまま死ぬ運命にしかないのかと。でも、それはあまりに不憫で、不条理な話だった。翔太はもう虫の息だった。
「大丈夫。大丈夫だからな」
恭介は最後の一回だと自分に言い聞かせながら右手のグローブを外し、ドクターハンドを翔太の心臓に当てていた。右手はまばゆく光り始め、その光はやがて翔太の体全体を包んでいった。
翔太が再び目を覚ましたときには、すでに日は暮れており、電気のついてない真っ暗な部屋を月明かりが照らしていた。
「起きたか?」
目を開ける翔太に、傍らに居た恭介は微笑みかける。翔太は上体を起こしながら、恭介の顔をキョトンとした顔で眺め、次に自分の手を見ながら、力強く自由に動けていることを不思議そうな顔をして確認していた。
「何があったんだ?」
恭介が問いかけると、翔太は気まずそうな顔を見せながら、顔をうつむかせて急に泣き始め、たどたどしい口調で話し始めた。翔太の話によると、昔は両親と三人で暮らしていた記憶があるという。ただ数年前に母親とともに父親から逃げ、それ以来ずっと知子と二人で暮らしてきたのだという。父親とはそれ以来会っていなかった。その一方で一緒に暮らす知子はというと、普段は、ちゃんとしていると言い、いいお母さんだという。ただ時折、彼女は何もしなくなるときがあり、そういうときは食事も作ってくれなくなって、とても怒りっぽい、悪いお母さんになるという話だった。恭介はもっと詳しく話してほしいと翔太に頼んだ。でも翔太は、ここのところは、ずっと悪いお母さんでいる方が多かったというだけで、縛られていた理由も含めて、それ以上のことは言わなかった。恭介は翔太の話を聞きながら、自分の母がいかに優しかったのかを思い知らされた。それと同時に知子への怒りが自分の中で抑えられなくなっていくのを感じていた。
「一つだけ教えてくれないか? なぜお前は『愛のロマンス』を弾きたかったんだ?」
それは恭介がずっと訊きたかったことだった。しかし翔太は恭介の問いかけにも答えず、ただ悲しげな顔を浮かべるだけだった。
恭介が知子と会う約束をしたのは、それから数時間後のことだった。翔太から知子の携帯電話の番号を聞き出した恭介は、未だに帰らない知子に翔太を助けたことを告げ、誰にも言われたくなければ素直に言うとおりにしろと近くの公園に呼び出したのだった。そこはどこにでもある、学校の体育館ほどの広さの公園で、恭介は夜風に震えながら、まだ蠢き始めていない左手をギュッと握り締め、ベンチに座って知子が来るのを待っていた。
「またドクターハンドを使っちまったんだな」
どこからともなくノボルがやってきて、恭介の目の前に立っていた。
「お前、何でそれを」
「何度言わせれば気が済むんだ? オレはお前のことなら何でも知っているんだぜ」
悪びれる様子もないノボルを、恭介はもはや不気味だとも思わなくなっていたが、ただ懲りることなく目の前に現れるこの男の存在が疎ましくてしかたなかった。
「そんな怖い顔をしなさんなって。それでどうするんだ? こんな人気のないところに呼び出して、あの母親を殺すのか?」
それは確かに恭介の頭の中にあることだった。
「うるさい」
「迷っているのか。ケケケ、しかしお前もだんだんとその能力の使い方がわかってきたみたいだな。かわいい子供を救って、その子を虐待した母親を殺す。いいじゃないか。お前が苦しむ理由などどこにもない」
ノボルの言葉を聞いているうちに、それが自分の心の中の声と同じだと気がついて、恭介はゾッとした。
「まあ、そうやって能力に慣れていくのはいいことだ。良心の呵責さえなくなれば、お前は莫大な金を手にして、お前は違う世界で生きることが出来るんだからな。それじゃあな。お前のこれからの選択を楽しみしているぜ」
ノボルはそんな恭介の心内を読んでいるかのようにいつものように口角を上げた不適な笑みを浮かべながら、去っていった。一人になった恭介は、改めて知子を殺そうとしている自分が悪魔になってしまった気がしてきて吐き気がしたが、一方でそれこそが自分の真の姿なのだと、あるがままに納得をしつつある別の自分の存在にも気がつき始めていた。
「どうも、こんばんは」
そのうちに知子が約束の時間よりも五分ばかり遅れてやってきた。この間と同じく露出度の高い服を着ており、風になびくミニスカート姿が、恭介にはやけに寒そうに見えた。恭介は、やはり彼女は自分に似ていると感じた。
「どういうことか説明してくれないか?」
恭介は色々な感情が入り混じり、自分の中で波打つ動揺を抑えるように、ゆっくりとした口調で訊ねる。
「あの子は?」知子は恭介への答えを避けて、逆に翔太の様子を伺ってくる。
「家で寝てる。安心しろよ。もう元気だ」
「ありがとう」
微かに頬を緩ませる知子を見ながら、恭介はわからなくなった。自分で翔太を死に追いやっておいて、今さら何を心配しているのか。
「じゃあ、寒いから早く行きませんか?」知子は戸惑う恭介に促す。
「行くってどこに?」
「決まっているでしょう」
知子はさも当然のように言ってから「もしかしてお金がないの?」と訊ねてくる。
「お金?」
「なるほど、だから深夜の公園ね」
知子は小さくため息をつくと、ベンチに座る恭介の目の前にしゃがみこみ、恭介のズボンのチャックに手をかけようとしてきた。
「な、何するんだ!」恭介は慌てて立ち上がり、知子と距離を取る。
「自分から誘っておいて。男なんてみんなそんなことしか考えていないんでしょ」
「はあ?」
苦笑いを見せるしかない恭介に対して、知子は睨みつけるような目で見据えてきた。
「オレはただどうして翔太をあんな目に遭わせたのかを聞きたかっただけだ。あいつ、痩せちゃって、見動け出来ずに縛られて頭も打っていて、死ぬ寸前だったんだぞ!」
感情的になって、知子に厳しい口調で当たってしまった恭介に、知子は体中を震わせながらも無表情で恭介の顔を見ていた。
「お前、それでも母親かよ。どうしてあんな惨いことが出来るんだ? 母親って言うのは、もっと子供を大事にするもんだろ。なのに、なぜ?」
恭介は感情が爆発するがまま、言いたいことを言い放ちながら、自分の母親の顔を思い出していた。知子は黙って、恭介が発する言葉を受け止めていたが、次第にボロボロと大粒の涙をこぼし始めていた。
「何にも知らないで」
知子はえっぐえっぐと激しくはき始め、収拾がつかなくなっていった。恭介は呆気にとられながらも、怒りの矛先をどこに収めてよいのかわからずに、とにかく知子が落ち着くのを待つ。
「ちょっと押したら弾みで転んで頭を打っちゃっただけなのよ。しばらく元気にしていたから、大丈夫だと思って外に出ていたの。殺すつもりなんてあるわけないじゃない!」
しばらくしてから、知子は捲し立て、「本当なの。仕事とか色々とやっかいなことが重なっちゃって、ちょっとバタバタとしちゃっていただけなの!」と訴え続ける。
「どう信じろと? そもそもアイツを縛り付ける必要なんてないじゃないか!」
「それは……わかってる。自分でも都合がいいなって。でもね。しょうがないの。幸せになるにはこれしかないんだから」
知子は再び泣き始めたが、今度は一生懸命に涙を拭って、冷静さを保とうとし、自分自身に言い聞かせるように自分の話を語り始める。彼女の話によると、そもそも翔太の父親は酒浸りで酔うと暴力まで振るう男であったという。そんなすさんだ結婚生活の中で、疲れ果てた知子は、父親の暴力が翔太にまで及んできていることを知って逃げ出すことを決意し、どうにかここまできたというのだ。
「でもずっと追われていて、身を隠すようにいつもビクビクしているしかなくて、そんな状態だったから生活も苦しくて」
知子は淡々とした口調で喋りながらも哀れみを請うような目で恭介に視線を向けてきた。
「だから翔太を虐待したのか?」
恭介は騙されまいとわざと「虐待」という重たい言葉を使い、知子を牽制する。
「違う! わたしは翔太と一緒に幸せになりたいだけなの。そのためにはあの人に気に入られなきゃいけないし、翔太だって、今だけ我慢すれば」
「あの人?」
「見たことがあるでしょ。あの人、まだ三十代だけれど、ネット関係のベンチャー企業の重役さんなの。わたしには本当に最後のチャンスなのよ」
恭介は人のあざとさを目の当たりにしてあまり気分がよくなかったが、そうでもしなければ這い上がれない彼女の境遇に同情をした。
「でも何で翔太を苦しめる必要があるんだ? 彼も一緒に家族として過ごせばいいじゃないか?」
「だから、それは」
知子は言いかけたところで、視線を恭介から外し、しばらく考えてから「まだ彼には翔太がいることを話していないの」と呟いた。
思いがけない知子の告白に、恭介は深く息をついてから、ゆっくりと天を仰ぐ。
「どうして? 翔太はお前にとって、恥ずかしい存在なのか?」
「そんなはずないじゃない! でも仕方がないでしょ。最初からそれを言ったら、相手にさえしてもらえないんだから」
当たり前のようにそう言う知子に、恭介は呆れた。
「そういう問題じゃないだろ。向こうだって子供はいるわけだし。それにそれで嫌がるのなら、最初からその程度の男だったってことだろ」
「あなたはまだ若いのよ」
「年齢なんて関係ない」
「ううん、あるの。あなたはまだ何もわかっていないだけ」
知子は恭介を子ども扱いするような言い方で冷たく突き放すと、学歴も手に職も何もない母親が一人で子供を育てることがこの国ではいかに過酷であるか、そしていかに誰も助けてなどくれないのかを語り、その口調はだんだんと熱を帯びてきた
「あの人が住むタワマンにはね、わたしと翔太が暮らす部屋と同じ広さの部屋が四つも五つもあって、窓からは川崎の町並みが全部見渡せるの。同じ人生を送るのなら、どう考えたって、そっちのほうがいいに決まっているじゃない!」
勢いで詰め寄ってくる知子に負けまいと、恭介は彼女の言葉を強い口調で遮る。
「翔太は金持ちになることなんて望んでいない! お前と一緒にいられることだけがあいつの望みなんだよ。どうしてそんなことがわからない?」
「そんな利いた風なことを」知子は再び涙をボロボロと流し始め、嗚咽していた。
「わかっているよ。わかっているんだよ。でもわたしたちは生きていかなきゃいけないのよ! 奇麗事だけじゃどうにもならないの!」
「でも」
「翔太を縛り付けたのは、ついてきたがっていたから。ここまでうまく行っているのを邪魔して欲しくなかったから」
知子は上目遣いをして、恭介に媚びるような表情を見せてきた。
「わたし、彼に翔太のことをちゃんと話すわ。翔太に幸せを第一に考えて、彼がいい顔しなかったら、彼のことは諦める。だから今日のことは」
恭介は、翔太を縛り付けた理由に釈然とせず、なぜ彼に食事を与えなかったのか、まだその理由を聞いていないと思った。でもその一方で、知子が翔太の母親であるという事実を変えられない以上、翔太のためにもやはり知子をキラーハンドの餌食にするわけにはいかないとも思い始めていた。
「わかった。ただ約束してくれ、二度と翔太を苦しめないと」
恭介の言葉に知子は作り笑いを浮かべながら何度もうなずく。
「それからもう一つ、翔太の実の父親の居所を教えてくれないか?」
「どうしてそんなことを?」
訝しげな顔をして聞き返す知子に、恭介はまさか彼女たちの不幸をもたらした根源を殺すつもりだとは言えなかった。
「深い理由はないさ。ただもうお前たちを探すなと念を押して、出来れば慰謝料ももらってきてやるよ」
「それは無理だわ」
知子は、恭介の言葉を信じていない様子だったが、すぐにその元夫と暮らしていたアパートのうろ覚えの住所を教えてくれた。
「間違いないな」
「うん、たぶんもうそこにはいないと思うけれど」
知子の思わせぶりな言葉が気になりながらも、恭介は彼女から背を向けると、左手をゆっくりと握り締めた。
次の日、昼過ぎには恭介の左手はすでに自制を失いつつあり、グローブがパンパンになるほどに膨れていた。工場の同僚たちがしきりに心配し、病院に行くように勧めてきたので、恭介はここぞとばかりに早退した。恭介は、骨折をした人のように左手に布をぐるぐる巻きにして隠し、羽田に向かった。この町に知子の元夫である三田宗雄が住んでいるはずだった。
「ふっ、よかったなあ。殺すのにちょうどいい相手がいて」
ノボルは恭介の工場の前で待ち伏せをしており、勝手についてきていた。
「そういう言い方は止めろ」
恭介はノボルのほうを見ようともせずに不機嫌な様子で言う。
「へっ、じゃあ、どういう言い方なら満足なんだ? お前はドクターハンドを使ったから、今度はキラーハンドを使う。ただそれだけの話だろ。いい加減に慣れろよ」
ノボルは恭介に近づき、わざとらしくヘラヘラとした笑いを見せてきた。恭介はそんなノボルの挑発を一切無視し、知子から聞いた住所を頼りに三田が住むというアパートを探し続けた。羽田の町は住宅街の中に大小様々な工場や倉庫が立ち並んでいて、川崎とどこか似ていた。大きく違うのは川の向こうに見えていた羽田空港を離着陸する旅客機がより大きく見えることぐらいだった。
しばらく歩き回ったあとで、恭介はようやく知子が言っていた住所を探し当てた。知子が言っていたよりも四階建ての小奇麗なマンションで、建物を見る限りでは、知子たちの生活水準が今よりもだいぶよかったのだと想像出来た。恭介は顔を強張らせ、三田が住んでいるという三階の部屋に向かった。しかしその部屋の玄関に記されている表札には、三田ではなく、酒井と書かれており、しかも留守だった。焦った恭介は。やむなく同じマンションのほか部屋に住む住人や近隣の住む住人に三田の引っ越し先を虱潰しに聞いてまわった。
有用な情報にたどり着いたのは、マンションから三軒離れた一軒家を訪れたときだった。その家の住人である初老の女性は、三田と顔見知りだったようで、少し困った様子で「えっ、三田さん? あなた、何も聞いてないの?」と責任を逃れるような口調で、実家が近くだからそこで詳しく聞いたほうがいいと告げてきた。恭介は首をかしげながら、ノボルとともにその女性の指示通りに歩いていくと、ほどなくして三田の実家だという工場は見つかった。金属が軋む音が鳴り響くその場所は、恭介が働く工場よりもずっと小さな規模の旋盤工場だった。
「すみません。三田宗雄さんはいらっしゃいますか?」
外から見える場所には、七十代にも届きそうかという男性しかいなかった。
「宗雄だって?」
頑固さが刻まれた表情をした男性は汗まみれの顔を首にかけたタオルで拭くと、怪訝そうな顔をして恭介を眺め、大きなため息をつく。
「あの、宗雄さんによくしてもらった者なんですけれど、ちょっと近くに来たもので、会えればなって」
「あんた、宗雄とはどれくらい親しかったんだ?」
男性は落ち着いた声でありながらも不躾に訊ねてきた。恭介はどうしてそんなことを急に聞くのかとわけがわからず「え、いや」と戸惑ってしまった。
「帰ってくれ」そんな恭介に男性は冷たく言い放つ。
「待ってください。どうしてです? 会って話すぐらい構わないじゃないですか」
恭介は食い下がり、蠢く左手を強く握り締める。殺す相手はもう三田宗雄しか思いつかない。
「宗雄は、二年前に死んだんだ」
男性は淡々とした口調で思いがけないことを告げてきた。
「えっ、そんなわけ」
「自殺だ。妻に逃げられて、絶望したんだ」
男性はキッパリとそれだけを言って工場の中に入ってしまった。恭介は、さきほどの女性がどうしてあれほど困惑していたのかを悟り、無意識のうちに強く握っていた左手の力を抜いた。その途端にキラーハンドはピクリと動き、発動に向けて時間が刻々と迫っていることを恭介に思い知らせた。恭介は隣にいるノボルの顔を見た。ノボルは何も言わずに、ただニヤついていた。
川崎に戻ってきた頃にはすでに日は傾きかけていた。ノボルはキラーハンドの巻き添えを食らいたくないと多摩川を渡ったところで姿を消し、恭介はとりあえずそのまま寮に向かった。頭の中は真っ白だった。左手は二倍ほどに膨れ上がり、恭介は既にグローブを外していた。布で隠してはいたが、あまりに不自然で、すれ違う人のすべてが振り返ってきた。もう数時間ばかりしか時間は残されていない。早く誰か殺す相手を見つけなければと思ったが、三田宗雄が死んだ今、知子のほかには誰も思い浮かばず、目の前に極悪人が突然現れないかと起きるはずのないことを都合よく期待し続けていた。
「翔太、お前、ずっと待っていたのか?」
寮の前に辿り着くと翔太が待っていた。
「先生、左手、どうしたんだ?」翔太は当たり前のように恭介の異変に気がつく。
「これは、なんでもない。気にするな」
厳しい口調で答える恭介に、翔太は必死に媚びるようにして笑い「あ、あのさ、先生、ギター、貸してくれないか?」と頼んでくる。
「ギターを? 練習したいのか?」
「まあ、そうなんだけどさ。頼むよ。明日には返すからさ」
歯切れの悪い様子に、何かあると直感した恭介は、よく見ると翔太も恭介と同じように、見えないように、右手を後ろに隠していることに気がついた。
「お前、右手、どうしたんだ?」
「え、何でもないよ。先生と同じ」
そう言ってさらに隠そうとする翔太の右手を、恭介は無理やり掴んで、引っ張り出す。恭介は目を見張った。翔太の右手には五センチ四方の大きな痣があった。
「お前、どうしたんだ、これ?」
「何でもないよ。さっきぶつけたんだ」
「ぶつけたって、どこで?」
「だから、それは」
恭介は言葉に詰まる翔太のTシャツをめくった。そこにはいくつもの痣があった。
「昨日にはなかったぞ。お母さんにやられたのか?」
それは間違いなく、余計なことをした恭介に対する怒りが、翔太に向けられたことを意味していた。
「違うよ! だからさっき遊んでいて、その、ブランコから落ちたんだ」
翔太は泣き出していた。恭介はそんな翔太の様子を見ながら、翔太が母親を庇っていることを確信してしまった。
「じゃあ、聞かせてくれ、どうしてギターが必要なんだ」
「だから、それは練習がしたくて」翔太は泣き続ける。
「本当のことを教えてくれ。いいか、本当のことを、だ」
恭介はそんな翔太の目をじっと見つめながら念を押す。翔太は恭介の真剣まなざしに気圧されたのか、落ち着きを取り戻し「サッカーの試合を観に行きたいんだ」と呟く。
「サッカー?」
「日産スタジアムで日本代表の試合があるんだ。お母さんはお友達たちと、今日、それに行ってる」
恭介はすぐに知子が恋人とその子供とともに家族を演じている光景を思い浮かべた。
「サッカーが観たいのか?」
「うん、でもチケットを買うお金がないから、ギターで稼ごうと思って。ほら、よく駅前とかでやってるじゃん。みんなお金を放り込んでいくやつ」
なんとういういじらしい発想かと恭介は聞いていて泣きそうになると同時に、母親が自分を置いていなくなってしまうのではないかと、翔太がどうしょうもないぐらいに恐れていることが痛いくらいに伝わってきた。
「わかった。オレが連れて行ってやるよ」
「ホントに!?」翔太の顔がみるみるうちにほころんだ。
「その代わり一つだけ頼まれてくれないか?」
恭介はスマートフォンを取り出し、操作をしてから翔太に画面を見せる。虹の写真がたくさん映る、芽依のインスタグラムだった。自らの戒めの肩代わりを翔太にさせることに後ろめたさがあったが、芽依の孤独を放っておくことも出来なかった。
「この写真を撮っている子、お前よりも少し年下の女の子なんだ。知っている子なんだけど、事情があって、学校にあまり行けてなくて、友だちがほとんどいない」
「もしかして、その子と友だちになってほしいってこと?」
「そうだ。でもこの子は北海道に住んでいる。たまにでいいんだ。この子のインスタにコメントを残してあげてくれないか? 写真の感想とか、簡単なことでいいから」
「いいよ、それくらい。家のパソコンで出来るから」
翔太は笑顔になって応えると、早速芽依のハンドルネームとインスタグラムのタイトルをブツブツと何度も唱えて暗記し始めた。
(三)
日産スタジアムに電車で向かう途中で、日はすっかりと暮れてしまった。車内は日本代表のユニホームを着たサッカーファンに埋め尽くされていた。新横浜で電車を降り、恭介と翔太はサッカーファンの人ごみにまみれながら、ゆっくりとスタジアムに向かう。
「先生、どっか調子が悪いんじゃないの?」
すでにキラーハンドの自制が利かなくなりつつある恭介は、苦悶の表情を浮かべ、左手を右手で必死に押さえつけながら歩いていた。
「心配するな。それよりもチケットを手に入れなきゃな」
翔太を心配させまいと、恭介はどうにか笑顔を見せていたが、また人を殺さなければならないという現実に改めて向き合わざるを得ず、まるで心臓に鉛球がぶら下がっているかのように心が重たかった。
日産スタジアムのゲート近くに着いた。六万人収容のスタジアムは、間近で見ると想像以上に巨大だった。恭介はそこで指定された携帯の番号に電話をかけ、日本代表のユニホームを着た若い金髪の男性と会い、彼からネットオークションで買ったチケットを受け取った。
「お母さんがどこの席にいるかわかるか?」
スタンドの中に入って、指定されたバックスタンド側の席に着くなり、恭介は翔太に訊ねる。翔太は苦笑いを見せ、不安げに首を横に振りながら、「わからない」と呟く。
「それじゃ、電話をかけてくるから、お前はここで待ってろ」
恭介はとにかく笑顔を見せて、翔太の頭をポンと叩くと、そのままスタンドを出て、スタジアム内の通路に出た。出会いがしらに、どこか南米あたりの国旗を持った褐色の外国人の集団が陽気に歌を合唱しながら横切って行くのを目にする。どうやら今日日本代表と戦う相手国のサポーターのようであったが、それがどこの国であるのか恭介にはまるでわからなかった。
恭介はそのまま通路を過ぎ、階段を下りて、途中の踊り場のところから、電話をかけた。最初にかける電話先は、翔太の父親の実家の工場だった。この間行った時に、名前を控えていたので電話番号を知るのは容易かった。電話口に翔太の祖父が出た。
「日産スタジアムに翔太がいる。今すぐ迎えに来い」恭介はぶしつけに喋る。
「はあ? あんた、誰だ? 何言っているんだ?」翔太の祖父は訝しげに訊ねる。
「何でもいいから早くくるんだ。もうアイツを一人ぼっちにさせないでくれ」
恭介はそれだけ言うと、翔太がいる席のゲートの番号を告げて、一方的に電話を切った。大丈夫、あの男はきっと来てくれるだろう。ここまでは予定通りだった。恭介は、今度は翔太に聞いた知子の携帯に電話をかける。スタンドでは選手の紹介をしているらしく、歓声が時折地鳴りのように響いてきた。
「モシモシ?」十コールほど鳴らしたあとで、知子は怪訝な声で電話に出た。
「モシモシ、オレが誰だかわかるよな。今、日産スタジアムにいる」
電話の向こうで知子が緊張したのが息遣いからわかった。知子は少し間を置いてから、「どうしてここにいるの? まさか翔太と一緒?」と訊ねてくる。
「まあな。なあ、あんたの席はどこだ?」
「わたしを脅しに来たの?」
「そんなんじゃない。ただ冷静に話がしたいだけだ」
知子は押し黙ったままだった。電話の向こうからもスターティングメンバ―の紹介のアナウンスが聞こえてきたが、生で聞こえるアナウンスとは少しズレているように感じた。相当距離があるのか。そう思った瞬間に、電話は唐突に切れた。
「おいっ!」
スマートフォンに向かって叫びながら、電話をかけ直したが、知子は電源を切ってしまったようで、電話の向こうからは電波が届かないことを告げる無機質な機械による音声だけが空しく聞こえた。それは恭介にとって、計算外の出来事だった。状況からして、翔太のことが公になるのは知子にとっては致命的なはずで、必ず何らかの言い訳をするために、恭介は彼女が自分の前に現れると踏んでいたのだが、どうやら考えが甘すぎたようだった。
恭介はとにかくスタジアムの正反対の方向に向かって、通路を走った。電話から聞こえたアナウンスのズレからして、こことは遠い場所にいるのに違いなかったが、どこに向かって走ればいいかもわからなかった。このままではもはや獰猛になりつつかるキラーハンドが大群衆の中で暴走し始めてしまう。タイムリミットまであと三十分ほどしかなかった。頭の中ではどうにか知子を探し出さなければならないと思っていたが、次第に息が切れてきて、苦しくなってきた。
「どうやら、お困りのようだな」
背後から聞き覚えのある声が聞こえたのは、スタンドへの出入り口から見える数万人の大観衆を見て、絶望的な気持ちになった瞬間だった。恭介には、振り返らなくてもその声の主がノボルだとすぐにわかった。
「相変わらず図ったかのようなタイミングで現れるな」
「だから言っているだろう。オレはお前のことをずっと見守っていてやっているって」
ノボルは勝ち誇ったように言いながら、一枚の紙切れを恭介に見せる。
「何だ?」
「あの女がいる座席の場所だよ」
恭介はさすがに驚いた。
「どうしてわかった?」
「簡単さ。あの女の家に侵入したんだよ。幸いチケットはあの女がネットで手に入れていたからな。パソコンの履歴を辿れば、簡単にわかった」
恭介は息を整えながら、自信ありげにそう話すノボルの顔を見た。その顔は悪魔そのもののようにも思えてきた。
「さあ、どうする? どのみち誰かを殺さなくちゃまずいんだろ? どうだ? オレは使えるだろ。この勢いでオレと組もうぜ」
「それとこれとは話が別だ」
恭介はキッパリと言うと、ノボルの手から紙切れを取った。知子は予想通り、恭介たちがいた場所とは反対側のメインスタンドに席を取っているようだった。ついてくる気のないノボルをその場に残した恭介は再び走り出し、すぐに知子がいるスタンドの入り口までたどり着く。あとは番号に沿って、席の場所を探せばいいだけだった。
知子はこの間横断歩道ですれ違ったときと同じ男性とその息子とともに、「家族」水入らずの空間を作り出していた。恭介は出来る限り近づき、知子の視界に入った。知子は、恭介の存在に気が付き、明らかに戸惑った顔を見せた。試合開始のホイッスルが鳴り、観客たちがざわめく。恭介の刺すような視線に耐え切れなくなった知子は、隣に座る男性に何かを言い、さらにその隣に座る子供に向かって手を振ってから、席を立つ。
「どうしてここがわかったの?」
知子は沸き立つスタンドを尻目に、出口に向かって歩きながら恭介と合流した彼女は、愛想の欠片もない口調で訊ねてきた。
「さあな」
「じゃあ、せめてその左手をどうしたのか教えてくれる?」
「あんたには関係のないことだ」
恭介は自制の利かない左手を右手で強く掴みながら冷たく言い放つ。そして二人はスタンドから通路に出た。
「さあ、何、話って、翔太をここに連れてきているの?」
「ここじゃ、駄目だ。人が多すぎる」
「はあ? まさかスタジアムを出るっていうの? バカじゃない?」
知子は本性を露にしたような喋り方で攻撃的に言うと、あからさまに不満げなため息をつく。
「あんたに選択権があると思っているのか?」
恭介は負けずに、険のある言い方で言い返す。
「脅すつもり? いいのよ。それじゃあ、わたしはあんたが誘拐犯だって、訴えてやるから」
「子供を傷つけている母親が何を言う」
恭介の強い口調に気圧されたのか、知子はそれ以上言い返すのを止め、再び大きなため息をついた。
「わかったわ。どこに行けばいいの? その代わり、手短にしてよね」
知子の言葉に反応するように左手が激しく痙攣し、さらに膨張したような気がしたが、恭介は冷静を装い、何事もないように知子とともに歩き出した。
*
その頃、観客席に残された翔太は、孤独を感じていた。代表クラスのプロの迫力あるプレイとそれに呼応するようにざわめく臨場感のある歓声に気持ちが揺さぶられる一方で、心は早く恭介が知子を連れてきてくれないかと願い続けていた。でも、どんなに見渡しても、恭介や知子の姿は見えず、来る気配さえ感じない。次第に翔太は悲しくなってきた。カップルで来ていた隣の若い女性が翔太の異変に気がついて、「ぼく、どうしたの?」と声をかけてきてくれた。翔太はその優しさがうれしかったが、その反面でプライドを鋭利な刃物で傷つけられた気がした。翔太は何も言わずに、ただうなずき、その場を立った。そして通路を闇雲に歩いて、恭介と知子の姿を探した。じっとしているよりは、動き回ったほうが幾分マシだと思ったからだった。スタジアムを半周ほどしたところで急に気持ちが不安でいっぱいになった。我慢していた涙がついに頬を流れた。
見覚えのある男女に気がついたのは、翔太が自分の頬を伝う涙を何度も拭ったときだった。すぐに恭介と知子だと思い、急いで駆け寄ろうとしたが、二人が階段を下り、スタジアムを出ようとしていることに気がついて驚いた。誰かがゴールしたのだろうか、ひときわ大きい歓声がスタンドの中から聞こえてきた。その声に後押しされるように翔太は二人のあとをすぐに追った。それは今追わなければ、二度と二人に会えないような気がしたからだった。でもスタジアムを出たところで、翔太は二人の姿を見失った。スタンドからはゴールを決めた日本代表の選手の名前が場内放送で声高らかにアナウンスされているのが聞こえてきたが、翔太はもはやその声も耳に入らないぐらいに焦り、とにかく二人を探すべく駆け出した。
頭の中では、これまでの生きてきた人生で、記憶に残っているシーンが次々と現れた。それはほとんど知子との記憶で、楽しいものもあったが、嫌な記憶もたくさんあった。忘れようと思っていた記憶。あれは、お母さんがやったんじゃないと思い込もうとした記憶。翔太はどうして自分だけがいつもこんなに苦しいのだろうと思う。学校のクラスメイトはみんな、いつも幸せそうだ。色々なものを買ってもらっているし、習い事にも通わせてもらっているし、親とも仲が良さそうだ。どうして、自分だけが毎日こんなにビクビクしなくちゃいけないんだろうか。
ふと、アパートの小さな庭に突き刺さったいくつものの十字架が脳裏に浮かんだ。お母さんが急に思い立って作り、刺したものだった。何のためにそれをしているのか、全然わからなかったけれど、手伝えと言われて手伝った。そのこと自体は楽しかったけれど、庭にあるその十字架が窓からいつも見えるのは、嫌だった。それは自分とお母さんのお墓のように思えたからだった。お母さんは、何であんなものを作ったんだろう。どうして、あんなものを作る人が自分のお母さんじゃなくちゃいけなかったんだろう。これまで何度も心に浮かんでは打ち消していた気持ちが溢れ出てきて止められなくなる。泣くのは嫌だった。男なんだから泣いちゃダメだ。そう思えば、思うほど、涙が止まらず溢れ出て、何度洋服の袖で拭っても流れ続けた。
*
大宝エンターテイメントの事務所の奥の部屋にある、備え付けの三十六インチのテレビ画面では、サッカーの代表戦が映っていた。工藤は机に両肘をつき、両手を合わせた手の甲の上に顎の乗せながら、何度も繰り返して映される日本代表の得点シーンがスローモーションを眺めていた。
「工藤さん、やはり情報どおりです! 今、新宿の数店舗の風俗店に一斉にガサ入れがあったようです」
白いジャケットを着た長髪の若い男がいきなりドアを開けて、中に入ってくるなり、一気に捲くし立ててくる。
「何度言ったらわかるんです? 部屋に入るときはノックをしてから入りなさい。そんな風にすべてがガサツだから、いつまでたっても社会から下に見られるんです」
「あっ、はい、すみません」
「それで、ウチの店舗は?」
テレビの画面を見たまま、工藤は表情一つ変えずにその若い男に訊ねる。
「問題ありません。ヤバそうな女は出していませんでしたし、サービス内容も変えておきましたから。それにしてもさすがに工藤さんですね。事前にそんな情報が入るなんて」
はしゃいだ様子で喋る男に、工藤は「少しうるさいですよ」とピシャリと言う。
「すみません。あのぅ」
それでも懲りずに話しかける男に、工藤は怪訝な顔を見せた。
「何です?」
「いや、工藤さんって、サッカーフリークなんだなって。さっきからずっとテレビに集中しているから。そんなイメージありませんでしたよ」
機嫌を伺うように笑いながら訊ねてくる男に、工藤は含み笑いをしてみせると、大きくため息をついてから「別にサッカーが好きなわけではありません」と答える。
「えっ、じゃあ、何で」
「莫大な金が動くんですよ。この試合でどっちが勝つかによって」
工藤は冷静に答えると、再び視線をテレビに向けた。男は目を輝かせてもっと何か聞きたそうな顔をしていたが、工藤はもはやそんな男の存在など無視をし、懐からスマートフォンを取り出して電話をかけ始めた。
「もしもし馬渕さんですか? ええ、情報通りでしたよ。ありがとうございます。ええ、わかっています」
工藤はへつらうような喋り方で「では今日にでも事務所に来てください」と言いながら、言葉とは裏腹に切れ長の目をさらに鋭くさせ、口元を軽く挙げて、不気味な笑いをして見せた。
*
さっき大きな歓声があったが、点でも入ったのだろうか。恭介はそんなことをぼんやりと思いながら、人気のないところを探して、知子とともに歩き続けていた。すっかりとスタンドの歓声が遠くなりつつあった。左手はもはや肥大化し、キラーハンドの覚醒まであと十分程度しかなかった。
「ねえ、こんなところまで連れ出してどういうつもり?」
「再入場出来るんだから問題ないだろ」
恭介は、ハッキリとした言葉で言うと、スタジアムの横にある駐車場に目を向けた。そこは何百台もの車で埋め尽くされた場所であったが、試合中であったため、幸い人気は全くと言っていいほどなかった。
「誰かに聞かれちゃいけない話でもするつもり?」
駐車場の中を歩きながらも、知子は文句を並べ続けた。いい加減うるさくなってきた恭介は、入り口から死角となっている隅の方へと向かい、そこで立ち止まった。
「それで、何なの?」知子は両腕を組み、負けん気の強い顔を見せてくる。
「なあ、どうして翔太を傷つけるんだ?」
恭介はひと呼吸置いてから、心を強く持つように自分に言い聞かし、凛とした顔をして切り出す。
「はあ? 何言っているの? わたしはあの子の母親なのよ。どうしてわたしがあの子を傷つける必要があるの?」
知子は開き直り、有無を言わさない様子で恭介に詰め寄る。
「でも昨日にはなかった痣や傷があった」
「証拠でもあるの?」
自信満々の言い方で言い切る知子は、翔太が自分を決して裏切らないと確信しているようで、これ以上話をしても無駄といった様子で踵を返し、来た道を戻ろうとした。慌てた恭介は知子を呼び止めると、思わず「翔太が言っていたんだよ。あんたが傷つけたんだって」と口にした。明らかな嘘であったが、それが知子を揺さぶり、彼女の本音が表れるのを期待した。キラーハンドはもういつ発動してもおかしくない状態にまで変化していた。どうしても知子を殺すための理由が欲しかった。
「嘘を言わないで」
知子は振り返り、恭介を睨みつけてくる。強気であることは相変わらずであったが、その表情に迷いが見られた。恭介は行けると思った。
「嘘じゃない。ハッキリと言ったんだ。『お母さん』がやったって。だから児童相談所に連絡をする。あんたの彼氏にも本当のことを伝えるよ。今日はそれを告げに来たんだ」
「ちょっと待ってよ」知子は完全に色を失っていた。
「何が望みなの? お金? それならわたしと組めばいいじゃない。わたしがさっきの彼と結婚すれば、お金の融通がもっと利くようになるし、あなたに援助だって」
「オレはそんなことを望んでいるんじゃない」恭介は知子の言葉を遮る。
「はあ? じゃあ、あんた、一体、何なのよ?」
知子が感情をぶつけてきた瞬間に、キラーハンドが勝手に大きく動き出し、恭介の体を揺さぶった。
「ちょっと、やだ、何なのよ、あんた」
知子は気味悪がって、一歩、二歩と後ずさりをする。
「なんでもない。なあ、教えてくれ。本当のことを」
「な、何のことよ」
「翔太の父親のことさ。あんたは暴力を受け、逃げてもしつこく追われているとオレに話した。でも三田宗雄の父親は、あんたのせいで息子は自殺したって言っていた」
「嘘よ! 何言ってるの? あんな人たちのことを信じて、バカみたい! まあ、あの男が死んだって言うのは噂では聞いていたけれど、たとえそれが本当だとしても、わたしのせいではないでしょ」
知子は我を失った様子でわめき散らし、さらに何歩も後ずさりをして、恭介との距離をとろうとする。恭介はそんな知子に対し、彼女と同じ歩数だけ前に進み、圧力をかけた。
「来ないでよ! 何をする気? 大声で叫ぶわよ!」
「なあ、一つ聞かせてくれないか?」
「何よ!」知子は叫んだところで、背中が背後にある車とぶつかった。
「あんた、翔太を愛していないのか? 翔太が邪魔で仕方がないのか?」
知子は恭介の問いかけに息を呑むと、「そんなわけないじゃない!」と言いながら、両手で顔を覆い、泣き始める。
「オレにはその涙が本当の涙なのかどうかがわからないんだよ。どうしてそんなにも多くのものを望むんだ? 翔太がいるのに、一体何が不満だったんだ?」
キラーハンドが再び大きく動き、恭介の体をうねらせた。もう発動まで数分しかない。
「あんたにはわからないよ」
数十分にも感じた数十秒もの沈黙のあとで、知子は唐突に呟く。
「何が、だ?」
息を絶え絶えにしながら聞き返す恭介に、知子は涙を拭い、打って変わって冷静な顔を見せると、異様なまでの恭介の変化には関心がないといった様子で、アイスピックで突き刺すような冷たい視線を浴びせてきた。
「わたしはね、そもそも家族なんて言葉、信じてないの」
知子は吐き捨てるように言うと、おもむろにシャツの襟元を広げ、首筋を恭介に見せてきた。そこにはハッキリとした火傷の痕があった。
「ほかにもあるわ。火傷だけじゃなく、切り傷や痣の痕もね」
知子は、中学を出て逃げ出すまでに父親がいかに自分に暴力を振るい続けてきたのかということを語り始めた。さらに元夫の三田宗雄もさらなる傷を知子の体に刻んでいったという。そして彼女はこの世に純粋な愛など存在しないことを悟ったのだと恭介に告げる。
「みんな、突き詰めれば、自分の打算や、自己憐憫を満たすためだけに、恋人だ、家族だ、何だって、騒いでるだけじゃない。男はいつも勝手で、女もおかしくなってて。結局、愛なんて、抽象的なものを求めるから辛くなるのよ。そんなものにすがるから、裏切られたときに、自分自身まで否定することに繋がっちゃって。そんなんだったらさ、本当に最初から何もかも信じなければいいのよ。そっちの方が絶対にマシなんだから」
知子は一気に捲し立てると、大きく息をつき、天を仰いだ。恭介はそんな知子を眺めながら、可哀想な女だと思い、その一方で、自分もこの目の前の哀れな女と同じように、愛を信じることが出来ない人間なのだと気がついた。〝愛を理解せよ〟それが悪魔の口にした唯一の契約破棄の方法よ。母の言葉がまた脳裏を過る。そもそも愛することを知らない人間には、それはとてつもなく難しい話だと絶望的に思う。
「じゃあ、お前は三田宗雄も翔太も愛していなかったんだな?」
恭介は頭の中でぐるぐると様々なことを考え、知子を殺すための言い訳を探しながら、ストレートに訊ねる。
「翔太については、努力はしたのよ」知子は悪びれもしない言い方で呟く。
「努力?」
「……翔太が生まれたとき、うれしかったの。わたしもやっと幸せになれるんだって、だからこの家族を大事にしようって、ずっと思っていたんだけど、わからないのよ。人をどうやって愛していいのか。そうやって迷っているうちに、不況だ、仕事だって、生きることで精一杯になっていって、友達や同世代の女の子たちはまだみんなお洒落をして、恋をして、青春を謳歌しているのに、どうしてわたしだけ生きることにこんなに必死にならなきゃいけないんだろうって」
知子は喋っているうちに泣いていた。恭介は目の前にいる女の言葉のすべてに同情することは出来なかったが、彼女が自分を見失うに至った、その孤独は充分に理解した。虐待をした彼女が悪いのは当然だ。でも、彼女をそんな風に追いやった彼女の父親や三田宗雄は、なぜ悪くないと言えるのだろう? もっと言えば、なぜ社会は彼女に手を差し伸べてあげられなかったのか?
「なあ、じゃあ、さっきのあの男も愛していないのか?」
まだ発動するなと祈りながら、恭介は知子に訊ねる。それでも彼女が愛を求めているのか、どうしても聞きたかった。
「さあ、どうなのかな」
知子は涙を指先で拭いながら、恭介に向かって微笑むと「愛してなんかいないし、金持ちだから近づいただけ」と告白する。
「本気で言っているのか?」
恭介は思わず反応する。その瞬間に、知子は急に冷めた目つきになり、むき出しになった感情をぶつけてきた。
「その何が悪いの! わたしは幸せになりたいだけなの。このクソみたいな世の中で、わたしみたいな人間が這い上がるには、人を出し抜くことで追いつくしかないじゃない!」
「でも、だからって」
恭介は言いかけたところで言葉に詰まった。道理には反しているかもしれないが、この女が言っていることは的外れではないと思ってしまったからだった。
「お金や権力を持っている人間は、弱い人間を騙してうまい汁を吸っている。そういう仕組みの世の中を勝手に作り上げている。わたしみたいな何もない人間がさ、そんな世の中に抵抗するには、奇麗事染みたことになんて構っていられないじゃない。そもそも男たちが身勝手なんだから、わたしはそういう男たちを出し抜くしかないのよ。でも、もうそれもおしまい」
さっきまで感情的になっていた知子は急に精気を失ったようになった。恭介はその急激な変化に戸惑いながら「なぜだ?」と問いかける。
「本当のところを言うとね、もう、さっきの彼ともダメみたいなの。ずっと前から気が付いていた。わたしの体につけられた傷痕を見てから彼の心がどんどん離れて行っているのを。露骨に態度には見せないけれど、もうわたしの話なんかちゃんと聞いていなくて、わたしといつ手を切ろうかって、そのタイミングだけを計ってる」
「そんなバカな、だって、それだったらどうして子どもに会わせているんだ?」
「それはわたしが子どもをダシにしたからよ。こうやって子どもを巻き込んだイベントをすれば、まだ脈があるかもって、そう思いたかった。無駄だってことはもうわかっていたのに。所詮、男なんてみんな体だけが目的で。そんなこと最初からわかっていたのに」
知子は息をつき、急にそれまでの表情とは打って変わって決意を決めたような凛とした顔になる。そして恭介の目を見据えて「ねえ、あなた、わたしのことを殺してくれない?」と口にする。
「な、何言っているんだよ、いきなり」
「いきなりじゃないわ。だって、あなた、わたしのことを殺しに来たんでしょ。ごまかしてもわかるわ。あなたの目には殺意があるもの。今、わかったわ。あなたはわたしがずっと待っていた悪魔の使者だってことが」
心内を見透かされたことにたじろいだ。知子が自分から死を願ってくれることは、願ってもないことなのに、こうして口に出されて「殺せ」と言われたら、体がまるで動かない。
「大丈夫よ。わたし、元々、死のうと思っていたから」
知子は、そんな恭介の動揺を悟っているかのように続ける。
「翔太の父親と出会う前に付き合っていた男がね。古い映画が好きな男だったの。色々な映画を観せられたわ。ほとんどよくわからなかったけど、一本だけ気に入った映画があった。『禁じられた遊び』っていう映画なんだけれど、知ってる? 主人公の子どもたちがお墓を作る遊びにハマっていくの。そのうちに彼らは自分のお墓も作りたくなって、十字架を盗み出すんだけれど、何か、それを観たとき、その気持ちがよくわかったんだよね。ああ、わたしもそうだって。自分のお墓を作りたいんだって」
恭介は知子の話を聞きながら、知子が住むアパートの一室の裏庭にあった数々の十字架を思い出す。そして翔太が「愛のロマンス」を弾けるようになることにこだわっていたことも。おそらく、翔太は知子が「禁じられた遊び」を繰り返し観ているのを目撃していたのだろう。彼なりに、母親の心を占めている映画のテーマ曲を自分が弾けるようになれば、母親が喜ぶと思っていたのだ。
「わたしね、ずっと死にたかったのよ。こんなクソみたいな世の中にいてもしょうがないって。早く楽になりたいって。だから、翔太と心中しようと思ってた。あの子に食事を与えなかったり、縛り着えたり、押し倒したりしたのは、翔太を殺して、わたしも死のうと思っていたから。でも、出来なかった。気が付くと、わたしはいつも逃げていて、ありもしないチャンスにすがろうとしていた」
衝撃の事実を聞かされているはずなのに、恭介は、腑に落ちた感じがしていた。翔太のこれまでの行動や拙い説明、それに知子の告白の節々にあった違和感がまるでパズルのピースが綺麗にハマったかのように頭の中で一致していく。なぜ知子が自分の分身のように思えたのか、その理由もわかった。それは、彼女も絶えず「死」の臭いをさせている人間だからだった。そして、恭介は、これまで見えてなかった、自分の母の一面をも知子の姿を借りて見せつけられたような気がしていた。
「わたしみたいな人間が母親だから、翔太を苦しめているの。これ以上あの子を苦しめるくらいなら、わたしなんか死んだ方がいい。もうこんな世の中で生きていても希望もない。だからお願い! わたしを殺してよ。このままだったら、わたし、また翔太を殺してしまうから」
恭介はまるで金縛りにあったかのようにただ立ち尽くして知子を見ていた。
「逃げるな」
そう叫びたい。でも、自分にはそんな権利はない。母が死んだときのことが脳裏に浮かんだ。自分のために死んだ母は、本当は何を思って死んだのだろう。静かに幸せに暮らしたいだけなのに、どうして世の中にはそれすらも許されない人がたくさんいるんだろう。人は愛されることで初めて自分がどのような人間であり、どんな価値を持っているのかを知るはずなのに、そもそも愛されるということ自体にたどり着けない人がいるのはなぜなのだろう?
その時、ビクッと左手が動いた。この左手に宿る悪魔のことを忘れていた。もはや制御が効かなくなったキラーハンドは獲物を探すかのように激しくのたうち回った後で、知子に襲いかかった。
「ダメだ! それでも誰にだって愛される権利があることを彼女に教えなきゃいけない!」
恭介は胸の内で叫ぶ。ただ目の前には知子しかおらず、恭介が自分の意志で選択をしなかった以上、キラーハンドが知子を餌食にするのは、当然の帰結だった。恭介はそれでも必死に右手で必死にキラーハンドの暴走を止めようとする。しかしキラーハンドは、猛獣のような獰猛さで右手を跳ねのけると、勢いそのままに知子の心臓の上にかざした。
知子は最初何が起こったのかとビックリした様子で体を強張らせていたが、すぐに自分の身がどうなるのかを理解したようで、抵抗はせずにされるがままになった。キラーハンドが無慈悲にどす黒い光が発した。知子は微かに恭介に向かって微笑むと、体を硬直させて、そのまま地面に崩れ落ちた。殺してしまった。翔太の母親を殺してしまった。恭介は呆然と立ち尽くすしかない。
「先生!」
突然翔太の声がした。驚いて、声の方に顔を向けると、翔太がホッとした顔をして、駆け寄ってきた。そして恭介に「どこ行っていたんだよ」と告げたあとで「何だよ、そんな顔をして」と不思議そうに首をひねる。どうしてここにいる? 恭介は心の中でそう叫んで色を失いながらも、今、自分がどんな顔をしているのかと思った。自分を畏れた顔をしているのか、それとも鬼のような顔をしているのか。
「お母さん?」翔太は、ようやく足元に転がっている知子の遺体に気が付く。
「お母さん、お母さん」
翔太は知子の亡骸を何度も揺すり、彼女がもう動かないと気づくや、その声は涙混じりとなり、次第に悲痛な叫びとなった。
「先生、お母さんに何をしたの? ねえ、どうしてお母さんは立ち上がらないの? 何か言ってよ、先生」
翔太は泣きながら恭介に懇願をした。恭介はもうこれ以上翔太の顔を見ていられずに、その場から走って逃げる。翔太以外にその近くには人はいなかった。翔太が自分のことを喋るかもしれないと頭の片隅で考えたが、今はもうそんなことはどうでもいいような気さえした。駐車場を抜け、スタジアムを利用する人のためによく整備された道を抜け、川を渡って、新横浜の駅に近づいてきたところで行き交う人が増えていった。恭介は肩で息をしながら意図的にその中に身を紛れさせる。どんどんと気分が悪くなっていくのを感じる。
恭介は新横浜の駅に着き、改札口を抜けるなり、トイレの中に駆け込んだトイレには誰もいなかった。恭介は迷わず個室に入り便器に向かって胃液を吐いた。脳裏に知子の亡骸にすがる翔太の姿が浮かんで離れず、後ろめたさを払拭するためにも、恭介は自分が翔太に憎まれればいいと開き直った。そうだ。母親を憎むのではなく、自分を憎んでくれたほうが、彼のこれからの人生にはよかったのだと。翔太に恨まれるのは辛かったのだが、自分はそれだけのことをしたのだからしょうがないと、恭介は無理やり自分の気持ちを割り切ろうとした。
「ついにやったな」
個室から出てくると、目の前にノボルが待っていた。恭介はノボルを無視して、トイレを出ようとする。
「そんなシケた顔をするなよ。いたいけな子供の命を救い、その子供に対して、死に追いやるほどの虐待していた最悪な母親を殺す。何も間違っていないじゃないか。お前は正しいことをしたんだぜ。しかも母親は、自分から殺せとも言っていた。お前が気に病む話じゃない」
背中越しにノボルが緊張感のない、ヘラヘラとした口調で言ってきた。恭介はなぜそんなことをノボルが知っているのかと思ったが、考えるよりも先に、ノボルの頬を思い切り殴りつけていた。
「へへへ、これで満足か?」
吹っ飛ばされ、壁に打ち付けられたノボルは、殴られた頬を手の甲でさすりながらも、不適な笑みを浮かべていた。恭介はそんなノボルの心の中を覗き込んでくるかのような視線に耐えられずにトイレを出て、人ごみの中に身を隠した。
*
そのころ、大宝エンターテイメントの事務所の奥の部屋に馬渕がやってきた。部屋には工藤しかおらず、テレビのサッカー中継はつけっ放しになっている。
「これは、馬渕さん。さすがでしたね」
工藤は席を立ち、馬渕に近寄って、媚びるように情報の礼を述べたが、馬渕は「何のことだ」と空とぼけ、近寄る工藤を無視して彼が座っていた椅子に座る。
「お前、サッカーが好きなのか?」
これ見よがしに訊ねてくる馬渕に、工藤は「ご冗談を」と言いながら、ニヤリと笑う。
「どうです? 馬渕さんも。莫大な金が簡単に手に入りますよ」
「ふん、どうせどっちが勝っても儲かるようにしているんだろ。ただな、オレはサッカーが嫌いなんだよ。チャラチャラしていて、気にくわねえ」
「昭和の意見ですね」
工藤が笑いながらテレビを消すと、馬渕は「うるせえ」と言いながら、背もたれに思い切り寄りかかり、ふんぞり返る。
「そんなことよりも、今度はお前の番だぞ」
「わかっていますよ」
工藤は自信に満ち溢れた顔を見せると、スチール製の書類棚の中からA4サイズの封筒を一枚取り出し、馬渕にそれを渡した。馬渕は工藤の目を見ながら、それを受け取り、封筒の中から一枚の写真を取り出す。それは大宝エンターテイメントを訪れたときに撮られたに違いない、監視カメラに映し出されている若い男の写真だった。
「名前はカザモトキョウスケと言います」
そして工藤から発せられたその名を聞いた瞬間に、馬渕は激しく動揺する。激しく脈打つ心臓の鼓動が工藤に聞こえやしないかと焦り、ごまかすように大きく息をついて、ポーカーフェイスをどうにか保つ。
「村上を捜してここにやってきました。名前は名乗りませんでしたが、会話の内容の中で見せた動揺からして、この写真の人物がカザモトキョウスケに間違いないと思います」
「そうか」
馬渕は工藤の目を見ずに言うと、写真を封筒に戻して立ち上がり、そのまま部屋を出て行こうとする。
「馬渕さん、一つ教えてもらえませんか?」
馬渕は怪訝そうにため息をつきながら、振り返る。
「カザモトキョウスケは何者なんです?」
「何が言いたい? オレは今、そいつの名を聞いたんだぞ」
馬渕の答えに、工藤は自嘲気味に笑う。
「そうですね。でも気をつけてくださいよ。そいつは少し厄介な人間かもしれません」
「何か知っているのか?」
そう聞く馬渕に、工藤は勝ち誇ったように唇を締めたまま笑う。
「ちっ、わかった。何が知りたいんだ?」
馬渕はうんざりした顔をしながら、訊ねる。
「『スマイル』のことです」
工藤は冷静な口調で言う。馬渕は息を呑み、どうしてこの男がその名を知っているのかと思い、想像以上に目の前の男が目端の利く人間だと知って驚いた。
「誰だ? そのふざけた名前の人間は?」
馬渕は勤めて冷静な顔をして白を切る。そんな馬渕に、工藤は人を食ったような顔をして、冷めた視線を送る。
「隠さなくたっていいです。どんな病気をも治す力を持つ一方で、金のためならどんな人間も秘密裏に殺してみせる。そんな漫画のような『スマイル』という名の人物が実在しているということは知っています」
「なぜそんな与太話を信じる?」
「さあ、どうでしょうね。ただちょっと思ったんです。もしかして、その『スマイル』という男とカザモトキョウスケは何か関係があるんじゃないかって。じゃなかったら、馬渕さんともあろう人間が、あんな子ども一人に、こんなに熱心になるわけがありませんからね」
駆け引きをしかけてくる工藤に、馬渕はどう対処するべきか迷う。
「お前はそれを知って、何がしたい?」
「それは聞いてからじゃないとわかりません。ただわたしは馬渕さんとは運命共同体だと思っていますよ」
工藤はいつものようにへつらうようにして笑う。馬渕はこの男のこの笑顔が本物でないことぐらいすぐにわかったが、この男を敵に回すことの煩わしさを想像し、同時に利用するだけの価値があるかどうかを考えた。
「確かに『スマイル』は、名うての暗殺者だ」馬渕は工藤をうまく利用する道を選んだ。
「オレも確かな話は知らねえ。でもお前の言う通り、奴は命を救う力と、命を奪う力を持っている、人並みはずれた人間であることは間違いない。特に人を殺す力はな、確実に証拠を残さないで実行するんだ」
「だから、様々なところから依頼を受けていると? 警察も、政府も、みんな彼の存在を利用しているんですか?」
興味ありげな顔をして訊ねる工藤に、馬渕は苦笑いを浮かべて「それは知らねえ」と首を横に振る。
「ただ『スマイル』の殺しには一つだけ特徴があると言われている。それは胸の部分に残る丸い痣だ。満月のように、不自然にまん丸な痣が薄らと残る」
馬渕は自分の左胸に指先で丸い円を描くゼスチャーを工藤に向かって見せる。
「ただし、こいつはあくまでただの噂に過ぎねえ。たとえ死体に丸い痣があり、それが『スマイル』によるものだと推察されても、その死因は事故や自殺、あるいは自然なものとみなされ、闇の中に葬られるからな」
馬渕は息をつき、工藤の目を見据えた。工藤は「なるほど」と呟き、口元を挙げてニヤリと笑って見せる。
「そして麻美の胸にも丸い痣が残っていたが、誰も『スマイル』の名を出さずに、警察は村上だけを追っているというわけですね」
「さあな。それよりお前が知っていることは何だ?」
馬渕の反問に、工藤の口元はさらに広がる。馬渕にはその笑顔を不気味に感じる。
「カザモトキョウスケは、おそらく麻美が殺害された、村上の潜伏先のホテルに間違いなく現れています。実は奴がここに現れたあと、若い奴にずっと追わせていたんです」
工藤の言葉に、馬渕はやはりと思って心の中でため息をつく。
「カザモトキョウスケが、『スマイル』の正体かもしれません」
工藤は馬渕のそんな反応を楽しむかのように、自信ありげに続ける。
「バカなことを。二十歳そこそこの人間が、か?」
「では『スマイル』と同等の力を持っているとしたら?」
工藤は問いかけて、馬渕の反応を待った。馬渕は自分自身の心の動揺を隠すように含み笑いをしながら首を何度も横に振り、部屋の出口に向かった。
「忘れないでくださいよ。わたしたちは運命共同体です」
背中越しに工藤が念を押すように投げかけた。
「ふん」
馬渕は振り返ることもなく、そのまま大宝エンターテイメントの事務所を出た。
馬渕はそのまま歌舞伎町を抜け、靖国通りに出た。道路の脇で待っていると、そのうちに目の前に黒いカローラが止まった。馬渕は無駄な動きなく道路に出ると、滑るようにして助手席に乗り込む。
「どうです? 何かわかりましたか?」
運転席に座る渡辺が好奇心を隠せずに訊ねてきた。
「早く出せ。とりあえず戻ればいい」
馬渕は怪訝そうに、コンビを組まされている若造にそれだけ告げると、流れていたカーラジオの音量を上げた。それは渡辺に向けた、自分に今話しかけるなという暗黙のルールだった。馬渕はタバコを取り出し、火をつけ、煙を吹かしながら、恭介のことを考えた。どうやら恭介が別れた妻の一族の忌々しい能力を継いでいることは間違いなく、またその能力によって、人の道から堕ちようとしていることも間違いなさそうだった。自分は殺人者として目の前に現れた息子を捕まえることが出来るのか? 馬渕は自問自答を繰り返しながら、その一方で工藤が何を企んでいるのかを想像し、あの得体の知れない男に恭介を利用させてはならないと思った。馬渕は窓の外を見た。ネオンばかりがチラつく新宿の町並みは、人々の欲望をそのまま形にしているかのようにも思えたが、馬渕にとっては決して嫌なものでもなかった。
二十分ほどが過ぎた。車はすでに目的地であった警視庁の近くまで来ていた。カーラジオからは、流れていた騒がしいだけのポップスが終わり、ハスキーな声が印象的な女性DJによって、遠い中東の地におけるテロやさらに落ち込んでいるこの国の景気などのトピックスが軽い感じで次々と読まれていた。馬渕はそれらニュースを聞き流しながら、短くなった数本目かのタバコを灰皿に押し付け、そのうちに恭介にただ平穏に暮らして欲しいと願う、自分自身の中に眠る父親としての気持ちに気がつき、自然と苦笑いを浮かべている。
「何がおかしいんです?」
その様子があまりに異常に見えたのか、渡辺が恐る恐る訊ねてくる。
「うるせえ。前見て、運転しろ」
馬渕は冷たく言いながら、赤ん坊の頃しか知らない息子のことで、どうして自分の心がこんなにも揺れるのかと、自分自身のハッキリしない気持ちがもどかしくてしょうがなかった。ハスキーボイスの女性DJによる、気持ちの入っていないニュースは淡々と続いていた。そのうちに時間が押してきたのか、女性DJの口調はやや早口になってきた。馬渕は段々とこの女性DJに苛立ち、チューナーを回そうとしたが、そのときちょうど彼女によって語られたニュースが気になった。それはサッカーの日本代表戦が行われている日産スタジアムの駐車場で女性の変死体が見つかったというニュース速報だった。女性DJは被害者に目立った外傷がないということを告げていた。馬渕は何か引っかかった。事件が起きたのは新横浜であり、警視庁に属する馬渕たちには管轄外も甚だしかったが、そこに行かなければならないという、長年培った刑事としての勘が馬渕の気持ちを大いに掻き立てた。
「渡辺、ここに行け」
「えっ、どこすか?」
「このニュースの現場だよ」
馬渕の言葉に、渡辺は口をあんぐりと開けて、振り向いてくる。
「い、今からですか? しかも、日産スタジアムって神奈川県警の管轄じゃ」
「だから前見て、運転しろって言ってるだろう!」
馬渕は有無を言わさぬ様子で、それだけ言うと、ラジオのチューナーをいじり始め、ニュースの続報が流れていないか確かめ始める。渡辺は、小さくため息をつき、カローラをUターンさせた。
馬渕と渡辺が日産スタジアムに着いたときには、すでに神奈川県警の刑事や検視官らによって、現場の駐車場が立ち入り禁止となっており、その周りを野次馬たちがスマートフォンで写真を撮りながら囲っていた。
「おい、何で、警視庁捜査一課の刑事様がこんなところに現れるんだ?」
人垣を掻き分け、強引に現場に近づいていくと、神奈川県県警の顔見知りの五十がらみの刑事が馬渕の顔を見るなり、無精髭に囲まれた口を緩ませて、ふざけた調子で嫌味を言ってくる。
「ガイシャは?」
「運がいいな。今、運ばれるところだ」
そのとき被害者はブルーシートで隠されながら、担架で運び出され、今にも救急車に乗せられようとしていた。馬渕はオロオロと背後で戸惑う渡辺は放っておき、救急隊員の制止を無視して、運ばれていた被害者の遺体を包まれてある毛布をめくる。
「ちょ、ちょっとあなた、何なんですか?」
「うるせえ、ちょっと黙ってろ!」
馬渕は文句を言ってくる救急隊員をドスの利かせた声で恫喝すると、さらに三十代だという被害者の女性のシャツの胸元部分をめくった。彼女の胸の部分には薄らと丸い形の痣があった。馬渕はすぐに乱れたシャツを元に戻し、何も言わずにその場から離れた。頭の中は真っ白だった。渡辺が近づいてきて、何かゴチャゴチャと話しかけてきたが、何も頭に入らず、ただ恭介が産まれたとき、自分がどういう感情を抱いたのか、そのことばかりを思い出そうとしていた。ふと見ると、十歳ぐらいの少年が神奈川県警の刑事に連れられて、パトカーに乗ろうとしていた。茫然自失とした少年の泣き腫らした顔を見て、被害者の息子だと直感でわかった。馬渕はその光景を見ているのが急に辛くなり、渡辺に「行くぞ」と一言だけ声をかけると、その場を足早に去った。




