第1話 入学式
ミロクは、まだ少し速い鼓動を胸に残したまま、学校へ続く道を走っていた。
校門が見えた、そのときーー。
少し前を、ひとりの女の子が歩いていた。
茶色がかった髪を三つ編みにしていて、朝の光を受けてふわっと揺れている。
ミロクは、なぜか目を離せなくなり、
すれ違いざま、胸のあたりに小さな名札が見えた。
ピンク色の縁に、白い板に黒い文字。
「……ヒヨノ」
声には出さなかったけれど、ミロクの頭の中で、その名前がはっきりと音を立てた。
次の瞬間、足が止まっていた。
ミロクは思わず振り返る。
女の子――ヒヨノも、少し遅れて立ち止まり、きょとんとした顔を向けた。
まるで、頭の上に「?」が浮かんでいるみたいな顔。
けれど、すぐにふわっと表情がゆるんで、
ヒヨノは、何も言わずに、ちょこんと手を振った。
それだけだった。
それだけなのに、ミロクの胸の中が、急にあたたかくなった。
「……」
言葉は出てこなかった。
ただ、心臓が、さっきより少し大きく動いた気がした。
ヒヨノはそのまま校門の中へ消えていく。
ミロクはしばらく、その場に立ったまま、動けずにいた。
やがて、ハッとして前を向く。
――あ、はしらなきゃ。
そう思ったのに、足はもう走らなかった。
さっきまでの勢いが、どこかへ行ってしまったみたいだった。
ミロクは、少しだけゆっくりと、歩き出す。
胸の奥に、知らない気持ちを抱えたまま。
その日、ミロクは初めて、
走ることを忘れて、教室へ向かった。
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一年一組の教室に着くと、そこはもう、朝の寺とはまるで別の世界だった。
あちこちから子ども達の声がして、笑ったり、立ち歩いたり、机をガタガタさせたりしている。
「……すご……」
ミロクは少し圧倒されながら、教室の中を見回した。
すると、一番奥。
窓ぎわの席に、見覚えのある姿があった。
――あ。
茶色の三つ編み。
校門の前ですれ違った、あの女の子だ。
ヒヨノ。
ミロクは胸の奥が、また少しだけ、あたたかくなるのを感じた。
黒板の横には、紙が一枚貼られている。
席順表だ。
ミロクは、指でなぞるように、自分の名前を探す。
「……あ」
あった。
けれど、それは教室の真ん中の席だった。
「……」
ミロクは、がっくりと肩を落とす。
ヒヨノの席とは、遠くないけれど離れている。
少し残念な気持ちのまま、席へ向かおうとした、そのとき。
――ドン。
肩に、強く何かがぶつかった。
「あ、ご、ごめ――」
あわてて振り返ったミロクの前に立っていたのは、
同い年とは思えないほど、身体が大きいソフトモヒカンの男の子だった。
腕も太くて、顔も近い。
胸元の名札には、
ごうだ りきや。
「……」
ミロクは、思わず考えた。
――ゴリラみたいななまえ。
次の瞬間。
「……は?」
大きな男の子の目が、ギラッと光った。
「いま、なんつった?」
「え……?」
どうやら、考えたことが、口に出ていたらしい。
男の子――ゴリラは、顔を真っ赤にして、ミロクの胸ぐらをつかんだ。
「ぶちころすぞ!」
教室の空気が、一瞬だけ、ピリッと固まった。
そのときだった。
ガラッ、と教室のドアが開く。
「みんな、席についてーー」
明るくも落ち着いた声が響く。
ゴリラは舌打ちをして、ミロクを放した。
「……あとで、学校の裏に来い……」
小さくそう言い残し、自分の席へと戻っていく。
「……」
ミロクは、ようやく息を吐いた。
胸の奥が、どきどきしている。
とりあえず……座ろう。
そう思って、自分の席に腰を下ろした。
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黒板の前に立った先生は、
銀色の長い髪をした、若い女の先生だった。
チョークで、自分の名前を書く。
「……しろがね……みやび……」
文字を書き終えると、くるりと振り返る。
「私は、しろがね みやびです。
シロガネ先生って、呼んでください」
少しだけぎこちなく、でも淡々とした自己紹介だった。
「これから、入学式が始まるまで、少し待っていてくださいね。
もうすぐ放送が鳴るので、そのときは、私について来てください」
教室に、短い静かな時間が流れる。
そして――。
ピーン、ポーン、パーン、ポーン。
放送が鳴ると、子どもたちは一斉に立ち上がり、
きれいとは言えない、ばらばらの列を作り始めた。
ミロクも、その流れに混じって歩き出す。
体育館へ向かう廊下の先で、
今日という日が、ゆっくりと動き始めていた。
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日が高くなり、影が短くなるころ。
長くて、少し退屈だった入学式は、ようやく終わった。
思っていたより、ずっと長かった。
でも終わってしまえば、あっけない。
少し早い下校時間。
校門の外へ出ると、子どもたちはそれぞれの方向へ、ぱらぱらと散っていく。
ミロクも、流れに混じって歩き出した。
家へ帰る道だ。
校門から少し離れたところで、聞き覚えのある声がした。
「――おっ! ミロク!」
振り返ると、そこにいたのは、見知った顔だった。
「……ケイタロウ?」
水色の短い髪を揺らす男の子。
なつみ けいたろう。
保育園のころからの幼なじみだ。
海の砂浜の近くに家があって、
一緒に泳いだり、釣りを教えてもらったりした友だち。
「ひさしぶりだな! ミロク!」
ケイタロウは、昔と同じ調子で、元気いっぱいに笑った。
「ひさしぶり……」
ミロクの胸の奥が、ほっとゆるむ。
「入学式、ながくなかったか?」
「うん……ながかった……」
「オレさ、二組なんだ。ちょっと遠い席だった」
「そっか……」
そんな、どうでもいいような話をしながら、
二人は自然に並んで歩き出した。
知らない教室。
知らない先生。
知らない子どもたち。
でも、となりにケイタロウがいるだけで、
さっきまでの不安が、少し遠のいた気がした。
そのとき、ミロクは、ふと足をゆるめた。
「……なんかさ」
「ん?」
「なにか……だいじなこと、わすれてる気がする」
ケイタロウは首をかしげる。
「えー? なにそれ」
「わかんない……」
少し考えてみたけれど、答えは出てこなかった。
「……まあ、いっか!」
ミロクはそう言って、歩く速度を戻す。
「だな!」
二人は笑いながら、並んで歩き続けた。
春の道を、
知らない未来のほうへ向かって。
キャラクター紹介
ミロク(菅原 弥勒) 誕生日 3月6日 7歳
山の寺(天満寺)に住む黒髪短髪の少年。
運動神経が抜群で、動物好きの少し臆病な性格。
家族構成は祖父、父、妹。
祖父は僧侶と農業を営んでおり、生活の基盤を支えている。
父は仕事上の出張でよく家を留守にしている。
妹はミロクを慕っていて、山でよく一緒に遊んでいる。
静かで穏やかな家庭ではあるが、祖父から修行と称して寺の掃除や滝行などをやらされている。ミロクは毎日サボる事ばかり考えている。




