第16話 水害と覚悟
水の神殿での激闘から一夜明けた。
初秋の空は澄み渡り、しかしその透明さはどこか異質だった。
赤色と水色の光の粒が、まるで祝福と警告を同時に告げるように、世界中で舞っていた。
暖かい地域では赤色。
雨の降る場所では水色。
光はゆっくりと漂い、やがて空気に溶け込む。
テレビの画面には、緊急特番の文字が躍っていた。
「夏に観測された赤色の発光体に続き、この秋、水色の発光体が観測されました」
「我がフロンティア国、国立研究機関“HoJo”によると、この発光体は古代氷河期に氷の中へ閉じ込められた微生物である可能性が高いとの見解です」
「研究機関は、むやみに吸い込んだり触れたりしないよう呼びかけております。体調に異変があった場合は、速やかに医療機関へ──」
アナウンサーの声は冷静だった。
だがその目の奥には、
説明しきれない不安が滲んでいる。
テレビを見ながら朝食を取っていたマルオは、無意識に箸を止めた。
ギリ……。
歯軋りの音が、静かな部屋に響く。
「……タカミザワ」
低く、押し殺した声。
自然現象ではない。
これは意図だ。
均衡を揺さぶるための。
マルオの目は、
窓の外に漂う水色の光を睨んでいた。
場面は変わる。
重厚な扉の向こう、石造りの会議室。
高い天井。長い楕円の机。
紳士服に身を包んだ男が、静かに口を開いた。
「……水の魔導書が開かれた」
空気が張り詰める。
想定より、はるかに早い。
「騎士団も暗殺者も、一体何をしている」
別の男が、大蛇を睨む。
手にしていた書類が、音を立てて歪む。
大蛇は椅子にもたれ、呆れたように肩を竦めた。
「少年らの目星はついた」
その視線は、
会議に不在の一席へと向けられる。
菩薩の席。
「菩薩が関与している可能性がある」
ざわめきが走る。
教会幹部の中でも、最も信頼の厚い存在。
禁忌に触れるはずがない人物。
「ありえない……」
「そんな、まさか……」
疑念は、組織を内部から蝕む毒だ。
大蛇はゆっくりと手を組み、口元を隠す。
「魔素拡散の件は、すでに会長の耳にも届いている。菩薩には然るべき措置が取られるだろう」
その目は笑っていない。
いや、笑っている。
邪魔者が減る。
それだけだ。
紳士服の男が続ける。
「騎士団は水の神殿の在処を知らなかった。
暗殺者は町に潜み、さらに風の神殿と地の神殿へ向かわせた」
わずかな沈黙。
「いずれにせよ、少年らの命は短い」
ふっと、薄い笑み。
大蛇が視線を向ける。
「暗殺者ギルド序列第一位のお前が動けば、話は早いのだがな……」
ゆっくりと口角が吊り上がる。
「なぁ……“カースオブヴァンパイアロード”」
嘲るような響き。
紳士服の男は、静かに息を吐いた。
「安請け合いはしませんよ。
ただでさえ忙しいのです」
腕を組み、視線を逸らす。
静寂。
窓辺に映る秋の空。
しとしとと雨が降っている。
その雨の中で、水色の光が揺れていた。
まるで世界が、静かに覚醒しているかのように。
ーーーーーーーー
外は静かな秋雨。
竹林を打つ雨音が、一定の律動で庭を包んでいる。
濡れた竹葉から落ちる雫が、石畳に小さな波紋を作る。
その庭に面した木造の道場では、異様なほど陽気な声が響いていた。
「やはり、桜花流に覚醒したか!」
バシッ、バシッ。
父・振が、スコールの肩を豪快に叩く。
昼間だというのに徳利はすでに空に近い。
「俺はもっと早かったけどな!」
ガハハ、と天井を震わせる笑い声。
「酒はほどほどにしなさいよ」
そう言いながら、ちゃっかり酒を注ぐ母・百。
止める気は、ない。
スコールは半眼で父を睨んだ。
「……そのうち酒で溺れ死ぬぞ」
嫌味を言うが、聞く耳を持たない。
「しかし、お前は“うま”か」
突然、振はスコールの前髪を掴み、顔を近づける。
酒臭い。
「“うま”って何だよ」
当然、嫌そうな顔。
振は指を立て、酔っているのかいないのか分からない口調で語り出す。
「その髪型だよ。“馬の桜花流”だ」
唾が飛ぶ。
「青木家は代々“兎の桜花流”だが、それぞれ適性によって髪型が変わる」
振は自分の短髪を指差した。
「俺は先天的には“兎”。後天的には“犬”だ」
巻き舌になりながらも、妙に理路整然としている。
「“兎”は突発力。“犬”は対応力」
一拍。
「“馬”はな……持久力だ」
スコールは眉をひそめる。
「つまり?」
振はニヤリと笑い、スコールの額にデコピンを放つ。
パチンッ。
痛い。
「お前は“瞬間最大速度”を“維持”できる」
その言葉は、酔いの中でも確かだった。
一瞬の爆発力を、持続する。
それは剣術において、異質だ。
振はそのまま背を壁にもたせ、腕を組む。
「青木家の桜花流は“一子相伝”」
雨音が強まる。
「お前が桜花流になった今、稽古はより一層厳しくなると思えよ」
言い終えると同時に、いびき。
器用にも座ったまま眠ってしまった。
百は苦笑し、静かに盃を片付ける。
「無茶はしないこと。……でも、期待はしてるわ」
柔らかい声。
スコールは静かに庭へ目を向けた。
桜花流……。
幼い頃、家族が留守の間に忍び込んだ蔵。
埃を被った巻物。
桜花流《滝崩し》
桜花流《灯籠流し》
筆致は鋭く、どこか冷たかった。
あの巻物は、まだ全部読んでいない。
他にもあるはずだ。
知られていない技や型が。
雨が竹林を揺らす。
父も母も姉も、家にいない時間を見計らえばいい。
スコールは拳を握る。
“瞬間最大速度を維持する”
その言葉が、胸の奥で熱を持つ。
水の神殿での戦い。
あの感覚。
あれを、自在に。
スコールは静かに道場を出て、
目線の先には、蔵。
稽古だけでは、きっと足りない。
誰にも見られず、
誰にも頼らず、
己の桜を咲かせるために。
雨の中、竹が鳴る。
まるで祝福か、警告か。
秋は、まだ始まったばかりだった。
ーーーーーーーー
雨はまだ止まない。
休日が終わり、世界は何事もなかったように月曜の顔をしている。
制服の袖は少し湿り、廊下には濡れた靴の匂いが漂っていた。
教室の窓ガラスを、細かな雨粒が滑り落ちる。
カツ、コツ、カツ。
銀髪を揺らしながら、白銀先生が黒板に数式を書き連ねていく。
整った筆跡。無駄のない動き。
その背中は、冷たい刃のように美しい。
だがミロクの視線は、黒板を通り越してどこか遠くへ向いていた。
頬杖をつき、物思いに沈む。
桜花流。
あの瞬間のスコールの姿が、頭から離れない。
水の神殿。
龍魚との激戦。
水壁越しでも伝わった熱量。
押されながらも、諦めない眼。
そして――
覚醒。
まるで物語の中心に立つ主人公のように、
間一髪で攻撃をかわし、
絶大な一撃を叩き込み、勝利を掴む。
控えめに言っても。
『……ズルい』
小さく、心の中で呟く。
胸の奥が、じわりと熱い。
羨望か。
焦燥か。
それとも――置いていかれる不安か。
自分には、マルとフェニックスがいる。
だが、あれは“正道の覚醒”とは違う。
桜花流は血統。
誇り。
積み重ね。
ミロクの力は、どこか中途半端だ。
深いため息。
その瞬間。
何かが飛んでくるのが、視界の端に映った。
パチンッ。
「痛っ……!?」
額に衝撃。
チョークが床に転がる。
教室が静まり返る。
白銀先生がいつの間にか、こちらを見ている。
「ミロク君。授業に集中しなさい」
温度のない声。
銀の瞳が、まっすぐに射抜く。
「ごめんなさい……」
素直に謝る。
周囲から、クスクスと小さな笑い声。
雨音だけが、窓の向こうで続いている。
授業は何事もなかったように再開された。
だがミロクの胸の奥では、
別の授業が始まっていた。
“自分は、何になるのか”
ケイタロウは、魔法が効かない"守人"。
タカミザワは、見たものを忘れない"絶対記憶"。
スコールは、不思議な剣術"桜花流"。
では、自分は。
窓の外、灰色の空を見つめる。
その奥に、かすかに赤と水色の光が舞っていた。
世界は、確実に変わっている。
そして、自分も――
変わらなければならない。
ーーーーーーーー
秋雨が、連日連夜、止まない。
火の魔素が解放されたあの夏、山火事が各地で起きた。
だが水の魔素が解き放たれてからは、炎は鎮まり――
今度は、空が壊れた。
重たい雲が常に垂れ込め、世界は薄暗い。
テレビでは毎日のように洪水警報が流れ、畑の日照不足や水害のニュースが繰り返される。
「記録的豪雨です」
「日光町では川が氾濫し――」
その日、学校は臨時休校になった。
外は雨音。
窓ガラスを打つ雫が絶え間なく流れ落ちる。
マルオはリビングのテーブルで、黙々と参考書を開いていた。
ペンの音だけが静かに響く。
世界が乱れても、机の上の数式は変わらない。
「マルオ、ココアを飲むか?」
キッチンから父の声。
雨で仕事に出られず、今日は家にいる。
湯気の立つマグカップを差し出す。
「ありがとう、父さん。いただくよ」
両手で受け取る。
温かい。
「最近、雨が酷いな……」
父は窓の外を見つめる。
その横顔は、ただの父親ではない。
「マルオ。学校は楽しいか?」
一瞬、ペンが止まる。
「……楽しいよ」
間があった。
自分でも分かる。
無難すぎる答えだ。
静寂。
雨音が大きくなる。
父はゆっくりと椅子に腰掛け、低い声で言った。
「俺の仕事については、知っているな?」
マルオの指先がわずかに震える。
「……知ってる」
背筋を汗が伝う。
父は、魔法教会の関係者だ。
「実はな……」
言葉を選ぶように、ゆっくりと。
「お前が魔法を使えるようになったことは分かっている」
心臓が跳ねる。
「魔法教会から通達があった」
息を飲む。
教会は、もう掴んでいる。
逃げ場はない。
数秒の沈黙。
「…魔法教会で魔法を学んでみないか?」
父はまっすぐに息子を見る。
「もちろん、仲間も一緒にだ」
その言葉は、甘美だった。
正式な訓練。
正統な知識。
強くなれる環境。
そして何より――
魔法教会に“選ばれた者”になる機会。
マルオは視線を落とす。
タカミザワ達の謀略。
髪色の変わったスコール。
世界を揺らす魔素の存在。
自分は傍観者ではいられない。
ゆっくりと顔を上げる。
「俺、魔法教会に行くよ」
声は、震えていなかった。
覚悟だ。
父は一瞬だけ目を細める。
「……そうか」
その声音には、安堵と、
わずかな影が混じっていた。
窓の外では、雨が降り続いている。
水色の光が、雲の奥でかすかに揺れた。
世界は不安定だ。
そして今、マルオは
“管理する側”へと一歩踏み出した。




