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LR  作者: 土屋信之介
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第一章 再触

(一)


 薄暗い学校の教室ほどの狭い空間の中で、数十人の若い男女が熱気と激しいサウンドに思考能力を奪われ、トランス状態に陥っていた。彼らの視線の先には、ステージで演奏するバンドの姿があり、逆立った金髪のボーカルは派手なパフォーマンスで観客たちを煽って、シャウトを繰り返している。ボーカルの背後には見事な腕捌きでエレキギターを弾く恭介がいた。その両手には指先がカットされた黒い皮のグローブがはめられている。恭介は自分で両手を動かしているのだと常に意識しながら、必死に演奏をしていた。


 ライブが終わって客が帰り、一通り片づけを済ませた後、恭介は一人人気のないライブハウスの廊下にいた。汗ばんだ白いTシャツが体に密着し、熱気とともに火照った身体を不快に感じさせる。恭介は壁に寄りかかりながらジーンズのポケットからスマートフォンを取り出して画面を操作する。画面に雄大な緑の大地に架かる虹のインスタグラムが表示される。恭介はニコリと笑いながら「きょうのしゃしんもきれいだね。きもちがいっしゅんであかるくなりました!」とコメントをして送信する。

「なあ、例の話、考えてくれたか?」

 背後からやって来た金髪のボーカルがいきなり声をかけてきた。

「オレ、やっぱり矢崎さんのバンドには入れません。自信がないんです」

 恭介は慌ててスマートフォンをジーンズのポケットに押し込みながら、作り笑いを浮かべて頭を下げる。

「自信がないだって? それだけの腕を持ちながら?」

 恭介は、母親譲りのその大きな瞳で矢崎を見つめた。

「今はとりあえずこうやって色んなバンドに呼んでもらって、演奏させてもらえるだけで満足しているんです。日雇いのバイトと合わせてギリギリで何とか生活も出来ますし」

 恭介は頭を下げると、バンド募集のチラシが幾量にも貼られた地下から地上に上がる階段を上って、ライブハウスを出た。新宿の街を彩るネオンに視力が慣れるまで、時間が少しかかった。夏の暑さが皮膚をさらに汗で湿らせるのを感じながら、恭介は自分自身一体何をやっているんだと思った。母を殺してから十年、ずっとこうして他人との接触を出来るだけ避け続けていた。友だちを作ってはいけない。それは、母を殺してしまったことへの戒めだった。そうやって、自分を戒めないと、自分自身が本当に悪魔になってしまうと恭介は本気で考えていたのだ。

 ただそうやって自分を律していた恭介にも、例外的に心を通わせていた存在がいた。それは十歳年下の彼の従兄妹の芽依だった。母を殺した後、恭介は北海道の叔母一家と暮らすようになった。叔母さんたちは貧しく、恭介は居候として肩身を狭くして生きるしかなかったが、それでも恭介は少しでも恩を返したいと思って、叔母さんの娘である芽依をとても可愛がっていた。それは、芽依にもどうやら恭介と同じ能力があるらしかったからで、同じ能力を持つ身として寄り添ってあげたいと思ったからだった。芽依もそんな恭介をまるで本当の兄のように慕ってくれていた。それにも関わらず恭介が高校を出た後すぐに上京したのは、いつかあの忌々しい能力を芽依に使ってしまうんじゃないかと怖くなったからだった。

 上京した後は、孤独を紛らわせようと、ギターを必死に練習した。演奏技術が認められて、ライブに出演することも多くなってからは、自然と仲間も増えて、呪われた運命を忘れられるときも多くなってきた。だが心のどこかでは、近づき過ぎれば誰かの命を奪うことになるかもしれないという思いはどうしても消えなかった。

 恭介は、様々な人種が行き交う雑踏をベテランのボクサーのようにフラフラとかわして歩きながら、両手にはめられた黒いグローブを眺め、力いっぱい両手を握り締めた。背後に人の気配を感じたのはそのときだった。

「待てよ」

 聞いたことのある声だった。振り返りたくない自分の感覚を信じてそのままやり過ごしたかったが、声の主は恭介の肩を後ろから軽く叩いてきた。恭介は意を決し、呼吸を一つ整えてから振り返る。

「よう、久しぶりだな。お前、風本恭介だろ?」

 恭介にはその人物が母を殺すキッカケを作ったノボルであることがすぐにわかった。ノボルの風貌は、背こそあまり高くなかったものの、その意地が悪そうな顔つきには磨きがかかっていた。黒いシャツに黒いズボン、それに黒い革靴。全身が黒でコーディネートされた彼のいでたちは、中世ヨーロッパの絵画に出て来るような悪魔の使いを彷彿とさせる。

「そんなシケた面するなって、十年ぶりに会ったんだぜ。オレはお前のことをずっと捜していたんだ」

 ノボルはヘラヘラと笑いながら、人を食ったような目つきで見つめる。

「オレのことを?」

「ああ、オレはまだお前に礼も言ってないんだぜ」

 事実だった。恭介は母親を殺したあと、その足で旭川の叔母に引き取られたために、その後ノボルには会っていなかった。

「なあ、聞いたぜ。お前、色んなバンドからオファーを受けて、レコード会社からのメジャーデビューの話もあったそうじゃないか。でもお前はそのすべてを蹴った。それは怖いからか?」

「何のことを言っているのか、さっぱりわからないな」

 恭介は冷静さを必死に装って告げると、逃げるようにノボルに背中を向け、その場を去ろうとする。

そんな恭介に、ノボルは突き刺すような言葉使いで「オレは忘れちゃいねえぜ」と言う。恭介は思わず立ち止まり、足をすくませる。

「オレはお前を困らしたくて、再びお前の前に姿を現したんじゃないんだ」

恭介は黙ったまま、振り返らない。

「オレはな、ずっと考えていたんだ。お前のあの力はやり方によっては莫大な金と力も得ることが出来るんじゃないかって」

「興味がないな」

「まあ、そう言うなって。わかるぜ、お前の気持ち。オレの命を救ったがゆえに、自分の母親を殺してしまったのだからな」

 ギョッとした。なぜこの男がそのことを知っているのか。母親の死は、心臓発作と処理され、恭介の両手の秘密は誰も知らないはずなのだ。恭介は再びゆっくりと振り返り、ノボルの顔を見た。

「雨が降り始めている。もう虹を写真に撮るのは止めておけ」

 ノボルが突然脈絡もなくそれだけを告げる。そのときポツリと雨の雫が恭介の頬に落ちた。恭介は今度こそ足早にその場を去り、雑踏の中に進んで身を隠した。今の言葉は、聞き違いだ。ノボルが今の自分のささやかな楽しみを知っているわけがない。恭介はノボルの存在そのものも幻だったのだと必死に思い込もうとした。


 恭介は、深夜近くに東新宿にある自分のアパートの部屋に帰り着いた。築五十年を超える古いアパートで、四畳半の狭い部屋だった。日当たりの悪い一階の奥に位置するその部屋の中には、ギター以外には生活に必要な最低限のものしか置かれていない。窓の外に見える雨脚はどんどんと強くなっていた。ノボルのことを一刻も忘れたかった恭介は、服を脱いで明らかに後付けされたシャワー室に入り、しばらくシャワーを浴びてから、下着だけ着てすぐに横になる。

「ねえ、どうしてギターなんて買ったの? 手袋をしていたんじゃ弾きづらいんじゃない?」

 まだ小学校に上がったばかりの頃だっただろう。あどけない顔をして訊いてくる芽依の姿が脳裏に浮かぶ。あれは、初めて自分のギターを買った日のことだった。それほど高くないアコースティックギターだったけれど、高校生の恭介にとっては、大きな買い物だった。

「わかっている。だからこれも買ったんだ」

 恭介は指先がカットされた皮のグローブを見せる。 

「何、これ、こんなのあるんだ」芽依は目を輝かせる。

「これなら、芽依もギターが弾けるかな?」

「ああ、いつか同じやつを買って来てやるよ」

 恭介は、自分と同じ宿命を背負った彼女を守ってやりたかった。せめて、この呪われた能力を消す悪魔との契約破棄の方法をどうにかみつけなければならないと思う。母は、〝愛を理解せよ〟という悪魔が口にした言葉が悪魔との契約破棄の唯一の条件だと言っていた。それが本当のことかどうかさっぱりわからなかったが、とにかく北海道にいるより東京にいた方が、この能力にまつわる何らかの情報にぶつかる可能性が高いように思われた。

 そのうちにウトウトとして、意識が遠のいていくのを感じる。疲れていたので、眠りに落ちるのは早かった。


 スマートフォンの着信音で目が覚めた。

「虹が見えてるよ。いつもの場所にこない?」

 麻美からのメッセージだった。恭介はすぐに身支度を済ませて外に出た。雨はすっかりと上がっていて、朝日が露を照らしていた。

「もう虹を写真に撮るのは止めておけ」

 麻美のもとに急ぐ途中で、恭介はノボルの言葉を思い出す。あれは本当に現実の言葉だったのか? そう自問して何度か立ち止まりかけたが、今はやはり虹を撮らなきゃいけないという気持ちが勝る。

麻美は、新宿駅近くにあるいつもの歩道橋の上で待っていた。ベージュ色のロングの巻き髪に、薄い黄色の袖付きのミニドレスを着ている彼女の立ち姿は、その場の風景によく映えていた。

 西の空が良く見えるその場所は、彼女と初めて出会った場所だった。恭介は、今日と同じような雨上がりの朝に麻美が声をかけてきたことを思い出す。

「虹を撮っているの?」

 あのとき急に声をかけられてビックリしたものの、恭介は「朝の虹は、必ず西の空に見えるんだ。この辺ではここが一番良く見える」と冷静な顔をして答える。

「どうして必ず西なのかな?」麻美は興味津々に訊ねる。

「虹は、太陽の光が雨上がりの空に漂う雨粒にぶつかって跳ね返ることで見えるんだ。だから、基本的に虹は太陽を背にした場所で見える。太陽は毎朝東の空から昇るでしょ」

「なるほど、だから朝に虹が見えるときは、西の空ってわけなのね。詳しいのね。虹が好きなの?」

「好きというか、知っている子のために撮っているんだ。まだ小学生なんだけれど、ちょっと病気で、あまり学校に行けていなくて」

 芽依の顔を思い浮かべながらも、恭介は嘘を交えて教えてしまっていることに微かに後ろめたさを感じた。

「その子が虹を好きなのね」

「ああ、インスタに虹の写真ばかり上げている。なかなか友だちが出来ないからね。オレが同年代のフリをしてコメントをしているんだ。虹好きとして、写真を見せ合おうって」

 照れながら視線を合わせずに教えると、麻美は「気に入った」と呟く。

「そういうエピソード、わたし、好き。ねえ、連絡先教えてくれる?」

 唐突な申し出に恭介は困惑した。

「安心して。何かを勧誘しようってわけじゃないわ。わたし、仕事柄、朝のこの時間に家に帰るの。だからここをほぼ毎日通っている。雨上がりに虹が出てたら、あなたに連絡してあげるわ。この時間にここにいるってことは、この近くに住んでいるんでしょ?」

 恭介は自分でも驚くくらいあっさりと首を縦降っていた。

「じゃあ、決まりね」

 恭介は屈託のない笑顔を見せる麻美に見とれた。麻美はそんな恭介の視線などお構いなしに思いっきり鼻から空気を吸い込み始めた。

「どうしたの?」

「この匂い好き」

「匂い?」

「雨と光が入り混じった匂い。わからない?」

 麻美は息を対込むように空気の匂いを嗅ぐ。恭介も真似をしてみたが、言われるほどその匂いの感覚はわからなかった。

 それから恭介は麻美と一緒に虹を見る仲になっていた。普段歌舞伎町でキャバクラ嬢をしている彼女は、最初に言った通り、仕事の終わりの早朝に連絡してくることが多かった。


 いつもの歩道橋に着くと虹はまだ見えていた。形がハッキリと分かる美しい虹だった。麻美は虹の匂いを満足げに嗅いでいる。虹の写真を充分に撮ったところで、恭介は麻美と近くの喫茶店に行った。老舗の喫茶店で自然とレトロな雰囲気を醸し出している喫茶店だった。虹を見た後、一緒にモーニングを食べるというのが二人の定番になっていた。

 麻美は美味しそうに食べながら、いつものように店の愚痴や昨日あった出来事などを取りとめもなくベチャクチャと喋っていた。恭介は大抵聞き役になっていたが、ときに気を張って生きている彼女のことが心配になった。 

「前に言っていた約束の話、村上さんと話したのか?」

 恭介がトーストにバターを塗りながら訊ねると、麻美は「うん」と歯切れの悪そうな相槌を打つ。

「まあ、あの人もいつも暴力を振るう訳じゃないのよ。ちょっと寂しくなったり、嫌なことがあったりするときだけ……。不器用だから自分の弱さを見せることが出来なくて、人に当たることで自分を保っているの」

 麻美は、今日はそれ以上そのことに関しては何も言わないと決めた様子で全然関係のない話をし始めた。彼女はいつだってそうだった。自分の感情に合わせたペースで生きている。

「わたしはね、村上さんが飽きたというまで、彼の女なの。彼の匂いは好きだし」

 恭介は、出会ってからすぐに麻美に言われた言葉を思い出す。東北で生まれ、そこでの家族生活が地獄だったと言って高校の卒業を待たずに東京に逃げてきた彼女は、歌舞伎町で村上というヤクザ者に拾われた。以来彼女は村上の女となり、彼を恐れ、機嫌を損ねないように努力していた。村上と麻美は一つの約束をしていた。彼の経営する店の売り上げが倍になれば、自由にしてもいいという約束だった。店で働き始めてすぐに、彼女はその約束を果たすのは不可能だと気が付いたと言っていた。

「ん? このプチトマトはちょっと古いのかな。嫌な匂いだ」

 麻美はサラダに添えられたプチトマトの匂いを嗅いでそう言うと皿の端に追いやる。彼女はにおいの良し悪しで物事や人間の好き嫌いを決めていた。嗅覚過敏という病気だった。ストレスとか精神的な衰弱が引き金になって、普通の人よりもにおいに対して過敏になってしまったのだという。ただ麻美はそれを受け入れ、むしろそれを自分に与えられた大切な能力だと捉え、感覚的に自分らしく生きていた。恭介はそんな風に生きられる彼女が少し羨ましかった。

ふと、恭介は母の言葉を思い出す。

「〝愛を理解せよ〟それが悪魔の口にした契約破棄の唯一の条件よ」

 その真偽のほどは旭川の叔母に聞いても確かめることが出来ず、母が気休めで言った言葉だという可能性もあった。

 恭介は、目の前にいる麻美をじっと見つめる。彼女が恭介との関係を前に進めたがっていることにはとっくに気が付いていた。その気持ちは自分も同じだった。ただ恭介には悪魔との契約を破棄するために麻美を利用しているんじゃないかという後ろめたさがあった。友人を作ってはいけない。母を殺したことによる自分自身への戒め。でも、愛を理解しない限り悪魔との契約を破棄できないのならば、恋人を作ることは許されてもいいんじゃないか―――恭介は必死に自分の気持ちに言い訳をするが、どうしても割り切れずに息苦しさをひたすら感じる。とにかく気持ちが張り裂けそうだった。


 ノボルは何度も姿を現すようになっていた。彼は恭介が演奏をするたびに顔を見せ、毎回自分と商売をするように説得してきた。そのたびに逃げ続けてきた恭介であったが、いつしか無意識のうちにノボルの言葉がしょっちゅう脳裏に浮かぶようになっていた。

「よう、今日もなかなかいい演奏だったじゃないか」

 新宿歌舞伎町のライブハウスで、アローズという名のバンドの一員としてライブを行ったあと、ノボルは今日もいつものように楽屋口で待ち伏せをしていた。

「いい演奏が出来るのも、お前の能力の賜物なのかもな」

「何が言いたい?」

「オレたちとは、お前は違うってことさ」

 恭介は立ち止まり、ノボルを睨みつけ「もう二度とオレの前に現れるな」と告げる。

「何だよ、怒ったのか? 今日はずいぶんと威勢がいいな。何か嫌なことでもあったのか?」

 ノボルは怯むどころか、楽しむかのような口調で言い放つ。

「何度も言わすよなよ。オレはもう二度とあの能力は使わない」

 恭介は言い返すと、ノボルを強く睨みつけ、ノボルの脇を通り過ぎようとする。

「お前はまだわからないのか」

 ノボルはため息混じりに言うと、「いい加減割り切れよ」と呆れた口調で攻勢に出た。

「いい奴が死んで、死んだ方がいい悪党が生きながらえてのさばっている。世の中、そんな不条理なことはざらだ。だがお前はそれを調整することが出来る。自分が生かしたいと思う奴を生かし、殺したいと思う悪党を殺す。それは神にしか成せない業じゃないのか」

 恭介は足を止め、ノボルの言葉を聞いていた。確かに自分の能力を使えば、助けるべき人を助けることが出来るし、殺すべき人間を殺すことも出来る。でも恭介は、それは神ではなく悪魔の所業であるのだと知っていた。

「それにお前だって気がついてるんだろ?」

 恭介の迷いをわかっているかのように、ノボルはどんどんと追い詰めてくる。ノボルが恭介の前に再び現れてから、それまでは常に執拗なまでに空気を読み続け、他人と距離をうまく取ることばかりを考えていた彼の生活はすでに一変していた。ノボルの登場によって想像以上に気持ちがかき乱され、余裕がなくなっていた。

「なあ、お前の能力は死を誘い込むんだろ? オレは知っているぜ。お前の周りには常に死の臭いがしているってことを」

 心臓が高鳴り、その鼓動で胸が押し潰されそうになった。それは恭介が気づいていないフリをしていたが紛れもない事実だった。母親を殺したあの日から、確かに恭介の周りでは異常なほどに、事故で巻き込まれた人、急病で倒れた人、自殺を試みた人と、まるで右手を使って誰かを助けろと試されているかのように死の臭いがする人々が現れ、彼らを見るたびに、恭介は逃げ続けていた。ただの偶然に違いない。恭介はそう思い込み、自分の中で蠢く後ろめたさを押さえつけようとした。だが一度根付いた疑念は、そう簡単には拭えないほどに気持ちの中でこびりついていた。

 そして、ある日その疑惑を確かなものとさせる事故が起きた。それは芽依と町に買い物に行った時のことだった。横断歩道を渡ろうとした時に、車が二人を目掛けてそのまま突っ込んできた。恭介はとっさに芽依を庇った。車は彼らの直前でハンドルを切ったが、恭介たちの前を歩いていた老婆を轢いてしまった。吹っ飛ばされた老婆は、まだ生きているようだったが血だらけで、死にかけていた。恭介は、右手が疼くのを感じ、同時にもしも轢かれたのが芽依だったら想像した。恭介は芽依の手を取り、逃げるようにその場を去った。老婆を救わなかったという後ろめたさを感じるとともに、このまま北海道にいたら、いつか芽依を殺してしまうんじゃないかという恐怖に震えた。恭介はあの日、北海道を離れることを決意した。

「オレは、ただの人間だよ。お前が何と言おうと」恭介は震えた声で呟く。

「フン、まあ、そう思う込むのは勝手だがな。でも、オレと組んで、その自分の力をうまく使いこなせば、お前はフツーの奴が一生かかっても稼げないような金を簡単に手にすることが出来る」

「オレは別に金なんて要らない」

「強がって、いい子ちゃんぶるなよ。そんなことを言い切れる人間なんて、この世に一人としていやしないさ。金さえあれば、お前の世界は変わる」

 心をえぐられたような気がした。それ以上何も応えたくなくなった恭介は、動揺をノボルに悟られぬようにすぐにその場から立ち去った。人ごみの中で、これほど人がいるのに自分は一人なのだと孤独を感じ、いつになったら自分は救われるのかと見えない神様に向かって心の中で祈り続けていた。

 夢遊病者のような足取りで、歌舞伎町に引き返す。そして声をかけてくる風俗店の客引きたちに一瞥もくれずに行き着いた先は、歌舞伎中の路地裏にあるキャバクラだった。どうしょうもないくらい麻美に会いたくてしかたなかった。

 客席が百席ほどはある店内は、銀色を基調とした内装がなされており、それが返って安っぽく見えるような場所だった。恭介は躊躇せずに中に入り、店員の指示を無視して、怪しげにライトアップされている薄暗闇の中を見渡し、麻美の姿を探す。

「えっ、恭介? どうしたの?」

 麻美はそんな恭介に気がつき、喋っていたお客に謝ってから、すぐに恭介のもとにやってきて声をかけてきた。麻美は、いつも会うときよりも目鼻立ちを際立たせるような派手なメイクをし、露出度の高いドレスを着ていた。

「いや、あの、オレ」

それ以上、言葉が何も頭に浮かんでこなかった。ただ金になんて頼らなくても、自分にも人と繋がれるのだということを証明したかった。恭介は、大きな瞳で自分を見つめる麻美を見ているうちに、人目もはばからず、麻美に抱きつく。突然の出来事に周りにいた客も従業員も驚き、麻美も眼を見張って体を堅くさせていたが、震える恭介の肩をそっと抱き、近づいてくる店員を視線で制すると「珍しく甘えんぼさんね」と優しく声をかける。

「……ゴメン」

 我に返った恭介は、すぐに麻美から離れたが、麻美の肌の感触に溺れていたいという欲望が彼をその場からなかなか立ち去らせなかった。麻美はそんな恭介に対し「店の前で待っていて」と優しい口調で言ってきた。恭介は言う通りに店を出て、麻美を待った。ほどなくして麻美はバックを片手に店から出てきた。

「店、大丈夫なのか?」

問いかける恭介に、麻美は笑顔で「これでもわたし、あの店でちょっとは好きに出来る立場なんだから」と言うと、堂々と恭介の腕に自分の腕を絡ませて歩き始めた。


 麻美のマンションは歌舞伎町から歩いてわずか十分程度のところにある、砦のような形をした灰色のデザイナーズマンションだった。村上が買い与えたという、まるで芸術家のアトリエのようなスタイリッシュでありながらも非実用的な造りをした部屋は、八畳の寝室とその半分ほどの大きさのダイニングキッチンで構成されていた。特徴的だったのは、いかにも南の島にありそうな木彫りの置物や観葉植物がたくさん置かれており、部屋が南国風にアレンジされていることだった。それと匂い。部屋中にアロマが焚かれている匂いがした。

 恭介は所在無さげにベッドの上に座ると、麻美は何か飲むかと聞いてきた。恭介はその問いかけには答えずにそのまま麻美の手を取り、「君が好きだ」と囁く。

「ちょ、ちょっと」

 困惑しながらも、麻美は嫌がる素振りも見せず、されるがまま彼を受け入れる。

「痛いって。女の子には、もっと優しくしなきゃダメ。それと、シャワーを浴びてきて。ゴメン、わたし、その人の匂いに慣れるまで時間がかかるの」

 麻美が耳元で囁いてきた。恭介は言われるがままシャワーを浴びた。入れ替わりに麻美がシャワーを浴びている間、ベッドに座りながら、恭介は自分の匂いを気にしていた。自分から土や家畜の匂いがして、もしかして麻美がそれを嫌がっているのではないかと思ったからだった。北海道の叔母さんの嫁ぎ先は、乳牛をたくさん飼っている牧場だった。居候させてもらっている分、恭介はその牧場で学校に通いながらも働いていた。北海道では気にならなかったけれど、こっちの戻って来てからは、あのときの土と家畜の匂いが自分の体には染みついてしまっていると時々感じるようになっていた。麻美の言葉が、今、そのことを猛烈に思い起こさせた。

 麻美が戻ってきた。恭介は自分の心の揺れを悟られまいと気張ったが、逆にぎこちない動作をして、うまく喋ることも出来なかった。麻美はそんな恭介を上手にリードしてくれ、快楽へといざなってくれた。女性の体は思った以上に柔らかくて、温かかった。恭介は自分の腕の中で眠る麻美の栗色の髪を愛しげに撫でながら、この女性ならば、自分の呪いを解いてくれるのではないかと期待し始めていた。

「ねえ、どうしていつもグローブをつけてるの?」

 麻美は裸のままピタリと恭介にくっつきながら訊ねてくる。

「変かな?」

「変よ。だって今、裸なのにグローブだけつけているんでしょ。皮膚か何かの病気なの?」

 心配そうな顔をしてくれる麻美に、恭介は嬉しくなる。

「これはおまじないみたいなものかな」

「おまじない? じゃあ、今度はわたしのために何かをまじなってくれる?」

「何をまじなえばいい?」

「そうだな。わたし、楽園に行きたいの」

「楽園?」

「南の島のイメージね。暖かくって、人もみんなおおらかで、そういう場所に行きたい」

 麻美は悪戯っぽく笑みを浮かべながら言い、幸せそうにまた寝入った。


(二)


 それから麻美とは、互いの部屋を行き来するようになり、互いの体を貪るように求め合うようになった。もちろん、雨上がりには二人で一緒に虹を見に行くことも忘れなかった。ただ恭介にとって辛かったことは、麻美の陰にまだ会ったことのない村上の姿が常にチラついていたことだった。麻美は絶えず村上を恐れ、村上が絶対に来ないとわかる日にしか恭介を部屋に上げなかった。恭介は嫉妬した。麻美を抱きながらも、この同じ体を何年間も村上が貪り続けていることを想像しただけで、狂おしくなった。

「麻美に話しておきたいことがあるんだ」

 いつものように自分の部屋で麻美を抱いたあと、水色の透かし柄のワンピースを着る麻美に、恭介は意を決して切り出す。

「どうかしたの? そんなに怖い顔して」

 麻美は戸惑いを隠しながら、笑顔を向けてくる。

「これのことなんだけれど」

 恭介は手袋のはめられた両手の手のひらを見せ、一呼吸してから、自分にかけられた呪いとそれに囚われた人生を語り始めた。ノボルのこと。母のこと。自分のことを他人に話すのは初めてだった。思ったよりも言葉がすんなりと出てきて、流暢に語ることが出来た。麻美はそんな恭介の言葉を不思議がることもなく、ただ黙って聞いていた。恭介は彼女が一体何を考えているのか恐ろしくてたまらなかったが、とにかく話し続けた。

「前に話していた子。虹が好きな子のことなんだけど」

 そして、いつか話した嘘の訂正を最後に切り出す。

「本当はその子、病気だから学校に行けないんじゃないんだ。その子も、芽依もオレと同じ能力者なんだ。まだ小さいから、オレのように偶発的に能力を使ってしまうかもしれないって、それを危惧して病気を理由にしてほとんど学校に行っていない」

 恭介は語りながら、母の言葉を思い出していた。「愛を理解せよ」それが成されれば、悪魔との契約は破棄され、この能力はなくなるかもしれない。その言葉がもしも本当ならば、麻美を心から愛すれることで、この呪われた能力は消えるのだろうか。それを確かめて芽依に教えてやりたい。恭介は恐る恐る麻美を見た。麻美は気持ちを落ち着かせるように息をついてから「そうなんだ」と言うと、笑顔を見せた。そしてゆっくりと近づいてきて、ベッドに座り、そのまま恭介にキスをしてくる。

「わたし、難しいことよくわからないんだけれど、でも恭介がずっとそのことを人に言えなくて苦しんでいたことだけはわかるよ」

 唇を離すなり、真顔で伝える麻美に、恭介は彼女が自分をわかってくれようとしていると感じて嬉しかった。恭介は、そのまま麻美の胸の中で嗚咽した。麻美は震える背中を包み込むようにしてしっかりと抱きとめてくれた。恭介にはその温かみが忘れかけていた母のぬくもりのように思え、感じたことのない安心感を覚えた。ただ彼女は時折、息継ぎをするように恭介から顔を背けていた。そのたびに彼女の「匂いに慣れる」という言葉を思い出した。もしも自分の土と家畜の匂いが彼女の嫌いな匂いだったらどうしよう。麻美の存在を近くに感じれば感じるほど、恭介は自らの心にある不安の芽が少しずつ成長し始めているのを感じるようになっていた。


 恭介は麻美との絆を深めたいと願ってやまなくなっていた。自然とそう思えることこそが人を愛することなのだと信じ、これまで自分を苦しめてきた呪いから解放される日を待ち望んだ。

「あの女は信用しないほうがいいぜ」

 そんな恭介の気持ちの昂揚とは裏腹に、ライブハウスの前で出待ちをしていたノボルは、恭介の顔を見つけるなり、そう告げた。

「何の話だ?」恭介は怪訝な顔をして答える。

「とぼけるなって。オレはお前の行動をすべて見張っているんだぜ」

 ノボルはいつものように口角を上げ、不気味な笑みを浮かべる。彼がどこから自分の情報を得ているのか気になってしょうがなかった。

「何度も言っているが、金の力になびかない人間なんていないんだよ。それに、第一あの女はどこまでいっても村上の女だ。ややこしいことにならないうちに手を引いたほうが身のためだ」

 嫌なことをハッキリと言いやがると思いながら、うっすらと自分も感じていたことをズバリと言われているだけに、余計にノボルに対する怒りが湧き上がる。

「それに一つ言っておいてやるよ。友人を作ってはいけない。母親を殺したときに自分自身に戒めたんだろ? ああ、でも恋人は別なのか。随分と都合のいい戒めだな。そんな都合のいい戒めに一体何の意味があるんだか」

 なぜそのことを知っているのか。気味の悪さを激しく感じた恭介は、体を震わせながらもそれを悟られぬように「お前にわかるんだ!」ハッキリとノボルに向かって言って、握った拳を振りかざす。ノボルは気圧されることもなく、ただニタニタとしながら恭介を見つめていた。恭介はそんなノボルの視線と目が合った瞬間、自分の体がみるみるうちに硬直していくのを感じ、拳を下ろして、ノボルを睨みつけてからその場を去った。なぜこうもノボルを恐れるのか。自分の気持ちの弱さを叱咤しながらも、ノボルによって露にされた現実を目の当たりにすることを恐れ、そしてそんな気持ちを否定したがために、恭介は村上の不在を狙っては麻美と会い続けた。

「ちょっとお願いがあるの」

 麻美が緊張した面持ちで切り出してきたのは、二人が男と女の関係になってから、三週間ばかりが経ったころだった。その日、二人は恭介の部屋にいた。

「あのね、ちょっと預かってもらいたいものがあるの」

 恭介は自らの警戒心を隠しながら「何?」と訊ねる。

「着替えとか色々、ちょっとずつ荷物をここに持ってきてもいいかな?」

 恭介は麻美の言葉を聞いて内心狂喜した。それは紛れもなく麻美が村上から離れることを決心したことを意味し、自分のもとにやってくるという宣言に聞こえたからだった。

「ああ、全然構わないよ」

「ホントに? よかったぁ」

 麻美は緊張から解き放たれた目一杯の笑顔を向けた。恭介はそんな麻美の笑顔を見ているうちに衝動的に麻美を抱き寄せ、彼女の心臓の鼓動を自分の皮膚の感触で確かめた。恭介は麻美の唇に自分の唇を重ね合わせた。麻美はそれに呼応するように恭介の背中に両手を回し、力を入れて抱き締めた。彼女が体を強張らせるのを感じた。麻美は未だに恭介の匂いが好きだとは言ってない。彼女は間違いなく隣にいるのに、恭介の心の中にある不安の芽はさらに成長して張り裂けるばかりに大きくなっていく。


 麻美は次の日にはキャスターのついた小さな赤色のスーツケースを恭介の部屋に持ち込んできた。チラリと見た限り、彼女が言った通り、中には服などの日用品が入っているだけだった。

「お前は騙されているだけだぜ」

 その夜、コンビニに向かおうと部屋を出ると、アパートの前でノボルが待っていた。

「何てしつこい奴……お前、どうしてこの場所がわかった?」

 恭介はついに自宅の前にまで現れたノボルの姿を見て、背筋が凍った。

「そんなことはどうだっていい」

 ノボルはそんな恭介の様子など気にもかけない様子で、蔑むような視線を浴びせながら「女は中にいるのか?」と聞いてくる。

「さあな。お前には関係ないことだろ」

「ふん、強情な奴だな。オレと組めば、莫大な金が手に入る。お前の未来は開けるんだぞ」

「お前に手を貸す気などはない」恭介はキッパリと言って、立ち去ろうとする。

「スーツケースの中はちゃんと確認したか?」

 背後からノボルが問いかけてきた。恭介はノボルがなぜそんなことを知り得たのか不思議に思ったが、すぐに日用品しか入っていなかった麻美のスーツケースの中身を思い出し、自分を安心させる。

「あの子はちゃんとした子だ」

 恭介は振り返り、麻美はどんどんと自分に近づいてきているのだという実感を自信に変えてそう言い返す。

「どうだかな。もっとスーツケースをよく見てみろよ。そうすれば、あの女の正体がわかる」

 あくまで麻美を疑うノボルに、恭介は「お前にあの子の何がわかる!」と叫び、部屋の中へと戻った。

部屋の中では麻美はすやすやとベッドの中で寝息を立てていた。恭介は安らかに眠る麻美の表情に顔をほころばせながらも、頭の片隅でノボルの言葉を繰り返し思い出し、気が付くと、どうしても麻美が持ってきたスーツケースに視線を向けてしまっていた。恭介は震える手を強く握り締めて、再び麻美の寝顔を見た。麻美は暑くて寝苦しいのか、よく見ると寝汗をビッショリと掻いていた。恭介は自分の中に生まれた疑念を振り払うかのように、ベッドの中に滑り込み、手探りで麻美の手を探して握った。気がつくと、麻美は微かに目を開け、恭介に微笑みかけると、手を握り返してきた。恭介はそんな麻美を抱き寄せ、彼女の体温を全身で感じながら、握っていた手をさらに強く握り締める。「あなたの匂いが好きなの」と言ってくれと願いながら。


 幸せな日々は続いた。たった一人、自分のことを理解し、愛している人間が存在すると思うだけで、これまで見ていた景色が自分の思っていたよりもずっと優しいように思えた。ただ未だにキャバクラを辞めようとせず、村上との関係も続けている麻美の行動が、恭介を不安にさせていたのは変わらなかった。

「風本っていうのは、お前か?」

 そんな生活の中で、恭介の目の前に短髪の強面の男が現れたのは、突然だった。三十代半ばくらいの年齢で、熊のようにガッチリとした体格していて、派手な柄のシャツを着ている男だった。押しの強さで世の中を渡ってきたであろうことがひと目でわかった。男はライブハウスから出てきた恭介を捕まえるなり、自分が村上であることを名乗ると「タブレットと金はどこだ? 隠していると死ぬことになるぞ」といきなりまくし立ててきた。

「いいか、余計な真似はするなよ。こっちは最初からあの女から全部聞いていて、お前のことを全部知っているんだ。天涯孤独で、病的なほどに人を遠ざけていることもな」

 村上の言葉に、恭介はドキリとしたが、動揺を表情には出さずに「何のことだ?」と白を切る。

「オレを出し抜こうなんて考えるんじゃねえ。今日まで大目に見てやっていたが、あの女が裏切ったとなっちゃ、話は別だ。もう手を引け」

 麻美が裏切った? 村上と別れた後、すぐに麻美の携帯に電話をかけたものの、何度鳴らしても電話は繋がらなかった。いてもたってもいられなくなった恭介は、その足で歌舞伎町を駆け抜け、麻美が勤めるキャバクラへと向かった。

 恭介が肩で息を切らせながら店内に入ると、すぐに背が高い黒服の店員が近寄ってきた。彼は恭介の顔を覚えていたらしく、露骨に怪訝な顔をしながら麻美がいないことだけを口早に伝え、店から出て行くように促した。

「今日は休みなのか?」

「お教えできません」

「どうして? 誰かと同伴しているのか? この間見ただろ、オレと彼女の関係は」

 そう言いかけたところで、恭介は、自分は何を言っているのだろうと思った。彼女を心の底から信じることが出来なくなっている自分に気がついた。

「ハッキリと言いますけれど」

 業を煮やしたのか、長身の店員は見下ろすような視線で迫ってくる。

「彼女、あなたのこと、気持ち悪いって言ってましたよ。わけのわからないことを言う、精神的におかしい男だって。あの男の匂いも嫌いだって」

 店員の言葉を聞いた瞬間に、張り詰めていた恭介の気持ちが砕けた。もう何も聞きたくないと思った恭介は黙ったまま、店を出た。どう帰ったのかも覚えていないぐらい頭を混乱させながらどうにか自分のアパートに辿り着き、部屋に入った途端に麻美の赤色のスーツケースに目を向けた。その瞬間にポケットの中にねじ込んでいたスマートフォンのバイブレーションが揺れた。表示画面は非通知だった。恭介は電話に出た。

「だから言っただろ?」電話から聞こえて来たのは、ノボルの声だった。

「お前、どうしてこの番号を?」

「あの女はお前を愛してなんかいやしない。あの女がお前の匂いを好んでいないってことも、お前は分かっているんだろ?」

「違う!」

「何が違うんだ? じゃあ、確かめてみろよ。答えはすぐそこにあるだろ」

 恭介は麻美のスーツケースに目を向けた。電話を手に持ったまま、引き寄せられるようにスーツケースの場所まで行った。鍵がかかっていたが、建設現場でのバイトで使っている工具箱からバールを取り出して、無理やりこじ開けた。深呼吸をしてから、震える手でスーツケースを開けた。そこには以前に恭介が見た通り、服や下着、日用品の数々が入っているだけだった。

「何もなかったぞ!」

 恭介は電話でノボルに向かって叫んだ。だがもう一度スーツケースに目を落とした瞬間に、恭介はそのスーツケースが通常のものとは違うということに気がついてしまった。露わになった底の部分の生地がやけに新しく色が薄かった。恭介はその部分を荒っぽく剥いだ。二重底になっており、中からタブレットが現れた。村上が言っていたタブレットに違いなかった。おそらく裏帳簿か何か覗かれては困るデータが入っているのだろう。恭介はノボルに繋がったままの電話を切ると、本能的にタブレットを持ち出して、駅前の漫画喫茶に向かった。しばらくそこに泊るつもりだった。


 次の日、麻美からの電話が携帯に何度かかかってきた。そのたびに心を揺らされたものの、恭介は電話には出なかった。今はまだ麻美の気持ちを聞く勇気がなかったのだ。

恭介が麻美からの電話に出たのは、一週間ほどが経った、夜遅くだった。いつもなら、5コールほどで切れる電話がしつこくなり続けたからだった。

「あ、恭介、よかった。ずっと連絡がつかなかったから。家に行ってもいつも留守で家に入ることすら出来なかったし」

 電話に出た瞬間に、麻美は涙声で言い、村上やキャバクラの店員が言ったことは誤解で、自分は恭介のことを変などと思っていないと懸命に弁解した。

「村上さんがオレの前に現れたんだ。タブレットと金はどこだって、脅してきた」

 恭介は、何をどう考えればいいのかを迷いながら、とにかく事実を告げた。

「それで、オレ、悪いけど見ちゃったんだよ。スーツケースの底に彼が探していたタブレットが入っていることを」

 恭介は麻美がやむえない事情を話してくれると心のどこかで期待した。

「そっか。やっぱり見ちゃったんだ」

 しかし麻美はそれだけポツリと言うだけで黙り込んでしまった。恭介はその沈黙に麻美の本音を見たような気がした。そのとき電話の先の麻美の背後から聞こえる物音に気がついた。それはドアが開いた音で、誰かが入ってきた気配を感じさせた。

「あ、あの、ちょっとごめんね、あとで―――」

 麻美が早口でそう伝えた途中で麻美の悲鳴が聞こえた。恭介は必死に集中して何が起こっているのかを聞こうとした。

「麻美! 麻美!」

 恭介は狂ったように電話に向かって呼びかけたが、麻美が電話に出ることは二度となく、電話はプツッと急に切れてしまい、それ以降何度かけ直してみても繋がることはなかった。どう考えても麻美が誰かに襲われているようにしか聞こえず、村上の顔が脳裏を何度も過ぎった。恭介はいてもたってもいられず、タブレットを持って飛び出した。


 恭介が麻美のマンションに辿り着いたのは電話が切られてから十分ばかりが過ぎた頃だった。抑えきれない不安な気持ちが胸を締め付け、今にも吐き出してしまいそうだった。マンションの周辺では電話から感じた不穏な空気は感じず、日常そのものの夜の風景が広がっていた。恭介は、以前麻美から教えてもらった暗証番号でオートロックを開けた。そして麻美の部屋の前まで行き、インターホンを何度も押して、麻美の名前を呼びかける。応答はない。仕方なく、ドアを強く叩き、ノブを何度も捻っても、中から反応はなかった。

 ゆっくりとドアが開いたのは、恭介が諦めかけ、ドアに背を向けた瞬間だった。恭介はすぐに振り返り、絶句した。姿を現した麻美の顔は、彼女が彼女だと見えないほど腫れ上がり、鼻や耳から血を流していた。紫色のシャツも真っ赤に染まっている。

「恭介、ごめんね、わたし、バカだね。いつかこうなるの、わかってたのに。お願い、逃げて、早く逃げて……」

 麻美は目に涙をいっぱいに浮かべながら、恭介の胸に倒れこみ、そのまま意識を失った。何が起こったのかわからず、頭が真っ白になった恭介は、とにかく携帯電話で救急車を呼び、目を泳がせている麻美に必死に「なんで、どうしてだよ?」と何度も呼びかけ続けた。麻美は意識を取り戻すことはなく、痙攣し始めていた。恭介は迷った。今、右手を使えば、麻美を救うことが出来る。でも、それは左手でほかの誰かを殺すことを意味していた。冷静になれ! 心の中で叫びながら、現実から目を背けるように、麻美の姿から視線を逸らし、部屋の中を見た。部屋の中は無残に荒らされ、家具だけでなく、部屋を彩っていた南国風の木彫りも観葉植物も軒並み破壊されていた。恭介の脳裏に村上の顔が再び浮かんだ。恭介の手にあるタブレットがこの惨状に関係していることは間違いなさそうだった。恭介は震える皮のグローブがはめられた右手を強く握り締め、力ずくで震えを止めた。遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてきた。大丈夫、絶対に助かるはず。そう願いながら、麻美を強く抱き締めた。


 麻美が救急搬送されたのは、近くの公立病院だった。恭介は一緒に救急車に乗って、病院まで着いていき、麻美が救急外来に運ばれていくのを見守ってから、職員にほかに誰もいない、閑散とした待合室に通された。肉体だけじゃなく、精神的にも疲労が押し寄せていた。

「あの女、このままなら死ぬぜ」

 待合室のソファに腰をうずめ、前かがみになって項垂れていると、突然そんな声が聞こえてきた。ギョッとして顔を上げると、待合室の入り口のドアに寄りかかり、口角を上げ、不適な笑みを浮かべているノボルがいた。

「使えよ」静寂の中でノボルの声が冷たく響く。

「今、右手を使わないと、あの女は確実に死ぬぜ。今までだってそうだっただろ。お前が死を引き寄せた人間は皆、確実に死んだ」

「お前、どうしてここに?」

「オレはお前と手を組んで莫大な金を手に入れたいんだ。未来の相棒のことを詳しく知って何が悪い?」

 ノボルは悪びれもせずに「だから言っただろ、あの女はダメだって」とさらに言いながら近づいてくる。

「帰れよ。お前とは話したくない」

「まあ、そう言いなさんなって。オレはお前のためを思って言ってやってるんだぜ」

ノボルは恭介の隣の席に座り、顔をわざとらしく近づけてきた。

「なあ、あの女は村上と手を切るつもりなんて最初からないし、もう手を切れない関係にもなっている」

「嘘だ!」

「嘘なもんか。じゃあ、その手に持ったタブレットは何だ? 裏のデータが入ったものじゃないのか?」

 恭介は、麻美に逃げるよう促されたことを思い出し、現実から目を逸らすように、ノボルから顔を背け、視線を宙に向ける。

「ふん、まあいい。だがどのみちあの女が死ぬのはお前のせいだからな。お前の能力があの女の死を引きつけた」

「違う!」

「違わないさ。いい加減、自分の役割を認めろよ」

 冷静にノボルが言う中で、待合室の外では医師や看護師が慌ただしく走り回っている様子が伺えた。

「お前は、オレに何をさせたいんだ?」

 恭介は感情に任せて再びノボルの方に顔を向け、睨みつけながら問いかける。

「認めてもらいたいんだよ、自分の可能性を。その気になれば、神にだってなれる、その選ばれし運命を」

「お前はそうやってオレを利用したいだけだろ」

「ふん、では聞くがお前は、表面上はみんなにいい顔をして、いい奴のフリをしながらも、そうやって実際は誰も愛することも出来ず、ひっそりと孤独の中で生き続けるつもりか? そんな人生に何か意味があるとでも思っているのか?」

 ノボルはそう言うと立ち上がり、待合室から出て行った。

 恭介は、皮のグローブがはめられた右手を強く握り締め、麻美と一緒に虹を見ていたときのことを思い出していた。彼女に土と家畜の匂いがするこの体を好きになってもらいたい。麻美、麻美、麻美。心の中で何度も名前を呼びかけながら、麻美を失うという現実を受け入れられない自分がハッキリとした形で心の中に棲んでいることを認識した。自分に与えられた能力を受け入れることこそが自分の運命であり、それが自分の自然な役割であると考えると、重苦しさが消え、体がスッと楽になった気がした。恭介は立ち上がり、待合室を出て、救急外来の入り口へと向かった。中から大声で指示を飛ばす医者やテンパッた看護師の声が聞こえた。ノボルの言うことを聞いたんじゃない。恭介は、自分自身に言い聞かせながら、医療機器が所狭しと置かれた救急外来の中へと堂々と入っていく。

「あの、すみません! お見舞いの方は外に」

 すぐに恭介の行動に気がついた看護師が恭介を止めに入ったが、恭介は気に留めずに中へと突き進む。

「何やってんの! 部外者は出て!」

 次に処置室を動き回る別の看護師が恭介の姿を見るなり怒鳴りつけてきたが、恭介は何も聞こえていないといった様子で麻美が処置されているベッドにまで行った。処置されている麻美に近づくと、彼女は痙攣を起こしていた。その瞬間に心拍数を示すモニターがゼロを指した。医者は大慌てで電気ショックを行ったが、モニターが再び動き出すことはなく、医者はなす術もないといった様子で手を止め始めた。

「麻美!」

 叫ぶと同時に、恭介は右手のグローブを外していた。命を救うことを諦めた医者を突き飛ばすと恭介は躊躇なく、そのまま右手を麻美の心臓の上に置く。十年前、ノボルに対して神の右手を使ったときと同じだった。まばゆい光が麻美を包み、麻美の顔色はみるみるうちに血色を帯び始める。心拍数のモニターは麻美の心臓が再び鼓動を刻み始めたことを伝えていた。

 その様子を見ていたすべての医者や看護師たちは立ち尽くし、何が起こったのかわからないといった顔をしてポカンとしていた。恭介はポケットからスマートフォンを取り出して、時間を確認した。午前〇時一三分。その場にいるすべての人間の奇異の目に耐えながら、恭介は黙ってその場を去り、皮のグローブを再び右手にはめた。

 恭介は病院を出て歩き続けた。精神的な疲労を感じていた。問題は山積していたが、答えが簡単には出ないことも分かっていた。何時間もそのまま歩き続け、人気のない公園の中に入ってベンチに座る。ただ  眠りたかった。辺りは静まり返り、闇夜に輝く月明かりが目についた。

 ノボルが、頬を緩ませ、面白くてたまらないといった顔をしながら、恭介の前に立つ。

「なぜいつまでもついてくる?」

「なぜって、こんなにエキサイティングなことはないからな」

 恭介はノボルのことはもう無視することにした。


 結局恭介は眠れなかった。夜が明けると近くの駅のコインロッカーにタブレットを入れ、昼すぎになってから歌舞伎町の中にある雑居ビルに向かった。ノボルはずっと後をついてきていた。

 雑居ビルの五階に入っている大宝エンターテイメントという会社が、村上のキャバクラの運営会社だった。恭介は以前麻美からその場所を教えられていた。

 恭介はエレベーターで五階に上がるとすぐにドアを開け、大宝エンターテイメントの中に入る。テニスコート程の広さのオフィスは整然としていたものの、パソコンやモニターが数多く置かれており、まるでIT企業のオフィスのようだった。中で働いている五人ほどの社員たちもその服装や髪型にやや遊んでいるような雰囲気を漂わせてはいたが、危険な感じはかもし出してはいない。恭介は一番近くにいた若い女性の社員に、村上がいるのかどうかを訊ねた。普通に喋っているつもりが、出た言葉には自分でもビックリするほどに怒気が含まれていた。

「えっ、あの、その」

 周りのほかの社員とは違い、比較的地味な印象を持つ黒いショートボブの若い女性は、オドオドとした態度で困惑していた。そのうちに女性が周りの目をしきりに気にしているのを感じて、彼女が自分の態度にではなく、村上の名前に対して気を遣っているのが恭介にはわかった。

「悪いけれど、そんな人間はウチにはいませんね」

 突然、奥にいた三十代半ばの外国製のスーツを着こなす、スラリとした細身の男が近づいてきて、切れ長の鋭い視線でさりげなく威嚇してきた。

「いや、そんなはずはないはずです。ちゃんと調べてきているので」

「ここは君みたいな世間知らずの人間が来るところじゃない」

 恭介はカチンときたが、何も言い返せなかった。言葉でどうにかできる相手でないことをすぐに悟ったからだった。

「大宝エンターテイメント。確か松林組のフロント企業だったよね」

 ノボルの声がした。ずっと背後霊のように恭介についてきた彼が、恭介が困るのを待っていたかのように、ゆったりとした歩調で堂々と恭介の隣に顔を出す。

 ノボルはオレに任せろと言わんばかりの自信ありげな視線を恭介に送ると、怪訝な顔をする男に向かって「あんた、工藤さんだろ」と呼びかけた。

「どうしてわたしの名を?」工藤というその男の眉間に皺が寄る。

「そりゃ、松林組の工藤って聞きゃ、この界隈じゃ有名だからな。松林組のホープで、その手段を選ばない資金繰りには定評があり、今や若頭にまで上り詰めている。なあ、話を聞かせてくれよ。実はあんたたちも村上を捜しているんだろ? ここは協力し合ったほうが話は早い」

 工藤は鼻でノボルの発言を笑うと、急に真顔になって、ほかの社員たちには聞こえないように顔を近づけさせてきた。

「なぜ村上を捜しているんです?」

 そう訊ねる工藤に、ノボルは詳しいことはコイツに聞けと言わんばかりに、恭介に視線を向ける。

「アイツはオレの大事な人を傷つけたんだ」恭介は訴えかけるように話し始める。

「彼女は村上から逃げたがっていたのに、逃げさせてもらえないで、それなのにあんなにボコボコに殴られて」

「その彼女っていうのは、麻美という、村上の女のことですか?」

 工藤が冷静に聞き直してくると、恭介は自分が感情をぶつけるような喋り方をしてしまっていることに気がつき、少し恥ずかしくなる。

「ああ、そうだ」

「あの女がああなったのは、自業自得です」

 思ってもみなかった工藤の答えに、恭介は言葉を失う。

「そもそもあの女は、村上とともに組の仕事をしていた。だが個人的な儲けを欲した彼らは、組には黙って組の金と人脈を使って勝手にシノギを広げた。売春組織を密かに作り、かなりの金を稼いでいたんです」

「バカらしい、そんな話」

 恭介が言いかけたところで、工藤は「でもそれが事実です」とピシャリと彼の言葉を遮る。

「しかもあの女は村上をも裏切り、裏帳簿のデータを証拠に村上を強請り始めた。そうなれば、村上としては必死に彼女が隠したデータのありかを探すしかなく、またわたしたちもあの女の暴走を許した村上を処罰せざるを得ません」

「出鱈目言うな! 彼女がそんな真似をするわけないだろ! それに、第一何であんたはそんなことをペラペラと喋る? 村上は仲間じゃないのか?」

 恭介は思わず感情的になって叫んでいた。工藤は恭介の気を逸らすかのように含み笑いをしてみせる。

「村上に対しては、わたしたちも手に余っていたんですよ。今はヤクザとてビジネスをしなければ生きていけないのに、彼はあまりに昔のやり方に固執しすぎ、問題も多く起こしますからね。正直ちょうどいい切り時だと組全体で思っているんです。組長の松林ももはやさじを投げていますし。どうです? 村上を殺すというのなら、我々は手を貸しますよ。我々にとっても都合のいい話ですからね」

 恭介はあまりに自分の思考を超えた現実を簡単に受け入れることが出来ずに、茫然としてしまった。そんな恭介の反応を面白がるかのように、工藤は続けた。

「それからあと一つ忠告しておいてあげますよ。あの女は思いのほか賢い女です。今回の件、誰にも自分が黒幕だとわからないように、他人の名を語り、その名義を使って動いていたくらいですからね。わたしたちでさえもあの女の暴走に気がつくまでにかなり時間がかかりました」

「他人の名前だって?」恭介は嫌な胸騒ぎを感じた。

「ええ、確か、カザモトキョウスケって名前でしたね。あの女はすべてその男の名前を語って商売をし、最終的にソイツにすべての責任を押し付けて逃げようと企んでいた」

 その言葉を聞いた瞬間、恭介には、視界に入ったもののすべてものがスローモーションに見え、世界中が闇に包まれでもしたかのように、目の前の光景がすべて灰色になった。


(三)


 数時間後、恭介は新宿中央公園のベンチに座り、公園を生い茂る木々をぼんやりと眺めていた。

「なあ、お前、麻美のこと知ってただろ?」

 ノボルはまだいた。恭介の隣に座り、ただ鼻を鳴らして笑いながら、目の前を横切る浮浪者を目で追っていた。

「なぜ黙っていた?」

「別に黙っていたわけじゃないさ。忘れたのか? お前が聞こうとしなかっただけだろ」

 恭介は言い返す言葉も見つからず、ただ息をついて空を見上げるしかない。

「さあて、お前はこれからどうするつもりだ? 一体誰を殺す? お前を欺き続けていたあの女をもう一度殺すか? それともあの女を半殺しにした村上を殺すか?」

「黙れ」

「考えている時間はないぞ。もう左手が蠢き始めてるんだろ?」

 恭介はもうそんな話は聞きたくないという様子でそそくさと立ち上がり、早歩きでその場を去ろうとする。

「逃げても無駄だぜ」そんな恭介をノボルはどこまでも追いかけてくる。

「なぜだ? なぜお前はそうやっていつまでもオレを苦しめる? オレはお前の命を救ってやったんだぞ!」

「そりゃあ、お前がいつまでも意地を張って、お前にとってこのオレがどれだけ必要な人間であるかを認めないからさ」

「お前のことを?」恭介は立ち止まり、ノボルを睨みつける。

「なあ、よく考えてみろよ。お前一人で工藤から話を聞きだすことが出来たか? それにそもそもオレの話を最初から聞いていれば、お前は騙される必要もなく、こんなことにもなっていなかったんじゃないのか?」

 事実を言われた恭介は、事実を言われたからこそ腹が立ち、それだからこそ何も言えないことが歯痒くて仕方ない。

「なあ、恭介、世の中を今動かしているのは情報だ。情報を引き出し、情報をうまく利用した人間だけが勝ち残る。オレはお前にとって、目から鱗が出るほどの情報をこれからもいくらでも提供してやるぜ。だからお前もお前にしかない能力をオレに貸せ。二人で莫大な金を手に入れるんだ」

 恭介は左手を強く握り締め、再び目の前にいるこの男を殺そうかと考えたが、そう思った途端に左手が震え、信じられないぐらいノボルに畏怖心を感じた。

「わかっているんだろう? 確かに、そもそもあの女を利用したのは村上だ。だがお前の名を語り、お前にすべての責任を押し付けようと提案したのはあの女だ。天涯孤独のお前は、あの女にとって都合がいい男だったんだよ。村上もお前があの女に惚れ続ければ利用しやすいだろうとお前たちの関係を黙認し続けていた」

 ノボルはそこまで言うと、一枚の紙切れを恭介に渡してきた。

「村上の携帯の番号だ。アイツが今隠れている場所を聞き出せ」

 恭介は目を丸くして、ノボルの顔を見た。

「お前は一体何者だ?」

「悪魔の手先とでも言っておこうか」

 ノボルは涼しい顔をして言うと、口角を上げ、相変わらず意地の悪そうな笑みを浮かべて見せた。


 やがて夜が訪れ、辺りは暗くなり、町のネオンが目立つようになってきた。暑さが次第に和らぐ中で、恭介はときおりぼんやりとその光景を眺めては現実を忘れ、もはや自由に動かすことが出来なくなり始めている左手の蠢きによってその都度現実に引き戻された。左手が「発動」するまで、あと一時間ちょっとしかない。ノボルは「巻き込まれるのが怖い」と言っていつの間にかいなくなっていた。

 恭介は、ずっと誰もいない場所にいけばどうにかなるのではないかと考えていた。もしかしたら自分自身を殺すことになるかもしれないが、それならそれでいいような気さえもしていた。ただどんなに人里を離れたとしても、この悪魔の化身ともいえる左手を欺くことなどは出来るようには思えず、より酷い仕打ちをされる気がしてならなかった。やはり村上を殺すしかないのか。そう決意しかけたときに、ポケットに入れてあったスマートフォンが震えた。麻美からだった。意識を取り戻し、元気になったのだろうか。声を聞きたいと思いつつも、声を聞いてしまえば、ただでさえ決めかねている気持ちがかき乱されることは間違いなかったので、恭介は電話の震動が止まるのを待った。そして、電話の震動が止まると、急に世界が音のない世界のように思え、恭介は沈黙に怯える。スマートフォンが再び震えた。また麻美からだと思って、再び画面を見ると、そこには北海道の叔母さんの家の電話番号が表示されていた。もしかして、芽依に何かあったのかもしれないと思った恭介は、とっさに電話に出る。

「もしもし、お兄ちゃん?」

 電話の向こうから聞こえてきたのは、芽依の声だった。

「芽依か? 大丈夫か? 何かあったのか?」

 恭介は、芽依の身に何かあったのではないかと緊張したが「何にもないよ。ただどうしてもお兄ちゃんの声が聞きたかっただけ」と明るく話す彼女に言葉に胸を撫でおろす。

「そうか。叔母さんはいるのか?」

「今、お父さんもお母さんも、牛舎に行っているの。赤ちゃんが生まれそうだからって。だからわたし、一人。お母さんには、お兄ちゃんには電話しちゃダメって言われていたけれど、どうしてもお兄ちゃんの声が聞きたくて、お母さんのスマホから電話番号を見つけてかけちゃった」

 芽依に連絡をさせないようにと頼んだ約束を叔母さんは守ってくれていた。本来なら約束を破った芽依を叱らなきゃいけないところなのに、うれしくて涙が勝手に流れた。

「ダメじゃないか。叔母さんのスマホにはロックがかかっていなかったのか?」

 恭介は感情の高ぶりをどうにか抑えながら言葉を紡ぐ。

「えへへ、何度も操作を見ているうちにね、覚えちゃったの。ねえ、お兄ちゃん、泣いているの? 声が震えている」

 その勘の鋭さに恭介はドキッとする。

「いや、そんなことはないさ」

「それならいいけど、あのさ、いつ帰って来るの?」

「それは、そのうちに、今の仕事が片付いたら、きっと」

 嘘だった。帰れば、また情が湧き、離れたくなくなってしまう。でも、そんなことは言えない。

「絶対だよ。あ、ゴメン、お母さんたちが戻ってきたみたい。あの、お母さんには言わないでね」

「わかった」

「また電話をかけていい?」

 芽依のその問いかけに、恭介は一瞬迷う。オレのことはもう忘れた方がいい。喉元までその言葉が出かかったが、どうしても言うことが出来なかった。

「ああ」恭介は小さな声で応える。

「よかった。でも、なかなかチャンスがないからかけられないかも。それじゃね」

 芽依は慌ただしく電話を切った。耳に彼女の声が残り、改めて自分が一人でいるということに寂しさを感じた。涙はそのうちに止まっていた。恭介は自然と視線を落とし、自分の両手を眺める。両手に皮のグローブがはめられた醜い手。特に左手はもう自分の手でないぐらいにパンパンに膨れ上がり、皮の手袋もはじけそうになっていた。芽依のためにも、いつか自分にかけられた呪いを解く方法を見つけなくてはならない。心にそう強く感じた恭介は意を決したかのように、再びノボルから貰ったメモを取り出し、まるでそうしなければ取り憑いた悪霊を振り払えないかのように、勢いよくスマートフォンを取り出して電話をかけていた。

「誰だ?」

 十数コールしてから、ようやく電話の向こうに聞き覚えのある村上の声が聞こえてきた。

「あんた、麻美のタブレットが欲しいんだろ?」

 電話の向こうで、村上の顔色が変わったのが手に取るように感じられる。

「あんたと話がしたい。あんたはどこにいる?」

 震える声で伝えると、村上はしばらく間を置いてから「風本恭介か?」と警戒するような畏まった声で問うてくる。

「そうだ」

「なぜこの番号がわかった?」

「そんなことはどうだっていい。重要なのはあんたが話し合いに応じるかどうかだ」

「あの女が持ち逃げした金は?」

 落ち着き払った声で聞いてくる村上のその言葉に、金の存在など全く知らない恭介は内心焦る。あくまで村上は、まだ自分と麻美がグルになって彼を出し抜いているのだと思い込んでいるらしく、麻美が村上から掠め取った金もみな自分が管理していると思っているようだった。

「さあな。あんたが紳士的な態度を見せてくれたら考えるよ」

 恭介が鎌をかけると、村上はあっさりと自分のいる場所を口にした。それは上野にあるマンションの名前だった。

 村上との通話を終え、恭介はゆっくりと立ち上がる。もはや左手には自分のものだという感覚はなかった。十年前もこうだったと改めて思い出し、はちきれそうになっている左手のグローブを外した。雨がポツポツと降り始めていた。


 村上が潜伏しているマンションは、上野公園から歩いて十数分行ったところにある八階建ての古い建物だった。恭介は軽く深呼吸をしてから中に入り、蠢く左手を必死に隠しながらロビーの奥にあるエレベーターに向かった。

 老朽化したエレベーターは動くたびに軋んだ音がしていた。恭介はその中で若いビジネスマンと居合わせ、様子のおかしい左手に視線を向けられたが、素知らぬ顔をしてビジネスマンが先に降りるのを待った。そしてエレベーターは村上のいる七階へとたどり着く。午前〇時を過ぎようとしていた。あと十分ばかりしか残されていなかった。どっちみちあと十分で左手が発動し、暴走してしまうだろう。もう暴走した左手が殺すのは村上しかいなかった。

 部屋の前に立つと足が震えた。だが蠢く左手はそんな躊躇を許さないことを訴えている。恭介はドアをノックした。村上はすぐに顔を出し、中に入るように促してくる。視線はやはり左手に向かい、訝しげに警戒していたが、恭介は負けまいと村上の顔をまじまじと見つめ、どこか疲れた表情をしているこの男の強面の顔が、これから自分が命を奪う相手の顔なのだと考えた。恭介は玄関で止まるように促される。目の前に見える廊下のドアは閉じられており、部屋の中は窺えない。

「それでタブレットと金は?」村上は単刀直入に訊ねてきた。

「オレの質問に答えるのが先だ」

 恭介は余裕を演じながら、村上の胸に左手を当てる隙を探す。

「小僧、お前ごときがこのオレと対当に交渉できるとでも思っているのか?」

 村上はそう凄むと、懐からサイレンサー付の拳銃を取り出して、迷うことなく銃口を恭介に向けてくる。恭介は焦った。

「さあ、早くタブレットと金を渡せ」

「ここに持ってくるほど、バカだと思うか?」

「じゃあ、死ねよ」

 村上はいきなり恭介の左足目がけて発砲してきたが、その瞬間に左手が勝手に動き、銃弾をいとも簡単に素手で掴んでみせた。

「て、てめえ、何をしやがった?」

 そう問われても恭介にもわけがわからなかった。左手はもはや恭介とは別の人格を持ち、見た目にも大きくなって、至るところで血管が浮き出て、まるでそれだけが独立した悪魔であるかのようだった。血流が速くなっていることは間違いなく、毛細血管の圧力が上昇することによって左手が肥大化していることは自分でも理解出来た、でも、筋肉をはじめとした左腕全体の細胞が活性化して鉄のように硬くなり、しかも考えるよりも先に本能的に左手が動き出していることの原因は、恭介にはさっぱりわからなかった。

「な、なんだ、そりゃあ! お前、何しに来やがったんだ!」

 恭介の左手の姿に恐怖した村上は、恭介に向かって何発も発砲してきた。しかしその銃弾のことごとくを左手は瞬時に掴み取り、その強力な握力で握りつぶし、銃弾を一つの鉛の塊にしてみせる。村上の顔は歪み、さらに銃口を向けてきたが、もう銃弾は残っていないらしく、カチッカチッとトリガーが空振りする音が聞こえるだけだった。村上は拳銃を投げつけ、後ずさりした。そんな彼に対し、恭介は、自分の左手に違和感を覚えながらも、冷静さを装い、ジリジリと村上に近づいた。

「なぜ彼女を半殺しにした?」

「て、てめえが悪いんだろ。お前があの女をたぶらかし、オレたちが集めた金を掠め取ろうとしやがった。おかげでこっちが組に狙われることになったんだぞ!」

「だから、彼女を殺そうとしたのか? 金のために?」

 恭介は喋りながら、下駄箱の上に置かれてある置時計に視線を向けていた。「発動」まであと五分ほどだった。一瞬、このまま「発動」を待ったほうがそれだけ罪の意識からは遠ざけられる気がしたが、無様に逃げる村上の姿を見ているうちに、この男だけは自分の意志で殺さなければいけないという気持ちが湧いてきた。

「お前、何言ってるんだよ。てめえだって、あの女の体を楽しんだんだろ。そうじゃねえのか? それなのに何を今さらイイ子ぶってるんだよ?」

 恭介はそうかもしれないと思った。自分は自分の呪われた人生のことばかりを考え、麻美の気持ちにちゃんと向き合っていなかった。何が「愛を理解する」だ。恭介が愛を理解していなかったからこそ、彼は彼女に利用され、今の事態を招いたといっても過言ではないのだ。自分は被害者などではない。でもだからといって、この男の罪が消えたわけではない。

「お前がいなければ、麻美はもっと幸せな人生を送っていた」

「は? オレはあの女を助けたんだぞ! 家出をして住むところも仕事もなかったあの女にすべてを与えたのはこのオレだ。オレがあの女にこの世界で生きることを教えてやったんだ! そうでなけりゃあいつはとっくに死んでる」

 そう叫ぶ村上を見ながら、なぜ麻美はこんな男と出会ってしまったんだろうと恭介は思う。

恭介はゆっくりと村上に近づく。時間はまだ三分以上ある。もはや丸腰の人間を仕留めるには十分な時間だった。インターホンが突然なったのはその時だった。注意を逸らされた瞬間に、村上は恭介をかわしてドアへと駆け出し、慌ててドアを開けた。恭介は間合いを取るべく、土足のまま廊下に上がり、数歩後ろに下がる。

「村上さん……。どうしたんですか?」

 ドアの向こうから現れたのは麻美だった。真新しいピンクの花柄のワンピースを着ていた彼女の顔や頭の傷は、恭介の力によって治っていたが、さすがにまだやつれた表情をしていた。どうしてこのタイミングで……。恭介は驚いた。麻美は村上の顔を見ると、すぐにその奥にいる恭介に視線を向けた。

「助けてくれ! ば、化け物だ!」

 村上はそのまま麻美を交わし、逃げようとしたが、麻美はとっさに村上の腕を掴んだ。

「待ってください。わたしが話をします」

 麻美はそのまま村上を押し込むように家の中に入り、ドアを閉め、凛とした表情を見せて、恭介の目を見つめた。

「やっぱりここに来ていたのね。ごめんなさい。わたし、まさかあなたの話が本当だとはずっと思っていなくて」

 恭介は突然の麻美の登場に動揺し、目を泳がしながら彼女にぶつける言葉を探す。

「でもさっき仲良くなった看護師さんから聞いたの。右手をかざしただけで、死にかけていたわたしを甦らせた青年がいたって。わたしはあなたに助けられたんだね。わたし、それを聞いて慌てて病院を抜け出したの。あなたの話が本当なら、あなたが誰を殺そうと思うのかって考えて、ここに来た」

恭介は黙ったまま、視線を逸らし、もはや人のものとは思えないほどに異形と化した左手を隠し、再び下駄箱の上にある置時計に目を向けた。時間はもう二分を切っていた。

「その左手。わたしのためにそんなになってしまった左手」

 麻美は恭介に近づき、彼の左手に触ろうとしたが、恭介は慌てて下がり「近づくな」と牽制する。

「お前ら、何わけのわからねえこと言ってるんだよ。ていうか、お前、金をどこに隠した? あれはオレの金だぞ!」

 すっかりパニックに陥り、わめき始めた村上に対して、麻美はバックから通帳を取り出して見せた。

「お金ならここにあるわ。あなたの好きにすればいい」

 麻美は通帳を村上に押し付けると、口元を引き締め、曇り一つない眼差しを恭介に向けながら一歩前に出た。

「わたしを殺していいよ。最初からわたしが死ぬ運命だったんだから。それならあなたも罪の意識に苛まれなくてすむ」

「そんなこと出来るわけないだろっ!」恭介は思わず怒鳴っていた。

「オレは、麻美と一緒にいられるってずっと信じてた。なあ、教えてくれ。どうしてそんなにお金が必要だったんだ?」

 恭介の言葉に、麻美は目を瞑り、軽く息を吸ってから、再びその目を見開いた。

「逃げたかったの。わたしのことを誰も知らない楽園に……」

 恭介は、麻美の言葉に、彼女の部屋が南国風の楽園に仕立てられていたことを思い出す。そして、彼女が彼の両手に願ったあのおまじないも。

「ねえ、わたしはどうすればよかったのかな」

 麻美は言葉を詰まらせた。恭介は置時計に目をやった。時間はもう数秒しかなかった。その瞬間に体の中にビクッと衝撃が走った。左手が急激に膨れ上がり、左手が勝手に動き出そうとしていた。恭介は村上を殺すことを決意した。村上は恭介の異変に腰が抜け、逃げようとするがなかなか前に進めずにいる。恭介にはその一瞬がスローモーションのように見え、村上の恐怖に歪んだ表情が目に焼きついた。

「村上さん!」

 麻美が間に入って飛び込んできたのは、そのときだった。左手はそのまま麻美の左胸を掴んだ。麻美はもだえ、苦しむ中で、左手から母を殺したときと同じように、どす黒い光が発せられ、麻美の体を包み始めた。

「どうして?」恭介は涙目になりながら訊ねる。

「ごめんね、わたし、どうしてもあの人から離れられないみたい。バカだよね。でもね、わたし、あなたといた時間は幸せだった。信じてもらえないとは思うけど……。ただね、正直に言えば、わたし、あなたのにおいが怖かったの。あなたのにおいは人の死を連想させたから。あなたが悪いわけじゃないのに。ゴメンね」

 麻美はそれだけ言うと、恭介の左手を両手で包み込むようにして握り締めた。黒い光が麻美の姿をすべて包み込んで何も見えなくなった。数秒たってから、ドスンという音がして、麻美の体を触っている感触がなくなった。人の死を連想させるにおい? そのとき恭介は、死の臭いがする人が自分から近寄ってくるのは、かくいう自分も死臭を発しているからなのだと初めて理解した。

 やがて黒い光は薄くなり、麻美の姿が見えてきた。彼女は恭介の足下で倒れていた。恭介はしゃがみ込み、恐る恐る麻美の頬に触った。まだ温かかったが、息はしておらず、心臓の鼓動も聞こえなかった。チラリとワンピースの胸元から見えた胸には母のときと同じように丸くて薄い痣がついていた。恭介は、あらんばかりの声で叫ぶしかなかった。村上は恐怖で顔を引きつらせており、腰が抜けながらも這いずるようにして麻美が置いて行った通帳を持って、慌てて玄関を出て行った。恭介はもはや村上のことなど気にもせずに横目でドアが閉まるのを一瞥するだけで、麻美の亡骸をずっと眺め続け、それから思いついたかのように、もう一度生き返らせようと、右手を麻美の心臓の上に置いたが何も起こることはなかった。

恭介は、ずっと村上に縛られてはいたものの、麻美の精神は自由なんだと思っていた。でもそれは間違いだった。麻美はずっと自らの感覚を大事にし、その瞬間だけを愛する人だった。彼女は実は自由だったのではなく、ただ自らの感覚を受け入れることでどうにか生きているに過ぎなかった。常に刹那的であるからこそ、それ以外を選択することは出来ない。だからこそ彼女は村上のような男から離れることが出来なかったのだ。

「一度生き返らせた人間は、二度目は無理だ。自分の母親で試しただろ」

 恭介は突然の声に驚いた。いつの間にかドアが開いていて、ノボルが目の前に立っていた。

「なかなか面白いドラマだったぜ」

 恭介は何も言わずにただノボルを睨みつける。

「早く逃げる準備をしろよ。周りの住民が気づき始めている」

 ノボルの言葉に我に返った恭介は、自分の震える足を無理に鼓舞して立ち上がる。

「安心しろよ。このままにしておけば、警察は村上を疑うしかない。奴にはこの女を殺す動機もあるからな。まあ、ただ警察の中に、その忌々しい丸い痣のことに気がつく人間がいれば、話が別だが」

 ノボルは意地悪く言うと、確実に恭介が自分のあとについてくるのを確信しているかのごとく、そそくさとエレベーターホールに向かって歩き出す。恭介はドアを閉めるその瞬間に最後にもう一度だけ麻美の亡骸を見て、その姿を目に焼きつけた。


 翌日の早朝、恭介は流れる汗を我慢しながら、まだ人の少ない新宿駅の山手線のホームに、大きなスポーツバッグと古いアコースティックギターを持って立っていた。普段はエレキギターを使うことが多かったが、持っていくと決めたのは、芽依との思い出が一番詰まっていたギターの方だった。

夜明けまで降っていた雨がようやく上がり、空は晴れ上がっていた。雲と雲の合間から、太陽の光が神々しく差している。

「思ったよりも早かったな」

 一緒にホテルを出た後、姿をくらましていたノボルが、どこからともなく再び恭介の前に現れた。恭介はノボルが神出鬼没に現れることにもう驚かなくなっていた。

「アパートは引き払ったのか?」

「ああ、さっき朝イチで不動産屋に行ってきた。中のものもすべて業者に捨ててくれるように頼んだ。あのタブレットも破壊して捨てた」

 恭介はノボルの顔を見ることもなく、事実を淡々と告げた。

「これからどこに行くつもりだ?」

「どこだっていいだろ。お前には関係ない」

「冷てえな。オレたちはもう秘密を共有している中なんだぜ。離れられない仲ってやつだ。そうだ、一つ考えたんだが、ドクターハンドとキラーハンドっていうのはどうだ?」

 ノボルは悪戯を思いついた子供のような笑顔を向けてくる。

「何の話だ?」

「ネーミングだよ。お前の両手のさ。命を救う右手がドクターハンドで、命を奪う左手がキラーハンドだ。どうだ? カッコイイだろ? 今度からそう呼ぼうぜ」

 そのとき山手線が轟音を響かせてホームに入ってきた。恭介は目の前に電車が止まり、ドアが開くと、「勝手にしろよ」と呟き、電車に中に乗り込んだ。車内にほとんど人はいない。

「ほう。じゃあ、そういたしますかな」

 ノボルはニヤけながら、ふざけた調子で言うと、そのまま恭介のあとを追って電車に乗り込んだ。すぐにドアが閉まり、電車が動き出す。恭介はドアに寄りかかり、ノボルはその傍らに立つ。

「それにしても、何でお前にはそんな能力があるだろうな?」

 ノボルがふと訊ねてきた。それはずっと前からこっちが知りたい話だった。本当に悪魔との契約によって生まれたものなのか。そしてその悪魔との契約破棄の条件————〝愛を理解する〟という言葉の真意とは? 恭介は、わかりようのないことを考えても仕方ないと、目の前でニヤつくノボルの姿を一瞥し、外の景色を眺めた。ビルとビルの合間に虹が見えた。恭介は一瞬、スマホを撮り出して、写真を撮ろうと思ったが、すぐに止めた。また殺人を犯してしまった自分には、芽依と接する資格などないと思ったからだった。加速した電車は車窓の風景を次々に変えていき、つまらない町並みばかりを流していた。角度か変わったからか、もう虹は見えない。

「〝愛を理解せよ〟それが悪魔の口にした唯一の契約破棄の条件よ」

 母の言葉が再び脳裏を巡る。ただ今の恭介には、その言葉は少し空虚に聞こえた。ただそれでも、その言葉にすがるしかなく、彼はその真偽を確かめて体現することだけが、自分と芽依を救う唯一の道なのだと、荒みかけた心をどうにか奮い立たせた。


                       *


 その頃、上野のマンションでは、刑事や検視官が集まり、麻美の死体の周りを取り囲んでいた。

「馬渕さん、やっぱり村上の仕業に間違いないですかね」

 その中にいた、まだ二十代後半ほどの刑事である渡辺が、隣でじっと状況を見つめている馬渕に話しかける。馬渕は実力だけで警視庁捜査一課の刑事まで上り詰めた五十歳そこそこの刑事でギラギラとした鋭い眼光がやけに目立つ顔をしていた。

「さあな」

 馬渕は気のない返事で相槌を打つと、なじみの検視官である滝川が目で馬渕に合図をしてくるのに気がつく。

「どうした?」

 馬渕は滝川がいる麻美の死体のそばに近寄り、検視官に倣ってその場で中腰になる。

「馬渕さん、ちょっとこれを見てください」

 滝川は馬渕に麻美の死体のワンピースと胸元とブラジャーをめくり、胸の部分にある丸い痣を見せる。

「ほかに外傷はないんです。だから心不全か何かだと言われればそれまでなんですが、この痣の形はもしかして」

「スマイルの仕業か」

 馬渕は自分で口にしながらも、スマイルの名前を思い出したのは何年ぶりかと思った。最初にその名を聞いたのは、五年前に事件現場の検証で同じような丸い痣を見たときだった。医学的には致命傷となる外傷は認められなかったのだが、警視庁の上層部で噂されている話を上司から聞かされたのだ。それは人の心臓に触れただけで、証拠もなく人を殺せるという特殊能力を持った人間の話だった。その人間はスマイルというコードネームで呼ばれており、彼が関わっているとされている数々の変死事件で同じような痣が認められているという話だった。

「初めて見ましたよ。でも本当にそうだとすると、この事件もうやむやにされてしまうんですかね」

スマイルが関わっていると疑われた事件は、これまでことごとく事件性のないものとして扱われていた。

馬渕は「どうだかな」と言いながらも、直感的にこれはスマイルの仕業ではないと感じていた。住民たちの話によると、何か揉めている声がしたという。自分が聞いて知っているスマイルならそんな手がかりを残すような荒い人殺しはしないはずだった。馬渕はゆっくりと立ち上がり、小さく息をつく。

「馬渕さん、どうかしたんですか?」

 隣で渡辺が滝川との会話の内容を聞きたがっていたが、それを無視し、スマイル以外の可能性を考えていた。それは警察の中では決して口にしたこともない馬渕のもう一つの心当たりであった。

「まさか、恭介が」

 馬渕はまだ赤ん坊のときに生き別れになった息子の名前を呟いていた。別れた妻の家系に受け継がれる、悪魔との呪いの契約を強いられた息子。馬渕は妻から亡くなった彼女の父親の話を聞き、何かの冗談かと思っていたのだが、スマイルの話を聞くに当たって、妻の話とスマイルの噂があまりに一致していることに気がつき、心のどこかでスマイルは妻の一族の人間ではないかと疑っていたのだった。

馬渕は黙ったまま、マンションの部屋を出て、一人エレベーターに乗った。一階のロビーまで降り、外に出てタバコを吸う。馬渕はまさかそんなことはあるまいと思いながら、赤ん坊のときしか知らない恭介を容疑者として思い出したことに苦笑いする。馬渕は雨上がりのからっと晴れた空をただじっと眺めた。空には虹が見えていた。


                       *


 朝は晴れたのに、昼頃から曇り始め、夜になるとまた大粒の雨を降っていた。工藤は黒塗りのバンの中から窓の外を眺めていた。

「いました」

 助手席に座る部下の声と同時に、工藤も情報通り村上が駅に向かって歩いている姿を認めた。村上は傘もささずに大きな鞄を抱えて歩いていた。工藤の乗る黒塗りのバンは彼の横に横付けした。あっという間に、車に乗っていた若い部下たちが村上を車内に引きずり込む。驚く村上を尻目に、車はすぐに動き出す。

「お久しぶりですね。村上さん」

 工藤は隣に座る村上に声をかける。村上は濡れた顔を手のひらで拭い、必死に平静さを装っているようだったが、眼は自然と泳いでいた。着ていた派手なシャツはビショビショに濡れている。

「待て、用件はわかっている。金だろ。金はちゃんとあるんだ。ほら、ここに」

 村上は慌ててスーツの懐から麻美の通帳を取り出し、工藤に渡す。工藤はそれを開き、無表情のままそれを閉じると、興味もなさそうに自分のスーツのポケットの中にしまう。

「ちゃんとあったろ?」

 村上は無理に笑顔を作ってへつらうが、工藤はあくまで冷静な口調で「でも五百万ほど引き落とされていましたよ」と事実だけを確認する。

「それは、ほら、オレは今疑われているから、逃走するためにだな。なあ、それぐらい見逃してくれよ。組から借りている金はキッチリそこにあるだろ」

「まあ、それはあなた次第ですね」

 工藤は村上の反応を楽しむようにもったいぶった言い方をして笑顔を作るが、その目は笑っていない。

「な、何だよ、もういいだろ。金は渡したんだ。もう降ろてくれ」

「では一つ質問があります。最後にそれに答えてもらえませんか?」

「さ、最後?」

 額に脂汗を流し、息遣いも荒くなってきている村上に対し、工藤はゆっくりと間を取ってから村上の泳いだ目を見据えた。

「ええ、昨日、あなたのマンションの一室で何があったのかを教えてもらえませんか?」

 工藤が訊ねた途端に、村上は息を呑み、逃げるように目を逸らして窓の景色を眺めた。工藤はそんな村上の態度が気に食わなかった。

「一人の男があなたに近づいたはずです。風本恭介という青年が」

 工藤が少しきつめの口調で詰問すると、村上は脅えた表情で振り返り、「か、勘弁してくれ、あいつにはもう関わりたくないんだ」と訴えかけてきた。

「なぜそんなに脅えているんです。まだ二十歳そこそこの子供じゃないですか?」

「いや、あいつは悪魔だ」

「悪魔?」

 工藤が訝しげに訊ねると、村上は常軌を逸したように笑い始めた。

「どうしたんです?」

「銃弾が効かないんだよ。何をやってもあの肥大した手で止められちまって」

 村上はボロボロと涙を流し始め、肩を震わせ始める。

「言っていることの意味がわからないのですが」

「だから、わからない奴だな。あいつは触っただけで人を殺せるんだ! 黒い光を発して、ほとんど外傷も残さずに殺せるんだ!」

 村上は必死に感情をぶつけたが、工藤は村上が感情的になればなるほど冷めた様子になる。

「生憎こっちはあなたのつまらない妄想に付き合っている暇はありません」

 工藤は前に座る部下に目で合図をする。工藤の部下はすぐに懐から拳銃を取り出し、銃口を村上に向けた。

「待ってくれ! 本当なんだ!」

「残念ですね。すっかり狂ってしまったご様子で」

「頼む! 信じてくれ!」

 工藤の部下はそのまま拳銃の引き金を引く。だがカチリと音が鳴るだけで、銃弾は発射されなかった。

「あ、いや、あう」

 村上はもはや自分が何を言っているのかわからない様子で、失禁していた。

「止めろ」

 工藤は冷静な口調で運転手に告げた。車が止まると、工藤はドアを開け「あとは適当に始末しておけ」とだけ言い残して、一人外に出た。外はまだ雨が強く降っていた。少し雨に濡れてしまった工藤だったが、助手席から降りてきた部下にすぐに傘を渡された。

「風本恭介か」

 工藤は傘を受け取ると、自分の記憶にその名前を刻み付けるようにゆっくりとその名を呟きながら、歩き始める。その目は獲物を狙った肉食動物のように鋭くただ一点だけをまっすぐに見つめていた。



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