第2話 ゴリラ
ケイタロウと別れ、ミロクはひとり、山へ続く道を登っていった。
町の音が少しずつ遠ざかり、かわりに風の音と、鳥の声が近くなる。
寺の屋根が見えてくるころ、
ミロクはようやく、ランドセルの重さを思い出した。
「……つかれた」
そう言って立ち止まり、振り返る。
下のほうには、さっきまで歩いていた町が小さく見えた。
長い石段を上りきり、門をくぐると、
いつもの寺の匂いがした。
線香と、古い木と、土の匂い。
「ただいまー」
声を出すと、境内にぽん、と音が落ちたみたいに静かになる。
「おかえり」
縁側から、祖父の声がした。
「入学式、どうだった」
「……ながかった」
ミロクは正直に答える。
「そうか」
祖父はそれだけ言って、ミロクの顔をちらりと見た。
「……なにかあったか」
「え?」
「いや」
祖父は首を振る。
「腹、減ってるだろ。昼にしよう」
台所から、湯気の立つ匂いが流れてきた。
それだけで、ミロクの肩の力はすっかり抜けた。
けれど。
ごはんを食べながら、
ミロクは、さっきの道のことを思い出していた。
校門。
ヒヨノ。
シロガネ先生。
ケイタロウ。
そして――
なにか、忘れている気がする感覚。
それが、胸の奥で、まだ消えない。
「……じいちゃん」
「なんだ」
ミロクは箸を止めて、ぽつりと言った。
「なんか……忘れてる気がする」
祖父は、少しだけ黙った。
それから、いつもより低い声で言う。
「いつものことじゃろ」
そう言いながら、祖父は窓の外――
山の向こうを見ていた。
ミロクには、その横顔が、
なぜか少しだけ、遠く見えた。
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次の日の朝。
ミロクが学校へ向かうと、校門の前に、ひときわ大きな影が立っていた。
――ゴリラだ。
ごうだ りきやは、腕を組み、じっとこちらを睨みつけている。
ミロクの足が、思わず止まった。
「おい!」
低くて荒い声が飛ぶ。
「なんで、きのう学校の裏に来なかった!」
怒鳴り声と同時に、一歩踏み出してくる。
大きな拳が、今にも振り下ろされそうだった。
そのとき――。
「やめろ!」
横から、手が伸びた。
ミロクと一緒に登校していたケイタロウが、ゴリラの腕をつかんでいた。
「てめぇ、なにやってんだ?」
低い声。
子どもとは思えないほど、落ち着いた目。
ゴリラは、さらに怒りをあらわにして拳を振り上げる。
だが、次の瞬間。
「――そこまでだ」
背後から、がっしりとした腕がゴリラの手をつかんだ。
振り返ると、そこには体育教師が立っていた。
ゴリラよりも、ひとまわり大きな体。
「後で、生徒指導室に来い」
その一言で、ゴリラの顔色が変わる。
赤かった顔が、みるみる青くなっていった。
体育教師はゴリラを先に行かせると、ミロクのほうを見て言った。
「……面倒ごとは、やめとけ」
少しだけ面倒くさそうな声。
それだけ言い残して、去っていった。
校門の前に、ようやく静けさが戻る。
「……だいじょうぶか?」
ケイタロウが、ミロクを見る。
「うん……」
「きのう、なにやらかしたんだ?」
ミロクは、正直に話した。
名前のこと。
ゴリラと言ってしまったこと。
話を聞き終えると、ケイタロウは一瞬きょとんとして――。
「ははははっ!」
腹を抱えて笑い出した。
「たしかに、名前ゴリラだな!」
「……」
ミロクは、少しだけ恥ずかしくなった。
「ま、なにかあったら言えよ」
ケイタロウは、笑ったまま言う。
「オレが守ってやるからさ」
「……ありがとう」
ミロクは、小さくそう返した。
胸の奥が、じんわりあたたかくなる。
二人は並んで、校門をくぐる。
さっきまでの怖さは、少しだけ遠くなっていた。
ーーーーーーーー
初めての授業が始まると、教室にはまだ落ち着かない空気が残っていた。
ミロクは椅子に座りながら、黒板のほうを見つめていたが――。
ふと、右側の席から、刺さるような視線を感じた。
ゆっくりと目を向ける。
そこにいたのは、ゴリラだった。
ごうだ りきやは、眉をひそめ、じっとミロクを睨みつけている。
まるで、逃がさないと言わんばかりの目。
「……っ」
背中に、ひやりとしたものが走った。
背筋が、氷でなぞられたみたいに冷たくなる。
それでも、時間は止まらない。
一時限目が終わり、
二時限目、三時限目、四時限目と、授業は淡々と進んでいく。
そのあいだも、ゴリラの視線は、ときどきミロクを捕まえていた。
そして――。
チャイムが鳴り、お昼ご飯の時間になった、その瞬間。
ガタンッ。
大きな音を立てて、ゴリラが立ち上がった。
その体が、まっすぐミロクのほうを向く。
「……っ!」
ミロクは反射的に立ち上がり、教室の窓へと走った。
窓を開け、外へ飛び出す。
「待てぇーー!!」
背後から、奇声のような叫びが聞こえた。
けれど、ミロクは振り返らない。
ただ、必死に走った。
外を走り、渡り廊下を抜け、階段を駆け上がり、
たどり着いたのは――図書室だった。
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扉を閉めると、世界が一気に静かになる。
そこは、外の音を遠ざける、防音された部屋。
本を読むためだけに用意されたような、静寂の場所だった。
「……はぁ……」
ミロクは額の汗を拭い、深く息をつく。
呼吸を整えながら、そっと席に腰を下ろした。
お昼の時間は、一時間。
その間、何もせずに座っているだけでは、さすがに暇だった。
ミロクは立ち上がり、本棚の間をふらふらと歩く。
そのとき、目に入ったのは、ひとりの男の子だった。
黒髪で、三本だけ、上に尖ったような鋭い髪。
丸い眼鏡をかけて、分厚い本をじっと読んでいる。
ミロクの気配には、まったく気づいていない様子だ。
胸元の名札。
たかみざわ けんじ。
「……あ」
ミロクは思い出した。
同じクラスの子だ。
勇気を出して、声をかけてみる。
「あの……」
すると、タカミザワはゆっくり顔を上げ、
こちらを、じろりと睨みつけた。
「……そこにいると邪魔だ。どっか行け」
ため息まじりの声。
感情のこもらない言い方だった。
「……」
ミロクの胸が、きゅっと縮む。
少し、ショックだった。
けれど、他に行く場所もない。
ミロクは何も言わず、静かにその場を離れ、
少し離れた席に移動した。
静かな図書室の中で、
ミロクは、退屈で、少しだけ心細い時間を過ごすことにした。
まだ知らないけれど、
この場所と、この出会いもまた、
後で意味を持つことになる。
キャラクター紹介
ケイタロウ(夏海 啓太郎) 誕生日 7月23日 7歳
東海岸沿いのバイク屋に住む水色短髪の少年。
運動神経に非常に優れ、釣りが好きで勇敢な性格。
家族構成は父、母、妹3人。
父はバイク屋を営んでおり、釣りが趣味の自由人。
母は海の家を経営していて、家庭内の中心人物。
妹達は天真爛漫でわんぱくな三つ子。
決して裕福ではないが、穏やかで温かい家庭。
稽古事としてケイタロウは様々な格闘技を習っている。




